後編

 上機嫌でリビングに戻ると、テーブルに秋子がうつ伏していた。冬美は部屋に戻っているらしく姿がない。

「秋子、どうかしたのかい?」

 俺が秋子に声をかけると、秋子はこめかみを押さえたまま顔を上げた。

「ごめんなさい。ちょっと冬美のことで悩んでいて」

「冬美に何かあったのか?」

 俺個人としては他人の子供なぞに興味はない。俺が興味を持っているのは秋子だけだ。しかし、こうでも言わないと秋子の機嫌が悪くなると考えて、仕方なく聞いた。秋子は答える。

「冬美が私立の中学校に進学したいって言いだして、どうするべきか悩んでいたの。今の公立の小学校では同級生とあまり馴染めていないみたいで」

「中学校? 確か今四年生だったよな」

「あの子の成績じゃ、今から塾に通っても間に合うかどうか……」

 秋子はそう言いながら俺の方を見た。

「私立の中学校に通うだけでもかなりのお金がかかるのに、受験のために塾に通うとなると三郎さんの給料だけではどうにも……」

 俺は黙ってしまった。これまでこんなことに悩んだことがないから、どう答えてよいかわからなかった。

 すると秋子は立ち上がった。

「三郎さん、まるで他人事みたいに聞いてるね。私、お風呂入ってくる」

 そう言って秋子は風呂場の方へと消えていった。リビングに残された俺は、風呂から上がったばかりなのに寒気を覚えた。まるで秋子に「甲斐性なし」とののしられたかのようだった。窓の方を見ると、外が暗いせいか俺の姿が反射して映っている。やせぎすの骸骨が一人ぽつんと立っていた。

 俺の視線がソファの上に積まれたマンガ本の表紙に落ちた。表紙には精悍な青年の顔が描かれていて、『カルスト戦記』というタイトルと、大川二郎という名前が目立っている。……ああ、どこかで見たことがあると思ったら兄貴の本だったか。

 俺はその表紙にそっと触れた。その直後、俺はハンガーに掛かっているジャンパーに視線を向けていた。この家に来る前に俺が着ていたジャンパーだ。ポケットに手を突っ込むと、中から一枚のカードが出てくる。金ピカに光っているそのカードは、あのパチンコ屋のカードだった。

 俺は意を決してジャンパーを羽織った。そして、音を立てないように家を飛び出していた。


 窓口から部屋の中を覗くと、あの筋肉オヤジは昼間と変わらない格好でくつろいでいた。オヤジは俺の姿を見ると溜息をつきつつ答えた。

「何だ、まだ半日も経っていないぞ」

 オヤジの愚痴に付き合っている暇はない。俺は言った。

「オヤジ、大川二郎と俺の名前を交換してくれ」

「大川二郎ってのはあの有名なマンガ家か? そいつはお前さんのことを知っているのか? そうでないと交換はできないぞ。それに、ここで名前を交換すると、お前さんの好いていた女はこれまでだぞ」

「いいんだ。わかったんだよ、女なんかより金だ。二郎はマンガで大ヒットして印税で豪邸暮らしだ。いいから早くしろ!」

 俺はそう言いながらカードを窓口の中へと放り投げた。オヤジはそのカードを拾い上げると、俺を追い返すように手を払った。名前の交換が済んだのか、それとも無理な話だと断ってきたのか、その動きだけではわからなかった。

 俺がオヤジに声をかけようと身を乗り出した時、背後から若い男の声が聞こえた。

、打ち合わせサボってパチンコですか。ネームは上がってるんで文句は言えないけれど、ほどほどにしてくださいよ」

 その声に俺は振り返った。太った男が大ぶりの封筒を抱えて立っていた。

「ええと、君は?」

「二郎先生、人の名前覚えるの苦手だからって、長年付き添ったアシスタントですよ。湯田です」

「ああ、湯田くんか。冗談だよ」

 この太った男は確かに俺のことを二郎先生と呼んだ。希望どおりに入れ替わったことは間違いないだろう。ここはこの湯田とかいう男に話を合わせよう。俺は一度窓口の方をむき直した。オヤジに軽く会釈してから窓口を離れた。

「サボっていたのは謝る。ええと、打ち合わせだったか」

「そうですね。事務所まで帰りましょう」

 湯田に連れられて俺は歩き出した。

「ところでネームはどうだった?」

「今週も最高でしたよ。毎週きっちりとネームを上げてもらえるので、アシスタントはずいぶん気が楽です。また来週の分のネームもお願いしますね」

 湯田はそう言って、抱えている封筒を腕の中で揺らした。その中にマンガのネームが入っているのだろう。湯田は嬉しそうだ。

 しばらく歩くと湯田はビルの前に立ち止まった。ビルと言っても薄汚れた古い雑居ビルだ。ビルの入口には大川二郎マンガ事務所と看板がある。湯田に促されるままエレベーターに乗り込んだ。狭いエレベーターの中に太った湯田と並ぶのは窮屈だった。

