惰眠の技法

雷田(らいた)

第1話

 缶を開ける音。酒が喉を通る音。二人は向かい合って座っている。

 彼女は昔の映画で見たジョークの話をする。君はそれに相槌を打ちながら、チューハイの缶を持ち上げて口につける。缶を机に置き、また口に運ぶ。缶のまわりの水滴で手が濡れている。

 彼女の舌は止まることがない。彼女は三本目の缶を開けている。君は彼女のよどみなく動く口を見ている。

 ふいに、彼女は立ち上がる。缶が転がる音。窓を開ける音。彼女は窓枠に足をかけ、落下する。君は立ち上がる。短い悲鳴。すさまじい猫の鳴き声。暗転。

 君はいつも間に合わない。

 この部屋で起こったことは、それからずっと起こり続けている。


 目が覚めるといつも、何かを忘れてしまったという感覚だけがある。井原は横たわったまま、いったい歴史上、どれだけの人類の叡智がまどろみの中で失われたのだろう、と思う。井原の瞼はまだ重く、呼吸は遅い。ねっとりとした眠気は頭と手足の先にまとわりつき、井原をベッドに引き留めようとする。布団の外の冷気がそれに加勢し、井原にはなす術が無い。井原は力をふりしぼって瞼を開き、時計を見る。七時七分。まだイケる。井原はふたたびまどろみに身を任せることにした。すかさず柔らかな手が井原を包み、温かい眠りの中に引きずり込まれる。どこからか、穏やかな弦楽器の旋律が聞こえる。それは、まだこの世のどの楽譜にも書き留められたことのないメロディーだ。その音にあわせて、誰かが文字にされたことのない詩を呟く。それは井原の知らない言語だ。けれどその詩が讃えるものを、井原は知っている。モンゴルの肥沃な大地と、かつてそこに建てられた宮殿。大地を流れる聖なる河、楽器を奏でる乙女、楽園を築いた偉大な王。崇高なイメージを描くその詩は、ようやく完成しそうになる、そして……。

 けたたましいアラームが鳴り、再び井原は目を覚ました。モンゴルはたちまち忘却の彼方に消しとび、心臓がバクバクと鳴る音のことしか考えられない。井原は時計を見る。七時十五分。まだイケる。アラームを消し、井原は眠る。弦楽器が再び演奏を始める。ぼそぼそと詩を呟く声。井原の目の前に、輝く草原が戻ってくる。彼の王の名は……アラームが鳴る。七時二十分。うーん、まだイケる。弦楽器が……アラームが鳴る。井原は目覚めない。モンゴルの草原は朝露に輝いている。七時四十五分。

「ヤバい!」

 井原は飛び起き、人類が耳にしたことのない楽曲と、書かれなかった詩が失われる。井原は重い体をなんとか引きずって顔を洗い、髪をとかす。朝食を食べる暇はないので、ビスケットをかじりながら服を着替える。申し訳程度に歯を磨いて、家を出た。八時ジャスト。玄関の祭壇にはジローくんがいる。ジローくんの笑顔はいつも同じだが、いつも同じだけ眩しい。外の世界に出る前、ジローくんはいつも井原を励ましてくれる。ピンでとめたジローくんのアクリルキーホルダーの一つが落ちているのを見て、井原はそれを元に戻した。どんなに急いでいても、井原はジローくんをなおざりにはしない。

 井原はアパートの階段を駆け下りながら、ジローくんのことだけを考えようとした。ジローくんが放射する幸福だけを浴びて生きていけますように。ヒールが階段で滑りそうになるのに舌打ちした。井原は自分がどこに向かっているかを考えないようにする。左右の足を交互に動かすことだけに集中する。ジローくんが放射する幸福だけを浴びて生きていけますように。

 始業のベルが鳴る直前、井原は自分のデスクに滑り込んだ。上司は眉をひそめるが、遅刻したわけではないので、井原は何も言わなかった。

「今日は化粧してないんだね。寝坊したの?」

 上司の嫌味に井原は曖昧に「はあ」と答え、頭の中で上司を殴る想像をした。百烈パンチが華麗に決まる。そして、井原の本当の戦いはここからだ。なんとか布団からは抜け出してきたものの、睡魔はいつも井原の背中に張り付いていて、隙あらば井原を乗っ取ろうと狙っていた。その手が首筋に触れるのを感じる。この感覚が、もっと不快だったら良かったのに、と井原は思う。困ったことに、悪魔はいつだって感じが良くて魅力的なものだ。

 職場の暖房は効きすぎていて、井原の頭をじわじわと柔らかくする。井原は、自分の頭がバターで出来ているような気がしてくる。冷蔵庫から出して室温に戻したバターは、気づくと指でつまめるほど柔らかくなる。パソコンの画面から放たれる光は催眠術のようにゆらゆらと揺れ、目の奥で遠い日の夢のようになる。

 頭がガクリと落ち、井原は我に返った。慌てて立ち上がり、トイレの冷気で頭を冷やしてから席に戻る。井原は眠ってしまわないよう、ありとあらゆる努力をした。ハッカ油をハンカチに垂らして嗅ぐ。ペンで手の甲を刺す。ヒリヒリする目薬をさす。どうしても我慢できないときは、トイレで五分だけ仮眠する。画鋲で手のひらを刺す。効果がなければ、もうちょっと強めに刺す。

 はじめのうちは痛みで飛び起きたが、次第に井原はその痛みに耐えられるようになった。ついに井原の身体は、痛みを麻痺させてでも眠ろうとすることを覚えた。井原の手は、差した箇所が赤いまだら模様のようになっていた。睡魔はあらゆる刺激を無視した。音も、光も痛みも。何ものにも己の境界を侵させないという、断固たる拒絶が井原を覆っていた。問題は井原の意思よりも、井原の身体の方がはるかに強いということだ。井原の身体は覚醒を撥ね付ける。それに対し、井原ができることはほとんど無かった。

 あらゆる努力もむなしく、井原の眠気は収まらない。もはやこれは井原と身体の戦いだが、井原は敗北を運命づけられている。身体の支配から逃れられる意思などありはしない。

 意思の力で何ともならないのなら、武器に頼るしかなかった。井原は引き出しから眠気止めの薬を取り出した。井原はいつも覚醒剤やアデロールやモダニフィルを手に入れることを夢見ていたが、井原の安月給ではとても手に入らない。井原はもっぱらカフェイン錠を愛飲していた。カフェイン錠は貧乏人の親愛なる友人だ。

 カフェインを摂取しすぎるのが良くないことは分かっていたが、仕事中に眠りこけて職を失うことには代えられない。身体が井原を攻撃している以上、井原も身体を攻撃しないわけにはいかない。一日に60ミリグラムのカフェインを摂取しているにもかかわらず、井原には眠くならないことがなかった。おそらくもう中毒なのだろう、と井原は思った。

 井原は目をこらし、パソコン上に表示されたメールを読もうとした。視界はところどころでピントが合わず、ぼんやり滲んでいる。

社員総会及び業務カイゼン表彰式のご案内……我が社でのカイゼン運動は今年で十年の節目を迎え……各部署の部長が推薦を……総会後は懇親会を予定し……我が社でのカイゼン運動は今年で十年目の節目を迎え……我が社での懇親会は各部署十年目……

「……」

 読んでいる文書の内容が頭に入ってこないので、同じ箇所を何度も何度も読んだ。井原はヒヤリとした机の金属部分に触れ、眠気を追い払おうとした。ハッカ油を嗅いだ。効果はない。井原は、自分が瞼を開いているのか分からなくなってくる。ペン先を手のひらと手の甲に刺す。手のひらをつねる。ペン先を首の後ろに刺す。痛みは鈍く、なんの刺激ももたらさない。

 眠りは井原の頭を包みこむ。ゆっくりと井原の頭に入り込み、眠りの質量の分だけ、井原の頭は重くなる。遙か遠くで、ジローくんの声が聞こえる気がする。


 三度目はないからな、と上司は言った。そうして三度目があった。井原はクビを告げられる。大いなる眠りがあり、覚醒があった。そうしてこの話は終わる。

 一度目は井原にとっても意外だった。井原は職を変わったばかりで、少なくとも試用期間のうちはやる気を見せようと思っていたはずだった。ところが、ある朝目覚めると時計は始業時間を過ぎており、携帯には職場からの着信が三件あった。井原は飛び起きて電話をかけると平謝りし、着替えて職場へ向かった。

 二度目が起きたときには勤務時間中だった。どうやら井原は会議の間中、ぐっすり眠ってしまっていたらしかった。自分を起こした同僚の気まずい顔を思い出すと、井原は今でも全身から血の気が引く思いがする。

 三度目が起きたら辞めてもらうからね、と上司は言い、井原は念書に署名をした。もう絶対に失敗はできなかった。しかし三度目は起きる。それは避けようのないことだった。

 規則正しい呼吸の音、体温。それらはとても遠くにある。あるいは、すぐ近くにある。


 井原は渇いている。照りつける日差しが、皮膚をジリジリと焼いている。オレンジ色の大地の上で、井原は水を求めてさまよっている。ふと、どこかでポチャンと水音が聞こえる。初めは聞き間違いかと思ったが、しばらくするとまた聞こえた。音は断続的にポチャン、ポチャン、と鳴り続けている。音のする方を目指して、井原は歩く。うだる暑さで頭はボンヤリとし、歩き疲れた足はもつれる。音はだんだんとハッキリ聞こえるようになってきて、井原はそれだけを拠り所にして歩き続ける。そうして井戸があった。井戸の傍らには女が立っていて、足下から拾い上げた石を井戸に投げ入れている。水音は井戸の中から聞こえてくる。

「エミさん」

 井原が彼女の名を呼ぶと、エミさんは顔をあげる。この暑さの中でも、彼女はなぜか涼しげに見える。エミさんはすべての不快から自由なのだ。井原はよろめきながら井戸に近づき、中を覗き込む。井戸は深く、暗黒で、何も見えない。

「この井戸、水あるんですか」

 井原が尋ねると、エミさんはまた石を落とす。

「あるよ」

 井原とエミさんが耳を澄ませると、しばらくしてポチャンと音が響く。

「ね」

 エミさんが笑う。井原はそこにあるはずの水の冷気を感じようと、井戸に身を乗り出す。あ、と思ったときにはもう遅い。汗で手が滑り、井原は井戸の中に投げ出される。体が浮き、暗闇の中に吸い込まれる。外の光がすごい速さで遠ざかっていく。驚いて手を伸ばすエミさんの姿が見える。


 ガタン、と音がして井原は目覚めた。痙攣した衝撃で机の天板を蹴ったのだ。井原の背後では、ヒーターが井原の椅子を焼いていた。上司が立ち上がったのを見て、井原は観念した。

 

 井原は荷物をまとめ、同僚に簡潔に挨拶をし、職場を後にした。同僚はぎこちない笑顔で井原を送り出した。アパートに戻る間、井原は己を慰めようと、ゲッセマネの園で眠ってしまったキリストの弟子たちのことを考える。キリストに叱られたうえ、聖書に書かれてばっちり語り継がれてしまった弟子たちに比べれば、こんなのはどうってことない。キリストの弟子ですら眠りには抗えないのに、どうして井原にそれができるだろう。井原は起こったことの実感がないまま、家への道を歩いた。会社をクビになった日でも、いつもの道はどうしようもなく平凡だ。

 アパートに戻って最初に目にしたのは、ジローくんの祭壇だった。朝には元に戻したはずのアクリルキーホルダーが、また落ちている。この場所はバランスが悪いらしい。井原はキーホルダーを指先でつまんで、ピンにひっかけた。ジローくんの屈託のない笑顔が揺れる。ジローくんはいつも笑顔だ。ジローくんはいつもかわいい。ジローくんの放射する幸福だけを浴びて、生きていけたらいいのに。井原は爆発した。荷物の入った段ボールを放り投げて、玄関にくずおれ、そのまま寝そべって泣いた。井原は怠惰ではあったが、職を失っても気にしないほど無責任ではなかったし、無能として扱われることに平気でいられるほど鈍感でもなかった。頬に触れる冷え冷えとしたタイルは、しばらくすると井原の涙と体温を吸い込んで温かくなった。このまま自分の涙で溺れてしまいたい。とめどなく流れる涙で顔中を濡らしながら、井原は思った。昔読んだ『ふしぎの国のアリス』には、自分の涙でできた海を泳ぐアリスの絵があった。井原は全てを絞り出すように泣き続けた。

