5話 不味いコーヒーも飲み方次第
由行は事務フロアに戻らず、黒塚をうながして通りに出た。
すぐに脇道に折れ、新しいテナントビルの隙間で生き残っている米穀店や質屋がある細い通りを歩く。額縁屋のとなり、日焼けした食品サンプルがある目当ての喫茶店のドアを開けた。
ここのコーヒーは美味くない。といって許せないほどの不味さでもない。この味のおかげで満員になることはなく、静けさを求める常連客がやってくる店だった。
店内にほかの客はいなかった。カウンターから離れたいつもの席にすわり、女将の雰囲気をもつ店主に二本の指を立てて見せた。向き合ってすわった黒塚と無言のまま過ごすうち、店主が二人分のコーヒーを運んでくる。カップを置くと、そのままスタッフルームに引っ込んだ。
モダンジャズのBGMが低く流れている。切り出したのは黒塚が先だった。
「社長のやり方は時代に合わなくなってきています。由行さんが迷うのは、ある意味正しい」
「店を出るまえ、社長から尻を叩かれていましたよね。無視されるのですか」
バックヤードから辞する由行の背後で、黒塚に指示する竜一のひそめた声が耳に届いていた。
——室生をつかえ。
コーヒーで喉を湿らせた黒塚は、カップに砂糖を足してから答えた。
「選ぶのは由行さんです。社長に甘やかすなと言われたが、汚れ仕事をやらせるといった単純なことではなく、安着な解決方法に飛びつかせないことだと解釈しています。室生にやらせれば話は早いが、強引な手法ほどあとで問題もおきやすい。どんな方法でも、結果を受け止める覚悟をもって指示を出してください」
由行は、さらにミルクも追加する黒塚の手元を見ていた。
格好をつけて不味いコーヒーでもブラックで飲むようなことを黒塚はしない。砂糖でも生クリームでも、あるものを使って飲みやすいようにする。そんな指導役に応える。
「中途半端になっている自覚はあります。思い切るために黒塚さんに教えてほしいことがある」
竜一と同じく黒塚も、由行のかつての家庭事情を知っている。由行は張りつく喉に水を通してから続けた。
「母は本当に逃げたのでしょうか」
「出されている結果に納得していない?」
「ずっと気になっていました。夫婦げんかもなかった両親なんです。子どもの前でやらなかったとしても、仲が険悪なら子どもなりに気づきます。なのに叔父貴は『母が逃げた』といい、父も何もいわない。ギャンブルも遊び歩いたりもしなかった母が、いきなり失踪したりするものでしょうか」
「つまり、真実を語らない勇二さんをいいことに、社長は嘘をついているかもしれない。そんな社長の命令に従いきれない、というわけですか」
「叔父貴の言うとおり母が逃げたのなら、どうして父は何もしなかったのか。唐突に母がいなくなったのに、捜す素振りすらありませんでした。母が消えてふさぎ込んでいた様子からして、未練がないはずないんです。それに……」
竜一に長年つき従ってきた黒塚には言いづらい。ためらう由行に黒塚のほうから目でうながしてきた。
「母がいなくなってから父は叔父貴から離れ、まったく連絡をとらなくなりました。やり方があっていたのか疑問ですが、叔父貴なりに父の世話をやき、父もそれに恩を感じているところがあったのにです。ふたりのあいだで何かあったような気がしてなりません。黒塚さんなら知ってるんじゃないですか?」
「勇二さんにはこのことを?」
「訊いても母がいなくなったのは自分のせいだと言うだけです。ずっと変わっていません」
「清掃員になった勇二さんをどう思います? 忌部の仕事を自ら辞めて、底辺の仕事で食いつないでいる情けない男ですかね」
「突然なにを……」
「勇二さんは片足を少し引きずるようにして歩くでしょう? あれは、あたしをかばって刺された後遺症なんですよ」
「父は一言も……」初めて聞いた。
「そんな人が社長がいうとおりの『タマなし』でしょうか。真実を聞きたいという由行さんの問いから、ただ逃げているだけだと思いますか」
由行を真っ直ぐ見つめて問いかけてくる。
「例えば、逃げるのはどんなときでしょうか。怖いから。いやになったから。あるいは始末される恐れがあっても、志の違いを如何ともしがたくて逃げた、とか」
「最後の例えは——」
実の兄弟のあいだで何があったのか。