 二郎はマンガの印税で遊んで暮らせるくらい稼いでいるはずなのに、どうしてこんな狭いビルに事務所など構えているのか。印税暮らしを満喫するはずだったのに、アシスタントに捕まって、ネームを書けと言われるとはどういうことだ。そもそも俺に絵など描けない。

 ドアが開いてやっと窮屈から解放された。俺はエレベーターを降り、湯田に続いて事務所に入る。事務所の中も作業机がぎゅうぎゅうに詰まっていて、とてもくつろげそうにない。

「湯田くん、ちょっと話がある」

「何ですか二郎先生。今週のネームですか? 非の打ち所のない完璧なネームでしたよ」

 湯田が振り返った。湯田は目をキラキラとさせている。

 俺はすっと目をそらした。良いマンガが出来上がるのを待っていると主張する湯田の目を見続けることができなかったのだ。俺は目をそらしたまま言った。

「しばらく仕事を休ませてくれないか。休載という形で」

「休載? 何を言っているんです。『カルスト戦記』の連載もありますし、読み切り短編も二件。再来週には専門学校での講演依頼もあるんですよ」

 湯田は手帳を開きながら早口で言い立てた。俺は一歩後ずさりした。

「いや、どうにもスランプなんだ。どうにも仕事に手を付けられそうにない。一か月でいいから旅行にでも行かせてくれないか」

 マンガを描かずにいられる理由をとっさによく思いついたものだ。旅行にさえ出ればあとは隙を見て行方をくらませばいい。

 すると、湯田は開いていた手帳を地面に落としていた。

「先生、嘘でしょう。スランプだなんて。こんなにいい作品を描いているのに」

「納得がいく出来じゃないんだ。わかってくれるよね」

 しかし湯田はうなだれたままだった。そして、そのまま近くの机の上に手を伸ばしていた。俺の視線が湯田の指先に向く。そこには一本のデザインナイフが握られていた。

「こんなの、僕が尊敬している二郎先生じゃない!」

 その直後、この体型の身体からどうやってこんな瞬発力を引っ張り出したのかと疑いたくなるほどのスピードで湯田が俺に飛びかかってきた。そして、俺のほっぺたに熱と痛みが走った。湯田の振るったデザインナイフがかすったのだ。

 俺はエレベーターの横にある非常階段のドアを蹴破った。切られたほっぺたを手で押さえながら、無我夢中に走っていた。


 向かった先は交換所の窓口だった。俺は窓ガラスをどんどんと叩き、中にいるオヤジを呼んだ。

「お願いだ。今すぐ名前を交換してくれ。このままだと殺される」

 部屋の中ではオヤジがテレビを眺めていた。しかし、俺が何度呼んでもこちらを向こうとしない。

「さっきだってナイフで刺されそうになったんだ。ほら、ここの所血が出ているだろ? だから助けてくれよ」

 するとオヤジはテレビを見たまま呟いた。

「カードは? もう持っていないだろう。カードを持っていない奴に交換する名前なんざねえよ」

「緊急事態なんだ。金なら後でいくらでも払う。ほら、大川一郎と名前を変えてくれ。一郎は俺の兄貴だ。俺のことを知っている奴だから交換できるだろう。一郎は銀行で支店長をしている。金なら後でいくらでも渡すからお願いだ」

「ダメだね」

 オヤジがそう言うと同時に、湯田が俺を呼ぶ声が聞こえた。デザインナイフを持った湯田が近づいてくる気配がする。俺は窓口の前で頭を抱えてうずくまった。

「見つけた!」

 湯田の声と共に、俺の頭がつかまれる感覚があった。しかしすぐに、俺の頭をつかんでいた手が離された。

「す、すいません。人違いでした」

 そう言ったのは湯田だった。恐る恐る顔を上げると、湯田はふらふらと俺から離れていくところだった。

 すると窓口の中からオヤジが声をかけてきた。

「運が良かったな。別の店の交換所で、お前さんを指名して名前を交換した物好きがいたようだ。そのせいでお前さんが別人になったから、さっきのデブは帰っていったんだな」

「交換所……他にもあったんだな。ところで、俺は今度は誰と入れ替わったんだ?」

 俺は胸に手を当てながらそう言った。するとオヤジは、部屋の中で見ていたテレビの画面をこちらに向けた。

「億単位の金を横領したお尋ね者か。ずいぶん大物になったじゃねえか」

 オヤジが見せてきたテレビの画面には俺の顔写真が映っていた。骸骨のような痩せこけた顔だ。そして、俺の顔の下にはこんな字幕がかかっていた。

 〔指名手配〕業務上横領・大川一郎容疑者

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名前交換所 佐名川千種 @chiksana

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