雨女ラプソディ

七名菜々

第1話

 ざあざあなんて、生ぬるいものじゃない。

 ごうごうとか、どうどうとか、そんな轟音を立てて降る雨は、雨というよりは巨大な水の塊が落下しているに近く、外を歩けば地上にいながら溺れてしまいそうになる。

 季節は冬。一年で一番乾燥するはずのこの季節に、予報にもなかった前線が突如現れ、日本の大地を水に沈めている。

 こんな日にこの世に生まれ落ちた我が子は、窓の外の惨状など知りもせず、まるでこの凶悪な雨音が子守り唄であるかのようにすやすやと寝息を立てていた。

 そうだ。

 その寝顔を眺めるうちに、ある妙案が閃いた。

「ねえ」愛おしそうな目で娘を見つめる夫に向かって、私は言う。

「うん?」

「この子の名前。雨の音って書いて、『雨音あまね』はどうかな」


  ***


「多分、そんな名前を付けたのがいけなかったのだと思います」

 森下もりした雨音あまねは、はきはきとした声で言った。

 作文も音読も、不思議と嫌がる人は多いが、雨音にとってはどちらも得意分野だ。背中に感じる保護者たちの視線が気にはなるものの、恐れることは何もない。

「私が生まれてから毎年、私の誕生日には雨が降ります。雨が少ないはずの一月生まれなのに、一年生の時も二年生の時も、誕生日は雨でした。さすがに見かねた両親が、今年は誕生日の一週間前に遊園地に連れて行ってくれようとしましたが、するとその日に雨が降り、誕生日当日には降りませんでした。私はもう、誕生日のお祝いにお出掛けをするのは諦めました」

 毎年夏休み明けの授業参観では、夏休みの宿題の発表会を行うのが通例だった。

 今年発表の題材に選ばれたのは、自由作文だ。それは夏休み前から告知されていたことだったから、雨音は特別気合いを入れて、渾身の持ちネタ『雨女伝説』をしたためた。

 と言ってもべつに、笑いを取りたかったわけではない。現に笑いは起きているが、そうではない。ただ、ネタにしてやるくらいしか役に立たないこの特殊能力に、たまには花を持たせてやりたくなったのだ。

「入学式の時には、前の晩から大雨が降り続いて、朝には桜が全て散ってしまっていました。遠足の日だって、ほとんど毎回雨です。唯一、行き先が水族館だった時は、雲ひとつない快晴でしたが、それは水族館は雨でも困らないからです。運動会も、入学してから三回とも雨が降っています。一年生の時と二年生の時は延期になりましたが、先生たちも諦めたのか、三年生の時は雨が降っていたのに決行されました」

 大人の声と子供の声。その両方が入り混じった笑いが充分に収まるのを待ってから、雨音は最後の段落を読み上げた。

「もうすぐ運動会の練習が始まります。ダンスやリレー、徒競走など、みんな一生懸命に練習すると思いますが、本番の日に雨が降ったらごめんなさい。それはきっと私のせいです」

 雨音がお辞儀をすると、今日一番の拍手が湧き起こった。

 ほうらね。と、心の中で言ってみる。

 大事な日には必ず雨が降る、超常的な雨女。なんの役にも立たない、迷惑でしかない能力なのだなら、こうしてネタにしてやるしかないのだ。


 この子と初めて交わす会話がこんな話題になるとはなと、雨音はぼんやり思った。

 雨音たちのクラスは今、体育の授業中だ。今週末に控えた運動会に向けて練習は佳境に入っており、今日は徒競走のリハーサルが行われている。既に走り終えた雨音がゴール付近に座り込み、幼馴染の内海うつみ結衣ゆいとお喋りをしていたところ、その子が二人の会話に割って入ってきたのだった。

 真っ直ぐに切り揃えられた前髪に細長い三つ編み、みんなが着ている丸首のシャツとは違う襟の付いた体操服を着たその子は、夏休み明けに雨音のクラスにやって来た転校生だ。

「えっ、あの作文の話って、本気だったの?」

 転校生の川端かわばた未来みらいは、なんの前触れもなしにそう言った。雨音と結衣は二人きりでお喋りに夢中になっていたので、初めは自分たちに声をかけられたのだとは気付かなかったくらいだ。

「あのね」と、結衣は敵対心を剥き出しにしながら熱弁する。「言っておくけど、雨音の雨女は、本当にすごいんだから。すごいっていうか酷い。もう、最低で最強なの」

 雨音と結衣は、今度の運動会は雨が降るだろうか、いや、雨はどうせ降るだろうから、雨対策はどうしようか、というような話をしていた。そこに未来が割り込んできたのだ。

「ふうん」と、未来は得心の行かない顔をしている。「でもさ、遠足も運動会も全部雨、だっけ?」彼女は例の、授業参観で発表した雨音の作文について触れた。「それってさ、たしかに雨の確率は高いのかもしれないけど、雨音ちゃんのせいかどうかは分からなくない? 同じ学年とか、学校の先生に雨女か雨男がいるってこともありえるでしょ」

「なるほど!」何故だかその可能性は今まで思いつきもしなかった。それならもしかしたら、小学校を卒業したらこの雨まみれの人生からも解放されるかもしれない?

