第3話

 正体不明の巨大な低気圧は頑として沖縄上空を動かず、夜七時を過ぎる頃には那覇空港から出立する全ての便の運休が決まった。

 帰る術を失った二百人超の修学旅行生全員を収容できるホテルなど当日急に見つかるはずもなく、雨音たちは空港で一夜を明かすことになった。明日には天気が回復することを祈りながら、だ。

「今までで一番酷いパターンじゃない?」未来が苦笑しながら言う。

「ね」と雨音も同意した。「タイミングもそうだけど、こんな酷い雨初めてかも」

 避難所と化した空港内では、警報だの避難勧告だのと、客たちの携帯端末が絶えず悲鳴を上げている。夜中までこの調子が続くようなら、今夜は到底眠れそうにない。

 まさか沖縄で足止め食らうとはねえ。ほんとにねえ。と言い合っていると、そこに真梨花が戻ってきた。

「はい、非常食」

 そう言って缶詰と羊羹、そしてペットボトルの水が手渡される。班長の真梨花と副班長の男子が、班を代表して配給の非常食を取りに行っていたのだ。

「ありがと。この缶何?」受け取りながら、雨音は尋ねた。

「パンだって」

「乾パン?」

「かな。あたし乾パンって好きじゃないんだよね」

「好きな人あんまいないでしょ」

「食料もらえるだけありがたいけどさ。昨日のバイキングが恋しい」

 ねー、と同意しながら缶詰のプルタブを引くと、パコッと軽快な音を立てて缶が開いた。

「えっ、待って。これ乾パンじゃない! パンだ」雨音は驚いて声を上げた。

「パン?」

「乾パンじゃなくて缶パン? 缶に入ったパン」

「缶パンっていうかパン缶じゃね、それ」言いながら真梨花も缶を開け、目を丸くする。「へえ、こんなのあるんだ」

「ね。乾パンよりいいかも」

「ね」言いながらパンを千切って頬張り、直後、真梨花は顔を顰めた。「いや、これあんま美味しくないわ」

「嘘」雨音もパンを口に入れると、真梨花と同じような顔になった。「ほんとだ。パサパサ」

「パサパサパン缶」

「パサパサっていうか、カサカサ?」

「カサカサ缶パン」

 ふふ、何それ。と雨音は笑った。「そうだ。これ食べ終わったらさ、口直しにお菓子パーティしようよ。私、飛行機で食べるつもりでたくさん持って来てるんだ」

「いいねそれ、最高じゃん。あたしもちんすこう大量に持ってる」

「いや、それお土産でしょ。持って帰りなよ」

「いいのいいの、ドカ買いしたから」

 雨音も真梨花も、外の被害状況はどうなっているのかとか、明日の朝には帰れるのだろうかとか、そういった疑問は口にしなかった。それを言葉にしてしまえば、胸の奥にもやもやと渦巻く漠然とした不安が、はっきりとした輪郭を持ってしまいそうだったからだ。二人は痛みを誤魔化すように、心地良い麻酔のような空っぽの会話を繰り返していた。

 その時ふと、未来が会話に入ってこないことが気になった。ほぼ同時に、「あれ、未来寝ちゃった?」と真梨花が言う。

 隣を見れば、未来は体育座りのまま首を垂れ、小学生の頃から変わらない細長い三つ編みをゆらゆらと揺らしていた。

「未来?」雨音は呼び掛けた。「未来、先ご飯食べちゃいなよ」

 しかし呼んでも揺すっても叩いても、未来は目を覚まさない。ざわざわとした嫌な感触が、胸の中を這い回る。

「これ、緊急予知かも」

「あー、さっき言おうとしてたやつ? 急に寝ちゃうとかなんとか」真梨花は苛立ったような声を出す。「ねえ、もうそういうのいいって。あたしオカルト的なやつ信じないし、冗談だとしても面白くないから。未来もふざけてないで起きなよ」

「違うの!」

 思い出したのは、小学四年生の冬のことだ。授業中に眠りこけ、休み時間に飛び起きた未来は、「私にはどうすることもできない」と言って震えていた。予知夢の内容を聞いた雨音と結衣は、そんなのただの悪い夢だ、起こるわけがないと、揶揄い混じりに励ましたが、その日の夜、新幹線が脱線事故を起こし、多くの犠牲者を出した。

 小学五年生の夏休み直前、未来は水泳の授業中に眠ってしまった。目を覚ました途端、彼女は担任に向かって「児童の川遊びを禁止してほしい」と懇願しだしたが、プールなんかで寝るからおかしな夢を見るんだと叱られただけだった。その夏、一人の下級生が川で水難事故に遭い、命を落とした。

 小学六年生の秋、公園で遊んでいる最中に眠ってしまった未来は、「コンビニ強盗の夢を見た」と言った。その頃にはすっかり未来の予知能力を信じていた雨音と結衣が警察に届けることを提案すると、未来もそれに同意した。しかし当然ながら警察は未来の主張を全く相手にせず、一ヶ月後、事件は起きてしまった。後になって未来の予言を思い出した警察は、あろうことか未来の事件への関与を疑い始めた。何度も繰り返し取り調べを受けた末にどうにか疑いは晴れたが、悪い噂は広まってしまっていた。街に居づらくなった未来は、小学校卒業と同時に引っ越していった。

 未来の『緊急予知』が示すのは、いつも必ず人命に関わる深刻な未来だった。今彼女の目には何が映っているのか、恐ろしくて仕方がないが、起こしても無駄なこともよく分かっている。

 豪雨で大勢の人が避難している現状だ。ここ沖縄で大きな被害が起こることだって考えられるだろう。背筋を氷が伝っていくような感覚に襲われる。

「未来。ねえ、今度は何が起こるの? 早く起きてよ。寝てて平気なの?」無駄とは知りながら、未来の肩を揺すった。

 するとその時、未来ががばりと勢いよく顔を上げた。額には冷や汗が浮かび、呼吸は荒く、唇がわなわなと震えている。

 雨音は飛び退きそうになりながら、未来の背中をさすった。

「未来? どうしたの? 今の予知でしょ? 何を見たの?」

 未来は少しの間、青い顔で呆然としていた。だがすぐにはっと我に返り、慌ただしく動きだす。

 上着、スカート、鞄と、あちこちのポケットをバタバタと探った後、未来は自分の足元に落ちていた携帯端末を拾い上げた。震える指で画面を操作し、端末を耳に押し当てる。

「未来、どうした?」ただ事ではない未来の様子に、真梨花も動揺していた。

「未来、何があったの」雨音も言った。これから何が起こってしまうのか、気が気でなかった。

 しかし未来はか細い掠れ声で「大変、大変なの」と言うばかりで、要領を得ない。

 何コール待ったのか分からない。もしかするとほんの数秒だったのかもしれないが、その時間はとても長く感じられた。未来の携帯端末の奥の方から、プツリと人の気配がした。

「お父さん!」通話が繋がるなり、未来は叫んだ。「お父さん。お願い、みんなを助けて! 東京が大変なの!」

 その声は涙で震えている。スピーカーの向こうでは、どうしたあ? というのんびりとした声が聞こえた。

「地震が来る!」

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