 泣き疲れて体が重くなると、すぐさま眠りが井原の頭を掴んだ。井原はそのままそこで眠った。砂利が頬に当たって痛かったが、そんなことはすぐにどうでも良くなった。まるでタイルに沈み込むように、井原は眠りの世界に落ちていった。重力が井原とタイルの間を行き来し、そしてまた井原と眠りの間を行き来していた。なにもかもが重く、億劫で、気怠かった。井原のはるか頭上から、ジローくんの祭壇が井原を見守っていた。静寂の玄関に、井原の寝息だけが響く。その瞬間、アパートの玄関は、ひとつの宇宙だった。

 しばらく経って目を覚ますと、井原の顔はタイルと砂利の痕でめちゃくちゃになっていた。まぶたが腫れ上がっているせいで、目がほとんど開かなかった。鏡の前に立つと、その顔が井原を惨めな気持ちにさせた。井原は顔を洗って砂利を落とし、髪をほどいた。夕飯を抜いたせいでお腹が空いているので、ビスケットをつまんだ。スーツを脱ぎ、寝間着に着替えて、今度は布団の上に寝そべった。会社に行かなくてもいいなら、別に無理して起きている必要はない。誰にも会わないのだから、ひどい顔をしていたって関係ない。井原はそのまま、再び眠りにつこうとした。

 しかし、玄関で縮こまって眠ったせいで、身体のあちこちがひどく痛かった。ベッドに寝転がっていても、背骨や足首がズキズキする。それに身体が冷え切っていて、とても布団だけでは温められそうになかった。身体を温めて凝りをほぐさなければ、という気持ちと、しかしこのまま全てを押し切って眠ってしまいたいという気持ちとがしばし格闘した後、井原は重い身体を引きずって風呂場へゆき、蛇口をひねった。また眠り込んでしまわないよう、井原は風呂桶の前に座って湯がたまるのを待った。勢いよく流れ出たお湯は、浴槽にぶつかって激しい音を立てる。次第に湯は浴槽の底を覆い、その高さを増した。浴槽を叩いていた蛇口のお湯は、次第に張られた体積の中に溶け込むようになり、水の音はどんどん小さくなる。水面は揺れながら風呂場の照明を映し、湯気が浴室を包む。その光景を見ながら、井原はまたウトウトし始めた。井原は温かい涙の海を泳いでいる。泳ぎが下手なので、正確にはなんとか浮いているだけだ。井原が必死に水をパシャパシャ叩いていると、四方八方からも同じような音が聞こえてくる。井原のまわりでは、ネズミや、ドードー鳥や、アヒルや、ヒインコが、同じように水をパシャパシャやっている。みんな泳ぎがひどく下手で、井原はこのままではみんな溺れてしまう、と思う。浴槽に垂らした手が危険なほど熱くなるのを感じて、ようやく井原は我に返った。慌ててお湯を止め、服を脱ぎ、どぶんという音とともに湯船に入った。


 水に浮いているときは、重力を感じない。井原は湯船に浸かり、痛めつけられた身体をゆっくり伸ばした。冷たい足の先に、血がめぐってゆくのが分かる。アパートの湯船はじゅうぶんに身体を伸ばせるほど広いとは言えないが、それでも熱い湯は効果てきめんだった。井原は目を閉じ、このままここで眠れたらどんなに良いだろうと思う。

人間の状態は三種類だ。生きている、死んでいる、眠っている。眠りは死の兄弟と昔から言う。眠っているのは、生きているのと死んでいるのとの中間ということになる。

 風呂に浸かって眠ることが危険なのは、井原も理解していた。通常の睡眠よりも死に近い。国の統計によれば、浴槽内での溺死は年間五千人を超える。井原は、羊水の中で眠る胎児のことを考えた。風呂場で眠るのが危険なら、羊水の中で眠るのも危険なんじゃないのか。胎児は、自分が生まれかけると同時に死にかけているということを理解しているのだろうか? 

 井原は自分の体温が上昇するのを感じながら、この後にやって来るだろう甘美な眠りに思いを馳せる。

 ひとは、深部体温が低下したときに眠気を感じる。つまり、スムーズに入眠するためには深部体温を下げる必要がある。例えば風呂に入ると、湯冷めにより急激に深部体温が下がり眠気が発生する。もしくは運動により体温を上げておくと、運動後にやはり体温が下がるので眠気を感じる。

 この入眠のメカニズムについて、時間をx軸、体温をy軸としてグラフに表すと、グラフは緩やかな曲線を描く。上昇した体温が、今度はグラフのx軸に接近し、滑り台のように下がってゆく。入眠が私たちの身体にもたらす変化――体温の低下、血圧の下降、代謝作用の低下、心拍・呼吸数の低下――をグラフにすると、すべてが下降線を描く。

 入眠は下降に支配されている。眠りに「落ちる」という言い回しが、それを裏付けている。

 永遠の眠りは無限の下降だ。急激な眠気は、より急な傾斜によってもたらされる。それはほとんど、崖の下へと真っ逆さまに落ちるための跳躍だ。

 跳躍と下降。井原はそのイメージに支配される。

 古代ギリシアの詩人、サッポーは、崖から飛び降りたという伝説がある。サッポーは、パオーンという名の若く美しい男に恋をした。しかし、パオーンがその愛を受け入れることはなかった。彼女はそれに絶望して自殺したとも、投身は逃れられない愛の熱情を治療するための方法だったとも言われる。

 オウィディウスの詩、「パオーンに宛てたサッポーの手紙」の中では、サッポーの夢の中に現れた水の精ナーイアスがお告げをする。報われぬ愛の炎から救われるため、レフカスの崖から身を投げよ。岩場から飛び降りることを恐れるな、と。

 井原は湯船に身を沈めながら、崖から飛び降りるサッポーを想像しようとする。彼女はゆったりとした衣に身を包んでいる。その雪のように白い布は、褐色の彼女の肌によく映える。黒い髪は乱れ、ほどけた束のひとふさが肩にかかっている。海から吹く風が、彼女の髪と、白い衣を揺らしている。彼女は青ざめた顔で俯いているが、やがて意を決して顔を上げる。

 高名な彼女を一目見ようと取り囲んでいた群集は、詩人がとうとう心を決めたのを見て静まり返る。

 恋人たちの崖と呼ばれたその場所は、恋の炎から逃れるために何人もが身を投げた場所だ。しばしば起こるそれは、地元の人間には刺激的な娯楽でもあった。ここから飛び降りて生き延びる確率は五分五分だ。

 彼はここにいるだろうか、と彼女は思う。私が送った手紙を読んで、ここまで私を追いかけてきただろうか。馬鹿なことはやめろと追いすがるために。しかし、彼女はすぐにその想像を振り払う。彼はそんなことはしまい。人間の身体を砕く崖や荒波よりも冷酷な男なのだから。

 彼女は目の前の岩場を睨み、力強く大地を踏み締めて駆け出す。風をはらんで白い布がはためく。「白い崖」という名のその岬を、彼女は走る。硬く厳しいその岩が、彼女の素足を痛めつける。彼女を見守る群集のなかに、ふと彼女がかつて愛し、裏切られた女の姿が見えた気がする。

 彼女の足が崖から離れた瞬間、衆人はどよめき、息を飲む。どこかで気の弱い婦人が恐怖に叫ぶのが聞こえる。彼女の頭の中ではお告げがこだまする。「恐れるな」と。自由落下に身を任せた瞬間、彼女の白い布は羽のように見える。彼女は永遠に飛び立つ。

 しかし、これはみな後世の文学者が好んで語った、まったくの虚構だ。サッポーがパオーンという青年に恋したなどという事実はないし、レフカスの崖から身を投げたという記録もない。そもそも、彼女の詩に歌われているのは、若い娘たちへの情熱的な恋情である。パオーンは神話上の人物だ。一説には、彼はもともと年老いた渡守だった。あるとき、老婆に変身したアフロディーテーを乗せたときに運賃を取らなかったため、女神に祝福され、若く美しい青年の姿に変えられた。そして、アフロディーテーは彼に恋をしたという。女神に愛された人間の青年。


 井原は浴室から出ると、最低限身体を拭いただけで眠った。めんどうなスキンケアも、ヘアオイルやドライヤーも、今はする気が起きなかった。布団に倒れこむと、井原の身体は吸い込まれるように沈み込んでいった。毛布は濡れた井原の身体に張り付き、井原の新しい毛皮になった。井原は自分がまったく別の生き物に生まれ変わる様を想像した。柔らかな毛並みの獣。その毛は身体の何倍も膨らんでいて、中心にある小さな骨と皮と内臓を守っている。毛を刈ったポメラニアンの身体が拍子抜けするほど小さいように、毛皮は井原の中心部分よりずっと大きい。

 井原は眠りに落ちる。深部体温が低下する。崖からの落下を続ける。彼女の身体を覆うこの巨大な毛は、落下する井原がいつか底に辿り着いたときの衝撃を吸収するためにある。井原は落ち続けた。これが最初の大いなる眠りだった。

 とにかく井原は疲れ切っていた。疲労は骨の中まで染み込み、身体はこわばっていた。なにしろ五分ごとにアラームが鳴ったり痛みで起こされたりする睡眠は、疲労困憊した体を慰めるには十分とはいえない。井原は自身が与えた攻撃が、身体を屈服させることはなくとも、それなりのダメージを与えていたことに気がついた。今まで随分憎んできた己の身体に対して、井原は急に申し訳ない気持ちになった。

そもそも、なぜ身体を憎んだりする必要があったのだろうか? 身体を痛めつけ、屈服させてまでしなければならないことなど、あるのだろうか? 井原に必要だったのは身体の求めるまま睡眠をむさぼり、世界の全てに背を向けることだったのだ。この疲労を癒すには大いなる眠りが必要だった。

 労働は井原の身体を縮こまらせていた。脚は曲がり、指は曲がらなくなり、顔は奇妙な形に張り付いていた。眠りはシワだらけで丸められたワイシャツに、アイロンを当ててゆく作業に似ていた。スチームのしゅうしゅうという音とともに、シワが伸ばされる。アイロンを当てた後のワイシャツは温かさを持っていて、生き物に生まれ変わったように思える。生命が誕生する。眠りが井原の身体にアイロンをかけ、丁寧にシワをのばす。やがて井原の身体は広がり、あるべき形に整えられてゆく。


 鼻の先が冷たくなっているのに気がついて、井原は目覚めた。吸い込んだ空気の感覚は驚異的だった。井原は眠りの偉大さに感謝した。ここ数ヶ月感じたことのない幸福が、井原を包んでいた。井原は毛皮を脱ぎ捨て、新鮮な空気が肌に触れるのを感じた。普段な寒すぎると思っただろうが、今はそれが心地よかった。井原は足の裏に触れるフローリングの冷たさを楽しみながらキッチンへ向かい、シリアルに牛乳をかけて食べた。牛乳はよく冷えていて、ちょうどよくふやけたシリアルはサクサクと軽快な音を立てた。

 井原はさらに食べられるものを探し、戸棚に忘れられていたポップコーンを発見した。賞味期限は少し過ぎていたが、井原は気にしなかった。フライパンを取り出し、ザラザラとコーンを流し込む。火をつけてフライパンが温まるのを待つ。しばらくすると、そのうちのひとつがポン、とはじけた。少し遅れて、もうひとつ。すると、ポポン、ポポン、と次々弾ける。その変わり身の鮮やかさが、井原を感心させた。ポップコーンが弾けるのを見ると、井原はなぜだか泣きたくなった。出来上がったポップコーンは温かく、塩をふるといっそう美味しかった。幸福だった。

 ポップコーンを食べ終えた井原は、もう一度ベッドに入って眠ることにした。横になって目を閉じると、窓の外から鳥の声が聞こえた。公園で遊ぶ子どもの笑い声が、遠い夢のように響いている。きっと窓のサッシにはテントウムシがとまっているだろう。日の光が透明なガラスをすり抜け、床に四角い模様を作る。光の中で細かなホコリが舞う。部屋の中には透明なレジンが流し込まれ、日の光に照らされながら、小さな気泡を残してゆっくりと固まる。妖精が窓ガラスにベタベタと触り、小さな足で駆け回る。彼らの笑い声が部屋に響く。井原は薄れゆく意識の中でそれを聞く。そうだ、海へ行こう。枕の下に隠していた銀貨で馬を買って。母さんに伝えて、もう陸には戻らないって。


