第7話

 高尾山周辺も例に漏れず震災後に再開発がなされており、麓にあるこの駅も『高尾山口』という名称は引き継いでいるものの、厳密には以前とは違う場所にあるそうだ。有名な建築家がデザインしたらしいかつての駅舎も地盤が変形してしまったことにより泣く泣く取り壊され、数年前、新たに商業施設を兼ねた広大な駅ビルが建てられた。

 晴人に案内されたのは、その一角にあるレストランだ。人気店なのか、まだ開店直後だというのに店の前に行列ができていたが、晴人はそれを追い越して中に入っていった。

 このレストラン、北海道では有名はチェーンなんだけど、本州に出店したのはこの店舗が初で、すごく話題になってるんだ。北海道だって今時行こうと思えばすぐに行けるのに、身近な場所にできたのが嬉しいんだろうね。オープンから一年近くも経ったのに未だにすごい賑わいで、予約取るのも大変なんだって。人気のメニューは『北海道和牛のやみつきハンバーグプレート』だけど、まだお腹空いてないかな? 今の時間ならモーニングセットもあるし、軽食やスイーツも色々あるみたいだよ。あ、表にポスター出てた、季節限定の『えびすかぼちゃのモンブランパフェ』。あれ美味しそうだったよね。

「ちょっと待って」

 席に着くなりペラペラと店の解説を始めた晴人を制止した。

「この店、予約してたってこと?」

 晴れていたら今頃山に登っていたはずなのに、どうしてレストランの予約なんてしてあるのか。晴人は勝負に勝つ気がなかったのかと、なんとか収めた苛立ちがまたふつふつと沸き上がりそうになる。

 すると晴人は、あー、と間延びした声を発した。同じタイミングで店員が水とメニューを運んできて、この店は配膳ロボットを使わないんだね、今時珍しいね、などと言いだして、話を逸らすにしてももう少し上手くできないものかと思ってしまう。

 雨音の不審な眼差しに気付いたのか、晴人はあーとかうーとか呻き声を上げた。ぐしゃぐしゃっと頭を掻き、観念したように口を開く。

「はあー、やっぱり向いてないなあ、こういうの。本当はもっと格好良くエスコートする予定だったんだけど。このお店はね、川端さんが予約しておいてくれたんだよ」

「えっ、未来が?」

 予想外の言葉に意表を突かれ、ぷしゅう、と毒気を抜かれてしまったような思いがする。疑問が苛立ちを食べてしまったように、怒りの感情が消えていった。

「どうして未来が予約なんか」

「『山岸君の晴れ男の程度は分からないけど、少なくとも初回は絶対あなたが負ける。何故なら雨音はものすごく晴れに飢えてて、きっととても楽しみにしてるから。雨でがっかりさせるだけじゃ可哀想だから、美味しいものでもご馳走して、少しは楽しい思い出を作ってあげて』ってさ」

 普通に説明すればいいのに、何故か未来の喋り方を真似た晴人がおかしくて、雨音は思わず噴き出した。ほとんど初対面の人を笑うなんて失礼だと思えば思うほど、笑いを止めるのが難しくなる。

「ちょっと、なんで笑うの」

「だって」

 まだ腹の底で活き良くびちびちと跳ねようとする笑いを無理やり押し殺し、雨音は涙を拭った。

「今の、未来のモノマネ?」

「そうだよ。似てた?」

「微妙に」

「微妙かあ」

 晴人はさりげなくメニューを手に取り、雨音の方に向けて開いて置いた。またしても、紙のメニューなんて久しぶりに見たな、今時珍しいね、などとどうでもいい感想を述べる。

「だからさ。実は今日、雨が降って少し安心したんだよね」

 安心? と聞き返すと、こくりと頷き、晴人は続けた。

「本当に楽しみにしてくれてたんだなって。ほら、今朝家を出た時はまだ晴れてたから、少し不安だったんだけど」

「私はむしろ、今朝はまだ晴れてたから、ぬか喜びしちゃいましたけどね」

 朝一番から降ってくれていればまだよかったものを、雨音たちが高尾山口駅に着いたその時も、太陽は燦々と照り続けていた。しかし、二人がケーブルカー乗り場に移動し、いざケーブルカーに乗り込まんとしたその瞬間、雨は降りだした。バケツどころかプールをひっくり返したような、助走なしの土砂降りだった。

「でもやっぱり、今回に限っては雨が降ってくれて助かったと思うよ。僕たちほとんど初対面なのにいきなり登山って、よく考えたらちょっとハードル高いし」

「それは」言われてみれば、全くその通りだ。「ごめんなさい。私、はしゃいじゃって」せっかくならかつて遠足で行きそびれた所に行ってみたいと言って高尾山を提案したのは、雨音の方だった。

