第5話
細長い三つ編みのヘアスタイルはさすがに変わったが、それ以外は何ひとつ変わっていない。真っ直ぐに切り揃えた前髪も、形の整った二重瞼も、以前のままだ。
高校を卒業して以来十年近くも顔を合わせていなかった川端未来から突然連絡が来た時にはほんの少し不安も過ったが、その変わらぬ姿に雨音は安堵した。
「私昨日、雨音に会う夢見たんだよね」
都内にある、小さなカフェ。その隅の方の席に腰を落ち着けた未来は、コーヒーに手を伸ばしながらそう言った。
「それって、今日のこと?」
同じく紅茶に口をつけながら、雨音が尋ねると、未来はうん、と頷く。
「でも、夢の中ではすごく良い天気でね、あそこのテラス席に座ってたよ」
「あはは。雨降らしちゃってごめんね」
窓の外では、ざんざんと景気良く雨が草木を潤している。何十年も前からこの場所で営業しているらしいこのカフェは、美しい庭を臨むテラス席が人気の店だった。
「いいよ。むしろ安心した」未来は穏やかな笑みを浮かべる。
「安心?」
「雨音、楽しみにしてくれてるんだなって。だって、来たくなかったら雨なんて降らないでしょ?」
「それは」そうだけど。「そういうのがばれちゃうのは、恥ずかしいなあ」
「それに、雨女は健在なんだなって、嬉しかったよ」
「私としては、こんな能力あったところで微塵も嬉しくないんだけどね。なんの役にも立たないし、むしろいい迷惑っていうか」
「そうかな。私さ、雨音はきっと、雨に護られてるんだと思うんだよね」
未来の言わんとするところを察し、胸の中に渋い思いが滲んでいくのを感じた。
「それ、十年前のこと言ってる?」
忘れもしない、高校二年生、修学旅行最終日。東京を震源とした巨大地震が起きたのは、未来の『緊急予知』から僅か数分後のことだった。後に『東京関東大震災』と名付けられるその地震は、現在の基準で震度十の規模に相当すると言われており、当時最新の耐震基準を満たしていた高層ビルを積み木の如く薙ぎ倒し、ビスケットの如く大地を割り、関東全域に甚大な被害をもたらした。
道路も鉄道も空港も、全てが破壊された東京に帰る術などなく、雨音たちは二週間近くも沖縄に留まることになった。沖縄の方は幸い、豪雨による被害は大したものではなく、滞在期間中、雨音たちは安全に過ごすことができたが、それでも生きた心地はしなかった。報道機関も通信会社も、東京に本社を構える主要企業は軒並み被災し、被災地の状況が全く入ってこなかったからだ。結局、沖縄を発つその日まで家族と連絡が取れなかった者も多く、雨音もその一人だった。
そんな風に関東を壊滅状態に陥れた巨大地震だったが、それでも人的被害は最小限に抑えられたと言われている。その要因は、『奇跡の誤報』と呼ばれている、地震が起きる五分前に発表された緊急地震速報にある。
あの夜、人々の携帯端末から警報が鳴り、多くの人が避難行動を取った。しかししばらく待っても揺れが来ずに首を傾げていたところ、先程の速報は職員の誤操作による誤報だったと発表された。そしてその直後、地震は起きた。
東京関東大震災は、震源が都心の直下だったため、本来の緊急地震速報は地震の発生に間に合わなかった。あの誤報がなければ人々は充分な避難行動を取ることができず、人的被害はさらに拡大していたかもしれない。
そして、その誤報の犯人は、未来の父だ。当時気象庁に勤めていた未来の父が、未来からの『緊急予知』の電話を受けて、独断で緊急地震速報を発表したのだそうだ。誰にも知られていないし、信じてもらえるはずもないが、未来の予知が多くの人の命を救ったのだ。
あれから十年。東京、そして関東は、目まぐるしい勢いで復興を遂げた。まるでただでは起きないとでも言わんばかりに、ここぞとばかりに都市計画を一からやり直し、一度更地になってしまった街がより住みやすく、より安全な都市へと進化した。新たに整備された交通網には最新技術が導入され、関東全域のどこからでも一時間以内で東京にアクセスすることができるようになった。その効果によって人口が分散した結果、都心の人口過密問題と周辺地域の過疎問題が同時に解消し、『首都圏』という言葉は概ね関東全域を指すように変化していった。
「たしかにあの豪雨がなければ、私たちは地震が起きた時に東京にいて、今頃どうなってたか分からないけどさ」
