鋼打ちの守り神

栗岡志百

序章 逃げろ! と言えない

序章 逃げろ! と言えない

 闇は恐怖の燃料庫になった。

 見えない空間には何が潜んでいるのかわからない。襲ってくるかもしれない脅威に備えるために、ありもしないものまで想像して怪物をつくりあげてしまう。

 ここには自分以外、何もいない。いないはず……

 都祁つげたまきは、恐れの根源から目をそらし、闇が深いほうに背をむけていた。

 そこは暗かった。

 環がいるのは明かりのない小屋で、広さは三畳ほどしかない。密閉空間にいるわけではないのに、酸素が少ないような息苦しさを感じた。

 大人なら腰を屈めないと出入りできない扉は、細い丸太が格子状に組まれている。

 外に逃げ出すことはかなわないのは、この扉が南京錠で固定されているせい。古いけれど大きく頑丈な南京錠は、石ころで叩いたぐらいではびくともしない。

 精神衛生法によって昭和二十五年に廃止された空間が、四半世紀たっても壊されることなく残っていた。

 怖いのは暗がりだけではなかった。

 ネズミの死骸があるわけでもないのに、生臭い、魚が腐ったような臭いが漂っている気がする。

 きっと思い違いだ。けれど、闇に瘴気——毒気がある空気が混じっている厭な感覚が離れない。

 唯一の救いは、出入り口そばなら、格子越しに外灯の光が薄く入ってくることだった。小屋を取り囲む木立ちの間をぬって届くわずかな明かりが、恐怖で我を忘れることを防いでくれる。環は、わずかな明かりを求めて戸口のそばにいた。

 小屋の周囲に人影はなく、不規則な木々のざわめきだけが耳に届く。

 そして冷気も容赦なく流れ込んできた。四方を山に囲まれた高原性の気候に属するこの町は、十一月下旬ともなれば、夜の気温が五度を切ることもある。なのに部屋から連れ出されたままの格好で閉じ込められていた。

 冬の冷気は、セーターもダウンジャケットもない簡素な部屋着など簡単に通り抜ける。肌を突き刺し、呼吸器から身体の内側までも侵食していく。身体は冷え切り、肺の奥から痛くなった。

 くわえて顔の怪我がうずいた。

 ざっくり切った口元の傷が脈をうち、熱をともなって痛み続けていた。

 消毒液を吹き付けられ、厚くたたんだガーゼを貼り付けただけの適当な手当てしかしていない。なかなか止まらなかった血が、ガーゼをじっとりと重くしていた。

 食べそこねた夕食の空腹感にさいなまれ、よけいに疲労がつのる。座ることができる空き箱もないが、立ったままでいるのもつらい。地面に直接座るしかなかった。

 湿気を吐き出すじめじめした土が、靴裏とお尻から体温を奪っていく。わずかでも暖をとろうと、環は抱えた膝をぴたりと胸に引き寄せ、手を小刻みに上下して摩擦する。

 見るともなしに、いまの住まいになっている建物があるほうに目をやった。

 いつしか妹のように可愛がるようになっていた、月ヶ瀬つきがせさくらが心配だった。


 小屋から一〇〇メートルばかり離れたところに、地域のなかで生活する小規模グループホームがある。農家だった古い民家を改築したもので、環はここで小学生のときから暮らしていた。

 この児童養護施設にいるのは、小学生から高校生までの五人。さまざまな事情で親から離れて暮らす子たちで、小規模だから人数が六人をこえることはない。二名の指導員と一名の非常勤スタッフがローテーションをくみ、二十四時間文字どおり、子ども達の親がわりとなる。

 この施設にきて初めて「家庭生活」を知った子は少なくなかった。

 しかし、川西という指導員がシフトに入っている時間は、子ども達にとっては悪夢の再来になる。

 大柄というわけではなかったが、外股で歩き、子ども達を睥睨して威圧する。そんな川西が生活指導という名のもとで行うのは命令で、宿題や当番ができなかったとなると、すぐさま罵声を浴びせた。罵倒に負けずに反論しようとする子には、体罰でもって黙らせる。川西にとって理由など関係なかった。

 ただし顔は殴らない。横暴でありながら、ほかの指導員に気づかれまいとする用心深さはあった。

 年長の子が、ほかの指導員にそれとなく川西のことを訊いたことがある。

「日誌や支援計画書は緻密で、みんなをよく見てるし、遅刻や早退もまったくない。評判はいいよ」

 そこから小さな声で付け足した。

「本部ではね」

 ほかの指導員も川西のうろんな行動に気づいていた。おかしいと思っていても、はっきりした証拠がないから、同僚を訴えることに躊躇していた。

 殴った跡が残っている子もいた。しかし、服の下に薄っすらとアザがついている程度では、うっかり転んだ、よそ見をしてぶつけた。そんなふうに思われてしまうのではないか。

 訴えたとしても信じてもらえない。

 それを知った川西が、もっと酷いことをしてくるかもしれない……。

 そうして尻込みしてしまう。これまで救われなかった経験から、ここの子ども達は助けを求めることへの諦めが早く、川西を追及しない指導員への期待もすぐに失った。

 環はといえば、川西を冷めた目で見るだけだった。

 真面目に働こうとせず、自分がつくった家庭でありながら放ったらかしにする。そんな父親のもとにいたことで、大人でも間違ったことをやらかす。そして子どもでは馬鹿な大人につける薬が作れないことをすでに知っていた。