 無職になって井原がしたのは、まず眠ることだった。なにしろ仕事に行かなくて良いということは、これ以上身体が思い通りにならないことに苛立つ必要も、身体と不毛な戦いを繰り広げる必要もないということだった。ここに来て初めて、井原は身体との和解に至った。

 井原は一カ月をそのまま過ごした。ネットフリックスを見て、食事をし、寝た。だが、主に眠っていた。一度、時間があるときにしかできないのだからと、ずっと前に買っただけで読んでいなかった本を読み始めた。読書は久しぶりだったので、読むのにずいぶん苦労した。集中力が続かないので、ところどころに休憩を挟む。二十ページを過ぎたあたりから疲れが溜まってきて、気づくと床に転がったまま眠っていた。ふたたび開いているページから読み始めようとしたが、まったく内容が分からなかった。眠っている間にページがめくれたのか、既に読んだぶんの内容を忘れてしまったのか、井原には分からなかった。

 外に出るのは、食料を買いに行くときと、ゴミを出すときだけだ。スーパーで安売りになったおにぎりをいくつも買って冷凍し、空腹で目が覚めたときにおかゆにして食べた。時間の感覚はとっくに無くなっていた。好きな時に起き、好きな時に食べ、好きな時に眠った。起きてもまだ眠り足りなければ二度寝をした。二度寝でも足りなければ、三度寝、四度寝をした。井原は何時間でも続けて眠ることができた。井原には人と会う約束も、外出の予定もなかったので、好きなように眠ることができた。眠るのは自由を行使することだった。

 あるとき、目覚めると携帯に着信があったことに気がついた。実家からだった。井原はかけ直そうかと思ったが、携帯の表示が夜中の三時なのを見てやめた。井原は七時にアラームをセットし、もう一度眠った。アラームをセットしたのは、この一か月で初めてだった。

 七時に忌々しいアラームが鳴ると、井原は携帯を叩きつけようとしたが、画面に「親に電話」と表示されているのを見て思いとどまった。そうだ、電話をかけ直さなくちゃ。だが、携帯のロックを解除する前に、井原はふたたび眠りに落ちていた。今では井原はいとも簡単に眠れるようになっていた。彼女は崖の上でぐずぐず迷ったりしない。自分でも気づく前に跳び降りているのだ。

 再び目が覚めると、昼の十二時だった。まあいいか、と思い、井原は親に電話をかける。三コール目で母親の声が出た。それはまるで知らない人のように聞こえた。彼女の声の調子から、怒りと心配がない混ぜになっているのが分かる。

「最近、ちっとも連絡してこないから心配になって。LINEにも返信がないし」

 井原は、LINEの通知をオフにしてずいぶん経つことを思い出した。誰かと誰かが会話をする度に、通知のポン、という音に眠りを邪魔されるのは耐えられないからだ。

「ちゃんと食べてるの? 夜は眠れてる?」

 もちろん、井原はちゃんと食べて寝ていた。食べて寝ることしかしていないのだから。母親は矢継ぎ早に質問を繰り出す。

「仕事の方はどう? 大変?」

 井原はようやく夢から醒めた心地になって、口を動かした。

「会社クビになった」

 井原は自分がそのことを口にしたら泣いてしまうのではないかと思ったが、意外にも気持ちはひどく落ち着いていた。会社をクビになったのも、何年も前のことのような気がする。そのことで自分を恥じたりもしていなかった。今はただ、自分はあるべき状態にあると感じていた。

「いつ?」

「一か月くらい前かな」

 井原には確証がなかった。今が何月何日で、仕事をクビになったのがいつのことだったかも、上手く思い出せない。

「一か月も? 次の仕事は見つかってるの?」

「まだ」

 それどころか探してもいない、ということはとっさに伏せた。母親は井原を労ってはいたが、その声に失望の響きがあるのは明らかだった。

家に帰ってきてもいいけど、お父さんやお母さんだっていつまでも元気なわけじゃないんだからね、と言われて、井原は「家に帰るつもりはない」と言い返した。もともと家に帰る気などなかったが、退路は断たれているのだ、ということを思い出した。

「エミちゃんはどうしてる?」

 母親の言葉に、井原の喉が引きつった。

「知らない」

それだけ言って、井原は電話を切った。母親から電話がかかってくることは、もうなかった。

 井原は通話時間の表示されたスマートフォンをしばらく眺めたあと、ブラウザを立ち上げて「転職」「リクルーター」と打ち込んだ。まともな人間なら、会社をクビになったときにやっているべきことなんだろう。井原は画面に指を滑らせながら、目に付くサイトの紹介文を読むともなく読む。転職サイトの写真の人物はやる気に満ちていて、期待に胸を膨らませている。井原は企業が労働を賛美するグロテスクさに目眩を覚えながらも、そのサイトのうちの一つに登録する。何度も入力を間違えて井原は苛立ったが、登録完了を知らせるメールを見ると一仕事終えた気になった。今日はこれで十分だろう。井原は己の進歩を内心で褒め、また眠りについた。

 週末、転職フェアがやるという情報が届いていた。登録したサイトのメールを井原が確認したのは、イベントの前日だった。井原は普段ほとんどメールを確認しないので、そのタイミングでメールを見たことには、ほとんど啓示めいた何かがあった。

 井原はクローゼットから、大学の入学式のために買ったリクルートスーツを引っ張り出した。就活のときに着て以来だ。井原が持っているスーツはこれだけだった。それから、クローゼットに押し込められて形の変わってしまった黒い鞄。踵がすり切れ、つま先に細かな傷がついた黒のパンプス。ストッキングは腿の部分が破れたものしかなかったが、スカートを履けば隠れるだろう。

 やることは山ほどある。パソコンを立ち上げ、サイトにアクセスし、履歴書代わりのシートを書き込み、受付用の予約シートを印刷する。出展者の一覧に目を通し、見学したい企業のブースにあたりをつける。履歴書の添削や、キャリアコンサルタントの面談を予約することもできる。あまりにたくさんのことをこなさなければならないので、井原は尻込みした。一日でこれだけのことをするのは、働いていたとき以来だ。井原は何度も眠りそうになりながら、なんとかすべてをこなした。ようやく準備を終えたときには、もう当日の明け方になっていた。横になったら夜まで寝てしまうだろう。井原は仕方なく、出かける時間までアニメを見て過ごした。

 ストッキングで出かけるには寒い季節だった。トレンチコートにはライナーがないので、この時期に着るには頼りない。けれども、スーツの上に着られるコートを、井原はこれしか持っていなかった。井原はよろめきながら転職イベントの会場に脚を運んだ。タイトスカートは足にまとわりつき、一歩進むのにも一苦労だ。眠り続けて弱った体幹には、パンプスでバランスを取りながら歩くのはひどく堪えた。人が密集しているのを見るのは久しぶりだった。井原は一人きりでいることに慣れすぎて、それらはどうにも現実の人間には思えなかった。井原は企業ブースを回り、地元の企業が出展しているのを見つけた。

 井原は座って順番を待った。井原の前には三人のスーツ姿の人物が並び、それぞれ今の仕事の話や、大学での専攻の話をしていた。担当者は全員にさっそく来週面接しましょう、と言い、じゃあ時間は、と言い、表に名前を書いていく。この企業は積極的に面接をするつもりらしい。井原はここなら希望が持てるかもしれない、と思った。膝に乗せた手が汗ばんでいる。会場は暖房が効きすぎて暑いくらいだ。上昇する体温に意識を奪われるうちに、井原は起きているのが苦痛になってくる。こんなに長く起きているのは久しぶりだった。眠っている間に、まぶたの筋肉も衰えたに違いない。久しぶりに体重を支えた背骨がピリピリと痛む。重力にひっぱられ、頭が落ちそうになる。

 井原の番が来た。井原は慌てて頭を起こし、履歴書を取り出した。担当者の前に座り、ぺこりと頭を下げる。今までやってきた仕事と、会社が自分の地元なので愛着があるという話をした。担当者はなるほど、と言い、しばし二人は地元の話をする。担当者はそれ以上の話をしない。沈黙。井原は何を言っていいか分からず、闇雲に話をつなげようとした。この会社に入ったら、こんな仕事を担当してみたい。こんなことに興味がある。だが担当者は面接の時間の話をしない。井原の手は汗で滑りそうになった。担当者は曖昧な笑みで話を切り上げようとする。井原は自分と、自分のキャリアに失望した。

 井原は企業ブースを離れ、予約しておいたキャリアコンサルタントの面談に向かった。井原には自分のキャリアをどうしたいなどという思いは無かった。ただ、食べるのに困らないだけ、欲を言えば老後に困らないだけの収入を得て、できる限り働かずに生きたいだけだ。コンサルタントのブースに入る前、井原はトイレで顔を洗った。暖房で火照った身体を鎮め、眠気を追い払い、情けなくて我慢できなくなった涙を洗い流した。

 キャリアコンサルタントは井原とあまり年の変わらない女性で、ひとつに結んだ茶色がかった髪の先まで、己の見え方を完璧にコントロールするという意思に満ちていた。その雰囲気が、井原を萎縮させた。井原は履歴書を渡し、希望の職種と勤務条件を伝えた。キャリアコンサルタントの完璧な笑顔の下に、井原は嘲笑を見る。あるいは、見た気がした。キャリアコンサルタントは丁寧に、井原の希望の職種に就くことが難しいこと、希望の年収がいかに高望みか説明した。前の会社の条件はとても恵まれていたのに、なぜ辞めたのか聞かれる。井原は答えられなかった。

 井原は泣きながら会場を後にした。イベントが終わるまではまだ何時間もあったが、もう一秒たりともこの場所にいたくなかった。井原は駅の近くの家具屋のトイレに篭り、しばらく泣いた。少し落ち着いてから、個室を出て、顔を洗った。このまま部屋に帰りたくはなかった。これでは、また家に帰って泣き続けて、仕事をクビになった日と同じように目が開かなくなるほど顔が腫れるだけだ。井原は携帯で地図アプリを開き、「占い」と入力した。近くのショッピングモールに占いコーナーがあることが表示され、井原は迷わずそこに向かった。井原は占いを信じていない。それでも占いに行けばネガティブなことは言われないし、自分の求めていることを汲み取って、曖昧に希望を持たせるようなことを言ってくれる。占いは思考と判断のアウトソーシングだ、と井原は思う。自分の判断に余ることは外部委託に限る。そういう意味では、キャリアコンサルタントと占い師は同じ職業だ。

 占い師は中年の痩せた女性で、きれいなネイルをしていた。細かなパーマの茶色い髪が肩にかかっている。彼女の職場は、ショッピングモールのエスカレーターの側に立てられた小さなブースだ。こんな場所で神秘を語るのは、さぞかし難しい仕事だろう。井原は占い師の前に座り、テーブルに並べられた色とりどりのカードを眺めた。妖精の絵が描かれたオラクルカード。占い師はトランプのようにそのカードを切り、ひとつの山にしてふたたびテーブルの中央に置いた。サッポーは水の精のお告げで身投げした。もちろん、それはオウィディウスの創作だが。

「何が知りたい?」

 占い師が尋ねた。

「将来のこととか。全体的に、いろいろ」

 井原には自分が何を知りたいのか分からなかった。井原はただ、何か安心できることを聞きたいだけだ。

「仕事を……クビになったんですけど、新しい仕事が見つからなくて」

「知りたいのは仕事のこと?」

 たぶんそうではない、と思う。仕事をしたいわけではないのだ。だが、井原の中にまだ僅かに残された世間の目が、それを言うことを許さなかった。労働を厭うのは幼稚で現実を見ていない、という価値観が。井原は黙って頷いた。

「手を触ってもいいですか」

 占い師が尋ねる。どうぞ、と井原が言うと、占い師は椅子を持って井原の隣に移動してきた。彼女は井原の手首を握り、井原の手をトントンと井原の腿に当てた。トントン、トントン、と規則正しく手が腿に触れる。占い師は目を閉じて、何かを掴み取ろうとしている。井原はその感覚が心地よくて、自分も目を閉じた。誰かが自分の手首を握っている感覚、本当はそれを求めていたのかもしれない。占い師は目を開き、井原の手を離した。

 彼女は椅子を持って元の位置に戻り、「五枚かな」と呟いた。一枚、二枚、とゆっくりカードを取り、井原の前に並べてゆく。妖精の絵の下には、それぞれ英語で短いフレーズが書かれている。「春」、「新しい世界」、「忍耐」、「姉妹」そして「恋人」。