それでも雨音には、地震に遭わなくてラッキーなどとは、とても思えないのだ。
すると未来は、「それだけじゃなくて」と言った。
「もちろん、十年前のことは決定的だったけど。思い返してみれば、ずっと前からそういうことはあったと思うの。例えばほら、運動会の時とか」
「運動会は、毎年雨だったけど」それがどうして、雨に護られていることになるのか。
「毎年のことは分からないけど。小学四年生の時、私が見た予知のことは覚えてる?」
もちろん、と頷く。「今年の運動会は晴れる、って言ってたやつね」
「そうそう。『徒競走で雨音ちゃんが転ぶ』って話したと思うんだけど」
「え、そうだったっけ。それは覚えてなかったな」
「そうだったんだよ。つまりさ、雨音が転ぶのを防ぐために、雨が運動会を中止させたんじゃないかってこと」
「それはどうかな。ちょっと、こじつけが過ぎるというか」雨音は首を傾げる。「だって、その日中止になったところで、結局運動会は翌日に延期されるわけだし」
「でもさ。その年も延期はされたけど、トラックにはまだ水溜まりが残ってて、たしか徒競走は中止になったでしょ」
「あー、そうだったっけ。うーん、でもなあ。他の年も毎年転ぶ予定だったとは思えないし」
「それなんだけど」と未来は前のめりになった。「その次の年、五年生の時、雨音は運動会を休んだでしょ」
「最先端のインフルエンザでね」
「おかげで運動会はかんかん照りだったんだけど」
「おかげでって」
「でもそのせいで信じられないほど暑くて、何人か熱中症で倒れたの。救急搬送された子もいたし」
「嘘! 全然知らなかった」
「結構騒ぎになったんだけどね。雨音、一週間も休んでたから」
「騒ぎが静まった頃にのこのこ登校してきたわけね、私は」
「そういうこと。だからさ、他の年は、暑くなり過ぎないように雨が降ってたのかも」
うーん、と雨音は唸るほかなかった。
「それでもやっぱり、『雨に護られてる』なんて思えないよ。受験の時だって酷い目に遭ったし。それに」
雨音は言い淀み、紅茶を一口啜った。ゆっくりとカップをソーサーに置くと、カチャリと場違いに楽しげな音が鳴る。
「十年前のあの時、『被災したかった』なんて思うわけじゃないし、そんなこと口が裂けても言えないけど。でも私は、たとえ危険な目に遭ったとしても、あの時家族の側にいたかったよ」
未来の目が小さく見開かれた。すぐに眉尻を下げ、その瞳を逸らす。
「そうだよね。ごめん、私、軽率なこと言った」
その表情を見て、雨音はしまったな、と思う。気まずい思いをさせたかったわけではない。
「それにほら、『雨が降ると嫌だから』って、結衣の結婚式にも呼んでもらえなかったし。雨女なんて良いことないって」
空気を明るくしたくて冗談めかして言ったつもりだったが、未来の眉はますます下がっていく。しかしよく考えてみればそんな顔になるのも当然で、雨音は自分の迂闊さを恨んだ。
悲しげな顔のまま、未来はコーヒーカップを置き、改まってこう言った。
「でもね雨音。これだけは言わせてほしいの」
未来の綺麗な形をした目には、力強い光が灯っている。
「未来を変えられるのは、雨音だけだよ」
はて、それはあの運動会のことを言っているのだろうか。何を改まってそんなことを。
雨音が首を捻っていると、未来は取り繕うように「ごめんごめん」と言った。変なこと言っちゃったね、忘れて。と。
「たださ、私が予知を外したの、雨音が関わったときだけだから」
「私の雨女は、最強で最低だからね」
結衣の言い方を真似してみると、ようやく未来は「あはは、ほんとだね」と笑顔を見せた。
手元に視線を落とすと、未来のコーヒーカップは既に空になっている。それに合わせるように、雨音は半分近く残っていた自分の紅茶を飲み干した。
会話が途切れると、雨の音が耳につく。心なしか、雨脚は強くなってきている気がする。
「ところで未来、紹介したい人がいるって言ってなかった?」
十年近く振りに突然連絡を寄越してきたのは、そんな用件だったはずだ。今日、未来が連れて来る予定だったのだが。
「あ、そうそう」と未来が携帯端末を確かめながら言う。「私も雨音と会うの久しぶりって言ったら、『二人でゆっくり話したいだろうから』って、遅れて来てくれることになったんだよね。もうすぐ来ると思うんだけど」