 川西はどうしようもないが、ここから出れば関係なくなる。来年で十八になる環が我慢する時間は、あと少し。それだけを支えにしていた。

 ただ、施設を出る心残りがひとつだけある。

 桜を残していくことだった。

 桜は環がまだ一〇歳だったときに入ってきた子だった。ひどい引っ込み思案で、いつまでたっても指導員やほかの子となじめずにいた。とはいえ人当たりが悪く、あまり感情を表さないせいで周囲に壁をつくっていた環にしても、似たようなものだったが。

 三歳年下の桜に対しても、環の応対に例外はない。とくに話すこともないまま過ごしていたある日、ちょっとしたきっかけで桜になつかれるようになる。

 愛想のない自分のどこがいいのか。わからないまま成り行きでかまっているうち、「お姉ちゃん」と呼んでくるようになった。

 たまたま同じホームで生活しているにすぎないと思っていた子から、そんな呼ばれ方をされて違和感しかなかったが、訂正させるのも面倒くさい。言われるまま応えていた。

 ホームでの部屋割りは一部屋二名だが、五人しかいないこともあり一番年上になった環は一人部屋をあてがわれていた。そこに、ちょくちょく桜が遊びにくるようになる。

 ふたりでいても特におしゃべりするわけではない。各々が宿題をしたり本を読んだりしている。それでも、ともにいる時間が長くなるにつれ、環のふるまいにお姉ちゃんらしさが出てくるようになった。

 世話焼き体質でもないのに我ながら不思議だったが、考える前に自然と身体が動くまでになっていた。

 このことが古小屋に閉じ込められる要因になる。


 中学生になっても内気なままだった桜は、相変わらず川西があげる大声や別の誰かが叩かれる音にも過敏に反応した。

 まわりを常に警戒し、小柄な背を丸め気味にして防御の姿勢をつくる。おどおどした桜に調子にのって、川西が攻撃の的にするのも変わらない。桜のぽっちゃりした体型も怠惰の証拠だと勝手に決めつけていた。

 そうして今夜も、食器をそろえる手際が悪いと桜に手をあげようとする。たまらず環は川西の前に割って入った。

 川西にとっていつもと違ったのは、かばった環が倒れ込む先に、ならべた食器があったこと。昂る感情に酔い、周囲の状況が目に入っていなかったのだ。

 身長ばかりのび、肉がついていない環の身体は、吹っ飛ばされた勢いのままテーブルを巻き込んで倒れた。

 まわりにいた子ども達だけでなく、川西でさえ呆然となる。

 上体を起こした環の顔から派手に血が流れていた。

 指導員として、これはまずい。隠しきれない怪我をさせたとあっては、傷害で捕まるのは必至なうえに……

 川西の打算より先に行動を起こしたのは環だった。口元の右側——血が流れ出ている箇所を手で覆って隠すと、目を見開いたまま表情も声も凍りつかせている桜にいった。

「わたしは大丈夫だから部屋に戻って。手当てしたら、すぐいくから」

「あたしのせいだ……あたしが悪いから、お姉ちゃんが……」

 うろたえて環にすがる桜を川西が無理やり引きはがした。

「都祁、こい。あとの全員は部屋に戻れ、いいと言うまで出てくるんじゃないぞ! 見た目ほど酷い怪我じゃない。都祁は——戻れと言ったのが聞こえなかったのか⁉︎」

 ついてこようとした桜を追い払い、皆の視線から逃れるように環を事務室に連れていった。

 川西は救急箱をひっくり返してガーゼを取り出し、包装を力まかせに破った。消毒液をぶっかけ、乱暴な手つきで環の血を拭いとる。切った傷より、肩を押さえつけている川西の手のほうが痛かった。

 大急ぎで手当てをされると、そのままホームの玄関に引っ張っていかれた。

 意に沿わないことでも、環は川西の言うとおりにしてきた。意見したところで、どうせ時間の無駄だ。

 しかし、ホームの外に出ることには逆らった。建物の周辺は畑ばかりで人家が少ない。人の目がない場所で二人きりでは、川西の思うがままになる。騒ぎを隠すために何をされるかわかったものではなかった。