「姉妹はいる?」

 占い師がカードを指して尋ねた。

「一人っ子です」

「恋人は?」

「うーん、……いません」

 占い師は少し考え込んだ。

「姉妹っていうのは、血の繋がったきょうだいでなくても、近しい関係にある女性のことを指すかも。恋人は、新しい世界でこれから出会うってことかな」

 そんな拡大解釈が成り立つんなら、カードの意味なんてないんじゃない。井原は内心で彼女を小馬鹿にし、それから自分がそうしたことに落ち込んだ。自分に彼女を馬鹿にする権利などない。占い師は「忍耐」のカードを指差した。

「変化は来てるんだけどね。でも、今は耐えるときだから。焦らなくて大丈夫」

 井原の母くらいの年齢のその人は、やせていてしわが目立った。井原は礼を言って立ち去った。腿にはまだ、自分の手が触れていた感覚が残っている。


「今は耐えるときだから、焦らなくて大丈夫」

 これが井原の新しい哲学になった。焦らなくて良いというのなら、好きなだけのんびりしよう。たいていの人と同じく、井原は占いの結果は自分に都合の良い部分だけを信じることにしていた。

 そうと決まれば、転職サイトのことなどは忘れて、好きなだけ家で怠けるに限る。井原は通帳の預金額を眺め、計算した。

 井原はジローくんのこと以外にはほとんどお金を使わなかったが、貯金は少なかった。前の会社は働き始めてから数ヶ月しか経っていなかったし、それまでもずっと派遣でしか働いていなかった。井原は、ただ生きていくだけでかかるお金を計算する。住民税、国民健康保険税、水道代、ガス代、電気代、携帯代、食費、家賃……。家賃は本当に問題だった。井原のような事務職の若い女が、そして今ではその職すら失った女が、一人暮らしで2DKのアパートを維持するのは容易ではない。切り詰めても数ヶ月が限界だろう。しかし、許される限りは、井原はこのアパートに留まりたかった。

 今はまだ英気を養うときだ。それが妖精のお告げなのだ。私にはまだ睡眠が足りていない、と井原は自分に言い聞かせた。

 井原は家に引きこもることに決めた。近所のスーパーへ出向き、そのための食糧を調達した。サバ缶を山ほどと、カンパン、カップラーメン、スパゲティ、インスタントスープ、クッキー、チョコレート、羊羹、アルファ化米。いつ電気代を払えなくなるか分からないので、冷蔵庫に入れておかなければならないものはなるべく買わない。例外はゼリー飲料で、これは目が覚めたときに手早く喉を潤すと同時に栄養を摂取できるので、冷凍しておく分を計算に入れて大量に買う。

 年末が近いため、お節の材料が山と積まれていた。お節は何日も持つのだから、これもありかもしれない、と井原は一瞬思った。井原にも、人並みに年始を祝いたいという気持ちはある。だがお節の材料は高すぎるし、豆を炊く気力もなかった。

 井原はそうめんがどこにあるか尋ねようとするが、店員は目まぐるしく動いていて、何度も声をかけそこねた。

 彼女たちは、まるで止まることを許されていないかのように動き続ける。井原はその速度に恐れを抱き、そうめんを探して売り場を何周も何周もした。

 結局、井原はそうめんを買うのを諦め、レジへと向かった。きっと、冬にそうめんを食べる人は少ないから置いていないのだ、と自分を納得させた。売り場で動き回る店員とは対照的に、レジに立つ店員は不動だ。彼女たちはポジションを崩さず、床から足を離さない。上半身と手の動きでカゴからカゴへものをうつし、金額を読み上げる。

 井原のカゴから商品を取り出すたび、店員は怪訝そうな顔をした。来たるべき大規模な自然災害に備えて、防災用の食料を備蓄しようとしているように見えただろうか。井原は自分が災害を予言する魔女にでもなったような気分で、自分が買ったものたちの山を見つめた。

 井原は段ボールを抱えて帰路に着く。街はもうすっかり冬景色だ。錆びたトタン屋根の上に雪が降っている。冷たい風が顔にふきつけ、井原の気力をくじこうとした。井原は口笛を吹いてやりすごそうとしたが、歯がガチガチと鳴るので諦めた。スーパーからアパートまでの道はたいした距離ではないが、それでも井原の体温を奪うには十分だった。おまけに荷物が重いせいで、井原の足は遅々として進まない。

 だんだんと指が痺れてきた。ただでさえ寒さでかじかむ指先が、段ボールの重さで耐えがたく痛んだ。これほどの物を買ってアパートへ帰るのは初めてだった。疲労困憊して帰ってくると、玄関でジローくんの笑顔が迎えてくれる。やっぱり、ジローくんの祭壇は玄関に置いて正解だな、と井原は思う。井原は、段ボールいっぱいに抱えた食材をキッチンの床に並べた。これは戸棚、これは冷蔵庫、これは枕元。特売になっていたインスタントスープの箱も、整然と並べると芸術作品のような神聖さを帯びて見える。

 本当なら、常識的な人間はお節で家にこもる季節だ。こたつに入って、みかんを食べて、テレビを見ながら家族で談笑する。井原の部屋にはこたつがないので、そのどれにも縁がなかった。

 己を慰めるために、これは労働からのストライキなのだ、と井原は思うことにした。つまり、消費より生産が、休息より労働が尊ばれることに対する、異議申し立てをしているのだ。常に働いていなければ生きていけないのなら、怠けながら死んでやる。

 井原がするのは巣ごもりではない、冬眠だ。可能な限り眠り続けて春を待つというのが、井原の計画だった。おあつらえ向きに、井原の部屋はいつも寒かった。築年数四十年という古さや、壁の薄さ、日当たりの悪さだけでは説明のできない冷気が、常にこの部屋を覆っているのだ。冬眠をするには、寒さの中に身を置かなければ。

 冬眠中の哺乳類は大幅に体温が低下し、心拍数や呼吸が減少する。体温は、周囲の環境より若干高いだけの程度まで冷たくなる。冬眠する生物は、生き延びるために限りなく死に近づく。

 井原はいま、極限まで死に近づくための準備をしようとしている。

「死ぬっていうのは、すごい冒険だろな」

 井原はネバーランドに住む、永遠に大人にならない男の子のセリフを呟いた。

 寒さに耐える脂肪を蓄えるため、井原は食事にとりかかった。まずは腐りやすいものを消費するため、冷蔵庫の中を仕分けする。卵や牛乳、野菜を取り出す。五人前はあるだろう、野菜たっぷりのオムレツを作った。それから、大量のホットミルク。

井原はアニメを見ながら、たっぷり三時間かけてそれを平らげた。本当なら、卵は一日一個までにするべきだということを、巨大なオムレツをフォークで切り分けながら思い出す。だが、何日か卵を食べずに過ごせば、平均すれば一日一個以下になるはずだ。

 飽きてきたらケチャップやソースで味を変え、井原はもくもくとそれだけを食べた。ようやく皿を空にした井原は、カップの中で、ミルクの表面が揺れているのに気がついた。ふと窓を見ると、カーテンも揺れている。井原はカーテンをめくったが、窓は閉まっていた。窓ガラスに映った井原の透明な顔は、幽霊のように見える。井原は身震いして、カーテンを閉めた。この部屋にはいつも、どこからか隙間風が入るのだ。井原はすっかり冷めてしまったミルクを運び、レンジで温めた。


 すべての準備を終えた井原は、満を持してベッドに寝そべった。マットレスは二足歩行で変に力のかかった腰を労り、緊張したふくらはぎを包み、上に乗せて歩くには重すぎる頭を受け止めた。

 重力のかかり方、力の入り方、何もかもが正しかった。すべてが、あるべきところにある。これが人間の本来あるべき姿勢だ、と井原は思った。起き上がって歩こうなどと思うことが間違っている。人類史がこれほどまでに悲劇の連続であることの原因は、まず二足歩行を始めたことに違いない。こんなにも巨大な地球の重力が、生物を抱き止めようとするのに抗おうとしたのだから。重力に逆らうのは、ひどい間違いだ。

「極楽、極楽。寝るより楽はない。知らんたーけは起きて働け」

 井原は母親の口癖を呟き、おかしくなってクスクス笑った。井原の身体はマットレスにずるりと沈み込み、そのままべっとりとへばりついた。毛布は井原の新しい毛皮になる。夢の中で、井原は何か知らない生き物になって眠っている。それは熊のようにも見えるし、シマリスのようにも見える。井原は冬眠をする。人里から離れて、遙か群衆を離れて、井原のアパートはまどろみの窪になる。

 眠りの中へと引きずり込まれながら、井原は目覚めを夢見る。あの清々しい感覚をまた味わいたい。目が覚めたら、春になっているはずだ。


 井原は身体を丸め、ボール状になって眠っている。フサフサした尻尾は身体に巻き付き、井原の顔を隠している。ヤマネになった井原は、落ち葉の下の浅い土の中で冬眠している。眠りにつく前にヤマブドウをたくさん食べたので、身体には脂肪をたくさん蓄えることができた。土の上には、もう雪が積もっているころだろうか。井原の体温は摂氏一度近くまで下がっている。だが、冬眠期間中に定期的に起こす中途覚醒のときには、蓄えた脂肪を急速に消費し、わずか五十分ほどで体温を三十六度まで上げることができる。井原は春の夢を見る。春になったらマメザクラが咲くはずだ。木の上を駆け回り、マメザクラの蜜を食べるのが待ち遠しい。

 あるいは、井原はコウモリだ。洞窟の天井に足の爪をひっかけ、懸垂のように足を伸ばしてぶらさがっている。洞窟は冷たく、静まりかえっている。井原は身体を守るように、自分の翼で包み込んでいる。井原の心臓は拍動のスピードを緩め、心拍数は一分間に二十回ほどまでに減少している。呼吸は一分間に一回になり、数回呼吸をするとしばらく呼吸を停止する。ゆるやかな呼吸の音だけが、岩肌に木霊する。

 井原はシマリスだ。地下に作った巣の中では、枯れ葉と苔のベッドが井原を優しく包み込む。巣いっぱいに貯め込んだミズナラのドングリは、つやつやと食べられるのを待っている。井原は一週間眠り続けたあと目覚め、また眠る。目覚めたときには巣の中に作ったトイレで尿と糞を排泄し、蓄えた食物を食べる。


 井原が目を醒ますと、あたりは血の海だった。布団の外が寒くて震えたので、まだ春が来ていないことを知った。井原はのろのろと自分の体を点検して、目立った外傷がないことを確認した。それから腹の中の痛みを自覚して、それが経血だと理解した。血の一部は既に乾いて、黒ずんだ紫色になっていた。

 痛みさえなければ、生理のときの異常な眠気は冬眠に便利だな、と井原は思った。身体が変に熱く、全身が気怠かった。冬眠をするには、体温が下がっていなければいけないというのに。

 だんだん意識がハッキリしてくると、腹の中の痛みはそれに伴って増していった。井原はそれでも気力を振り起こして、シーツをはがして洗濯機につっこんだ。部分洗いをする気力はなかった。パンツとパジャマだけは、かろうじて手洗いをして部屋の中に干した。水が真っ赤に染まってゆくのを見ながら、井原はマクベス夫人のことを考えた。呪われた血の染みを洗い落とそうとした夫人と、「マクベスは眠りを殺した」と言われたマクベスのことを。眠ることができないとは、なんと恐ろしいことだろう。けれども井原の下着の血は落ちたように見えたし、井原はまた眠ることができるはずだ。

 

 井原は便器に座ったまま、経血が落ちるのを待った。尿に経血が混ざって、便器の中は真っ赤になった。久しぶりに排泄をしたせいで、膀胱が少し痛い気がした。だが、やはり生理痛なのかもしれない。井原には区別がつかなかった。

 人間の三代欲求は食欲と睡眠欲と性欲だと言われるが、井原はそれに納得していない。性欲なんかよりも、排泄欲の方がもっとずっと切実なはずだ。性欲は眠りを中断させないが、排泄欲は眠りを中断させる。それが井原には忌々しかった。井原は可能な限りずっと眠っていたいのに、尿意はそれを許さない。

食欲と排泄欲と睡眠欲。食欲と睡眠欲は行き過ぎると不道徳とされるが、じゃあ排泄欲は? ところかまわず排泄するというのはもちろん迷惑になりうるが、排泄をしすぎるということによって、不道徳とされることがあるのだろうか。そもそも、度を越した排泄欲などというものが存在するのか分からないが。