「へえ。気が利く人なんだね」
「うん、良い人だよ」
「へえ、良い人、なんだ」未来の様子がそわそわと落ち着きがないように見えて、にやにやしながら雨音は言った。少し分かりにくかったかなと思い、一言付け足す。「未来にとっての」
きょとんとした顔で目を瞬いた未来だったが、直後、跳ねるように勢いよく立ち上がった。ガタッと椅子が音を立てる。
「違うから!」
「ちょ、未来?」突然叫んだ未来に驚き、思わず仰け反ってしまう。
「違うから。断じて違うから! 私と
周囲の目が気になり、分かった分かった、と未来を宥めて座るように促す。未来もはっとした様子で我に返り、荒い鼻息のまま腰を下ろした。
「だって、『紹介したい人』なんて言ったら、結婚相手が相場じゃん。だから私てっきり」
「そりゃ、雨音が私のご両親ならそうかもしれないけど」
「産んだ覚えはございませぬが」
「それ見たまえ」
「でも、『変な話じゃないから』とか、『詳しくは会ってから話す』とか、あんな濁し方されたら浮ついた話かと思うって。そういう年頃だし」
「でも違うものは違うんです! とにかく、私と山岸君がそういう関係だって誤解されるのは困るの」
「何よ」むきになっちゃって。「あ、もしかして。その山岸さんて人、既婚者なの?」
だとしたら、あらぬ疑いをかけられるのは困るというのも理解できるのだが、未来は「違うよ」と言った。きっぱり、ばっさりと。
「山岸君は独身、彼女なし」
「なんだ。じゃあいいじゃん、べつに」
「山岸君はただの同僚。そういう関係には絶対ならないよ。いるでしょ、そういう人」
「でも、良い人なんでしょ?」
「良い人だよ。美形ではないけど好青年だし、女の子にモテるような華やかさはないけど結婚したら幸せになれそうなタイプ。だから、雨音が手を出す分には構わない。雨音、今彼氏いないんでしょ?」
「ちょっと、なんで決めつけるのよ! いるかもしれないでしょ」
「え、いるの?」
「いないけど」
「なんだ」よかった、と未来はつぶやく。よかったとは何よ、と雨音は思う。「結衣から聞いたの。三年付き合って振られた男を五年引き摺ってるって」
「ちょっと待って」そこで雨音は、はたと気がついた。「まさか、『紹介したい』って」交際相手の候補としてとか。「そういう意味だったの?」
しかし未来は、「いや、違うよ」首を振る。またしても、きっぱり、ばっさりだ。
「まあ、万が一そうなったらね、素敵だなとは思うよ。好きな人と好きな人が一緒になって幸せになってくれたら、一石二鳥と言いますか」
「人の人生を効率で語るな」
「でもそれが目的ではないよ。断じて」
「じゃあ、一体どんな用件なのよ」
「それなんだけど」未来は姿勢を正した。改まった顔をして、言う。「ごめん、私嘘ついてたかも」
「嘘って?」どの部分が。
「『変な話じゃない』って言ったこと」
「えっ」
雨音は身構えてしまう。それはつまり、これからされるのは『変な話』だというわけで。十年近く振りに会った友人からされるのが結婚報告でないとすれば、残るはもう二択じゃないか。
宗教か、マルチ商法か。いや待てよ、保険という線もあるのか。いずれにせよ、何かの勧誘だろう。
と当たりを付けていたところ、雨音の警戒を察したのか、「あ、待って待って」と未来が手を振った。
「今のは言い方が良くなかった。あのね、変な話っていうのは、おかしな話という意味であって、怪しい話ではないのよ」
「もう、なんなのよ。勿体振らずに話してよ」
「そうだね。山岸君が来てからにしようと」思ってたんだけど。と言おうとしたのだろう。そこまで言った矢先、未来は「あっ」と声を上げながら立ち上がった。「山岸君! こっちこっち!」
未来が高く手を上げると、たった今店に入ってきた白いシャツの男性がすぐにそれに気付き、こちらへ向かって歩きだした。
未来の言っていた通り、美形という感じではないが、こざっぱりとした清潔感のある好青年だ。雨に降られたのだろう、髪が少し濡れている。
男性は雨音の席の前で立ち止まり、「どうも」と軽く会釈をした。雨音も慌てて立ち上がる。
「雨音、紹介するね。この人が私の同僚の、
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