一章

1話 夢か、幻か、いや現《うつつ》

 声が聞こえたわけではない。

 なのに誰かに呼ばれた気がして、山添やまぞえサラは目が覚めた。

 布団の上で顔だけ動かして窓の外をうかがった。カーテンの向こうはまだ真っ暗で、環形蛍光灯の豆電球だけが淡い光で部屋の中を照らしている。真っ暗が苦手なサラのために、この家の主は、いつもなら全部消している照明をひとつ残して点けていてくれた。

 その主である都祁環は、隣の布団でぐっすり眠っていた。

 賑やかだった虫の音はやんでいて、振り子時計のリズムだけが八畳間に流れている。人の声なんて、やっぱり空耳だったかと顔を戻す。そうして、もう一度眠ろうとしてできなかった。

 四人の子どもがサラの顔を覗き込んでいた。

 驚いただけで恐怖で凍りついたりしなかったのは、こういった奇妙な出来事に慣れてきているから。すぐに落ち着きを取り戻したサラは、子ども達の顔を見回した。

 どの子の顔に見覚えはない。みな袖と裾が短い浴衣のようなものを着ていて、お祭りから抜け出してきたようにも見えた。けれど、いまの時季ではないし、ましてや深夜。この子達が、ここにいるはずがない。

 ただ、小学校の帰り道で子猫を見つけたような、わくわくの表情でサラを見つめてくるものだから、警戒心より居心地の悪さを感じてしまう。

「え、なに……起きろ?」

 夏用の掛け布団をはぎ、サラの両端から手を引っ張りあげて背中を押す。四人の連携プレーで起こされた。子ども達の瞳がきらめいてところからして、遊びたいんだろうか。

 声に出していないのに、これまた子ども達がそろって頷いた。

「ごめん、いまは無理。疲れてるの」

 猛烈な眠気がぶり返してきた。仕事を終えてからまっすぐ環のところに来た。まだ二十代半ばとはいえ、一日中調理の現場にいたから、くたくただった。

 かさばる食材を運んだり、重い鍋を持ち上げたり。最初に比べれば体力がついたが、小柄で腕力も強いといえないサラには、いまもきつい作業だ。しかし、

「ああもう、わかった、わかった。あたしが遊ぶから」

 四人の視線が、サラから寝ている環へといっせいに移ると、両手をあげて降参した。

「その人は起こしちゃダメ。寝かせてあげて」

 環はサラ以上に激しい肉体労働者だ。工房を離れているあいだは、ゆっくりしてほしい。観念して枕元においてあるメガネに手をのばそうとして、とめた。

 メガネをかけなくても周囲がはっきり見えていた。

 目が覚めていて夢ではないのだが、現実ではないものとつながっているせいなのか……

 正解を聞けるわけでもない。サラは早々に思考を放棄し、のそのそと立ち上がった。

 いちばん年下らしい女の子に手を引かれて部屋を出る。家の奥へと続く廊下を引っ張られて歩いた。

 この家が建っているのは山裾で、野中の一軒家。子どもが家の中で騒いでも、近所迷惑になる心配はなかった。環さえ起こさなければ問題なし。

 なんといっても母屋は屋敷といっていいぐらい広い。中庭を囲むようにコの字型にのびる廊下にそって部屋があり、廊下の長さときたら、コーナーありの短距離走ができるんじゃないかと思うぐらいだ。

 敷地内には、日常使いの刃物や日本刀をつくる<三輪みわ鍛冶屋>の工房にくわえて土蔵まであり、建て増しを重ねた家屋は、かつて多くの職人や弟子が住み込みで働いていた名残りだった。

 現在、部屋のほとんどは使われていない。

 廃刀令だけならまだしも、農業や林業の機械化、大量生産化が進行するにつれ、鍛冶屋は縮小の一途をたどることになる。<三輪鍛冶屋>も時代の流れに抗えず、環が養子できた頃にはすでに、母屋の半分以上は使われなくなって久しかった。

 民俗資料になりそうなほど古い家は、必要最小限の定期的な手入れがされているだけ。古くなった畳は処分され、床板はむき出しのままにされていた。

 普段使われていない母屋の奥は、風を通すために襖が開け放たれたままになっている。

 ちょっとした大広間に連れてこられたサラは、子ども達と対峙するように立たされた。背中側に年下の子を連らせた年長さんが、背後の子を守るようにサラに向かって両手を広げてくる。

「……ああ、最後尾の子を捕まえろってことか」

 心の中にぼんやり浮かんできたルールを呑み込んだ。やるなら本気出す。サラは合図なしで追いかけはじめた。

 子ども達は最初こそ驚いたそぶりを見せたが、すぐに笑って逃げ始める。声は聞こえない。笑顔だけがサラの視界を占有する。

 相手は数珠つなぎでの移動だ。つかまえるのは楽勝だと思ったが、部屋から部屋へ、息を合わせて器用に逃げ回るから、あと一歩が届かない。サラも意地になって追いかける。

 追いかけながら、ふと思った。

 この家、こんなに広かったっけ……?

