第4話 愚痴
目の前の席に座る平川は、大きなため息をつきながら頭を抱え込んでいた。その様子があまりにも深刻そうで、正隆は思わず作業の手を止め、声をかけた。
「平川さん、どうしました?何か難しい仕事ですか?」
平川は顔を上げると、思い詰めた表情で正隆を見つめた。5つ年上で頼れる先輩ではあるが、その表情には仕事の悩みというより、別の何かがありそうだ。
「いやぁ、違うんだよ……」
平川は目を伏せ、腕を組んだまま苦しげに続けた。
「スターファイブのチケット外れちゃったんだよ! しかも次の公演、アオイちゃんの誕生日なんだぞ? 特別なサプライズがあるに決まってるのに……観れないなんてマジで最悪だよ……」
最後の言葉に込められた過剰な絶望感に、正隆は軽く目を見開いた。スターファイブ――平川が推しているアオイちゃんが所属するアイドルグループだ。
「転売サイトも見てるんだけど、10万するんだよなぁ。くぅ……アオイちゃんの勇姿を生で観るためなら、10万ぐらい……」
正隆はその熱量に圧倒されながらも、冷静に答えた。
「平川さん、転売チケットは違法ですよ……」
その言葉も届かず転売チケットを探し続ける平川をほおっておいて、自分の作業に戻ることにした。「困っている人を助けたい」という信念にも例外があることを学んだ。
正隆はデスクに広げた資料に目を落としながら、パソコンの画面を確認していた。新商品のクッキー発売に向け、スーパーで売られているクッキーの値段分布を調べ、グラフを作成している。
手元には店舗ごとの価格帯や販売個数が細かく記された表が並んでいた。
そのとき、隣のデスクでモニターアンケートの集計作業をしていた玲奈が声をかけてきた。
「武田さ~ん、これ見てほしいんだけど~。終わったんだけどさ、これでオッケー?」
作業の手を止め、玲奈が差し出した紙に目を通した。そこにはモニターアンケートの結果がまとめられていたが、記載されているのは商品の平均点だけだった。
「玲奈さん、これだけ?」
眉をひそめて問いかける。
「え、うん! 平均点さえ出てりゃ大丈夫っしょ?」
玲奈は自信ありげに笑うが、その言葉に正隆は表情を曇らせた。
「違うよ。平均点だけじゃ何もわからない。点数の分布がどうなっているのか、ばらつきがあるのか、それに平均点に有意差があるかどうかも見ないとダメだろう?」
当たり前のことすら分かっていない玲奈にいら立ち、自然と口調が厳しくなってしまう。
「え、有意差? なにそれ、初耳なんだけど~」
玲奈は首をかしげ、困惑した表情を浮かべる。
「有意差がわからないと、他の商品と比べて本当に良いのかどうか、これじゃ判断できないね。ただの偶然じゃなくてちゃんと意味のある差ってことが証明できないから説得力のある資料にならないんだ」
玲奈は頭をかくようにして、困った顔を浮かべた。
「え~、マジでそんなんわかんないってば……」
その様子を見ていた課長が口をはさんできた。
「ちょっとちょっと、武田君、玲奈ちゃんが困ってるじゃない。今、パワハラとかコンプライアンスがうるさいからさ、もっと優しく教えてあげてよ」
課長は笑みを浮かべながら、かばうように言った。
「課長、怖い顔してるつもりはないんです。ただ、仕事で必要なことを説明してるだけです」
正隆はややムッとした表情を浮かべながらも、冷静さを保とうと努める。
今から玲奈に有意差について説明するよりは、自分でやった方が早そうだ。正隆は軽くため息をつきながら、玲奈の資料を受け取った。
玲奈は一瞬だけ自席のパソコンに目を戻したかと思うと、再び正隆に視線を向けた。
