第四話 現実

 先生は「今日はこの問題解きながらね」と言いながらまた小難しそうな証明問題を指差す。私は眉間に皺を寄せてしまい、「授業だからね?」と釘を刺されてしまった。


仕方ないな、と思っていると「そうだなぁ」と先生は思い出す素振りを見せた。


 花音ちゃんは、三年生になっても変わらず学校には行けなかった。


 その代わりに塾には頑張って通っていたとか。週二回五十分の授業だと、通常の受験生は足りない。だが、彼女の学力と集中力ではこれが限界だった。


 進路に関しては、親ともかなり揉めていた。どこに行くのか、と言うよりも、高校に行けるのか、という心配の方が大きかった。特に父親からは毎日のようにチクチクと言われていたらしく、何度も泣きながら塾に来ていたと先生は言っていた。


 先生は、とにかく行ける高校に進学するように強く勧めた。当時の塾長もレベルの高いところではなく、私立でも通信でもいいから自力で行けるところにしようと言っていたのだ。それで決まると思っていた矢先、口を出してきた人が一人。


 彼女の、父親だ。


 彼女の父親は前回教えてもらった通り、目が不自由だ。お母さんは『花音ちゃんが行けるところならどこでも』と言っていたらしい。いつだって花音ちゃんの見方をしてくれていた。だが、お父さんは猛反対。


 『どうして公立に行けないんだ』『私立はお金がかかるから無理だ』などなど。繰り出される無理難題に、先生たちも相当苦戦した。


 はじめは花音ちゃんも『私は行ける高校に行く』と堂々と話していたのだが、一切聞く耳を持たない彼女のお父さんに疲れ切っていた。たとえ大好きな推しの存在があったとしても、疲れは蓄積されていく。疲弊し切った彼女は、ついに進学すら諦めようとしていた。だが、先生はそれを絶対に許さなかったのだ。


『進学することを諦めちゃダメ。お母さんは応援してくれているのだから。自分の道は、自分で切り拓くの』


 何度も何度も、説得したらしい。先生は彼女にとっては茨の道だと分かっていたが、『道があるなら進むべきだ』と話していた。「どうしようもできない時は茨の道すら現れないからね」と先生は視線すら合わせてくれなかった。花音ちゃんもたくさん励ましてもらいながら、どうにか不安定な精神を保っていた。


 だがしかし、ある日彼女は両親と大喧嘩した。


「あの時は凄かったなぁ」


「え、どうして?」


「だって、大喧嘩したって割にはケロッとしているんだもん。とんでもない爆弾を投下したって言うのに、スッキリした顔で現れたからね」


 引き攣った笑いがいつもの先生にに戻っていたのに、また同じような笑い方をしていた。先生なりに誤魔化しているのだろうが、さすがに察しがつく。それほどまでに彼女の行動は異常だったようだ。


 彼女の落とした爆弾は、『お前らのせいで私がこんな思いをしているんだ。どうせ私を介護させるために産んだのでしょう? 何で育てもできないのに二人も産んだの?』だった。


 内容を聞いた先生は、声が出なかった。正確には、言葉が出てこなかった。だが、同時に両親がどんな反応をしていたのかも気になった。一歩間違えたら進学が完全に打ち切りになったかもしれない。冷や汗が止まらなかったと、無理やり口を動かして苦笑いしていた。


「彼女の両親は、特に母親は黙っていたみたい。喧嘩の時に言い合いはしたけれど、『お前のせいで、私はいじめられた。学校にも行けなくなった』と言った時には、何も言わなくなったの」


 花音ちゃんは我慢の限界だったのだろうと、先生は最後に付け足した。味方であるはずの両親から責められ、それでも弟と親の面倒を見なければいけない。どれだけ怒りが湧いてきても、彼女がいないと生活ができなくなる。助けてくれるヘルパーさんもいるけれど、二十四時間ずっといるわけではない。


生まれてすぐに押し付けられた責任と、周りとは違う環境の中で彼女は必死に独りで耐えていたのだ。


 その我慢が、最後の最後でプツッと切れてしまった。


「……先生はね、彼女が不幸だと思わなかった。いや、思いたくなかったの。だって、大喧嘩した後にあの子言っていたんだ。『自分が不幸だと思ったことはない。ママがいて、パパがいて、弟がいて、推しがいて。それだけで幸せだもん。私が不幸だと思っちゃうのは、他の人が決めた『幸せ』のせいじゃん』って」