 空間認識にずれを感じるのは、母屋の奥のほうにはめったにこないせいかもしれない。それより、子ども達のものではない別の視線を感じていた。

 ほかにも誰かいる。

 ただ、気味が悪いとか厭な視線ではなかった。

 これも、この家に来るたびに感じる気配みたいなものだった。最初の頃は怖くて環に訊くと、まさしくズバリな答えが返ってきた。

 ——この家には守り神チームがいるから、そのせいじゃない?

 環は、これら——と言っていいのかわからないが——に頓着していなかった。ならばと、サラも気にしないことにした。

 タチが悪いやつはたくさんいる。そんな生きている人間より、ずっとよかった。環を守ってくれていると思うと、この家に来るうちに経験するようになった、見えない姿の足音や、トイレに入っている最中に消される電気ぐらいなんともなくなっていく。慣れるのは、あっという間だった。



 睡眠不足での肉体労働はきつい。

 夜中の追いかけっこに付き合わされ、半分眠気まなこでいそしんだ拭き掃除もようやく区切りがついた。積もっていた埃がきれいに拭いとられた家の中をサラは腰をのばしつつ眺めて達成感にひたる。

 物を持たない環の生活空間はコンパクトだ。普段使われずに埃がつもるだけの部屋を半年に一度掃除するのだが、お屋敷サイズを環一人でやるのは荷が重い。お手伝いに喜んで手を上げたサラだったが、床を拭くという動作はなかなかハードだった。次は業務用モップでも持ってこようかと思う。

 家の中は昼間でも薄暗かった。照明器具はデザインも性能もレトロで、点けても明るさが足りない。

 それでもカビ臭さや陰気さを感じさせず、ほんのりした暗さが落ち着かせる。現代の照明が明るすぎて、気づかないうちに疲れていたのかもしれない。静謐な空気が満ち、やすらぎを感じさせる空間だった。

 ただ、ひとつだけ不穏な部屋があった。

 掃除を手伝って家の中をくまなくまわるうちに見つけた。子どもの頃の厭な記憶にも重なる部屋だった。環を養子にし、職人としても一人前に育てた御杖みつえ源五げんごが管理していた家に残っているのが不釣り合いに思える。

「お金がかかるから改装がむずかしいの?」

「いや、資金の問題じゃなくて……」

 環に訊くと、しばし考えてから、

「よくないことも、この家の歴史の一部として伝える意義がある。だから手をつけてない」

「じゃあ、聞いてもいい話?」

 そこで、あらましをざっと教えてもらった。

「そっか……。三輪の家らしくていいね」

 隠したいのなら奥の部屋の掃除をサラに頼まなかったはずだ。御杖が受け継いだ意志を、さらに環も継いでいた。

 掃除用具をまとめて洗面所にむかう途中、この秘密の部屋の近くを通りすぎる。

 そういえば夜更けの鬼ごっこをしたのも、このあたりだった。掃除をする前に乱れた埃のあとを見つけたから間違いない。鬼ごっこの最中は、秘密の部屋の存在にまったく気づかなかった。明かりがなかったから当然といえば当然だが。

 しかし不思議体験も、とうとう謎な子どもと鬼ごっこをするまでになったかと思う。これまでの不意に照明が消えたり、テーブルに置いていたカップの位置が変わっていたりといったことの進化形みたいだ。

