第10話
海外に行くより旅費は安上がりだからと奮発して買った自走式のキャリーケースは思ったより不便で、ちょっとした段差すら自力で乗り越えられないため、その度に持ち上げてやる必要がある。一週間分の荷物が入っているせいもあるだろうが、これがまた重くて敵わない。近頃は随分バリアフリーも進んだとはいえ、もし階段しかない所に出会したらと思うと、今から気が気ではなかった。
「あ、待って待って」
音声認識機能も付いていないキャリーケースに向かって、思わず雨音は呼びかけた。
これもよくあるのだ。このタイプの自走式キャリーケースは特殊なカメラで持ち主を認識して追跡しているそうだが、何かの拍子に照準が狂い、他の人について行こうとする。
晴人が左手を伸ばし、逃げるキャリーケースを捕まえた。その薬指には、プラチナのリングが光っている。
「ごめん、ありがとう」雨音は礼を言いながら、キャリーケースを受け取った。「やっぱり、空港とか人の多い場所ではちゃんと持ってないと駄目だね」
晴人の方を振り返ると、彼の視線はどこか遠くの方をきょろきょろと彷徨っている。そして、携帯端末をポケットから取り出して、仕舞って、また取り出してを繰り返した。
「晴人? どうかした?」
ふん、と彼はふにゃりとした相槌らしきものを口にしたが、その脳には雨音の言葉は届いていない様子だった。
「晴人? 晴人ってば!」
晴人の背中を叩くと、彼は「うわあ!」と声を上げて飛び上がった。
「ちょっと晴人、どうかしたの? なんか変だよ」
「いや」彼は小刻みに首を振った。「なんでもないよ。ぼーっとしてただけ」
「ぼーっとしてたっていうか、困ってるように見えたけど。あ、もしかして忘れ物?」
「いや、違う」
「じゃあ、仕事のトラブルとか?」
「なんでもないってば!」
突然声を荒らげた晴人に、雨音は思わず仰け反ってしまう。彼はすぐにはっとして、「ああ、ごめん」と言った。
「ねえ、雨音」
「何よ」どぎまぎしながら返事をする。
「あのさ、どこか体調悪くない?」
「なんでよ。見ての通り、元気ですけど」
「頭痛いとか? それとも腹痛? あ、薬あるから、飲んで」
「待ってよ」ボディバッグを漁ろうとする晴人の手首を掴んだ。「一体なんなの?」
「いや。だって、ほら」
晴人が後方に首を捻り、視線を窓の外に向けた。東京中央国際空港から青空へ飛び立つ飛行機の姿が見えた。
「今日、すごく晴れてるから。雨音、どこか悪いのかと思って」
「何よ、人を雨女みたいに」
「雨女だよ、君は」
「私が出掛けるからって百パーセント雨が降るわけじゃないの」
「新婚旅行だよ? そんな一大イベントで降らないわけがない」
「晴人の晴れ男が勝ったってことでしょ」
「ありえないよ! 今までの戦績、覚えてないの?」
「知らないよそんなの。でも、晴れた日だってたくさんあった」
「そりゃあ、雨だって三六五日毎日降るわけには行かないからね。水族館や映画にちょっとした食事、雨でも差し支えない日は晴れてたよ。でも、山も海も花見も花火も、全部雨だった」
「遊園地に行った日は晴れてた」
「あの日君は風邪を引いていた」
「だったらなんなのよ。もう、いい加減にして!」
初めは晴人の様子を心配していたが、今はもう苛立ちしか感じていなかった。雨音たちを追い越していく人々がじろじろと不審そうな視線をこちらに向けているのに気付き、知らず知らずのうちに声が大きくなっていたことを自覚した。
遠くの方で、指でどこかを指し示す人の仕草が目に入った。彼の人差し指の延長線上に雨音たちの姿があったかは定かではないが、「見てごらん、カップルが痴話喧嘩をしているよ」と笑われているような気分になり、雨音は自分の顔が熱くなるのを感じた。
せっかくの新婚旅行の日に、何をくだらないことで揉めているのか。雨音は冷静さを取り戻そうと、ひとつ、深呼吸をした。頭に上った熱を、胸に、腹の底に、足先に、押し下げていく。
