第6話
久々に未来と会った二週間後、雨音たちは高尾山で途方に暮れていた。
正確に言えば山の中ではなくその麓の最寄駅であり、そして『たち』と言うからには雨音の他にもう一人はいるわけだ。
隣にいるその人を見る。雨音は背が低い方ではないが、それでも彼の顔を見るにはかなり上を見上げる形になる。髪はぺたりと額に張り付き、水を滴らせている。水色のシャツは、雨に濡れた染みが目立つ。
隣に立つ山岸晴人は、濡れた頭を照れ臭そうに掻きながらこう言った。
「あー、参ったな。今回は僕の完敗だ」
先日の未来の用件は、なるほどそれはおかしな話であり、「雨女と晴れ男で対決をしてみないか」という誘いだった。
「は?」と目を点にした雨音に対して、未来は説明を続けた。それはまるで練り上げられたプレゼンのように、流暢にだ。
「私、気象関係の会社に勤めてるんだけど。この間同僚との飲みの席で論争になったの。『雨女は実在するか』って」
気象関係の会社というのが具体的にどんなことをしているのかは分からないが、さすがは気象という科学を生業としている人たちであって、雨女の大半は認知の偏り、つまりは思い込みの類である、という主張が圧倒的優勢だったそうだ。
雨が降った、という事象は降らなかったことに比べて記憶に残りやすく、それが重要なイベントに何度か重なっただけでも『自分は雨女だ』と思ってしまう人がいるのだろう。さらに意識すればするほど雨が目につくようになり、雨女としての自覚を強めていくのだろう。中には実際にこれまでのライフイベントに高頻度で雨が重なった人もいるだろうが、それは単なる偶然の積み重ねであり、将来同程度の確率で雨に遭遇することを決定づけるものではない。本人に要因があるとするのは些か無理がある、と。まさに理路整然、にべもなし、といった具合だ。
しかし、ただ二人だけ、雨女の実在を頑なに主張し続けた者がいた。最強の雨女を友人に持つ未来と、自身が晴れ男だと自負する晴人だ。
「だって、晴れ男がいるなら、雨女もいなきゃおかしいでしょ?」
そう言いながら晴人は、飲みの席でも語ったという晴れ男エピソードを披露してくれた。
「僕は梅雨の真っ只中の六月生まれなんだけど、生まれてこの方、誕生日に雨が降ったことは一度もないんだ」
そんなまさか、と雨音は疑ったが、もちろん一日のどこかで降ったことはあったと思う、と晴人は補足した。
「僕が外に出る時には、不思議と雨は止んでるんだよね。何歳の時だったか忘れちゃったけど、バースデークーポンで映画を観に行った時は、行きも帰りも晴れてたのに、帰りは空に虹が出てたよ」
「うらやましい」
雨音は心の底からそう言った。雨宿りのためにカフェに入ればたちまち雨が上がり、ならば今のうちに早く帰らねばと急いでコーヒーを飲み干せば、店から一歩出た途端に雨が降りだす。普段からそんな日々を送っている雨音とは正反対ではないか。
「けど、雨女ほどパンチの効いたエピソードは持ってないよ」例の飲みの席で、未来が雨音の雨女伝説を語ったのだそうだ。「高温多湿の日本でも、雨より晴れの日の方がずっと多いわけだからね。晴れてる方が普通というか。雨に降られて困った経験がないっていうのはやっぱり運が良い方だとは思うけど」
「嘘。運動会や遠足の時も?」
「雨で中止になったことはないな」
「じゃあ、受験の時は?」
「よく晴れてたよ」
「信じられない」
大学入試の全国統一試験に関しては、雨音に限らず毎年雪が降るというジンクスのあるイベントだ。もちろん雨音が受けた年には雪ではなく雨が降ったわけだが、入試の日に悪天候を経験せずに済むなんて、なんと運の強いことかと雨音は驚愕した。
「でね、雨音と山岸君のエピソードを聞いて、その飲みの席にいる誰もがこう思ったわけよ。『対決させたらどっちが勝つんだろう』って」
「どんな飛躍してんのよ」
そこは飲みの席らしく、『雨女は実在するのか』という議論は結論に着地せぬまま行方をくらまし、代わりに『最強の雨女と稀代の晴れ男はどちらが強いのか』という話題にすり替わってしまったそうだ。なんととんでもない不時着か。楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り。ならぬ、楚人に雨女と晴男と云ふ者有り。だ。なお、ここは楚ではなく東京である。
「待って、未来たちの話ってまさか」そこまで聞いてようやく、雨音は未来の意図を理解することができたのだった。
「そう、そのまさかよ。雨女と晴れ男で対決してみない?」
なんだかんだと文句を言いながらも結局は未来の誘いに乗ったのは、自分の雨女よりも強い晴れ男がいるならお目にかかってみたいと思ったからだ。いつかハレの日に晴れた空を見てみたい、というのは、物心つくかつかないかの頃から雨音が抱いていた夢だった。自分より強い晴れ男に出会えたなら、そんな夢も叶うかもしれないと期待してしまったのだ。
それがこの結果じゃ世話ないなと、呆然と雨空を見上げる晴人を見ながら、心の中で溜め息をついた。未来の頼みでは、季節の影響もあるだろうから、できれば一年間、月一回くらいは対決を続けてほしいとのことだった。こんな虚しい思いをあと十一回も繰り返さなければならないと思うと、この空と同じような心模様になる。
「とりあえず、戦績は僕の一戦一敗ということで」
へらへらと笑う晴人に対して、「違いますよ」と鋭く切り返していた。自分でも驚くほど、冷たく刺々しい声色だった。
「二戦二勝です。私の」
勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになって、その失望感を自分で消化できずに八つ当たりのように人にぶつけるなんて、あまりに幼稚だ。
「ああ、そうか。この間も雨だったもんね。初めて会った日をカウントするなら、たしかに僕の二戦二敗だ」
しかし晴人は雨音の失礼な態度なんて気にも留めずに愉快そうに笑っていて、雨音は余計に惨めな気持ちになった。
駄目だ。自分の感情が上手くコントロールできない。これ以上嫌な態度を取ってしまう前に、早くこの場を去ろう。
「あの。今日は登山は無理そうですし、私もう帰りますね」
「あっ、待って」
晴人に手首を掴まれ、雨音は足を止めた。すぐに慌てて手を離し、身の潔白を訴えるような両手を上げたポーズで彼は言う。
「せっかくだから、一緒に食事でもどう?」
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