「そういえばさ、武田さ~ん、この前妹ちゃんに会ったよね? 菜々美ちゃん、マジで超カワイイじゃん! ほんとびっくりしたわ~!」
玲奈は目を輝かせながら楽しげに話す。その純粋な笑顔と、まったく疑っている様子のない態度に、正隆は胸を撫で下ろした。
「あ、そうなのか。かわいいって言ってくれたら、菜々美も喜ぶと思うよ。あとで伝えておく」
もし何か疑念を抱かれていたら、この場で詰問されていたかもしれない。しかし、玲奈の反応は疑念どころか純粋な好意に満ちていた。
玲奈のようなファッション感度の高い女性から、お世辞かもしれないが「かわいい」と言われたのは素直に嬉しかった。
正隆は思わず口角を少しだけ上げながら、自分のデスクに視線を戻した。玲奈の無邪気な褒め言葉は、正隆の心に響いていた。
玲奈のしりぬぐいをしながらも、不思議と先週のようないら立ちはなかった。
その日の夜。正隆は一人、レンジで温めたレトルトカレーをスプーンで口に運んでいた。ひと口ごとに「味気ないな」と感じ始めた頃、スマホが震えた。
スプーンを置いて、スマホを手に取るとメッセージが届いている。送り主は姫川玲奈だ。
「ねぇねぇ、今日聞いてほしいことあるんだけど~!」
軽い文面とともに、今日の出来事への不満が長文で送られてきた。
読み終える間もなく、通話の着信が入る。すぐに既読を確認してかけてきたのだろう。仕方なく通話ボタンを押すと、案の定、玲奈の勢いある声が飛び込んできた。
案の定、玲奈の勢いある声が飛び込んできた。
「菜々美ちゃ~ん、マジ聞いて! ねえ、あなたのお兄さんってば、超ひどいんだけど!」
「え~、どうしたのぉ~? お兄ちゃん、なんかしたのぉ?」
正隆は心の中でため息をつきながら、女性モードの声で返事をした。
「聞いてよ! せっかく集計頑張ったのにさぁ、有意差がどうとかp値がどうとか、マジで意味不明なんだけど!? アタシ文系なのに理系ノリ押しつけてくるとか、ほんっとナイわ~! でさ、『これじゃ判断できないね』みたいに冷たい顔で言われたんだよ!? どっちが正しいかとか知らないけど、そっちが指導する側ならさ、もっと優しく言えばいいじゃん! マジ萎えるわ~」
その後も玲奈の愚痴は延々と続き、正隆は適当に相槌を打ちながらカレーの残りを片付けていった。カレーを食べ終え、お茶を一口飲んだところで、ようやく玲奈の勢いが落ち着き始めた。
「うん、うん、わかったよぉ~。お兄ちゃんにも、優しくするように言っておくねぇ~」
話をまとめて通話を終えようとしたが、玲奈はそこで止まらなかった。
「でさ~、気晴らしにさ、今週末一緒に買い物行かない? 菜々美ちゃんも冬のコーデ考えたいでしょ? アタシ、似合いそうな服とか一緒に選んであげるよ!」
「え……お買い物?」
一瞬言葉を詰まらせる。
「そそ! いつもかわいいけど、もっとイメチェンしたら絶対モテると思うの! 菜々美ちゃんのイエベ春に合う服とか、アタシ得意だから任せて! ね、ね、いいでしょ?」
玲奈のテンションに押されるように、曖昧に返事をする。
「え、えっと……まぁ、いいかも……?」
玲奈が楽しそうに声を弾ませている向こうで、正隆の頭には別の心配が浮かんでいた。玲奈と一緒に買い物をしても、正体がバレないだろうか?
それでも、ファッションに詳しい玲奈と一緒に買い物に行けば、新しい自分のスタイルを発見できるかもしれない。
それよりも初めてできた女友達――しかもこんなに無邪気で明るい相手と一緒にいるのは、悪くないと思えてしまう自分がいた。
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