名前交換所
佐名川千種
前編
俺は自分のことが嫌いだ。
よっぽどのナルシストでなければ、誰でも多かれ少なかれ自分のことを嫌っているだろう。今さら改まって言うことでもない。それなのに、俺がわざわざ自分のことが嫌いだと言っているのは、心底自分のことが嫌いだからだ。
まずはこの痩せこけた顔が嫌いだ。くぼんだ目と土気色でげっそりとした頬は、もはや骸骨に皮を貼り付けたようにしか見えない。この顔のせいでまわりからはいい印象を持たれない。子供なんかは俺とすれ違っただけで泣き出す。
仕事もせずにギャンブルに興じるろくでもない性格が嫌いだ。この性格を治そうと口では言っておきながら、結局毎日、競馬とパチンコに通っている。
そしてなによりも、大川四郎という名前が嫌いだ。見ただけで兄貴が三人いるとわかる名前だ。四郎という名前を耳にするだけで、できのいい三人の兄貴の顔が浮かぶ。そして、兄貴たちのことを考えると俺自身がみじめに感じられる。
この前の盆に実家に帰った時もそうだった。一郎と二郎は仕事が忙しいだかで実家に戻っていなかったから、三郎の家族と俺だけが実家に顔を出した。三郎は普通のサラリーマンだが、秋子という奥さんや、十歳くらいになる冬美という娘がいる。それに比べて俺は一人きりだ。
三郎が心底うらやましい。三郎が幸せなのは、エビスのように丸々とした笑顔を見ればわかる。奥さんの秋子も美人で、俺の一番好きなタイプだ。けれど、そんなことはとても口に出すことはできない。秋子は俺の姿を見るとにらむような視線を向けるきりで一言も口をきこうとしない。
確かに、ギャンブルの資金として三郎に何度か金を借りたことはある。まだ返せていないが、秋子から恨みを買うほどの額ではないはずだ。一体俺の何が悪いんだ。顔か? 俺みたいな骸骨男には女と話をする資格すらないのか?
むしゃくしゃしながら歩いていると、普段来ない路地へと入っていた。そこには見慣れないパチンコ屋があった。こんな気分を紛らすには打っていくしかない。格好つけた横文字の店名が踊っている看板をくぐって、俺は店の中に吸い込まれていた。
店に入ってすぐに、この店に入ったことを後悔した。客もいなければ店員もいない。よっぽど流行っていない店なのだろう。こんな店では出玉も期待できない。少しだけ打ったらすぐに帰ろうと思いつつ、俺は台に向かった。けれども、そんな後悔は無用だった。出玉が期待できないどころか、続々と当たりが出てくる。知らぬ間に俺の台の横には出玉が積み上がっていた。出玉があふれる喜びで、さっきまで感じていたイライラは消え去っていた。
俺にだってついている時くらいあるさと、鼻歌交じりに精算機に出玉を流し込む。今までパチンコに通っていた中で一番の稼ぎだろう。今夜は贅沢に焼肉でも食うかと考えながら、精算した出玉を交換カードに変えた。二枚のカードが俺の手元に入る。この出玉の量で二枚は少なく思えるが、手にしたカードは金色にピカピカ光っていた。一枚当たりの金額がかなり高いということだろう。あとは店を出て交換所で現金に引き換えるだけだ。早足になりながら店を出て左右を見ると、左隣のビルにそれらしい窓口を見つけた。俺は二枚のカードを取り出して窓口の前に叩きつける。その音に気付いて、中で缶ビール片手にスポーツ新聞を読んでいたオヤジが顔を上げる。
「誰と交換する?」
「は?」と、俺は聞き返していた。「誰って、何言ってんだよオヤジ。金だよ金。現金に交換してくれ」
「それはできない」
窓口の中のオヤジはそう言って首を振った。換金できないだって? それじゃあ、俺が玉を買うのに払った金はどうなる? 俺は今日勝ったんだぞ。こんなの詐欺じゃないか。
「ふざけんじゃねえよ」
俺はそう言いながら、窓口のトレーを叩いた。しかし、二言目を発することはできなかった。オヤジがスポーツ新聞を畳んだおかげで、オヤジの身体が目についたのだ。オヤジのはち切れんばかりの胸筋はTシャツの上からでもはっきりと形がわかるほどだった。
「威勢がいいのは最初だけだったようだな」
オヤジの挑発に頭が熱くなったが、この筋肉にケンカを売る勇気はなかった。するとオヤジは言った。
「お前さん、うちの店のシステムを知らずに打ってたみたいだな。うちは当たった出玉を使って名前を交換するんだよ」
「名前?」
「そうだ。お前さんと、お前さんの知り合いの中から誰かと名前を交換するんだ」
名前の交換? そんなことガキの遊びじゃないか。パチンコであれだけ勝ったのに、そんな遊びに付き合わないといけないのか?