 けれども、たいていの人間が世界に生まれ落ちて最初にたたき込まれるディシプリンは排泄についてだ。それは多くの場合、トイレトレーニングと呼ばれる。思えば井原はだいぶ大きくなるまでオムツがとれなかったし、小学生になってもしばしばおねしょをした。生まれ落ちて最初のディシプリンすら、井原は落ちこぼれだった。

 再び眠りにつくにあたって、経血をどうするかが問題になった。夜用であってもナプキンでは無理だろう。なにせ、井原は何時間もぶっとおしで眠るのだ。井原は介護用のオムツを買うことにした。これなら排泄を我慢する必要もないし、生理の間も安心だ。ディシプリンなんてくそくらえだ。文明の利器があれば、精神力なんていらない。井原は痛み止めを飲み、スーパーで介護用のオムツを買い込んだ。レジの店員がどんな顔をするかは、もう気にしなかった。

 井原は新しい下着(つまりオムツ)と新しいスウェットパンツと新しいシーツを用意し、満ち足りた気持ちでようやく横になった。だが、ベッドに入ってから、激しい眠気が既に過ぎ去ってしまっていることに気がついた。代わりにやって来たのは、強烈な痛みだ。下腹部がねじ切れそうになり、胸がムカムカする。井原は眠れなくなる。布団をかぶり、ただ呼吸だけをして、痛みに耐えた。外からの痛みは眠りに対してほとんど何ももたらさなくなっていたが、内側からの痛みは眠りに対抗することができるらしかった。井原は用法を守らず、さらに痛み止めを飲んだ。だが、痛みが治まる気配はない。痛みに集中していると、井原の身体は縮んでいった。ついに腹の中心に宿る痛みだけが井原の本体になった。ズキズキと痛むリズムに合わせて、井原の全身が呼吸し、拍動していた。

 おまけに、井原は怒りに支配されていた。痛みで苦しんでいるときに、心の余裕を持つのは難しい。何もかもが井原を苛立たせた。公園で遊ぶ子どもの声。どこかの部屋の住人が練習している篠笛。隣人が階段を上がってくる音。スーパーの袋を扉の前で一度置く音。鍵を取り出す音。鍵穴に差し込む音。それらの全てが、まるで脳の中の糸を引っ張るように腹立たしかった。

 井原は窓を開け、全世界に向けて叫びたい衝動に駆られる。うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。うるさいんだよ、お前ら全員。眠り続ける生活を始めてから初めて、井原は「眠れない」ということの恐怖にとりつかれた。痛みで冷や汗がでて、おまけに吐き気がする。

 だがふいに眠りが井原の肩を掴み、井原は瞬時にまどろみの世界に引きずりこまれた。眠りがやって来るのは突然だった。いや、本当は、眠りはずっと存在していて、ただ痛みの影に隠れていただけなのだ。痛みが少しでも力を弱めたときに、眠りは姿を現す。眠りが力を弱めると、今度は押さえつけられていた痛みが復活する。その繰り返しだ。そうして、井原は眠りと痛みを何度も行き来する。生理のときというのは、存在するだけでひどく疲れる。


 一週間が過ぎ、痛みが次第に去ってゆくと、井原は再び眠り始めた。長距離ランナーが少しずつ走る距離を伸ばすように、井原の眠る時間もだんだん長くなっていった。初めは八時間で必ず目が覚めていたのが十時間になり、十二時間眠ることが普通になり、今では二十時間以上目を醒まさないことも珍しくなかった。

 過度の睡眠が不道徳だとされているのは、井原にとっては不幸なことだった。井原には間違いなく、惰眠を貪る才能があった。他のいかなる側面においても井原には生きる才能がなかったが、ただ眠ることだけに関しては、井原は驚異的な能力を有していた。不眠に苦しむ大勢の人のことを思えば、それは本当に才能と言って良かった。だが、この才能は決して認められることがない。


 手が下りてくる。その手は水の底へ底へと伸び、沈みゆくものを手のひらに捕まえる。手はゆっくりと、それを水面へと引き上げようとしている。

 井原は起き始めている。覚醒に引き上げられる少し手前の浅瀬で寝転びながら、井原は占い師が引いた「恋人」のカードのことを思い出していた。井原に恋人がいないというのは正確ではない。「恋人」の定義を辞書で引くとこうだ。「恋の思いを寄せる相手」。つまり、「恋人」というのが「交際している相手」ではなく「恋しく思う相手」だとすれば、井原には恋人がいる。

 井原の恋人は、井原とは違う宇宙に住んでいる。このことは井原と恋人の関係において重要だ。まず、井原の住む次元と彼の住む次元では、時間の流れ方が違う。井原の住む次元に比べて、彼の住む次元は時間の進み方がひどく遅い。井原の恋人は、井原とはまったく違う時間の流れを生きている。井原が彼に初めて会ったのは十四歳のときだが、井原が二十五歳になるまでの十一年間、彼は一歳分も歳をとっていない。彼の次元では時たま時間が混乱する。確固たる過去はなく、現在に過去が乱入することもある。彼に来たるべき未来があるのかどうか、井原は知らない。

 井原の次元は彼の次元を知覚し得るが、彼の次元は井原の次元を知覚し得ない。もしくは、知覚し得ないということになっている。それはちょうど、井原が四次元の存在を知覚し得ないのと同じことだ。そして、二次元に住む三角や四角に、三次元の球の存在を説明するのが困難であるのと同じことだ。

 井原が初めて出会ったとき、ジローくんは同い年だった。彼は十四歳で、中学生で、テニス部に所属していた。いつも眠たそうにしていて、たいていの場合は本当にところ構わず眠っている。けれど、ひとたびテニスの試合になると目を輝かせて飛び跳ねる。そのフワフワした髪と、泣きたくなるくらいの笑顔が、井原を掴んで離さなかった。彼は今も十四歳で、テニス部員で、そして泣きたいくらい可愛い。

 ジローくんは少年漫画『テニスの王子様』の登場人物だ。井原はその読者だ。井原は、ジローくんに十一年間恋をしている。

 井原にとってのジローくんはピーター・パンだった。無邪気で、かわいくて、そして大人になるということがない。

 もしくは、ジローくんはエンデュミオーンだった。ラトモスの山で羊飼いをしていたが、月の女神ポイベーに愛され、永遠に眠り続けたまま歳をとらなくなった、美しい少年。彼もまた、アフロディーテーに愛されたパオーンのように、女神に愛された美しい人間の男だ。けれども、井原はアフロディーテーでもポイベーでもない。井原は、年老いずに眠り続けるジローくんに置いていかれる側だ。井原はいつも、ジローくんの時間に少しでも近づくことを夢見ている。

 冬眠は、生命の速度を一〇〇分の一に減速するという。井原がしているのは本当の冬眠ではない。いくら食べ物を食べようと、井原の体温は〇度近くまで下がらないし、数ヶ月目が覚めないということもない。井原は本当に冬眠する動物を羨ましく思う。

 それでも井原は自分が始めたこの眠りが、ジローくんの時間に近づくのに役立てばいいのにと思う。

 ジローくんへの愛を何に例えたら良いだろう。学校の先輩への報われない片思いとは違う。遙か遠くのステージで輝くアイドルに焦がれることとも違う。一番近いのは、死んでしまったハリウッドスターに恋をすることかもしれない。スクリーンの中で永遠に輝くジェームズ・ディーンや、リバー・フェニックスに恋をすること。存在しない人を愛することは、死んでしまった人を愛することと似ている。彼らは年をとるということがない。どんなに愛そうと、それに応えるということがない。もし誰かが存在したことの証拠が人の記憶と記録しかないのなら、井原の脳に住み、紙に印刷されたジローくんは、過去と同じくらい実際に存在していることになる。井原のジローくんへの愛をどんなに人が馬鹿にしようと、未熟で無責任だと罵ろうと、間違いなくそうなのだ。

 中学生のころはまだ良かった。漫画のキャラクターに本気で恋をしていると言っても、若者の痛々しい青春、一過性の青い熱情くらいに思われていた。友人たちも同じようにアニメや漫画のキャラクターに熱狂していたし、何も井原に限ったことではなかった。高校に上がるとそれは日常的なからかいの種になり、大学になると心配され、隠すべきものになった。今では井原はジローくんを愛しているということを、本当に信頼している数人にしか話していない。

 井原はぼんやりと起き上がり、玄関に飾ったジローくんの祭壇を眺めた。ここはジローくんのグッズの中でも、特にお気に入りのものだけを集めた場所だ。立てかけた大きなコルクボードに、OVA第二巻の特典だった描き下ろしイラストシート、スイーツパラダイスとのコラボのアクリルミニチャーム、ゲーセンのプライズのだるま型ぬいぐるみ、軍服風のコスチュームに身を包んだジローくんの手ぬぐいなどが、隙間なく整然と並べられている。アクリルキーホルダーの一つが落ちているのを見つけ、井原はそれをあるべき場所に戻す。

 そこにはアクリルの板にジローくんが印刷され、四角い布にジローくんが印刷され、丸い缶バッチにジローくんが印刷されている。人間がすべて原子から成るのと同様に、ジローくんは印刷されたときの網点から出来ている。SF映画で宇宙の別の場所にいる人をホログラムで映し出すように、これらのグッズは別の宇宙にいるジローくんの姿を映し出している。

「ジローくん」

 井原が呟く。ジローくんは絶対に井原に答えない。彼は常に、大いなる沈黙をもって井原に対峙する。それはどうかすると、神に問いかけるのにも似ていた。けれど、これはもっと孤独だった。神は人間を愛している――少なくとも、キリスト教徒はそう言う――が、ジローくんは井原を愛していない。いや、ジローくんは井原のことなんて知らない。なぜ私たちは、自分を愛さない人を愛するのだろうか、と井原は思う。それから、死んだ人を愛するのと、この宇宙に存在しない人を愛するのでは、どちらが辛いのだろう、とも。


 井原は眠りに落ちる。入眠という名の下降は、何千回味わっても飽きるということがない。重力にまかせて落下することには、不思議な甘美さがある。ウサギ穴を落ちていく『ふしぎの国のアリス』のように、井原の身体は長い長い暗闇を落下してゆく。

 井原と一緒に、あらゆるものが落下する。枝がついに重みに耐えられなくなったリンゴ。放物線を描いて水を切り裂く飛び込み選手。ラケットに打ち返されたテニスボール。すべてが重力の影響を受けている。眠りが落下だとすれば、より強力な重力は、より大きな眠りをもたらすだろう。

 そして、ジローくんのいる世界は、きっとここより重力が強いのだろう、と井原は思う。井原の知るところでは、重力の強さと時間の進みは関係している。少なくとも、アインシュタインがそんなようなことを言ったはずだ。井原はベッドで眠ったまま、それを理解しようとする。アインシュタインは一日に十時間も眠ったそうだから、睡眠は重力に関する重大な真実を教えてくれるに違いない。

 ここに箱を用意する。箱の底と天井には鏡が張られていて、箱を閉じていると鏡が向かい合わせになる。この鏡の間を、光が反射するとする。天井から出発した光が底に反射して天井に戻ってくるまでの、一往復する間を一つの単位として、時間を計る。これを光時計と呼ぶことにしよう。光時計を横向きにして、遙か上空から落下させる。落下する間も、光は反射して動き続ける。しかし、光時計自身が落下しているので、光は鏡に対して垂直ではなく、斜めに反射することになる。光の速度は一定だから、進む距離が長くなったぶん、一往復に係る時間は長くなる。つまり、重力によって時間が遅れる。まったく理解できないが、つまりそういうことなのだ。

 映画『インターステラー』で主人公たちのたどり着く重力の強い星では、一時間過ごすうちに地球の七年が過ぎる。ましてやブラックホールの周囲であれば、その時間の遅れは計り知れない。地球から見れば、その場所の時間はほとんど止まっているように見える。そして、重力が強すぎて、光さえも脱出できなくなる地点を超えると、ついにその姿を見ることは不可能になる。――この境界線を、事象の地平線と呼ぶ。