 ギュッと、心が掴まれる感覚がした。ペンを握っていた先生は、折れそうなほどにぎゅっと握っている。パキッと音がした時にはハッとして、「まあ、彼女の言う通りなんだけどね」と笑みを作っていた。


「彼女は、自分が一生みんなのような『普通』になれないことを、小さい時から分かっていたと思う。でも、彼女なりの幸せがそこにあって、必死に頑張ってきた結果、あんなことになったんじゃないかなって思うんだ」


 先生はもう一度、自分のペンを走らせた。花音ちゃんの話を聴きながらも私は問題を解いており、書かれている内容を確認している。彼女の問題は、私がいつも解いている問題よりも難しい。解決するかどうかも分からない、死ぬまで一生をかけて考える内容だ。


 大人になっても解決できるか分からないのに、同じ中学生の彼女が出した答えは何だったのだろうか。どうしようもなく、気になってしまった。口が、勝手に動いていく。


「あの、先生。その、花音ちゃんって、結局どうなったんですか?」


「気になる?」


「はい」


「……その話を聞いて以来、彼女は姿を見せなくなったの」


「え」


「私たちもどうにかして連絡を取ろうと思った。でも、ダメだった」


 視線を私に向けることなく、先生は大きな花丸を描き始めた。描き慣れているようで、私に見せてくれた真っ赤な花丸は綺麗な形をしていた。私にテキストを差し出す。小学生の時以来、もらえることがなかった花丸だ。


 受け取ると思っていた先生は、固まったままの私の前へ静かに置いた。


「かのんちゃん、凄いじゃない。花丸満点だよ。勉強してきたかいがあったね」


 先生の声は、さっきとは違って褒めてくれる時の先生の声だった。でも、褒められているはずのなのに、素直に喜ぶことができなかった。初めて山上先生からもらった花丸が、こんな気持ちで受け取ることになるなんて予想できただろうか。じっと、この空気に場違いな花丸を見つめた。


「あ、もうこんな時間か。えーっと、来週は休みだからなぁ。英単語テストだけにしようかな」


 サラサラと、私の宿題を置かれていたファイルに書いていく。その間に私は、どんな反応をしたのだろうか。うんともすんとも言っていなかった気がする。ゆっくりと、私の前に置かれたファイルを受け取り、どうにかして私は片付けたようだ。


「じゃ、また再来週だね」


「そう、ですね」


 やっと声が出た。はいともいいえともとれない、曖昧な返事。ハッピーエンドが約束された人生なんて存在しない。そんなことは分かっている。分かって、いたはずなのに。思い知らされた事実をどうにかして受け止め、私はフラフラと玄関へ向かった。靴を履いて、カランカランと扉を開ける音の中、帰ろうとした時。


「……かのんちゃん、ちょっとだけいいかな」


「? はい」


 外に出ると、スリッパを履いた山上先生が後ろから声をかけてきた。いつもなら玄関まで見送ってくれるのだが、今日は外まで出てきてくれたらしい。いつも見送りたいけど、次の授業までの休憩時間が短いこともありすぐにどこかへ行ってしまう。どうかしたのかと思いながら、肌寒い外で立ち止まった。


「今日の話、なんだけどさ。当たり前のことを感謝しろとは言わないよ。ただ、他人のものさしで自分の幸福を測ることは、惨め以外の何ものでもないってこと、覚えておいて」


 ぎゅっと、私の手を包み込むように握った。人と同じになることを望んでしまった彼女は、心を壊してしまった。その結果が、あの大喧嘩だったのだろう。でも、もし大喧嘩しなかったらどうなっていただろうか。きっとこれは、誰にも予想ができない。


 私は小さく頷き、「ありがとうございました」と頭を下げてお母さんが待っている車の中へと向かった。


 私はなんとなく、車内でお母さんと話をした。ただ気が向いただけだった。花音ちゃんの話を聞いたからとか、そんなことではなかったと思う。


 学校であったこと、明日からはちゃんと学校へ行くこと、塾は来週休みということ。塾のことは知っていたから「そういえばそうね」とだけ言い、学校のことは何も言わなかった。

