第三話 悩み
「かのん。ちょっと、かのん。今日学校は? 遅刻するわよ」
「……お腹痛いから休む」
「何言っているの。もうすぐ受験だって言うのに休んでいる場合?」
「うるさいなぁ! 今日は学校行かないから!」
抱きしめていたクッションをドアに向かって投げた。ぼすん、と気の抜ける音がして、重力に従って床に落ちる。いつもとは少し違う私の反応にお母さんは「知らないわよ」と言いながら階段を降りて行った。
階段の降りる音も聞こえなくなり、バタンと扉が閉まる音がした。きっとどこかに出かけたのだろう。パートの時間にはまだ早い。私がいるから、出かけちゃったのかな。ギュッとお腹を掴まれた感覚がする。嫌だな、辛いな。どうしてこんなにも上手くいかないのだろう。
「……私だって、学校行きたいよ」
一人自室で呟いた声は空気の中へと消えていく。広い家の中で一人、布団に包まって横になった。
昨日、ついに友達と大喧嘩した。
ついにと言うのもおかしいが、前から少し険悪な雰囲気はあった。ほんの小さなすれ違いからはじまり、何度も繰り返したのち、昨日で大爆発してしまった。でも、原因も原因だ。あの子が、彼女がクラスメイトの悪口を何度も話していたのだ。
私はその仲間に入りたくなくて適当に流していたのだが、彼女はこの行動が気に入らなかったようだ。同じことを言うように何度も『かのんもそう思うでしょ?』と圧力をかけられた。言い返す勇気もなかった私は今まで黙っていたのだが、昨日の放課後に言ってしまった。
『悪口言っていて楽しい? 私はもう一緒にいたくない』と。
すると、どうだろうか。みるみるうちに態度と形相が変わり、『あっそ。二度と話しかけないわ』と言われた。はじめのうちは間違ったことをしていないと、自信を持って言えた。でも、時間が過ぎ、彼女たちの行動を見るたびに自信がなくなってきた。
彼女のあの顔を思い出す度に足がすくむ。学校に行けばあの子がいる。そう思うだけで、私の心はどんどん重くなっていった。
「……花音ちゃんなら、どうしたのかな」
毛布の隙間から落ちたままのクッションが見えた。今日の塾の授業で聞こうと思っていたことがいっぱいあった。少ししか花音ちゃんのことを聞いていないのに、思ったよりも感情移入している私。
いつも『あの子ならどうしたのかな』と考えてしまう。どうにかして解決方法を見つけたいから、そんなことを考えてしまうのかな。
頭の中にあった学校の出来事は霧がかかったように見えなくなり、あっという間に花音ちゃんのことで頭がいっぱいになった。ふと、先生が言っていた花音ちゃんの推しが気になった。
ボーカロイドが、好きだって言っていたような。
その世界はよく知らないけど、何となく音楽の仲間ってことは聞いたことあった。あの子が『ボーカロイドって気持ち悪いよね』と言っていたから。
「うっ……お腹、痛い……」
ギュッと締められたお腹を摩る。トイレに行ってもこの痛みは何も変わらない。昨日の夜、何度も部屋とトイレの往復をしたから分かる。ボーカロイド。ちょっとだけ、調べてみようかな。
枕の近くに置かれていたスマホを手に取り、自分の世界へと取り込む。明るい画面が表示され、有名な動画サイトを開く。検索する欄をタップして『ボーカロイド』と調べた。すると、数多の動画が表示された。
「こんなにも、あるんだ」
下へ下へとスクロールした。無限に出てくる動画の中には、スーパーや街中で聞いたことのある題名もあった。これも、あれも全部、ボーカロイドだったんだ。
知らなかった。こんな世界が世の中にはあるんだ。じっと見ていると、その中で気になったサムネの動画が一つ。真っ白な画面に文字がつらつらと書かれている。聞くかどうか、数秒だけ悩んだ。まぁ聞くだけだし、と思いながら近くにあるイヤホンを耳につけた。接続されたことを確認し動画をタップ。瞬間、私は瞬きができなくなった。
「……すごい。これが、ボーカロイド」
彼女が愛した世界は現実の世界よりも色鮮やかで、綺麗な声が響き渡っていた。タイトルからして暗そうだな、と思ったのが間違いだったようだ。声だけではない、聞こえてくる歌詞にも惹き込まれるようにじっと見つめる。
「いいなぁ……私も、こんな音楽を作ってみたい」
ぽろっと溢れた心の声は、小さな世界に吸い込まれていった。夢中になって聞いていると、動画の再生が終了した。投稿された日付を見たら、もう何年も前の動画だった。だが、今でも再生回数は伸びているようで、コメントも数日前に書き込まれたものもある。