ジローくんは事象の地平線のふちに立っている。バランスを崩せばブラックホールの暗黒に飲み込まれる、ギリギリのところに。地球の時間に換算すれば、ジローくんの時間はほとんど止まっている。ブラックホールの重力によって光の波長が引き延ばされるので、ジローくんの様子を直接見ることはできない。けれども井原は、ジローくんがそこにいることを知っている。ブラックホールの発する重力波が、時空の海原を越えて井原の元に届く。ジローくんの居る場所には重力があり、井原のいる場所にもまた重力がある。万有引力とは、引き合う孤独の力である……。ジローくんがいる世界の孤独は、いったいどれほどなのだろう。宇宙の寒さを思って、井原は身震いする。


 大家がやってきたときに井原が目覚めていたのは、まったくの偶然だった。子供がいたずらに弾いた鍵盤ハーモニカのような間の抜けた音が部屋に響いて、それが玄関のチャイムだと気がつくまでにずいぶんかかった。

 井原はのろのろと玄関に向かった。寝間着のままだったが、起き抜けだったのでとても着替える気力はなかった。指先に注意深く力をこめて鍵をあけると、いらいらした様子の大家が立っていた。大家は井原の祖母より少し若いくらいの女性で、いつも品の良い格好をしている。大家は井原の姿を見て、驚いた顔をした。

「あなた、大丈夫なの?」

 そう言われて、井原は自分がずいぶんひどい格好をしていることに改めて気がついた。寝間着は何日も着たままなので汗を吸っていたし、オムツもしたままだ。髪を最後に梳かしたのはいつか、顔を洗ったのはいつかも思い出せない。大家は気まずそうに、今月の家賃がまだ支払われていないと言う。

「ねえ。やっぱりこの部屋、一人で住むには広すぎるんじゃない? それに……」

「いえ、ここがいいんです。家賃は払いますから、心配しないでください」

 まだ何か言いたげな大家との話を無理矢理切り上げ、井原はドアを閉めた。玄関の祭壇ではまたジローくんのアクリルキーホルダーが落ちていて、井原はそれを元に戻す。

 井原は家賃を口座から引き落としてもらうことに決めた。これなら、今までのように毎月大家に会う必要がない。なぜ最初からそうしなかったのか、井原は悔やんだ。どんなに計画を立てて準備をしても、井原はいつも何かを忘れている。しかし、家賃を引き落としにするには、口座に十分な残高があるように注意しなければならなかった。

仕事をしていない井原にとって、いかにして金を得るかは重要な問題だった。それも、できるだけ眠りを阻害しない方法で。最も手っ取り早いのは、持っている物を売ることだった。井原はさっそく取りかかった。どのみち、眠っているだけなら必要のないものばかりだ。読み終わった本。読んでいない本。空になった本棚。もう聞かないCD。仕事用のオフィス・カジュアルの服。出かけるときのお気に入りの服。互いに絡み合ったアクセサリー類。使いかけのネイルポリッシュ。

 井原はふと自分の爪を見た。仕事用に塗ったベージュのマニキュアは爪の半分ほどになり、眠っていた間に伸びた爪がもう半分を占めていた。井原は乱暴に爪を切ると、除光液を引っ張り出し、ボロボロになったマニキュアを落とした。伸びた部分の爪は縦に筋が入っていて、指の腹で触るとざらざらした。マニキュアに覆われていた部分は、塗る前にやすりをかけたのですべすべしている。きれいに磨かれた部分と、筋張った爪の境界。ここが、井原が眠り始めたときを表している。爪に時間が刻まれていた。

 井原は何もかもを売った。何度も何度も中古ショップに足を運び、家具や家電も売り払った。井原の部屋の中は、いまやほとんど空だった。眠るのに必要な寝具と、お湯をわかすのに必要な鍋、そしてジローくんに関連するもの以外、何も残らなかった。中古ショップは人を馬鹿にしたような金額しか出さなかったが、テレビとパソコン、スマートフォンはそれなりのお金になった。

 井原は受け取ったお金を口座に入れ、また安心して眠りについた。これで少しの間は、来訪者に煩わされることもないはずだ。


 あたりはとても暗い。興奮した息づかいが聞こえて、大勢の人が密集している気配がする。この場所の一点だけが、ライトに照らされて明るい。井原は息を潜めて、ステージに立つジローくんの影を見ている。横浜アリーナの空気が震える。

 ライトに照らされた輪郭を、何もかも覚えておきたいと思う。くるくる髪のふちが強すぎる光に透けている。ニコニコ笑いながら、大きく腰をそらせてジャンプする姿。頭をかく仕草。頭の後ろで手を組む姿勢。

 ああ、ジローくんだ、と思った瞬間、汗がふきだす。自分の吐き出す息が、興奮で熱い。井原はペンライトの色をせわしなく変え、首にかけたタオルで汗をぬぐう。何千人もの見知らぬ人と、声を揃えて歌う。ペンライトが左右に揺れ、アリーナの中に光の波を作る。演出のために吹き出されたシャボン玉があたりに浮いていて、本当に水の中にいるかのようだ。水色の光のさざなみ。その波の上に、ジローくんがいる。

ジローくんは仲間とおそろいの水色のケープをまとって踊り、彼が回る度にケープがはためく。役者がジローくんを解釈し、その身体をもって表現しているにすぎないと分かっていても、彼が肉体を持って存在するということが、井原を圧倒する。それはきっと、ジローくんのイデアを写した洞窟の影に限りなく近い。井原は役者の身体をとおしてジローくんを見る。決して井原を見ることのないジローくんが、その瞬間だけは井原を見ている気がする。それは役者と観客の間だけに許された、幻想を媒介とした儀式だ。決して顕現し得ないはずのものを、その場に蘇らせようとするための。彼らが真っ白な光の中でそろってポーズを決めるとき、そこにはほとんど神聖さがある。

 何十もの影のゆらめきがステージの上で躍動し、何千もの人がそれを見つめて熱狂する。今この横浜アリーナにいる、何千もの名前も知らない人のエネルギーのことを井原は思う。このエネルギーがあれば、ほんとうに何でもできそうな気がする。手に入らないはずの幻想を現実に変えることが、酸素が自然に姿を変えて金になるような、熱力学的奇跡が起こりうるのではないか。

 井原は、隣に立つエミさんの横顔を見る。エミさんの切りそろえられた前髪の端に、エミさんの瞳の中に、無数のペンライトの光が反射して、彼女はまるで泣き出しそうに見える。井原もつられて泣きそうになる。井原は、私はジローくんが好きで、ここにいる人たちが好きで、エミさんのことが好きだ、と思う。それほど多くの人たちを愛しく思うことは、幸福と呼んでいいほどの恍惚だ。


 コンサート後の深夜のファミレスで、井原は人工的に油っこすぎるネギトロ丼をつついている。コンサート会場の暗闇に慣らされた後では、LEDに照らされた部屋は眩しすぎて現実に思えない。エミさんはパンケーキをとっくに食べ終え、今夜の思い出に浸るのに忙しい。

「season大好きだから、歌ってくれて嬉しかったなあ〜」

 エミさんはカバンにつけたジローくんのアクリルキーホルダーを手の先で弄ぶ。「推しを自引きすること」にこだわるエミさんがそのために多大なる浪費をしたことを、井原は知っている。

「あの人数でする氷帝コール、ほんとに最高ですね」

 井原はドリンクバーのウーロン茶でネギトロ丼の油を流し込む。

「ていうか、ジローくんほんと、可愛くてやばくなかったですか、心臓とまる」

「ほんとほんと、頭なでられるジローちゃんのかわいさ~」

 井原とエミさんは顔を見合わせ、うふふ、と笑い合う。二人の脳裏には、脳髄が焼き切れるのではないかと思ったステージ上での光景が映し出されている。

「はー、明日からまた生きていけるわ。どんだけ嫌なことあってもさ、これのために頑張ろうって思うもん。命の洗濯」

 井原はネギトロ丼を口に含んだまま、エミさんの言葉に頷いて同意を表す。エミさんは時として怖いくらい井原と思考を共有していて、井原は何も言う必要がなくなる。

「ジローちゃんが放射する幸福だけを浴びて、生きていけたら素敵だね……」

 エミさんはぽつりと呟く。井原は頭の中で、その言葉を繰り返す。ジローくんが放射する幸福だけを浴びて、生きていけたら。


 部屋の中で、誰かが囁いている。井原はまだ半分眠ったまま、意識の隅でその声を聞く。何を話しているのかは分からない。日本語のようにも、知らない国の言葉のようにも聞こえる。その声は井原の耳を心地よく刺激して、より一層眠りの世界に引き寄せる。その声に聞き覚えがある気がして、井原は安心する。深夜に布団にくるまって、こっそりと聞くラジオのようだ。あるいは、聞こえないはずの星のまたたきや、河原の石のささめき。子どものころ、眠りつつある井原のそばで、両親が声を潜めて話しているのを聞いたときのような気持ち。

 井原が目を覚ますと幽霊がいた。

 なぜそれを直感的に幽霊だと思ったのか、井原には分からない。幽霊と呼ぶには異様な姿だった。それは真っ白なドレスを着ていた。そんなドレスを、井原は美術館の絵画か、中世が舞台の海外の映画でしか見たことがない。裾は床に引きずるくらいの長さで、袖は裾が大きく広がり、ゆったりとした布が折り重なって両手を隠していた。頭には真っ白なベールをかぶっていていたので、どうかすると花嫁衣装のようにも見えた。だが、ベールはまったく透けず、前も後ろも同じ長さで頭を隠していた。頭だけ見ると、ハロウィンに子どもが仮装するおばけのようだ。白いシーツをかぶって、目だけをくりぬいたおばけ。けれど、目の前のベールには、視界を確保するための穴は開いていない。ベールの下から呼吸は感じられなかった。井原には、それが本物の幽霊だという証拠のように思えた。

 幽霊はベッドの前に立って、じっと井原を見ていた。幽霊は何事かをささやいたが、不明瞭で聞き取れなかった。ずっと聞こえていた声は、この幽霊のものだったのだ。

「だれ?」

 井原は尋ねた。ずっと眠っていたせいで、口がうまく動かなかった。唇の皮がひどく荒れていたので、上唇の皮と下唇の皮が引っかかって、口を開くのにすら苦労する有様だった。幽霊は何かをささやいたように聞こえたが、何かを答えたのか、ただドレスが床にこすれて音をたてたのか分からなかった。幽霊はゆっくりと部屋の中を歩き回った。不思議と、井原はまったく怖くなかった。腹の音が部屋に響いて、井原は自分が空腹であることに気がついた。ひとまず幽霊のことは無視して、何か食べることにした。立ち上がって歩くのがひどく難しく、台所にたどり着くまでに何分もかかった。

 冷凍庫にはウィダーインゼリーがもうなくなっていたので、戸棚の隅に落ちていたカップラーメンを取り出した。

 鍋に水を張り、コンロをひねってみる。まだ水道とガスは止められていない。ということは、まだ預金は底をつきていないのだろう。井原は自分が眠り始めてから何ヶ月経ったのか、分からなくなっていた。井原の部屋にあるカレンダーは何年も前のもので、日付ではなくジローくんの絵を見るために飾っている。携帯を解約したのは早まったかもしれない、と思ったが、日付を確認するために携帯を持つのもおかしな話だ。

 お湯がコポコポ沸き始めるのを見つめていると、すぐ側に幽霊がいるのが分かった。幽霊は井原よりずいぶん背が高い。井原には、幽霊は自分を傷つけることはないだろうという確信があったが、それが何故かは分からなかった。

 井原はうどんのカップにお湯を入れ、折りたたみのローテーブルまでそれを運んだ。幽霊も井原に着いてきて、ダイニングをさまよい始めた。

幽霊はずいぶんと井原の部屋に慣れているようだった。ソファと床の間に挟まったり、カーテンにぐるぐる巻かれたりして、気ままに過ごしている。自分に幽霊が見えるようになったのが今だっただけで、本当は前からこの部屋に幽霊がいたのだろう、と井原は思った。だからこの部屋はこんなに寒いのだ。知らない間に本のページがめくれ、風もないのにカーテンやカップのミルクが揺れる。それにしても、こんな古めかしい服を着た幽霊は、本当だったら格式高い幽霊屋敷、それも洋館に出るべきだ。井原の2DKのアパートではなく。

 うどんのフタを手で押さえて熱を感じながら、井原は鼻歌を歌った。それはジローくんのキャラソンだった。ジローくんのキャラソンを歌うと、井原はいつも死にたくなる。ジローくんのキャラソンには、井原が彼に恋い焦がれ続けた中学生のときからの苦しみを、全部思い出させるような力がある。