するとオヤジが目を細めた。
「今、ガキの遊びだと思っただろう? うちの名前交換はそんな甘ったるいものじゃないぞ。言うならば、大人の危ない遊びだ」
俺がガキの遊びだと侮っていたのを見透かされてぎょっとしたが、大人の危ない遊びという言葉の響きに背筋が寒くなった。オヤジは続けた。
「そうさ、危ない遊びさ。名前ってのはな、そいつが何者なのかを示す記号みたいなもんだ。それが入れ替わったら大変なことになる。例えば、ここに一郎という男と、二郎という男がいるとしよう」
一郎、二郎。オヤジは何の気なしに適当に言った名前なのだろうが、パチンコの勝ちに喜んでいた俺の心をえぐるのには十分だった。どうしても兄貴たちの顔が浮かんでしまう。オヤジは俺の様子に気付かずに話を続ける。
「その一郎っていう男が、まわりから「二郎」と呼ばれたとしよう。本人は「俺は一郎だ」といくら思っていても、まわりの奴らはすべてその男のことを「二郎」と呼ぶ。一人も例外はいない。そうなったら、その男は「二郎」として生きていくしかないだろう。うちの名前交換のシステムはそういうことなんだ」
聞きたくない名前が連呼される。俺の耳にはオヤジの話など入ってきていない。俺が上の空になっているのを見てオヤジは頭をかいた。
「わからねえか。バカな奴でもわかるように言ったつもりだが……。お前さん、憎たらしいとかうらやましいとか思っている奴はいるか。一人くらいはいるだろう」
「三郎……」
俺の頭の中に三郎のエビス顔が映った。
「いるようだな」と、オヤジは続ける。「お前さんがどうしてそいつを憎たらしいとかうらやましく思ってるかはわからない。そいつが金持ちだからかもしれないし、好きな女を横取りされたかもしれない」
「女だ。横取りってわけじゃないが、そいつの奥さんが俺の好みのタイプだった」
「なるほど。さっき言った三郎ってのは、その憎い男の名前か?」
「そうだ。それが名前の交換とかいう話と何の関係が」
するとオヤジがゴホンと咳払いした。そして、トレーに置かれた二枚のカードのうち一枚を手に取りながら言った。
「ここで、その三郎と名前を交換すれば、お前さんは今から三郎になる。見た目も何も変わらないが、名前だけ三郎に変わる。そうすると、まわりの人は誰もが、お前さんを三郎として扱うようになる。お前さんが好いてる奥さんってのも、お前さんの好きにできる」
そう言ってオヤジは、手にしたカードを窓口の奥の引き出しにしまった。その時ようやく、俺はオヤジの話術に騙されていたことに気付いた。変な話で言いくるめた隙にカードを盗もうって考えか。慌ててトレーに一枚残ったカードを手元に引き寄せる。
「くそっ。まだ換金してもらってないんだぞ。今盗んだやつ返せよ」
俺はそうは言ったものの、オヤジのデカい筋肉が視界に入ると、どうしても怒鳴りつける勢いが落ちてしまう。するとオヤジは小さく手を払った。
「ほら帰れ。名前の交換はもう済んだんだ。せいぜい楽しめよ、三郎」
言われるがままに追い返された俺は、駅の裏手の公園にやってきていた。パチンコで負けた時にはいつもこの公園のベンチで横になる。今日は負けたわけではないんだが、換金できなきゃ負けたのと同じだ。ああ、何なんだよ、名前の交換って。
普段使っているベンチに座った直後、どこからか「四郎」と呼ぶ声が聞こえた。嫌な予感がして駅の方を向くと、丸々と太ったエビス顔の男がこちらに歩いてきていた。三郎だった。そういえば、ここは三郎一家の住んでいる家の近くだ。三郎がここにいてもおかしくはない。こうして三郎の方から俺に声をかけてきたということは、おそらく借金を返せと催促しに来たのだろう。
「三郎、この前の金はあと一月、いや二週間待ってくれ」
俺は適当に言い訳の言葉を並べた。しかし、三郎はいつもと様子が違った。エビス顔が笑っていないのだ。
「さっき見たこともないチンピラっぽい男たちに絡まれた。そのチンピラたち、俺のことを「四郎」と呼んでいたんだ。どうやら俺とお前だと勘違いしているみたいだった。一体どういうことだ」