試しにタップして開いてみると、ズラッと並んだ言葉の数々。一番上からスクロールしていく。書かれている内容は、『死にたくても死ねない時に聞いています』とか『学校に行けなくても、生きているだけで偉いと思う』など、様々なことが書かれていた。
私だけが、救われているわけではないんだ。誰かが作った曲が、誰かの生きる糧となっている。どれだけ下へ下へ動かしても止まらない人々の言葉を見ていると、ノック音が聞こえた。反射的にスマホを枕の下へ隠す。
「かのん。ゼリーとか色々買ってきたから。良かったら食べて。お母さん、パートに行ってくるからね。塾は帰ってきてから聞くから」
行ってくるね、と声が聞かれた後、ガサガサとビニール袋の擦れる音が聞こえた。すぐ後に階段を降りる音が聞こえ、バタンと玄関の扉が閉まる音の後は静けさだけが残った。
何も音がしなくなったのでヒョコッと布団から顔を出す。ドアの方を見ると、私が投げたクッションがポツリと落ちたまま。のそのそと体を動かし、クッションを拾いに行く。
ギィっと音を立ててゆっくりとドアを開けると、すぐ横にビニール袋が置かれていた。そっと手を出して取り、すぐに扉を閉める。ベッドの上に座り中身を見ると、袋いっぱいのお菓子、ゼリー、飲み物のジュースが入っていた。
「……私が好きなものばかりじゃん」
ポロポロと、雫がビニール袋に落ちた。いつだってお母さんは、私の味方でいてくれる。何も言わずに悩んでいる時も、成績が伸び悩んでいる時も、いつだって黙って見守ってくれていた。百パーセント味方でいてくれる人なんて、人生で何人会えるか分からないのに。
私は、わがままだ。
しゃくりあげながら袋のゼリーを手に取り、一緒に入っていたスプーンを取り出す。ぺりっとめくったフタを机の上に置き、スプーンで一口食べてまた涙が溢れた。ほんのりと甘い、フルーツの味。
花音ちゃんは、こんなことをしてくれる人がいたのだろうか。寄り添って、傷口に触れることなく包み込んでくれる人がいたのだろうか。そんなことを考えながら、ひたすら口の中にゼリーを運んでいた。
パチっと目が覚めた時には、涙が止まって乾いていた。ゼリーをたらふく食べた私はいつの間にかベッドの上で寝ていたらしい。ゆっくりと起き上がって、周りを見渡す。ほぼ寝落ちしたような状態で、空になったゼリーの容器が机の上にいくつも散乱していた。
「今、何時……? え、あと一時間で塾あるじゃん!」
寝ぼけていた頭が冴え、思わず大きな声を出してしまった。ぐっすり寝たからなのか、頭の中がスッキリしている。泣いた時にモヤモヤがそのまま流れたのかも。そんなことを考えながら近くに脱ぎ捨てられていた服に着替える。塾専用のカバンにテキストとノート、筆箱を入れているとノック音が聞こえた。
「かのん、起きた?」
「うん。ごめん、ずっと寝てた」
「まあ、そんな時もあるわよ。で、塾はどうする?」
「塾は行く。だから、ちょっと待ってて!」
朝とは違う大きな声で話すと、お母さんは「分かったわよ」と心なしか嬉しそうな声をしていた。また後で、謝らないと。自分のことだけ考えていたらダメだ。どう謝るべきかと、一人で考えながら準備を終え塾へと向かった。
車の中は、少し気まずかった。いや、少しではない。正直かなり気まずい。どのタイミングで謝ろうかと考えて数十分。いつも流しているラジオが、私とお母さんの沈黙をどうにか繋げてくれていた。車が、少しずつスピードを落としていく。塾に到着する合図だ。
「ほら、着いたわよ。頑張ってね」
ピタッと塾の前で車が止まり、ハザードランプを付ける。いつもならすぐ降りるけど、まだごめんなさいを伝えていない。カチカチと音が鳴り響く。ギュッと拳を握り、ガチャっと少しだけドアを開けた。
「……お母さん」
「ん?」
「いつも、ありがとう。あと、今日はごめんなさい」
「え」
「じゃ、行ってくるね」
バタンと勢いよく閉めて、私は塾に向かって走った。後ろで何か言われた気がしたけど、くすぐったくなって聞きたくなかった。素直に感謝の気持ちを言えたのはいつぶりだろう、恥ずかしさのまま勢いでバンっといつもより激しく塾のドアを開けると、目を大きく見開いた山上先生がいた。
「あらら、今日は元気だねぇ。何かあったの?」
「んー……別に! ちょっとだけ、花音ちゃんの気持ちが分かったかなって!」
「あら、それはいいじゃない。じゃ、部屋に行こうか」
先生は視線をいつもの個室へ動かした。私は頷き、急いで靴を片付けて先生の後をついて行く。私の目が腫れていることに何も言わない先生は、なんとなく察しているのだろうか。花音ちゃんの話を聞いている時にも、先生は心の中と頭の中でいっぱい考えていると思った。その子にとって何か最善なのか、必死で考えていたのだろう。