 川西はどちらかというと線が細い。なのに環は引きずられるまま歩くしかない。腕力のない身体が悔しかった。

「都祁が悪いんだぞ。その怪我はよけいなことをして自分で転んだようなもんだ。自業自得だ」

 独り言のように話しながら連れられてきた先にあったのは、扉がなくなったままの納屋。ここで何をしようというのか。

 身を強張らせた環はさらに引っ張られた。納屋を通りすぎた隣、生い茂った木の陰に隠れるようにあったのは、板張りの小さな小屋だった。

 その異様な外観に足がすくんだ。前面の扉は、細い丸太が格子状に組まれていて……

 まるで檻だった。

 環は後ずさろうとした。が、動けない。川西が腕を潰さんばかりに握っていた。扉の内側へと突き飛ばされた。

 つんのめって倒れた隙に、小屋の戸が閉められた。入口そばの壁にかけてあった鎖をとった川西が、何重にも格子に絡みつける。大きな南京錠のシャックルを通し施錠した。

 そういうことか。

 環は得心する。怪我の処置をおえたら、事務室から真っ直ぐ桜の様子を見にいくつもりだった。

 手当てしていても、動揺した桜は分厚いガーゼを見て騒いだかもしれない。隠せない顔の怪我となれば、普段は話さない子もやってきて、これからのことを相談したがるだろう。

 そのすべてが川西にとってはまずいのだ。

 明日の朝になれば、交代の指導員がやってくる。いつも皆の話をよく聞き、意見が分かれれたときは多数決でなく、話し合いで決めさせようとする指導員だった。環の怪我をみせ、これまでのことを全員で訴えれば、納得してもらえるかもしれない。川西を辞めさせることができるかもしれない。

 その可能性を消すために川西は、環を孤立させる必要があった。

「騒ぎを大きくした罰だ。ここで頭を冷やせ。しばらくしたら迎えにくるから、大人しくしてるんだぞ」

 とんだ言いがかりだ。それでも環は抵抗せず、体力を温存することを優先した。

 川西のいう「しばらく」は、少なくとも消灯時間が過ぎて皆が寝静まったあとになる。長期戦になることを覚悟して、ひとまず腰を落とした。

 身体も気持ちも疲れ切っていた。

 桜の前で取り乱すわけにはいかないから平然としていたが、本当は涙が出そうなほど口元の傷が痛かった。流れ出た血の量にもびっくりした。それらの感情を強引に抑え込んでいた。

 川西が去って一人になると、耳が痛いほどの静けさが襲ってくる。体育座りしている膝のあいだに顔をうめた。

 暗がりに囲まれていると、世界のすべてから切り離された気分になってきた。

 虫の音もなく、海の底のような沈黙が支配する絶対的な夜の暗黒。見通せない暗闇に、漠然と「死」を意識した。

 ただ暗がりが怖い一方で、この世ではないところと繋がれそうな気分にもなる。

 環の母は、若くして亡くなっていた。ここにある闇をたどっていけば、母に会えたりしないだろうか。それとも人は死んだら、そのまま終わりになって、母は跡形もなく消え去っているんだろうか……

 踏み込んだら堕ちてしまいそうな闇がすぐそこにある。侵食してくる不安と寂寞から逃れようと、とりとめなく考えていたところで、微かな足音が耳に入ってきた。

 顔をあげ、音がしたほうに目をこらす。

 暗がりの中に動くものがある。外灯を逆光にした小さな影が肩をすくめ、周囲を慌ただしく見回しながらやってくる。

 桜だ。

 怖がりの桜が、怯えながらも真っ暗な中をやってくるなんて……。環は驚かせないよう、小さな声で呼びかけた。

「桜、こっち」

 びくりとなって動きを止めた。

「もうちょっと前に進んで。納屋の隣に小屋がある。そこ」

 今度は確信できたらしい。足を早め、まっすぐやって来た。

「お姉ちゃん!」

「静かに」

 ホームから離れている。少々騒いだところで川西に気づかれる心配はないが、桜を落ち着かせようとした。

「抜け出してきたの? 見つかったらやばいから早く戻って。わたしも、もう少ししたら——」

「そんなのわかんないよ! あいつ、あの場にいなかった子まで呼び出して、お姉ちゃんはわざと倒れて大きな騒ぎにしたって言ってるみたい。お姉ちゃんが戻ったら嘘だってバレるから、このまま閉じ込めておくかもしれない」

「…………」

 騒ぎを起こして他の子たちを誘導し、川西指導員に反抗しようとしたが逆におさめられて失敗。叱責を恐れてホームを抜け出し、そのまま——なんて筋書きをつくるつもりか。

 寒い暗がりに一人でいたせいか、悪い想像は簡単にできあがった。冷静に考えればバカバカしくても、川西なら周囲をだましぬくかもしれない……。

 反論できないでいるうち、桜が隣の納屋に入っていった。

「お姉ちゃん、さがって。鍵を壊すから」

 出てきた桜の手にはくわがあった。

 柄の長さが桜の肩の高さぐらいはある。勇ましい宣言とは裏腹に、鍬を振りかぶった桜は、ふらついていてあぶなっかしい。これでは鍵を壊すより自分の足を耕してしまう。やめさせようとして桜の背後、薄闇の中にいる新たな存在に気づいた。

 こんなに早く来るなんて。

 しかし、桜に逃げろと言えなかった。

 環の喉は凍っていた。寒さではない。瘴気を感じるこの小屋への漠然とした恐れから解放されたい願望が声をかすれさせた。

 そして都合よく考えた。まだ間に合うかもしれない。

 腕力のない桜だが、鍬をピンポイントで当てれば古い南京錠なんか壊すことができる。

 桜とここから逃げ出して、ふたりで——

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