「私は元気。心配いらない。晴れててラッキーだった。それでいいでしょ? 早く行こう。搭乗手続き遅れちゃう」
キャリーケースを引いて歩き出そうとする雨音の腕を、晴人が掴んだ。
「痛っ! ちょっと」
何するのよ。ふざけないでよ。いい加減にして。
晴人を非難する言葉がいくつも浮かんだが、振り返って彼の顔を見上げた瞬間、それらは全て消えてしまった。
「晴人?」
彼の様子は明らかにおかしい。顔は青褪め、視線は定まらず、よく見れば目の下には隈もできている。新婚旅行に浮かれるあまり、大事な婚約者がこんな顔をしていることに、雨音は気付きもしなかった。
「駄目だ」震える唇からぽつりと零れ落ちるように、晴人はつぶやいた。
「駄目って、何が?」
「飛行機に乗っては駄目だ」
「どうして?」
「君を巻き込みたくないんだ!」
晴人の声が大きくなる。周囲の視線が再び二人に集まり始めた。
「ねえ晴人お願いだから静かにして。巻き込むって何?」
「いや、違う。僕はもうとっくに君を巻き込んでいる。でもこれ以上は駄目だ。絶対に駄目だ」
「だから何が」
「この飛行機は墜落する! だから乗っちゃ駄目だ!」
ターミナルを賑わせていた乗客たちの楽しげな話し声が、瞬時にどよめきに変わった。無数の視線が不審そうにこちらに向けられたのが分かる。
「そんなこと大きな声で言わないで!」晴人の胸に縋りつき、潜めた声で言う。「一体何がどうしたっていうの?」
晴人は観念したように首を振り、震える声を絞り出した。「夢を見るんだ」
「夢?」話の方向性が掴めない。
「毎日毎日、同じ夢を。飛行機が爆発して、山に落ちて、火事が起きて、大変なことになる。何千人もの人が命を落とし、何万人もの人が住む場所を失う、そういう夢だ」
「晴人、もしかして飛行機が怖いの? だからそんな夢を」
「違う! これはただの夢じゃない。君だってよく知っているはずだ」
「なんのことよ。あなたの夢の話なんて知るわけないじゃない」
「違う。これは、予知夢だ」
「は? 予知夢なんて」
ありえない。馬鹿なこと言わないで。そう言いかけた。
ありえない? どうして。私のすぐ側にも、ほとんど百パーセントの精度で的中する予知能力を持つ人が、いるではないか。
川端未来。彼女の予知能力が本物であることは、とうの昔に受け入れていた。なのに雨音は、彼女以外にも予知能力者が存在する可能性については、考えたことすらなかったのだ。
「まさか。あなたも?」
晴人は静かに頷いた。「僕も川端さんと同じ、予知能力者だ。いや、同じというのは違うな。僕は彼女ほど精度の高い予知はできない。でも、そんな僕でも断言できる。これは、確実に起こる未来だ」
開いた口が塞がらなかった。自分が正しく呼吸をできているかも定かではなかった。私は一体、なんの告白をされているのだろう。
「僕たちの職場は、本当は気象会社なんかじゃない。『未来予知研究機構』。その名の通り、未来予知について研究を行う、私立の研究機関だ。未来予知については、やっと観測の体制が整ってきた段階で、その原理の科学的解明はまだ少しも進んでいないのが現状だ。だから、僕らの立場は弱い。どれだけ悲惨な未来を予見することができても、僕らの主張を信じてもらうことは困難で、飛行機の一本の運行も止めることができない。航空会社や行政に掛け合って、散々手を尽くしたけど、駄目だった」
嫌な予感がした。その続きを聞きたくないと思った。だが雨音は、一歩も動くことができなかった。呆然と立ち尽くす雨音を苦しげな表情で見下ろしながら、無慈悲にも彼は続きを話してしまう。
「だから、君を頼ったんだ。大切な日に大雨を引き起こす君の力を、当てにした。新婚旅行という君の人生の一大イベントをぶつけて、飛行機も飛べないくらいの嵐を、君に起こしてもらおうとした」
