第2話 遭遇
眉にブラシを当てながら、正隆は女装を始めたばかりの大学生の頃を思い出していた。
あの頃は、左右対称の眉を描くことすら難しく、アイライナーは震える手で何度も失敗し、チークは濃く塗りすぎてアンパンマンのようになってしまった。
今となっては苦笑いできる懐かしい思い出だ。
大学2年生の春、暇を持て余していたある日、SNSで偶然見つけた「男の娘」という言葉に目を留めた。コスプレ感覚で女装を楽しむ男性たちの投稿が新鮮で、興味をそそられた。
「自分にもできるだろうか?」
そんな軽い気持ちで、通販サイトで初めてスカートを購入したのが始まりだった。
数学が好きというだけで理学部数学学科に進学したが、好きなだけでは通用しない世界に躓いている自分を、女の子に着替えているときだけ忘れられた。スカートの軽やかな感触や、鏡に映る非日常的な姿が、曇った心を一時的に晴らしてくれるのだった。
スカートやワンピースなど女性服を一通り手に入れると、次第にメイクにも興味が湧き、ネット動画を何度も繰り返し見ながら自己流で練習を始めた。
「よし、今日はいい感じだな」
眉が理想的なアーチを描いたのを確認すると、正隆はふっと微笑んだ。
靴箱からいつもの黒い革靴ではなく、ベージュのパンプスを取り出す。ヒールの高さは控えめだが、しっかりと女性らしさを演出してくれるお気に入りの一足だ。肩には白いカバンをかけ、正隆は玄関を後にした。
外に出ると、澄んだ秋の空気が頬に心地よい。駅までの道のりを歩く間、すれ違う人々は誰も正隆に注意を払わない。すれ違う視線に怯え、挙動不審になっていた女装外出を始めたばかりの頃が嘘のようだ。
特に緊張したのは、逃げ場のない電車の中だった。少しでも不自然な仕草や声で周囲に怪しまれるのではないかと冷や汗をかき、手に持ったバッグをぎゅっと握りしめていたことを思い出す。
しかし今では、その緊張感もどこへやら。自然体でいることこそが、男だと気づかれない最大の秘訣だと気づいたのだ。
「バレたところで、別に悪いことをしているわけじゃないんだから」
そう開き直れるようになってから、心も体も余裕が生まれた。身構えずリラックスして振る舞うだけで、不思議と周囲に溶け込めるようになった気がする。
鏡に映る姿も、街の中を歩く姿も「自分らしさ」で満たされている。それが、パス度――男だと気づかれない確率を上げるコツだった。
目的の駅に着き、改札を抜けると、まずは駅ビルの中を見て回ることにした。
すでに店先には秋冬物が並び始めており、ディスプレイウィンドウのマネキンたちが少し厚手のニットやコートをまとっている。
3軒目のお店に飾ってあったマネキンが着ている、ふんわりと広がるオフホワイトのロングスカートが目に留まった。
柔らかい生地が裾にかけてきれいに揺れるデザインで、落ち着きがありつつも上品な可愛らしさが際立っている。
「いいな、これ……」
自然と足が止まり、ショーウィンドウ越しにじっと見入る。白系のアイテムはコーディネートしやすいし、このスカートなら正隆の手持ちの服とも合わせられそうだ。
意を決して店に入ると、ふわりと漂う柔らかな香りと、おしゃれなディスプレイが目に入った。スカートが掛かっているラックに近づき、そっと手を伸ばす。滑らかな生地の感触が心地よい。タグを見ると予算の2割オーバー、しかしその分質のいい生地が綺麗なラインを作り出している。
「こちら、すごく人気なんですよ」
ふいに横から声をかけられた。見ると、にこやかな笑顔の店員が立っている。
「よかったら、試着されてみませんか?」
勧められた瞬間、正隆の中で小さな葛藤が生まれた。試着してみたい気持ちはもちろんある。だけど、彼には決めているマイルールがあった。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
にっこりと微笑むとスカートをもとの位置に戻すと、正隆は軽く会釈してお店を出ることにした。
欲しい気持ちは強いが、衝動買いはしないというのもマイルールだ。
他のお店も一周見て回って、その後カフェで一息ついて、手持ちの服との組み合わせをちゃんと考えてから買うのが、買い物するときの定番コースだった。
今日も前から目を付けていたカフェに入ることにした。木目調の外観と可愛らしい看板が目を引くその店は、どこか温かみがあり、足を踏み入れると期待通りの雰囲気が広がった。
白を基調とした店内には、北欧風の家具がゆったりと配置されていて、柔らかな照明が心を落ち着ける。窓際の席には緑の植物が飾られ、ナチュラルな空間を演出している。ここなら気兼ねなく過ごせそうだ。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
