第2話
「やっぱりさあ、雨女なんて思い込みだったんじゃないの?」
「あたし、二人ががうるさいから雨対策万全にしてきたのにさ。結局少しも使わなかったし、荷物増えただけじゃん」
修学旅行最終日。まもなく帰路に就く雨音たちは、那覇空港のターミナルに集合していた。到着が遅れている班に不平を漏らす生徒たちと、神経質に生徒の人数を数える教師たち、それぞれの様子が目に入る。
「違うんだって」と、何故か雨音よりも未来の方がむきになって弁明する。「こんなのありえないの。雨音がいたのに、修学旅行なんていうビッグイベントで一度も雨が降らないなんて」
雨音と未来は中学校は別々だったが、高校では偶然同じ学校に進学し、高校二年生の今年は同じクラスにもなった。真梨花は今年初めて同じクラスになって仲良くなった友人であり、雨音は未来と真梨花と男子三人の計六人で修学旅行の行動班を組んでいた。
「まあ、たしかに運動会が毎年雨だったっていうのはとんでもなく運が悪いけどさ。例えばほら、雨音の幼馴染の、ユキちゃんだっけ」
「結衣ちゃんね」
「そう、その、ユイちゃんの方が実は雨女だったって可能性もあるかもよ」
「違うんだなあ」未来はこれだから素人は、とでも言わんばかりに、やれやれという風に首を振った。
「何が違うのよ」真梨花は少しむっとしながら聞き返す。
「実はね。運動会の日も一回だけ、小学五年生の時は雨が降らなかったんだよ」
「なんだ。百パーセントじゃないの?」
「違うの。その年雨音は、インフルエンザで休んでたの」
意表を突かれたのか、真梨花の目が点になった。
「そしてやっぱり、六年生の時は降った。雨音が休んだ年だけ、雨は降らなかったの」
「インフルエンザはちょっと、季節外れじゃない?」
「流行の最先端だったね」
へえ、そう。と真梨花は一瞬動揺を見せた。しかし何をむきになっているのか、すぐに気を取り直し、攻勢に切り替える。
「ていうかさ。そもそも、去年も今年も体育祭は晴れだったじゃん。あれはどういうことなわけ? 雨音、雨女引退した説ない?」
「あっ、そういえばそうじゃん」
ちょっとどういうことなのよ、と未来に肘で小突かれ、雨音は渋々口を開く。「あのさ。体育祭の日、私が何を思ってたか分かる?」
「赤組がんばれ?」
「白組負けるな?」
「雨で中止になったらいいのに」
あー、と未来と真梨花は声を揃えた。
「つまりさ、降ってほしいときには降らないわけ。雨ってやつは」
「難儀なもんねえ」
「え、でもさ」と未来が言った。「雨音、体育祭嫌いだったっけ? 小学校の頃の運動会は楽しみにしてたでしょ」
「あの頃は私も若かったってことよ」
「どういうことよ」
「中学生の頃に気付いちゃったんだよね。あれ、これそんなに楽しくないぞって。暑いし疲れるし面倒くさいし、結局盛り上がるのは普段から何もなくても盛り上がってる人たちだけっていうかさ。だから、もうその頃から体育祭の日に雨は降ってないよ」
「うわあ、陰気」真梨花が言う。
「あー、分かる」未来も言った。
「じゃあさ」と真梨花が身を乗り出した。「文化祭はどうなのよ。今年は雨だったけど、去年はたしか晴れてなかった?」
「屋内イベントのときは降らないんだよね。降ってほしくないときに降って、降っても困らないときには降らないのが雨音の雨女だから」
「じゃあ、今年の文化祭はなんで雨だったのよ」
「あ、そっか」と未来が思案顔になる。「それなら、降ってほしいときには降らないけど、どっちでもいいときには降らない保証があるわけじゃないんだ?」
「いや」それもあるかもしれないが。「今年の文化祭は、降っちゃ駄目だったの」
「なんで?」未来と真梨花は同時に首を傾げた。
「私は吹奏楽部でクラリネットをやっているわけですが」
「うん」「知ってる」
「吹部が文化祭でコンサートやってたのも知ってるでしょ」
「うん」「やってた」
「でね。雨の日って湿度がすごいでしょ? クラリネットは管が木製だから、ものすごく湿気に弱いの。水を吸ってパンパンに膨張して、その後冷房でキンキンに冷やされると、急激に縮んで、割れちゃうことがあるわけ」
「ああ」「まさか」
「いっちゃったんだよね、ピシッと」
「あちゃー」未来と真梨花は揃って未来に同情する。
「しかも、『ラプソディ・イン・ブルー』のソロ中に!」
真梨花がどんまい、と雨音の肩を叩き、未来はラプソディってなんだっけ、とどうでもいい疑問を口にした。
「あたし知ってるよ。テーンテテテテテテってやつでしょ」
真梨花が『ラプソディ・イン・ブルー』の一節を歌ってみせると、未来は「そうじゃなくてさ」と言った。それは私も知ってる、と。
「コンチェルトが協奏曲とか、そういうやつ」
「ラプソディは狂詩曲、だよ」顧問の先生の説明を思い出しながら喋る。「神話とか伝説みたいな、叙事を表現した音楽、だったかな」
ふうん、と言い、未来が突然歌いだした。
