第9話

 風呂から上がると、リビングから晴人の声が聞こえる。どうやら仕事の電話をしているようで、「経費で落ちませんか」とか「そこをなんとか」とか、何かを頼み込んでいる様子だった。邪魔をしては悪いので、雨音は先に寝室に行くことにする。

 ベッドに横になると、いつもより強く重力を感じる。喉が痛いのは昼間結衣と五時間も話し込んだせいだと思っていたが、どうやら風邪を引いてしまったらしい。うっすらと寒気までしてきた。

 熱もあるのかもしれない。測った方がいいだろうか。いや、測らなければ熱なんてないことになるだろうか。でもやはり気になるから測っておこうか。

 そうこうするうちに、ガチャリとドアが開き、晴人が部屋に入ってきた。

「あれ、お風呂上がってたんだ」

 晴人がベッドに腰を下ろす。うん、と答える雨音の声は、喉のあたりで引っかかり、少し掠れている。

「最近仕事忙しそうだね」

 雨音が言うと、「あっ、電話聞こえてた?」と晴人は目を泳がせた。

 どうして動揺するんだろう。聞かれちゃまずい機密情報だったのかなと思い、「大丈夫だよ」と答える。「話し声が聞こえただけ。内容はよく分からなかったから」

 すると晴人はほっとしたような顔になり、「そう。ちょっと、大きなプロジェクトが大詰めでね」と説明した。

 晴人が掛け布団を捲り、その中に入ってくる。雨音の体温で温まった部分が晴人に奪われ、代わりに二人の間に冷たい空気が侵入する。

「雨音、あのさ」横になったまま雨音の方を向き、晴人はおずおずと言った。「ごめんね。指輪のこと」

 ずしりと重たく湿った靄のようなものが、胸の中に満ちていく。心の底から申し訳なさそうな晴人の表情が、雨音をまた苛立たせた。

 晴人は少しも悪くないと思う。でも今は彼を安心させるために明るく振る舞うほどの余裕はないから、そんな顔をしないでほしいのだ。

 べキリーブルーガーネット。雨音が魅了されたあの宝石は、ある程度の覚悟はしていたものの、そんな生ぬるい覚悟を遥かに上回る高額であり、とてもじゃないが手が出なかった。

 そう、『とても』ではなかったのだ。とても手が出なかったのならば、いっそすっぱりと諦められたのかもしれない。その価格は、例えば雨音が半額支払うとか、晴人がローンを組むとかすれば手の届く範囲であったが、いずれも「そんなの格好悪い」と晴人が嫌がった。だからこそ、口惜しくて仕方がないのだ。

 そもそも晴人からプレゼントしてもらう前提のものだ。無理強いはできないし、わがままを言うつもりもない。晴人は悪くないと、心から思っている。ただ雨音が、あの宝石への憧れを上手く断ち切れないだけだ。

 あの宝石を使うことが難しくなった以上、どんな素敵なデザインの指輪でも心は満たされない気がして、結局婚約指輪を作るのはやめてしまった。代わりに五年目の結婚記念日にはお金を貯めて、あの宝石の入った指輪をプレゼントしてくれると晴人は言ってくれたが、稀少な石がその時にまた入荷する保証はどこにもない。

「もう、何度も謝らないでよ」今できる最大限の明るさをもって言った。何度も許さなきゃいけなくなるじゃない、という意地の悪いひと言は、なんとか飲み込むことができた。

「うん、ごめん。あっ、ごめん、今のは違くて。あ、また言っちゃった」

「もう、いいから」

 おどおどしながら自分の発言に混乱する晴人の様子はおかしいはずなのに、乾いた笑いしか出てこない。

 雨音の不機嫌を察してはいるのか、晴人は不自然な明るさで、取り繕うように話題を変える。

「そういえば、新婚旅行の日程、この間話した通りで決まりそうだよ」

「そう、よかった」

「それで、行き先はやっぱり沖縄がいいんだけど、どうかな」

「うん。いいんじゃない」

 本当は海外に行きたかったが、新婚旅行先で婚姻届を出す予定なのだから、国内でなければならないのは仕方ないことだ。沖縄だって好きだし我慢しよう。

「当日の予定、一旦僕の方で組んでみてもいい? チケットとかホテルとか、押さえとくから」

 晴人は日頃、自分の主張はあまり強くしない方だが、新婚旅行に関してはやたらと積極的に仕切ろうとする。何がきっかけなのかは結局聞けていないが、よほど強い憧れがあるのだろうか。

「好きにしなよ。憧れだったんでしょ」

 私の憧れは叶えてくれなかったくせにね。という言葉が喉元まで出かかった。喉が痛くてよかった。このいがいがとした不快な引っかかりがなければ、そのままするりと出てしまっていたかもしれない。

 ああ、私はいつもこうだ。晴人と初めて対決したあの日も、勝手に募らせた期待を裏切られた気になって、その苛立ちを彼にぶつけていた。晴人は何も悪くない。悪いのは潔く諦められない自分なのに、そんなことをしてはいけない。

 こんな気持ちになるのは、きっと体調が悪いからだ。早く眠ってしまおうと、晴人に背を向けようとした。だがその時、晴人の手が伸びてきて、雨音の額の上に置かれた。

「雨音、もしかして熱あるんじゃない? 顔赤いし、声も少し変だよ」

 晴人は身体を起こし、サイドテーブルの引き出しを開けた。そこから体温計を取り出す。が、電池が切れているようで、ボタンを押してもうんともすんとも言わない。

「いいよ」雨音は言った。「もう寝ちゃうから」

「そう?」と晴人は首を傾ける。そして、何かを閃いたように「あ、じゃあ」と言った。

 晴人は枕元にあった携帯端末を手に取り、何やら操作を始めた。しばらくその様子を眺めていると、スピーカーからじゃあじゃあという水流のような音が聞こえ始める。

「え、何?」晴人の意図が分からず、雨音は眉を顰めた。

「雨の音、なんだけど」

「雨?」そんな音、これまでの人生で嫌というほど聞いている。

「ほら、お義母さんが話してくれたでしょ」先週、雨音の両親に結婚の報告に行った時のことについて、晴人は語った。「雨音は雨に祝福されてる。生まれた日にも酷い雨が降ってたから、雨の日には安心してよく眠るんだって」

 それは雨音の母が、結婚式の日もきっと雨が降るだろうから、間違ってもガーデンウェディングにはしないように、という文脈で話していたことだ。

「だから、雨の音を流したら、ぐっすり眠れて風邪もすぐに治るかなって思ったんだけど」

 そんなくだらないことを澄んだ目で言う晴人に、ふふ、と苦い笑いが漏れる。

「馬鹿だなあ」

 いつもなら愛おしいとすら思えるその的外れの優しさが、今は腹立たしくて仕方がないというのに。

 そんなことを思いながら、雨音の意識は雨の音の中に沈んでいった。

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