上司の俺が休日は“妹”としてポンコツ部下に指南される件

葉っぱふみフミ

第1話 休日の楽しみ

 仕事にも精が出る金曜の午後という歌詞の歌の題名が思い出せないまま、武田正隆はキーボードを叩き続けていた。

 勤め先の中堅お菓子メーカー「甘楽堂」で、売り上げデータや顧客アンケートの集計を担当するマーケティング部員だ。

 商品ごとの3年間の売り上げと粗利の変化をグラフにして、週明けの会議用の資料を作成中だった。


 時刻は午後4時半。このペースなら定時に上がれそうだ。ようやく一週間が終わるとフーっと一息ついたとき、隣の席の姫川玲奈から声をかけられた。


「あの~、武田さん。頼まれてた資料、できましたけど!」


「あ~、それじゃメールで送ってくれる?」


「は~い!」


 玲奈が間の抜けた返事を返す。送られてきたメールの添付ファイルを開き、原価推移の資料に目を通す。

 一目で何かがおかしいと感じた。カカオ豆の高騰でチョコレートの原価が上がっているのは分かるが、データ上では原価が希望小売価格を超えている。


「姫川さん、これ……希望小売価格が200円の商品が原価250円になってるけど、本当に合ってる?」


「あ、あれ~? 変ですね~。でもちゃんと計算したはずなんですけど~!」


 玲奈は慌ててパソコンを操作し始めたが、すぐに手を止めて首をかしげた。


「えっと……数字は全部エクセルに入れたんですけど、合計したらなんか違う数字に……」


「たぶん、セルの範囲指定がズレてるんだと思う。一緒に確認しようか。」


「えぇ~……」


 玲奈は頬を膨らませて不満そうに返事をする。その表情ですらかわいらしい愛嬌が、彼女の唯一の長所だった。


―——ポンコツ姫。


 それが玲奈につけられた社内でのあだ名だ。入社当初はそのルックスで注目を集めたものの、初期研修が進むにつれポンコツぶりが露呈し、窓際部署であるマーケティング部に配属された。


 正隆はため息をつき、「もういい、あとは俺がやっておく」と言って席を立った。


 仕切り直しに気合を入れ直すため、自販機コーナーへと向かう。

 自販機コーナーには先客がいた。同じマーケティング部の先輩の平川が壁に寄りかかスマホをいじりながら、微糖のコーヒーを飲んでいた。

 

「よう、指導係も大変だな」


 100円を入れエナジードリンクのボタンを押す。

 取り出し口から缶を取り出しながら、平川に声をかける。


「なら、先輩が変わってくださいよ」


「いやだよ。俺は数字いじりと推し活で手一杯だからさ」


平川はスマホ画面を見つめながら、微糖コーヒーを一口すする。


「ほら、アオイちゃんの配信始まるまでに帰らないと。重大発表って何だと思う?やっぱ映画出演?いや、俺的にはソロライブのほうが……」


 飲み終わったコーヒー缶をゴミ箱に捨てると、一人で盛り上がりながら帰っていった。


 残業を終え、帰宅途中にスーパーで半額の弁当とビールを手に入れて、ようやく自宅にたどり着いた頃には、時計の針はすでに8時を回っていた。

 空腹を感じつつも、まずは「儀式」を始める前に身を清めるため、荷物を置くと真っ先にお風呂場へ向かう。


 湯上がりの爽快感に包まれながら、いつもの衣装ケースの上段ではなく下段をそっと引き出した。

 黒や白の無機質なアイテムが並ぶ上段とは対照的に、下段にはピンクや水色などカラフルなパステルカラーが整然と収まり、まるで宝石箱のような光景を作り出している。


 そこからワインレッドのセットを取り出し、手に取ると満足げに眺めた後、まずは下の方から身につける。

普段のトランクスとはまったく異なる、滑らかな生地の感触と適度なフィット感に思わず微笑む。


 次に、上のアイテムを手に取り、肩ひもに腕を通して背中のホックを留める。ふわりと包まれる感覚に思わず安堵のため息を漏らす。

 胸元を整え、ラインを美しく見せるためのパッドを入れると、完璧な準備が整った。日常とは異なる自分に変身する瞬間の高揚感が、心の中で静かに膨らんでいく。


 下着を着たところでクローゼットからピンクのルームワンピースに手を伸ばす。

 ゆったりと着心地に心が落ち着くと同時に、袖口についた小さなリボンにテンションが上がる。


 金曜日の夜、仕事を終えて帰宅したあと、月曜日の朝出勤するまでの間、女装して過ごす。これが正隆の密かなルーティンだった。

 モノトーンの平日とは対照的に、女の子として過ごす休日は、鮮やかでカラフルな世界に満ちている。


 スカートの裾が揺れる感覚、メイクで変わる顔の印象、きらめくアクセサリーの楽しさ。

 そのひとつひとつが、仕事のストレスや、さえない自分自身から解放されるきっかけとなる。

 そして、その特別な時間はいつも、この服をまとう瞬間から始まった。


◇ ◇ ◇


 翌朝、掃除や洗濯などの家事を終えた正隆は、クローゼットの扉を開ける。

 中にはきれいに並べられたスカートやブラウスが目に飛び込んでくる。ファッションの秋、そんな言葉の意味を女装するようになった理解した。

 

 暑い夏は機能性重視になるし、冬はおしゃれしてもコートで隠れてしまう。やっぱり春と秋が女の子としてのファッションが一層楽しくなる時期だ。


「今日はどうしようかな……」


 ハンガーにかかったボルドーのプリーツスカートとブラウンのシフォンスカートを手に取り、迷い始めた。プリーツスカートは落ち着いた色味で秋らしい上品な印象。一方のシフォンスカートは軽やかでふんわりしたシルエットが可愛らしい。


 鏡の前に立ち、それぞれを体に当ててイメージを膨らませる。


「プリーツだと秋っぽいけど、少し固い感じがするかな……シフォンは可愛いけど、風が吹いたら寒いかも……うーん、トップスで調整する?」


 次に視線を移したのは、秋の装いにぴったりなニットやカーディガンが並ぶ棚だった。

クリーム色のハイネックニット、オフホワイトのブラウス、テラコッタカラーのカーディガン。それぞれ魅力的でスカートとの相性も良さそうだ。


「でも、プリーツにハイネックニットだとちょっと堅すぎるかな?あ、テラコッタのカーディガンを合わせたら柔らかい雰囲気になるかも……」


 再び鏡の前で組み合わせを確認する。最終的にはボルドーのプリーツスカートにテラコッタカラーのカーディガンを選び、インナーには白いブラウスを合わせることにした。

 足元はタイツにブラウンのローファーを合わせて秋らしいコーディネートが完成した。


「よし、これで決まり!」


 服を抱えてクローゼットを閉めると、ワクワクした気持ちのままメイクへと取り掛かった。

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