「最近、新しいペン買ったの!」と嬉しそうに話す先生。キュッと一つに結ばれ、揺れている黒髪を追いかけた。ガラッと開いた教室に私も続けて入る。
「えーっと、今日も英単語テストしようかな。あ、あと宿題も見せてね!」
「先生、気が早いよ。一個ずつ見せるからちょっと待って!」
私がカバンの中を探っていると、「え、ない」と先生の声。筆箱の中身を見ながら、「あれ、あれ?」と何かを探している。先ほど、今日のために新しくペンを買ってきたと話していたのだが、無くしてしまったのだろうか。意外とうっかりさんだよなぁ、先生って。
揺れ動く黒髪をじっと見つめながら、「ねぇ、先生」と声をかけた。
「んー? あ、もうちょっと待ってね」
「いや、それは別にいいんだけどさ。あのね、私、ボーカロイドで曲を作りたい」
ピタッと先生の体が止まった。スロー再生されたかのようにゆっくりと私の方を見た。あれ、何か変なことを言ってしまったのだろうか。ふと学校の彼女とのやりとりが頭の中で駆け巡った。
「それは、自分で目標を見つけたってこと?」
「う、うん。だめ、だったかな」
先生の視線が筆箱から上がり、私の顔を真っ直ぐじっと見つめる。
「全然ダメじゃないよ。きっと何かきっかけがあったんでしょう?」
「まあ、うん。ちょっとボーカロイドのこと調べたら、衝撃を受けたんだ。私もこの人たちのように曲を作ってみたいって」
花音ちゃんの影響を受けたとは、言いにくかった。きっと先生は私が影響を受けたと言っても何も言わなかっただろう。でも、なんとなく、言えなかった。
何が必要なのか、今から何をするべきなのか、ほとんど知らない。思いつきと言われても仕方ないだろう。たった一回見ただけ。それでも私は、作りたいと思ってしまったから。
「そっか。それなら、今から必要なことを学ぶために勉強しよう。歌詞を書くなら国語力も試される。他にも機械を扱うから数学も理科も必要だね。社会情勢も知っていた方がいいよ。それから……」
「ちょ、先生待って!」
「ん? あ、今日は普通に数学の授業をするよ」
カチカチと、ボールペンのノック音が響く。
「そうじゃなくて! その、馬鹿にしないの?」
「馬鹿に? 何を?」
「え、ボーカロイドで曲を作りたいって、私が言ってこと」
「するわけないじゃん。何か目標を持つことはいいことだよ。それが誰の影響でもね」
パチン、とウインクをした先生。あ、もしかして花音ちゃんから影響を受けたことバレたかも。先に言えば良かったかな、と数分前の自分の行動を後悔した。それでも何も言わずに今からするべきことを教えてくれる先生は、きっとあの子にとっても最高の先生だったに違いない。
「あの、花音ちゃんは、どうだった?」
「んー? あぁ、あの子? そうだなぁ。受験の時が一番大変だったかも」
ははっと笑っている先生は、口端が引き攣っていた。上手く笑えていない。こんな表情をする先生は、珍しい。山上先生が大変だったと言うのなら、きっと並々ならぬ事情が満載だったに違いない。もう少し詳しく聞こうと思ったら、いつの間に作ったのか分からない英単語テストを差し出された。
「ほら、これ解いて。話はそれからだよ」
「えー仕方ないなぁ」
「仕方ないって何よ。ボーカロイドは日本語だけじゃないんだからね。英語も分かってないとダメだよ」
「はーい」
頑張ると言った建前上、真剣に取り組むしかない。山上先生の、勉強に対する切り替えの速さは、この塾で一番だと言っても過言ではないと思っている。コツコツと机の上を叩き、交換で差し出した私の宿題を見始めた。結局ペンは見つからなかったようで、仕方なくいつものペンを使用しているようだ。
「そんなに花音ちゃんのことが気になる?」
「え? ま、まぁ、そうかな。同じ名前だし。それに、あそこまで話聞いていたら気になるじゃん」
「あーそれもそっか。でもさ、結末がハッピーエンドではない話でも、いいの?」
先生は、チラッとこちらを見た。突然そんなことを言われた私の反応を見ている、と言うよりかは少し挑発しているような感じ。馬鹿にしているとかではなく、暗に『本当に聞くのか?』と魔王が勇者に問い正すような。
私は一瞬目が泳ぎ、手が止まった。しかし、ここで引き下がるわけにはいかないと思い、静かに頷いた。
「じゃあ、今日はあの子がどうなったのか、話そうか。来週は塾、休みだしね」
コツコツと、机に貼り付けられているカレンダーを指す。そこには『通常授業はお休みです』と書かれた日付。休みの日を確認した私は、大きく頷いた。
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