 幽霊は、井原の鼻歌にリズムを合わせるようにゆらゆらと揺れている。その背丈を、覗き込むとき猫背になる背中を、ベールの中にあるであろう寂しげな目を、井原は知っている気がした。

 井原がうどんを食べ始めると、幽霊は興味を失ったのか、ふらふらと歩いて行ってしまった。どこに行くのか気になって、井原はカップうどんを持ったまま、その後を着いていった。幽霊は玄関で立ち止まり、ジローくんの祭壇をじっと眺めていた。幽霊もジローくんが好きなのだろうか、と井原は思った。幽霊が袖に覆われた手を伸ばした。デフォルメされた絵柄のジローくんが笑っているアクリルキーホルダーを手に取ろうとして、けれども布が邪魔をして、パタリとキーホルダーが落ちる。いつも一つだけ落ちているキーホルダーと、同じものが。

「エミさん?」

 声に出すと、それはほとんど確信に変わった。なぜ気がつかなかったのだろう。井原は息を呑んだ。突然、だまし絵のもう一つの絵柄が見えたときのように、一度見えてしまうともう見ずにいることは不可能だった。井原はうどんのカップを落としかけて、すんでのところでそれを拾った。

「エミさんなんですか?」

 井原の声は掠れていたが、小さくはなかった。幽霊は黙って井原を見たが、答えない。あるいは答えたのかもしれないが、井原には聞き取れなかった。

 井原は占い師の並べたカードのことを思い出す。「春」、「新しい世界」、「忍耐」、「姉妹」、「恋人」。「姉妹」がエミさんのことだとしたら。「恋人」がジローくんだとしたら。耐え忍んで「春」を迎えれば、「新しい世界」がやって来る? 井原は自分がいつの間にか占いを真剣に受け止めすぎていることに気がついて、馬鹿らしくなった。井原が沈黙すると、幽霊はふたたび、ジローくんのアクリルキーホルダーを掴もうと手を伸ばした。



登場人物

井原 二十代半ばの女。小柄。不器量ではないが、卑屈な印象。

エミ 三十代はじめの女。やせがたで、背が高い。聞き取りやすい声をしている。


場面――アパートの一室。夏の暑い日の夜。現代。

舞台の指示――幕があくと、井原とエミがテーブルに向かい合って座っている。二人の周りにはチューハイの缶が転がっている。井原はうとうとしながら、酔って饒舌になったエミの話を聞いている。


井原 あ、もうつまみがない。

エミ こないだ大量に買ったウエハースあるけど、食べる? 新テニのシールついてたから。

井原 それは嫌です。

エミ ウエハース、好きじゃないんだよなあ。どうしよう。(缶チューハイを一口飲む) ウエハースってさ、子どもの頃はよく食べさせられたけど、大人になると食べることあんまりないよね。

井原 そう言われれば、そうかもですね。

エミ この歳で好きでもないウエハース大量に買うとか、意味わかんないよね。老後の資金貯めろよ〜。

井原 えー、それ、自分で言います? それに、エミさんが散財しすぎなのは今に始まったことじゃないですよ。ジローくんのグッズ、何個も同じやつ買ってるじゃないですか。

エミ (口をとがらせて)そうだよ。でも買わないと、それはそれでストレス溜まるしさ。ずっとこんなこと続けられないって分かってるけど……。


 井原、エミが言葉に詰まったのを見て、少し気まずくなる。


井原 まあ、不健全だと分かってても、やめられないことってありますよね。

エミ 不健全でも、それが愛だもん。ジローくんと結婚できるわけじゃないし、私がジローくんを愛してるって目に見える形で残しておけるの、これだけなの。

井原 愛の視覚化作業だったんですか。

エミ そうそう、愛の視覚化作業ね。


 エミ、ふと黙り込み、何か考え込むような顔をして次の缶に手を伸ばす。だんだんと眠気に襲われる。


エミ 馬鹿なことしてるって思う?

井原 どうかな。愛の形は人それぞれでしょう。

エミ 陳腐! でも、陳腐なことって、いくらかの真実があるよね。誰にだって、愛する対象は必要だよ。……愛じゃなくて、人をこの世につなぎとめるものって言い換えてもいいけど……。それって、他人にはなかなか理解されないよね。自分の子どもや恋人ならまだしも、たとえば好きなアイドルだったり、漫画のキャラクターだったり、あと一個で割引券のスタンプが貯まることだったり、Amazonの買い物カゴに首を吊るためのロープがいつも入ってて、死のうと思えばいつでも死ねると思うことだったり……。人を落下から食い止めてくれるのは………。結局のところ……。


エミ、眠りかけてがくんと頭が下がる。慌てて頭を起こし、よだれを拭う。


エミ こんなジョークを知ってる? 十階建ての建物から落ちた男がいた。いや、五十階だったかな。まあいいや。とにかく、それで男は落ちながら、各階の連中に言った。「まだ大丈夫だ」

井原 それ、映画で聞いたことあります。『荒野の七人』?

エミ うーん、私が見たのはフランスの映画だったと思うけど、まあいいや。それで、このジョークはすごく…………人生についての示唆に富んでるんじゃないかって思うわけ。(まじめくさった顔をした後に吹き出す。井原もつられて笑う。)

井原 死ぬ瞬間まで、自分が死ぬことがわからないってこと?


 井原、チューハイの缶を持ち上げて口につける。缶を机に置き、また口に運ぶ。缶の周りの水滴で手が濡れている。ここから、エミの言葉の調子はだんだんと強くなる。芝居がかった身振りを始め、せりふの途中で、舞台を歩き回り始める。次の台詞は、極力息継ぎをせず、まくしたてる。井原はエミのよどみなく動く口を見ている。


エミ うーん、ちょっと違っていて。死すべき定めの私たちは、最後に死という結末が待っていることを分かっていながら生きていかなきゃならない。つまり、破滅の瞬間がやって来るのが最初から分かってるのに、目をそらせないし、避けられないし、できることはほとんど無い。で、人の一生は、まさに飛び降りた後に、落ち続けてるのをスローモーションで見てるみたいなもの。問題は、私たちは自分が何階から飛び降りたのかも覚えてないし、分からないくらい酔ってるってこと。地面は迫ってる。なのに、多くの人は自分たちが落下していることを意識していない。なぜなら、世界も一緒に落下しているから。自由落下するエレベーターの中では、重力を感じない。無重力状態で浮いているのと同じ。でもエレベーターは落下している。着地は避けられない。


 エミ、突然窓を開け、窓枠に足をかける。井原は驚いて立ち上がる。エミは振り向くことなく、そのまま落下する。井原は手を伸ばすが、間に合わない。悲鳴。


暗転。


 井原の体が痙攣したようになって、ベッドの上で飛び起きた。悲鳴を上げた気がするが、それが夢の中なのか現実なのかは分からなかった。ひどく汗をかいていた。井原は何度も同じ夢を見る。繰り返すうちに、エミさんとの会話は曖昧になって、どんどん芝居がかり、現実味がなくなってくる。これが本当にあった会話だったのか、今ではもう井原には分からない。確実に思い出せるのは、エミさんが窓枠に足をかけ、そして落下したということだ。井原の目の中にはまだ、落下し続けるエミさんの姿がある。井原は手を伸ばすが、いつも間に合わない。エミさんは叫ばない。叫ぶのはいつも井原だ。エミさんがなぜ身を投げたのか、井原には分からない。酔っていたこと、いつも仕事の愚痴を言っていたこと、いつだってお金がなかったこと、どれも決定的な理由には思えなかったし、どれも十分な理由に思えた。

 どんなに考えても答えは出なかった。エミさんに問いかけても、答えるのは大いなる沈黙だけだ。サッポーは美しい青年に恋焦がれ、レフカスの崖から飛び降りたという。だが、それは文学者たちの創作だ。エミさんはジローくんと同じように、もう老いることのない人になった。


 彼は湖の淵に立っている。

 湖の向こうの景色を目に焼き付けようと、彼はじっと息を止めている。重く垂れ込める雲の中でときおり光が走り、ものものしい太鼓のように遠雷が響く。彼は二十を過ぎたところで、今朝髭を剃ったばかりの顎をしきりに撫でている。髪は短く切りそろえられ、さっぱりとしていた。

 湖のはるか向こうには、森がおごそかに鎮座している。冬の空気と森の神聖さに彼は身震いし、肩かけマントを引き寄せる。寒さは厳しいが、しかし春の気配がどこかに感じられる。豊穣を願う春の祭典は、終わりに近づいていた。雌牛が地母神ネルトゥスの乗る荷車を引く音が聞こえてきそうだ。女神の従者たる彼は、春の恵みをもたらすために村々を巡ってきた。その役目もそろそろ終わる。

 村人の一人に連れられて、彼は村長の家に呼ばれる。彼の前に粥が運ばれてくる。彼は土でできた椀を持ち上げ、粥の湯気を吸い込む。草の匂い。粥を流し込むと、腹の中の一部が温かくなるのが分かる。粥の中に含まれる穀類や草の種のにおいで、そこに命があるということを感じる。

 粥を食べ終えると、村長が彼についてくるよう促す。彼は先の尖った皮の帽子をかぶり、小屋を後にする。彼は村長の後に続いて、ヒースの茂った谷底の道を歩く。春になったら花をつけるだろうリンゴ、サクラの木を、彼は横目で見る。そうして、彼は一本のマツにたどり着く。

 マツの周りには、既に人が集まっている。彼はゆっくりと息を吐き、マツの下に置かれた粗末な作りの踏み台に足をかける。村人は興奮した様子で彼を見ている。彼は自分を見つめる人たちの顔を眺める。彼は穏やかな笑みを浮かべ、ずっと前から決まっていた終わりを受け入れる。彼の首に縄がかけられる。踏み台が外され、彼は落下する。彼は吊るされる。


 井原は眠っている。

 「泥のように眠る」とはよく言ったもので、井原は泥の中で眠っていた。身体をとりまく全てが重く、湿っていて、身体にまとわりつく。初めのうち、井原は自分が眠りの中に落ちてゆくのだと思っていた。だが、この頃では眠りの方が井原に覆い被さり、包み込んでしまうような気がする。眠りは巨大で、果てが無く、湿気を含んでもったりしている。そうして井原と眠りは一体化してしまい、井原はどこまでが自分で、どこからが眠りなのか分からなくなる。

 眠りが液体状であることは、疑いようがないように思う。それは泥のように一定の粘度を伴う場合もあれば、波のように軽やかな場合もある。けれどもとにかく、それは水に似ている。(サッポーに身を投げるように告げたのは水の精だった!)眠りに落ちた身体は弛緩し、溶け出してゆく。

 井原は意識の端のほうで、誰かが近くにいるのを感じる。泥の中なので目を開けることはできないが、確かに誰かが井原のそばで眠っている。彼は右側を下にして、腕を曲げている。井原はほとんど超自然的な力で、それが今から二千三百年ほど前に、ユトランド半島で死んだ男であることを知る。豊作を祈るため地母神に捧げられた彼の顔は、タールを塗られたように黒い。儀式で吊された彼の遺体は、沼沢地に投ぜられた。そして……驚くべきことが……起こった。湿原の摂氏四度以下の水温が、彼の肉体が腐敗するのを防いだ。水に含まれるタンニン酸が、彼の肌を丁寧に鞣した。水中の深さが彼をウジやキツネやネズミから隠し、酸素の欠乏がバクテリアを拒絶した。そうして、彼は一九五○年に二千年以上を経て発見されるまで、その身体を保ち、穏やかな顔で眠り続けていた。時を超えて眠る男。

 彼は裸だ。とんがり帽子と、腰に巻いたベルト以外は何も身につけていない。しかし、井原が注意深く観察すると、彼の首に縄がかけられていることに気がつく。彼の命を奪った縄だ。井原は突然、自分の首に縄が巻かれるのを感じた。恐怖に喉が引きつる。誰かが縄を引っ張ったような気がする。


 井原は飛び起きた。不快な汗をかいていて、全身がぐっしょり濡れていた。空気は重苦しく、沼のようだ。この湿度の高い国では、ときどき空気ぜんぶが重苦しい沼のようになる。しかし、ユトランドの湿地が起こした奇跡は日本では起こりそうにない。井原の身体は一瞬で腐敗し、沼の中に溶け出してしまうだろう。

 湿度。それに気がついて、井原は春がやって来たことを知った。乾燥した冬の空気は消え去り、穏やかな陽気に辺りが包まれていた。あの男は、ユトランドの冬を耐えて、春を待っていたのだ。新しい世界が来るのを待っていた。