 しかし直後、「いや、ありえないから」と結衣がばっさり切り捨てた。せっかく膨らませた風船を、ぱちん、と針で突く具合にだ。

「あのね、学校行事だけじゃないんだから。雨音、忘れたの? うちのバーベキューパーティーに雨音を呼んだ時のこと」

 あっけなく希望を絶たれ、ぐう、と呻き声を漏らす。「雨だったね」

「一緒に潮干狩りに行く約束をした時も」

「雨でした」

「家族でお花見しようって、ハイキングに出掛けた時なんか」

「まさか雨?」未来が言った。

 しかし、結衣はふるふると静かに首を振り、自白を促すように雨音を横目で睨んだ。

「朝は晴れてたの。みんな大喜びで山に登ったんだけど」

「山頂に着いた途端、土砂降りだったね」

「嘘でしょ」未来の大きくはないが形の整った二重瞼が見開かれる。

「嘘ならどれだけ良かったか」「本当にね」

 雨音と結衣が嘆くように言うと、「あ、でもさ」と、未来が明るい声を発した。

「今度の運動会は、大丈夫だから」

 雨音と結衣は、二人して首を傾げる。「大丈夫って?」

「だから、運動会は雨降らないよ。むしろ快晴」

「あのね未来ちゃん、慰めはいいよ。私も天気予報は見たけど、そんなの関係ないんだから」

 雨音は諦め口調でそう言ったが、「違うんだって」と未来は力強く主張する。

「あのね、私見たの」

「見たって、何を?」天気予報ではなく?

「あのさ、雨音ちゃん、あの作文で言ってたでしょ? 『雨音』なんて名前を付けられたせいで、自分は雨女になったんだって。正直私、雨音ちゃんが雨女かどうかはまだ半信半疑なんだけど、でもそういうことってあると思うんだよね」

「ねえ、なんの話が始まったの?」

「だからね、私もそうなの」

「そうなのって、どうなの」

「私も多分ね、『未来』なんて名前を付けられたせいだと思うんだけど」

 彼女はごくりと唾を飲み込んでから、こう続けた。

「私、未来のことが分かるの」

 パァン! と五十メートル後方でピストルが鳴った。二人の走者が同時に走り出す。本番では三クラスで競い合うので、あれが三倍の六人になるらしい。

「それってつまり」と結衣が言った。彼女は笑うべきなのか驚くべきなのか戸惑っている様子で、それは雨音も同じ気持ちだった。「未来予知ってこと?」

「そう、未来予知。私、見たんだ」

「何を?」

「予知夢」

 しかし未来の口ぶりは至って真剣で、雨音たちを笑わせようとしているようには見えない。

「ちょうど昨日、見たんだよ。運動会の夢。お客さんがたくさんいて、飾り付けもされてたから、あれは練習じゃなくて、本番の日だった。すごく良い天気でね、暑くてみんな顔真っ赤でさ」

 力説する彼女を笑い飛ばそうとは思えずに、二人はぽかんと口を開けたまま未来の話を聞いていた。

「あ、そうそう。ちょうど徒競走の時だったかな。雨音ちゃんがね、転んじゃったの。だから私が絆創膏をあげたんだけど。転ばないに越したことはないから、雨音ちゃん、気をつけてね」まあ、未来を変えるのは不可能だと思うけど、と彼女は付け足した。

 雨音と結衣は顔を見合わせ、どちらからともなく、「あのさ、未来ちゃん」と言った。

 あなたの言いたいことは分かった。でも、念のためカッパは持って来た方がいいよ、と。


 その週末、つまり運動会当日、雨音と結衣にとっては言うまでもなく、雨は降った。

 雨音としては、それはまあ、当然そうなりますよね、という結果でしかないのだが、未来の反応は違った。

「嘘でしょ。予知が外れるなんて、ありえない。こんなの初めて」

 青褪めた顔でぶつぶつと言う未来を見て、雨音は心底驚いた。

 正直なところ、彼女の言う未来予知についての真偽のほどは定かではない。というか、真か偽かで言うならまず間違いなく偽だろう。でも、少なくとも彼女自身は、本気だったのだ。

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