「謝ることはないよ。僕だって『紅葉を見たい』なんて言って登山に同意したんだし」

「でも、紅葉はまだ少し先でしたね」

「麓の方はまだ真っ青だったね。だから、今日はこうなってむしろラッキーだったよ。ゆっくり話すこともできるし」

「雨が降ってラッキーなんて、初めて言われました」

「でも、次は負けないよ。三連敗じゃあ晴れ男の面目丸潰れだからね」

「それでも次からは傘くらい持って来てくださいね」生乾きでセットの崩れた晴人の前髪に視線を向ける。「ケーブルカー乗り場から駅まで五分走っただけで、ずぶ濡れじゃないですか。風邪引いちゃいますよ」

「それはさ」雨音の視線に気付いたのか、晴人は恥じらうように忙しなく前髪を撫でつけた。「だって、晴れ男として勝負してるのに傘を持って来るなんて、あまりに格好悪いじゃないか」

「格好つけなくていいですよ。私は最強の雨女なんですから」

「そうだね。次からはそうさせてもらうよ。雨音さんのすごさは思い知ったからね」

「えっ」

 雨音さん、と呼ばれたのが予想外で、思わず奇妙な声を上げてしまった。異性をいきなり下の名前で呼ぶなんて距離感の近い人なんだなと思うと同時に、今まで互いに名前を呼び合わなくても会話が成り立っていたことに驚く。

 少しの間、きょとんとした顔で静止していた晴人だったが、すぐにはっとして「あ! ごめん!」と言った。

「違う、ごめん! 下の名前で呼ぶなんて、馴れ馴れしかったよね。違うんだ。川端さんがいつも『雨音雨音』って言うから、つい」

「未来のことは『川端さん』なのに」

「それは、うちの職場は下の名前で呼び合うような雰囲気じゃないし。えっと、ごめんね。名字、この間も聞いたと思うんだけど、もう一度聞いてもいいかな」

 晴人の顔は、みるみるうちに赤くなっていく。慌てふためくその様子を見る限り、どうやら彼は『距離感の近い人』ではないらしい。

「いいですよ、『雨音』で」

 雨音がそう言うと、晴人はほっとしたような顔になり、少しだけ赤みも引いていった。

「え、いいの?」

「はい。ちょっと驚いちゃっただけですから」

「あ、そう? じゃあ、雨音さん」

「はい」

 ぎこちなく自分の名前を発音する彼の姿を見ていると、照れ臭くてこちらまで赤面してしまいそうだった。

「あの。私はなんと呼んだら?」

「『ハルト』でいいよ。一方的に名前で呼ぶのも、なんだか片想いみたいだし」

「じゃあ、晴人さん」雨音も負けじと、ぎこちない。

「『さん』もいらないけど」

「それはちょっと」

「ていうか、ずっと僕だけため口で喋ってるけど、雨音さんも敬語じゃなくていいからね。僕たち多分、同い年だし」

「え、そうなんですか?」何故だろう。晴人はてっきり歳上だと思い込んでいた。

「うん。雨音さん、川端さんと同級生なんでしょ? 僕も彼女と同期入社で、同い年」

「知らなかった」

「ついでに言うと、たしか地元も結構近いよ。川端さんとそういう話したの新入社員の頃だから、うろ覚えだけど」

 晴人が出身中学の名前を口にして、雨音は「え!」と声を上げた。

「真梨花と同じ中学だ!」

「あー、そうそう。共通の知人も何人かいたっけ。残念ながら僕は、その子とはあまり面識はないんだけど」

 話に花を咲かすとはこのことだ。そっちの中学に異動した先生がいるはずだとか、こっちの高校とは部活の合同練習をしたことがあるだとか、地元の駅前が様変わりしたこととか、そんな他愛のない会話が心地良かった。

「あ、いけない!」

 不意に晴人が声を上げた。

「僕たち、まだ注文してなかったね」

「あ、ほんとですね」

 ふと彼の顔を直視してしまい、そこに先程うっかり雨音の名前を呼んだ時の真っ赤な顔が重なった。思わず笑いが込み上げてしまう。

「ちょっと、なんで笑ってるの?」

「いえ。良い紅葉を見られたなって」

「高尾山は、まだ真っ青だったけど」訝るように眉を顰めながらも、晴人は尋ねる。「雨音さん、何頼むか決まってる?」

「はい」

「じゃあ、店員さん呼ぶね」

 言い終えるかどうかのうちに、晴人が呼び出しボタンを押し、ほとんど同時にピンポーンと電子音が鳴った。ボタンを押してから店員が来るまでの中途半端な間をちょうどよく埋められるほど二人の会話は熟練しておらず、ぎこちない時が流れる。

 お待たせしました、と店員がやって来ると、晴人はどうぞと促すように、雨音の方に手のひらを向けた。

「『北海道和牛のやみつきハンバーグプレート』を一つお願いします」

「えっ、そんなにがっつり行くの?」

「なんだかお腹すいちゃって。晴人さんは?」

「え」晴人は気まずそうに、おずおずと口を開いた。「『えびすかぼちゃのモンブランパフェ』」

「ふふふ」

「また笑った!」

「可愛いですね」

「パフェのことだよね?」

 あなたのことですよ、なんて言えるはずもないのだから、そんなこと聞かないでほしい。

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