三郎はそう言いながら俺に言い寄ってくる。一体何の話だ。三郎を俺と勘違いしたのはそのチンピラの勝手だ。俺には関係ない。
「俺だって知らねえよ。勘違いしたそのチンピラに聞いてくれよ」
「いや、俺とお前を勘違いする人がいると思うか? 兄弟だが俺とお前は全然似ていないんだぞ」
「だから、知るかよ!」
俺は怒鳴りながらベンチから立ち上がった。丸々と太った顔の三郎と骸骨みたいな俺が、なんで間違われたのかなんて知らない。そんなこと俺に言われても困る。俺は三郎の顔をねめつけた。
その時、公園の入口の方にこっちを見ている女の姿が見えた。俺はその女の姿を見て声を詰まらせてしまった。そこにいたのは三郎の奥さんの秋子だった。
一体何を驚いているんだ。三郎の家がこの近くにあるなら、三郎の奥さんである秋子がこの公園にいてもおかしくはない。俺と三郎が言い争っているのを見て、止めに入ろうとしてこっちに声をかけてくるのも、全然おかしいことじゃない。
俺たちが言い争うのをやめて秋子の方を向くと、秋子は少し離れた所から声をかけてきた。
「三郎さんこんな所で何をしているの? それに四郎さんまで……」
秋子はそう言って俺たちの方をにらみつけてくる。タイプの女だと言っても、こんな表情でにらまれるのはつらいものがある。俺の前にいた三郎は、秋子の方に近づきながら言った。
「いや、今回のも全部こいつが原因なんだって。だから俺は何もしていないんだ」
三郎が秋子の目の前まで行った。次の瞬間、秋子の右手が振り上げられ、三郎の頬を引っぱたいた。
俺には何が起こったのかわからなかった。叩かれた三郎もわけがわかっていないようだ。秋子は叫んだ。
「四郎さん、もう二度と私の前には姿を見せないで!」
三郎に向かって秋子はそう叫んでいた。そしてすぐに俺のもとへと駆け寄り、手をつかんできた。
「三郎さん、帰りましょう!」
秋子は俺の腕が抜けるような勢いで引っ張ってきた。俺はわけがわからないまま、秋子に連れられて行くしかなかった。
秋子に連れられて、俺は三郎の家へと入った。リビングのソファに座り、三郎の娘の冬美と並んでマンガを読む。居心地が悪い。話の内容なんて頭に入ってこなかった。秋子は俺このことをまるで三郎かのように扱ってくるし、俺とはまるで似ていない顔の冬美は、俺のことを無邪気にパパと呼ぶ。俺のことをいたずらでからかっているのか。いたずらにしては手が込みすぎている。
やがて秋子が俺と冬美を夕飯に呼ぶ。秋子と一緒に飯を食べることを夢見たのは一度ではない。願ってもないことのはずだった。でも、三人で食卓を囲んで食べた夕飯はうまいとは思えなかった。俺は三郎じゃないと叫んで家から飛び出そうとも思ったが、そうするだけの勇気はなかった。夕飯を食べ終えると、俺は風呂に入った。人の家の風呂に勝手に入っているようで気分が悪かった。実際、人の家の風呂に入っているわけだが。
けれど、湯船につかって顔を洗うと、ぱっと頭の中に筋肉オヤジの顔が浮かんできた。昼間交換所で会ったあのオヤジだ。その顔を思い出すと同時に、俺は気付いた。
「もしかして、俺は三郎と入れ替わっているんじゃないか? あのオヤジの言ってたことは本当だったのか」
途端に浴室の中が明るくなったように感じた。蛍光灯の明るさなんて変わるわけがないが、俺の気持ちの整理がついたせいか、明るくなったように感じたのだ。そして、今まで人の家に勝手に上がっているようで居心地が悪かったのに、まるで何年も前から自分の家だったかのように居心地良く感じるようになった。
「俺は、三郎になったんだ。この家も、秋子も……全部俺のものだ……」
俺はそう呟いてから、にんまりと笑って湯に顔を映した。骸骨みたいな俺の顔が笑っているのを見て、俺は生まれて初めて自分が幸せ者だと感じた。
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