 

 

 その日の出来事の後。寝て起きた次の日からの学校は、本当に辛かった。

 

 宣言通りあの子は無視をし、今まで仲良くしていた子達は彼女に合わせるように無視を始めた。何度も挨拶をしたり声をかけたりしたのだが、華麗に無視。ここまで来ると、むしろ拍手を送りたくなる。心は少し痛かったけれど、私は花音ちゃんと同じ心の支えを見つけたから。それだけで、私の心は満たされた。


 一人でいる時間が多くなったこともあり、自然と本を読むようにもなった。山上先生は国語も大事だと言っていたから、今まで寝ていた国語の授業でも真面目にノートを書くようになった。


 はじめは国語の先生にも驚かれていたけれど、今では日常の風景の一つに。そんなこんなでお母さんにおねだりして買ってもらったボーカロイドの本を読んでいると、「ボカロ、好きなの?」と声をかけてくれるクラスメイトがちらほらと増えはじめた。


 彼女をきっかけにどんどん知り合いや友達が増えていき、今では立派なオタクの一員に。相変わらずあの子は他の人や私の悪口を言っていたけど、私は幸せだった。あの子から見たら無視されている私は可哀想らしい。


 でも、先生が言っていた他の人のものさしで測ろうとしなかったから、私は可哀想ではなかった。

 

 そんな私は、ここ最近のことを思い出しながら、最近仲良しの友達を待っている。

 

 今日は同じボカロ好きな女の子と一緒に遊びに行く約束をした日。私よりも詳しい彼女は、ボーカロイドはボカロと省略することや、あちこちでイベントやライブが開催されていることを教えてくれた。


 今日は、ボカロの初心者である私に、もっとたくさんの曲を教えてくれるらしい。久しぶりに友達と遊びに行くこともあり、ワクワクが止まらない。


「遅いなぁ。何かあったのかなぁ」


 大きな独り言を呟く。キョロキョロと辺りを見渡しながら、「ごめん、五分くらい遅れる!」と連絡してくれた友人を何度も探す。もう五分くらい、軽く経ったような。


 最寄り駅に集合すると約束をしていたのだが、今日は人が多い。あちこちで「お待たせ!」と言っている姿が見えた。私の他にも誰かを待っている人がいるようだ。日曜日だからかな。特に急いでもないしゆっくり待つか、と心の中で呟きスマホを取り出す。


 イヤホンを取り出してお気に入りのボカロを聞こうと何度か画面をスクロールした時、「花音ちゃん!」と聴き慣れた声が耳に入ってきた。


「え?」


 声のする方を振り返ると、白いロングスカートを履いている一人の女性と、巷では地雷系と呼ばれている黒とピンクのフリフリの服を着ている女性が一人。互いに手を振り合い、派手な服を着ている女性は「せんせー!」と手を振っていた。目立つなぁ、と思いながらせんせーと呼ばれた彼女を見つめた。


 あ、先生だ。彼女に見つからないように、反射的に隠れる。


 清楚な格好をしているのは、紛れもなく山上先生。遠くからで確認はできないが、あの声は間違いない。長年聴き続けていたから、自信を持って言える。


 他の人たちは二人の異色な組み合わせにチラチラと視線を送っているが、すぐに自分たちの世界に戻っていた。他人のことなんて、大して気にならないのだろう。そんなものだよな、と思った時。


 ふと、彼女のことを思い出した。


 フリフリの、目立つ服。そして、山上先生を「せんせー」と呼ぶ人間。心あたりは、一つしかない。

 

 あれは、もしかして。

 

 私が声をかけようとした時、先生の腕をグイグイ引っ張る女性の姿が見えた。嬉しそうに、年上に甘えている姿は、どう見ても信頼を寄せている証拠だ。


「行こ! せんせー!」


 笑顔で連れて行こうとする女性と、困り顔で相槌を打っているであろう先生。顔は見えなかったけど、「仕方ないなぁ」と声が聞こえた。


 そうか。彼女は、『自分の答え』に辿り着いたのか。私にはまだ分からない、難問の答えに。


 私は伸ばそうとした手を引っ込め、人混みの中へ消えていく二人を最後まで見つめていた。

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花咲く音が聞こえる頃に 茉莉花 しろ @21650027

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