笑顔の店員に迎えられ、正隆は自然な仕草で窓際の席に腰を下ろした。席につくとすぐに、お冷とメニューがテーブルに運ばれる。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
赤いエプロンを付けた店員がにこやかに尋ねる。
「レディースランチセットをお願いします。ドリンクはホットカフェオレで」
「はい、かしこまりました」
店員はにっこりと笑みを浮かべ、お辞儀をして去って行った。その様子に不審な目線は感じられない。最近始めた女声の練習が少しずつ効果を上げているのかもしれないと、正隆は心の中でほっとする。
数分後、注文したレディースランチセットが運ばれてきた。木製のワンプレートの上には、彩り鮮やかな料理が並んでいる。メインのハーブチキンソテーは焼き加減が絶妙で、香ばしい香りが鼻をくすぐる。添えられた雑穀米のサラダにはグレープフルーツが散りばめられており、爽やかな酸味がアクセントになりそうだ。小鉢には季節の野菜を使ったほうれん草とカボチャの和え物が入っている。
「美味しそう……」
目の前のプレートに思わず心が躍る。もちろん、男性の正隆には量的にはやや物足りないが、今日はそれでいい。オシャレなランチを楽しむ女性を演じるには、このくらいのボリュームがちょうどいいのだ。
カフェオレのカップから立ち上る湯気を眺めながら、正隆はゆっくりとスプーンを手に取った。このひとときが、自分にとって特別な時間であることを改めて実感していた時だった。
「この~、レディースランチおねがいしま~す」
聞き覚えのある甘ったるい声と、独特の間の伸びた話し方に、思わず顔を上げた正隆は、目の前の人物に息を呑んだ。そこにいたのは玲奈だった。
いつものスーツ姿ではなく、淡いラベンダーカラーのニットに、白のレースがあしらわれたスカートを合わせた私服姿がちょっと新鮮に映る。
ヤバイ!
正隆は内心叫びながら、慌てて視線をそらし、目の前のランチに集中するふりをした。静かに食事を続けていれば気づかれないはず――そう信じていたのだが。
「あれ! 武田さん!?」
名前を呼ばれて思わず顔を上げてしまい、正隆は玲奈と目が合った。不意に名前を呼んでしまった玲奈は、両手を合わせて軽く頭を下げる。
「ごめんなさ~い! 知ってる人と雰囲気が似てたから、つい声かけちゃった!」
「あっ、いや、大丈夫です」
そう返しつつ、正隆は視線を急いでランチプレートに戻した。しかし、玲奈はまだこちらをジッと見ている。その視線に正隆は居心地の悪さを感じていた。
「でもさ~、やっぱ似てるんだよね。もしかしてさ、きょうだい? あ、そうだ! 武田さんの下の名前、なんだっけ……あ! 正隆だ! ねぇ、正隆ってきょうだいとか親戚にいない?」
――何なんだ、コイツは? 初対面でこんなにグイグイくるやついるか?
正隆は心の中で毒づいたものの、玲奈の無邪気で一切悪気のない様子を見てため息をついた。コミュニケーション能力だけで人生を渡り歩いてきた彼女らしい行動だ。これ以上顔を見られ続けると、女装がバレてしまうかもしれない。話を早く切り上げるため、正隆は話を合わせることにした。
「正隆は……私の兄です」
玲奈の目が大きく開き、ぱっと明るい表情になった。さすがポンコツ姫。苦し紛れの言い訳でも、すぐに信じる。
「あ~! やっぱり~! そっくりだもん! え、武田さんに妹さんいたんだ! なんで今まで教えてくれなかったのぉ~?」
玲奈はそう言いながら勝手に話を進めている。正隆は内心で冷や汗をかきつつ、適当に相槌を打つ。
「まぁ、あんまり家族の話とかしない人なんで……」
「ウケるんだけど~! あ、私、玲奈って言うの! あなたのお兄さんと同じ会社で働いてるの。ねぇ、名前、教えてよ~」
ギャルらしいフランクさで笑いながら話す玲奈に、どうにかつくった自然な微笑みを浮かべて応じる。
「菜々美です。いつも兄がお世話になっています」
軽く会釈して玲奈から視線を外した。これで会話が終わるはず、そう思ったのだが。
玲奈は挙げた手をふりながら、少し離れたところに店員さんに聞こえるように大きな声をだした。
「あ~すみません。私、こっちの席に移動しますね」
えっ、こっちにくるの?初対面だぞ。こいつは遠慮というものがないのか?会った瞬間に友達なのか?コミュ力Sクラスは伊達じゃない。
さすが新人の営業研修で、お得意先のスーパーの担当者相手にタメ口で話しかけただけのことはある。
楽しそうな笑顔を浮かべながら、真正面の席に座った。
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