「忌部の仕事に一般の範疇をこえた清濁があるのは、ご存知のはずだ。ときに過程を犠牲にする必要があることも忘れず判断してください。そしてもうひとつ、由行さんが見落としていることがあります」
「……なんでしょうか。思いつきません」
「忌部竜一は他人の痛みに共感できる男ですか?」
面食らって、一瞬言葉に詰まった。
「ずいぶんはっきり言うのですね。いえ、責めているとかではなく」
「腹を割って話すなら、避けて通れないところです。どう思いますか?」
「わかりました。叔父は……」
思い出すのはミスをした社員の処分方法。冷徹でも客観性にもとづくものだと考えようとしていたが……
「世話になった人を悪く思えないのは当然のこと。恩を返したくなるのもね。子どもが親を盲目的に信じようとするのと同じです」
自分にその盲目さがあったのかと由行は自問する。
「問題は、そういった善意を利用する人間がいることなんです。『見えない』というとき、そこに無いだけとは限らない」
母の失踪には、意図的に隠されていることがあるとでも言いたいのか……。
黒塚がここまで竜一を突き放した目で見ていたとは思わなかった。
「由行さんは今後の仕事のためにも、失踪の真相を知りたいわけですね」
「はい。叔父貴を信頼できてこそ忌部生花に献身できます。合意書の件も、叔父貴がいう割り切ったやり方で動けると思います」
「やはり本人に当たるしかないでしょう。ごまかし続けるなら、それだけ後ろめたいことがあると認めるようなものです」
黒塚にうまく誘導された気がしないでもない。しかし、利用してくるのが竜一から黒塚にかわったとしても、かまわなかった。何をおいても母が姿を消した真相を知りたかった。
砂糖とミルクで味をごまかす手間も惜しい。由行は不味いコーヒーをブラックのまま一気に流し込んだ。喉の奥に残る苦味を飲み込み、急ぎ足で花屋に戻る。
その途中、室生と大野の背中を見つけた。ふたりの向かう先に会社の駐車場がある。
室生が向かおうとしている先が気になった。
しかし、彼は由行専属の部下というわけではない。呼び止めるか躊躇している間に、すぐにふたりの姿は駐車場に消えた。
気がかりを残しながら帰ってきた花屋で、由行はほぞをかむ。
「社長さんなら病院に行かれましたよ。混んでなければ一時間ほどで戻ってこられると思います」
女性従業員の応えにため息がでる。うまくいかないことばかりだ。
「気を落ち着けてから取り組めということですよ」
ポジティブにとる黒塚のアドバイスに頷いた。
「待っているあいだに四階の仕事を片付けておきます」
気持ちを整理しておくには、一時間はちょうどいい長さに思えた。
エンジンをかけた大野は、アクセルを慎重に踏み込んだ。急な発進やブレーキといった雑な運転は、室生の嫌うところだった。
ステアリングを握りつつ、隣の室生を時おり目でうかがう。こんなことをしたところで、表情の乏しい室生から考えを読むなど到底無理なのだが、やらずにいられない。
室生は誰の命令もなく無断で動いていた。
「藤ノ木課長の尻にくっついていくだけの退屈な役目なんて、早く終わらせたいだろ?」
頭の中を読んだように室生から言ってきた。
確かにそうだが、竜一社長はともかく黒塚の意向さえ確かめないなんて、これまでなかったことだった。
時として竜一は血を流させる手段も厭わない非情さがある。その実行役として長らく切り込み隊長をやっていたのが黒塚で、黒塚の手足となって働いていたのが室生だったという。室生の無慈悲さは、黒塚によって磨かれたといってもよかった。
「あの鍛冶屋、どうもよくない」
「女のくせに顔に傷つくってましたからね。昔は暴れてて、由行さんじゃ手こずる——」
「場の気が悪いんだ」
「……は?」
まただ。室生の口から出た台詞に戸惑った。
「あんな土地に関わらないに越したことないんだが、それでは社長が納得しない。なら、さっさと当事者外になるに限る。何度も通うのはごめんだ。今日で片付けるぞ」
大野には理解できない理由だった。
とはいえ室生に反論するのは怖かったし、この業界で生き残ってきた室生についていけば間違いないという思いだけははっきりしていた。
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