 奇妙な出来事に最初こそ震え上がっていたものの、すっかり免疫がついた今となっては怖くなくなってしまった。とはいえ、夜中に起こすのは遠慮してほしい。

 そんなことを思い出していると、廊下からパタパタと軽い足音がした。それも複数。

 昼日中からおこるのは毎度のこと。サラの意識は、より大切な人のほうにむかう。環を出迎えた。

「こっちはすんだよ。蔵の整理、手伝おうか?」

「いや、終わったからサラを手伝うつもりできたの。いつも、ありがとね」

「環さん、お供を連れてきてたよ」

「……ああ」環が苦笑する。

「どうせなら姿を現してくれたら助かるんだけど。この家の大掃除は幽霊の手も借りたい」

 環にしてみると、怪現象の主も同居人扱い。明かりを消されても、

「電気で遊んじゃだめです。見えないじゃないですか」

 何もない虚空にむかって話しかけるまでになっていた。害がないとわかれば「ま、いっか」ですませられるようになったそうだ。

「わたしは外まわりを仕上げてくるから、サラは先に休んでて。冷蔵庫に葛餅がある。あと魔法瓶に冷たいお茶つくっておいたから好きに飲んで」

「石塔の掃除? あたしもいく。お茶するなら一緒がいい」

「じゃあ、先にお茶にしよう。休んだらもう動きたくなくなりそうだったけど、サラが手伝ってくれるなら早く終わるし」

 サラを休ませるための方便だ。この気遣いが嬉しかった。

 掃除用シンクで雑巾を洗い、手もきれいにしておく。

 石けんで洗っても、環の手指の先はうっすら黒い。炭とすすが皮膚にしみ込んでいた。

 環を知ったのは、二年前の地方紙のインタビュー記事で。中世から続く<三輪鍛冶屋>の二十三代目として顔写真入りで紹介されていた。新聞の粗い印刷でも、環の右の口角から斜め上にむかってのびる傷痕が見てとれる。

 痛々しくもサラにとっては、このうえなく格好いい傷痕だった。



 サラが環を見つけたのは、まったくの偶然だった。

 交代でとる職場での休み時間。休憩室のテーブルに新聞が広げられたまま置かれていた。

 イスに座ったサラは、近くなった紙面の写真のひとつに釘付けになる。

 サラよりいくつか年上な感じの若い女性だった。創業四百年を越える鍛冶屋の養子となり、雑事を手伝ううち<三輪鍛冶屋>の二十二代目、御杖源五に正式に弟子入りしたという。


『養子に迎えてもらっても〝タダ飯〟を食べているようで落ち着かなかったんです。そこで家事以外でも、鍛冶場での炭切りなんかを手伝うようになって。

 御杖はわたしの愛想のなさから、一般業種に就くと苦労すると心配だったんでしょう。試しにとばかり、鍛治仕事を教えてくれるようになりました。手作業が性に合ってたんですね。鍛治仕事で汚れるのは気にならなかった。

 養親が手仕事の職人で、とにかくやってみろと教えてくれる師匠でもあった。わたしはとても運がよかったと思います』


 人となりが表れたエピソードを読み、カメラ目線から少しずれたその女性の顔を凝視した。

 一見、無表情に見える双眸には、鉄を鍛える苛烈な仕事をしているとは思えない柔和さがある。

 白の作務衣に身を包んだ姿を胸に刻んだ。

 生活のために就いた大衆割烹の調理場で女は自分ひとり。体力の違いは言い訳にならず、雑用に追い回されてきた。ようやく包丁を握らせてもらう機会が増えてきているものの、要領がいいとはいえないサラは、いまだ怒声を浴びることもある。

 心に留めた環の姿は、その存在とともに、きつい仕事をやり抜くロールモデルにもなって希望をもたらした。

 そして、環とつながる方法を考えた。

<三輪鍛冶屋>がつくっているのは、武道用刀剣から包丁や鉈といった火造り(熱した鉄を叩いて形作る製法)の刃物。記事には連絡先も紹介されていた。包丁ならサラでも客になれる。

 駆け出しの料理人に火造りで鍛えた包丁なんて不相応な一丁だ。青二才にはまだ早いと放り出されるかもしれない。卸している店で見ればいいと取りあってもらえないかもしれない……

 どうせダメもと。行動を起こさなくては何も起こらないとばかりにダイヤルを回した電話で、あっさり本人から了承を得た。

 アポイントをとった当日。アパートから自転車をこぐこと四〇分でたどりついた鍛治工房は、個人経営の町工場みたいな外観だった。工房に隣接している大きな家や蔵で、四百年続いている歴史をやっと感じることができる。

 さらに出迎えた環の上下は、ホームセンターで売っている、ありきたりなワークウェアだった。

「刀をつくるときだけ作務衣なんですか?」

 思わずこぼしてしまったが、

「あれは記事用の衣装。イメージ崩してごめんなさいね」ワークウェアを指して「これがいちばんお手軽で作業しやすいので、刀を打つときでも白作務衣は着ません。わたしの師匠からして『白装束着てるからって破邪顕正はじゃけんしょうの刀がつくれるわけじゃない』なんて言い切る人でしたし」

 写真よりずっと柔らかな表情に、サラも自然と笑みを返した。

 やっと会えた——。

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