「やめて!」
雨音はその場にしゃがみ込んだ。晴人はそれに寄り添うように、床に膝を突いて視線を合わせてくれる。
やめて。そんな優しさ、いらない。やめて。それ以上言わないで。
「君との関係は、最初から全部嘘だったんだ。初めてその予知が観測された一年前から色んな作戦が同時進行して、君もそのうちの一つだった。他の作戦が上手く行ってくれれば、君とは適当なところで別れる予定だった。でも全部駄目だった。だから、ここまで来てしまった」
頭が真っ白だった。言っている意味が少しも理解できなかった。なのに心はぐちゃぐちゃになっていて、涙がぼろぼろと零れ落ちている。
顔を覆う雨音の両手をそっと引き剥がし、晴人はそれを柔らかく握った。その冷たい左手の薬指には、残酷なほど美しく磨き上げられたプラチナが光っている。
「雨音。謝って済むことじゃないのは分かってる。許してくれる必要はない。でも僕には謝ることしかできないから、謝ることは僕にしかできないから、ちゃんと謝らせてほしい。今までずっと騙していてごめん」
晴人は目にいっぱいに涙を溜めていた。しかし泣いていい立場ではないと思っているのか、それを零すまいと必死で堪えているように見えた。
「雨音。今から僕のことは、赤の他人だと思ってほしい。僕との関係を訊かれることもあるかもしれないけど、『何も知らない』で押し通せばいいから」
いつの間にか、晴人の震えは止まっている。雨音を置いて立ち上がったその足取りも、力強かった。
「晴人? どこに行くの? 何をするつもり?」
晴人はふわりと笑ってみせた。それは、どこか諦めの滲んだ、さっぱりとした笑顔だった。
「思えば、最初からこうすればよかったんだ。君を傷つける必要なんてなかった」
「晴人?」
「僕はきっと、大きな罪に問われることになると思う。でもそれで多くの命が救われるなら安いもんだ。勝手な解釈だけど、君への罪滅ぼしにもちょうどいいし」
「晴人」
「結局雨は降らなかった。でも、飛行機を止めるのは、もっと強引な手段だってよかったんだ。僕一人でも、未来を変えてみせるよ」
「晴人!」
晴人はくるりと雨音に背を向け、軽やかに駆け出した。その右手には、どこから出したのか、どうしてそんな物を用意していたのか、真新しい包丁が握られている。あんな物で、一体何をどうするつもりなのか。
「晴人! 待って! 行かないで!」
その瞬間のことだった。
強い閃光が、雨音の視界を奪った。一瞬遅れて爆撃のような轟音が響く。思わず固く目を閉じると、あちこちで甲高い悲鳴が起こり、そこに低くどよめく声が混ざり始める。
雨音は恐る恐る目を開けた。すると、そこにある光景は、つい先程までとは様変わりしていた。
視界が全体に薄暗い。時刻表や案内に広告、フロア内にあるあらゆるモニターが、真っ黒い画面を映している。切迫した様子で指示を交わす空港スタッフたちの姿が見える。駆け出したはずの晴人は、雨音の目の前で突っ立ったまま身体を捻り、窓の外を見つめていた。
「何? 停電? 雷?」
空はストロボのようにビカビカと光り、その度にゴロゴロと凶暴な獣のような恐ろしい唸り声を上げている。
ピシャン! と閃光が走り、ドカン! と空を叩き割ったような激しい音が鳴った。直後、ごおん。と、どこか遠くで鈍い音が響いた。
それが風の音か雨の音か、雨音には分からなかったが、次の瞬間には、見ているだけで息が苦しくなりそうなほどの大量の水が、空から降り注いでいた。
ごうごう、どうどうと、飛び立とうとする飛行機を地面へ押し戻す水圧の音が、窓越しに聞こえる。
「雨だ」
晴人がへたり込むように、膝から崩れ落ちた。
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