「だいじーなーっ、ときほーどーっ、あっめっがーふるー」
「何それ」
「雨音ラプソディ」
ぶはは、と思わず笑ってしまう。
「みーらーいーのみるゆめはー、ぜーんぶまさゆーめー」雨音もやり返す。
「何それ」
「未来ラプソディ」
ぶはは、と未来も噴き出した。
横で見ていた真梨花は、はーあ、とわざとらしく溜め息をつく。「あんたたちってほんとお子ちゃまだよね。雨音の雨女も相当眉唾ものだけど、未来予知なんてまだ言ってるわけ? そんなのあるわけないって」
雨音と未来は顔を見合わせ、にやりと笑いながら頷き合った。
「すうがくのーきまつしけんー」「じゅうよんてんー」
「ちょっと、何よそれ!」
「これはね」「真梨花ラプソディ」
やめなさいよ! と怒ってみせた後、やはり真梨花も、ぶはは、と噴き出した。
集合時刻から十五分が過ぎると、ようやく遅れていた班が全て到着した。担任は建前上生徒を叱りつけてはいるものの、安堵の表情が隠し切れていない。
あと十分のトイレ休憩が終われば、再度点呼を取り、いよいよ搭乗手続きに移るらしい。名残惜しいが、奇跡の快晴の沖縄ともまもなくお別れだ。
「でもね真梨花」雨音は言った。今度は雨音が熱弁する番だ。「未来の予知夢は、本物だから」、と。
「出た出た」と真梨花は辟易した顔をする。「予知夢なんてさ、夢で見たのと同じことがたまたま現実でも起きたってだけでしょ? 夢なんて毎日見るんだから、たまにはそういうこともあるって。たまたまよ、たまたま。偶然の一致。数打ちゃ当たる」
「まあまあ。そう言いたくなる気持ちは分かるよ」
雨音だって、初めは予知夢なんて信じていなかった。一番最初に聞いた『今年の運動会は晴れる』という予知は見事に外れたのだから当然と言えば当然であるのだが、とにかく信じていなかった。未来ちゃんって、自分の空想を本気にしてしまうような、ちょっと幼いというか、おかしなところがある子なんだなと、そんな風に思っていた。
「でも、今まで何度も未来の予知を聞いたけど、外したのは最初の一回だけだったの。それ以外は全部ドンピシャ的中」
「へえ。例えばどんな?」
「次の国語が算数に変更になるとか、担任の先生が休職するとか、田中君と佐藤さんがもうすぐ付き合うとか」
「それ、ただの情報通じゃん」
呆れ顔で溜め息をつく真梨花に対して、分かる分かる、最初はそう思うよね。と、雨音は大きく頷いてみせた。
件の運動会以降、未来は毎日のように『昨日見た予知夢』の話を聞かせてくれたが、誰々が消しゴムをなくすとか、誰と誰が喧嘩をするとか、花壇の花が咲くとか、そのほとんどがあまりにもささやかで他愛のない内容だったので、雨音も結衣も彼女の言うことを聞き流していたし、相手にしていなかった。「結衣ちゃん、明日の調理実習でエプロン忘れるよ」と言われたにも関わらず本当に結衣がエプロンを忘れて来た時にはさすがに驚きもしたが、まあそういうこともあるよね、と、軽く受け止めていた。だが、ある事件をきっかけに、雨音は未来の予知を信じるようになった。
ある日の授業中、未来が突然眠ってしまったことがあった。それだけならなんてことのないありふれた光景だが、先生が呼んでも揺すっても叩いても、未来は目を覚まさなかった。先生は急病ではないかとも疑ったようだったが、結局は眠っているだけだと判断し、そのまま放っておくことにした。そして次の休み時間中、やはり突然、目を覚ました未来は、青褪めた顔で震えながら「予知を見た」と言った。
後で分かったことだが、未来はたまに、だいたい年に一度くらいの頻度で、そんな風に突然眠ってしまうことがある。そういうときに彼女が見る予知夢は、情報通とか偶然とか、そういうことでは片付けられない、なおかつ深刻な内容であったことから、雨音たちはその現象のことを『緊急予知』と呼ぶようになった。
雨音が未来の予知夢を信じるきっかけになった『緊急予知』。その内容を真梨花に聞かせてやるべく口を開いたその時、不意に視界が薄暗くなったことに気付いた。
「うわ、なんか急に曇ってきたね」未来が言った。
つられて外を見ると、つい先程までそこにあったはずの眩いほどの鮮やかな青はすっかり姿を隠し、空は墨を溶いたような濁った色をした分厚い雲に覆われていた。
「ちょっと雨音、今更になって雨女炸裂、とか言わないでよ。飛行機飛ばなくなったらどうすんの」真梨花が茶化すように言う。
そんなまさか。と、答える暇もなかった。
ごおん。と、どこか遠くで鈍い音が響いた。それが風の音か雨の音か、雨音には分からなかったが、次の瞬間には外の景色は水に沈んでいた。
ごうごう、どうどうと、天から地へと押し寄せる濁流の音が、窓越しに聞こえる。
「えっ。雨、やばくない?」
「ちょっと雨音、やめてよ」
「眉唾って言ってたくせに」
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