 幽霊は部屋の隅で井原を見ていた。それはほとんど、井原を心配しているように見えた。


 春になったら目覚めるという最初の決意は、もはや忘れ去られていた。井原は眠り続けている。この頃では、井原にとっては目覚めるということがすっかり難しくなった。身体は眠っている状態の方に慣れてしまっていて、重力に逆らって身体を起こすというのは大変な重労働だった。眠り続けた井原の筋肉は衰え、腹筋で上半身を支えるのが困難だった。ただ重力に誘われるままに、眠りの床につくということが、井原にできるすべてだった。重い物体であればあるほど、引力は強くなる。井原は己の下の巨大な地球が、すさまじい引力で自分を引っ張っているのを感じた。井原はただその力に跪き、頽れ、頭を垂れて、ひれ伏すしかなかった。

 井原のアパートはそれ自体が今や巨大なベッドであり、沼だった。

 けれども、このまま脳みそがすべて溶け出してしまう前に目覚めるべきだ、というのは井原にも分かっていた。井原は目覚めなければならない。頭の後ろの方で、小さなコオロギがそう囁いているのは分かるのに、どうしても目を開くことができなかった。

 ジローくんが身体を持たないということが、ここに来て問題になった。井原はジローくんのキスで目覚めることができない。王子様のいない眠り姫。グリム童話のお姫様には、目覚めさせてくれる王子様が必要だ。しかしペロー版では、お姫様はその時が来れば勝手に目を覚ます。王子はたまたまその場に居合わせただけだ。ペローの童話では、お姫様は目覚めて王子と結婚したあと、人食い鬼である義母に狙われる。目覚めただけで、めでたしめでたしとはいかない。

 けっきょく井原には、自分で自分を救うしかなかった。王子様のキスではなく、自分の腹筋で起きるのだ。完全に沈み込んでしまう前に、地球にべったりと張り付いた自分の身体を引き剥がさなければ。たとえ目覚めた後に、人食い鬼と対峙しなければならなかったとしてもだ。問題は、あまりにも長く眠るうちに、井原の筋肉はすっかり衰えて、世界に抗う力を持っていないということだ。


 何日ぶりか、何週間ぶりかにふと目覚めた井原は、なぜ目覚めるのが難しくなったのかを知った。井原の筋力の問題だけではなかった。外が静かすぎるのだ。アパートの前の道路で酔っ払いが怒鳴り合う声や、誰かが階段をいらだたしげに上がってくる音がしない。いばら姫が眠るとき、城の人々も共に眠っている。それと同じように、井原が眠るとき、世界も一緒に眠っていたのだ。井原はおそるおそる手を伸ばしてベッドの隣の窓を開け、世界を見渡した。人がいない。見えない雪がすべての屋根に降り積もり、すべての人を眠らせているかのようだった。

 井原は訝しみ、何か特別なことが起きているに違いないと思った。井原は布団を皮膚から引き剥がし、重力に耐えかねて軋む背骨を叱責しながら立ち上がって、奇跡的に服を着替えた。玄関へ出ると、幽霊がジローくんの祭壇の前に立っていた。幽霊はジローくんのアクリルキーホルダーに手をのばし、やはり掴めずにキーホルダーが落下する。井原はそれを元の位置に戻す。井原が玄関を出ようとするとき、幽霊の引き止めるような視線を感じた気がした。だがそれは目の見えないベールの下で、少し首を動かしただけだったかもしれない。井原は幽霊が出ていってしまうのではないかと不安になり、鍵をかけたことを何度も確認した。幽霊がドアをすり抜けられるのかどうか、井原は知らない。

 ようやくドアとの格闘を終えると、井原はコンビニへ向かった。何が起こっているのかを知るためには、ニュースを見なければならない。テレビもパソコンもスマホも売り払ったのは、やはり失敗だったのかもしれない、と井原は思った。コンビニへ行くまでの道にも、やはり誰もいなかった。私の寝ている間に、人類はそっくり消えていなくなってしまったんだろうか? 井原は不安にかられたが、コンビニの中に店員がいるのを見て安堵した。井原が店内に足を踏み入れると、店員の顔がこわばり、緊張感が走る。なぜ店員に敵意を向けられているのか分からず、井原は怯えた。

霞む目で新聞を手にした井原は、世界が未曾有の危機に直面していることを知った。未知のウイルスが大規模な感染拡大を起こしており、みな家にこもることを奨励されていたのだ。国家間の移動は制限され、飛行機は飛ばなくなった。国内であろうと、長距離の移動は非難された。少なくとも表面上は、みな息を潜め、じっとしている。井原にはそう見えた。

 ほとんど非現実的とすら思えるその記述を、井原は数十年ぶりに人里に降りてきた世捨て人のような気持ちで読んだ。自分はまだベッドの中にいて、コンビニへやって来る夢を見ているのかもしれない。何度も同じ記事を読み返して、井原はようやく状況を理解し始めた。

つまり、井原が続けていた家の中で眠り続けるだけの生活は、感染症対策の観点から見れば、図らずも理にかなっていたということになる。平常時なら怠惰で唾棄すべき態度として非難されていたであろうそれは、今や同情の対象、共感されないまでも、致し方ないこととして容認されていた。それどころか、外に出て人と会うことに比べれば、奨励されるべきでもあるわけだ。あまりの価値観の転換に、井原はめまいがした。世界に反抗しようとして始めたことが、今では社会に従順であることの証になっていた。

 投書欄には、若者からの投稿が掲載されていた。この状況で、遠くに住む恋人に会えないのが辛いです、と言う。回答者はこう答えている。今は耐えましょう。愛する人を思えばこそ、会わないことが、触れないことが、大切なのです。それが本当の愛なのです。

 井原はその回答を何度も何度も読んだ。なんだ、そんなのは私がずっとジローくんに対して思っていたことだ。会えもせず、触れられもしない人を恋人と呼ぶことを馬鹿にされてきた井原は、この宣言に憤慨した。疫病が流行った程度で、人は愛の定義をこうも簡単に変えてしまうのか。たとえ会えなくても、触れられなくても相手を想うことが本当の愛だと言うのなら、私のジローくんへの愛を馬鹿にする権利なんて誰にもない。

 新聞を強く握りしめすぎた井原の隣に、困った顔をした店員が立った。井原は以前に見た大家の表情を思い出して、ぎくりとした。井原はもう何日も風呂に入っていない。ひどい臭いがするはずだ。だが、店員が口にしたのは別のことだった。

「お客様、マスクを……」

 井原はそこで初めて、「立ち読みはご遠慮願います」「マスクの着用をお願いします」の札を見た。井原はマスクを買おうとしたが、「マスク品切」が大きく掲げられているのを見て、そそくさとアパートに戻った。


 幽霊はまだ玄関にいた。井原が勢いよく玄関のドアを閉めたので、驚いたように見えた。「外はひどいことになってますよ」

 井原は幽霊に言った。幽霊は黙ったまま、白いドレスの裾を揺らしている。

「新種の感染症だそうです。まあ、幽霊には関係のない話かもしれませんけど。そうだ、せっかく外に出たんだから、食べ物を買ってくれば良かった……」

 井原は自分が幽霊に話しかけているのか、独り言を呟いているのか分からなくなってきた。誰かが今の井原を見たら、気が狂いかけていると思うに違いない。

「今流行ってる病気がどれくらい感染力が強いのか分からないけど、家から出る回数はできるだけ少なくしなきゃいけないですよね」 

 家にこもるなら食料が必要だ。しかし、食料を買うには家から出なければならない。井原にはその勇気がなかった。改めて見渡してみると、家の中はひどい有様だった。とっくに曜日の感覚を失ったせいで、ゴミは全て溜まったままになっている。カップめんの容器やオムツが詰められた袋が、いくつも転がっていた。

 井原は台所をあさって、ありったけの食料をかき集めた。海苔、ビーフン、スパゲッティ、そうめん、サバ缶、トマト缶、ツナ缶、カンパン、とにかく缶詰。この生活を始める前に買いためたものが、まだ少しは残っていた。これが尽きたら、外に出なければならない。恐ろしかった。携帯も固定電話もないので、誰かに助けを求めることもできなかった。井原は世界から自分を切り離したつもりだったが、本当は世界の方が井原を切り離したのだ。

 食料を節約するためには、やはり可能なかぎりエネルギーを使わずに過ごすこと、動かないでいること――つまり、眠って過ごすのが一番だということになる。結局、井原には眠り続ける選択肢しかなかった。自分から進んで眠ることを選んだはずが、今では眠りから逃げることはできなくなっていた。井原はベッドに入り、また眠ろうとする。幽霊はベッドの側で、井原を見守るように座っていた。

「エミさん、おやすみなさい」


 井原の意識と一緒に、アリスがウサギの穴を落ちてゆく。いや、本当はアリスは眠っている。アリスは夢を見ている。アリスの夢の中で、やはり誰かが眠っている。ヤマネはお茶会で眠っている。赤の王は森の中で眠っている。奇妙な双子のトゥイードルダムとトゥイードルディーは、赤の王はアリスの夢を見ていると言う。赤の王がアリスの夢を見終わって目を醒ましたら、アリスはろうそくの火みたいに消えてしまうのだと。彼らの言うことには、アリスは赤の王が見ている夢の中の存在に過ぎない。

アリスは赤の王が見ている夢の一部にすぎない。もしくは、赤の王はアリスが見ている夢の一部にすぎない。アリスは赤の王であり、赤の王はアリスでもある。井原はアリスと赤の王の夢を見ているが、アリスの方も赤の王と井原の夢を見ている。もしくは、赤の王がアリスと井原の夢を見ている。井原はジローくんの夢を見るが、本当はジローくんが井原の夢を見ているのかもしれない。夢をみているとき、井原はあらゆるものでありえる。もしくは、眠っているあらゆる人が井原でありえる。井原はアリスであり、赤の王であり、ジローくんであり、サッポーであり、沼に捧げられた生け贄の男であり、エミさんだ。


 それから、井原は自分の頭が溶け出して広がってゆくのを見る。それはオーロラ色をしている。ユトランド半島の湿地の奇跡は、ここでは起こらない。適切な濃度のタンニン酸がなければ、身体は溶け出してしまうのだ。そうして、井原の身体は湿った空気の中に溶けていく。引き伸ばされた身体は、無限に広がってゆく。井原の記憶は液体になって出てくるが、やがて小さな人間の形になる。それらは小さな足音を立てて、アパートを駆け回る。保育園のころの井原は、母親に置いて行かれたことが悲しくて、泣きながらとぼとぼと歩いている。小学生の井原は、友達と笑い転げながら昨日見たアニメの話をしている。大人になった井原は、背中を丸め、足を引きずって歩いている。これは仕事から帰ってくるときの姿らしい。ありとあらゆる井原が、小さな人形のように部屋いっぱいにあふれた。ベビーチェアから転げ落ちる井原、スカートの染みを気にしている井原、スーパーの試食品コーナーで立ち止まる井原、スマートフォンの画面をひたすらスワイプする井原、運動会の日に膝を怪我した井原。

 記憶たちはパレードのように隊列を組み、順番に部屋から出て行く。井原の身体は空気中に溶け出し、空気の流れに混ざって、どこまでも広がっていった。


 深夜のキッチンに人影を見て、井原は思わず飛び退く。

「うわ、びっくりした。なんで電気つけてないんですか」

 黒い塊に目を凝らすと、それがエミさんであることが分かる。エミさんは床に座り、流し台にもたれかかっている。

「んー、明かりが漏れちゃうかなと思って。なんか飲みに来たの?」

 井原はエミさんの横を跨ぐようにして冷蔵庫を開け、牛乳パックを取り出す。冷蔵庫の明かりに照らされて、つかの間キッチンに光が差す。

「喉渇いちゃって。エミさんは何飲んでるんですか?」

 エミさんはほとんど空になった酒瓶を掲げ、振ってみせる。

「眠れなくて」

 エミさんが笑う。声が少し掠れている。

「またそんなの……身体に良くないですよ」

 井原はマグカップに牛乳を注ぎ、レンジで温める。機械の唸るような音が、キッチンに通奏低音のように響く。

「知ってる」

 レンジの明かりにほのかに照らされたエミさんは、とても疲れて見える。

「病院行って、眠剤貰ったほうがいいんじゃないですか」

「うん……」

 エミさんは曖昧に笑う。

「今までのことは何もかもが間違いで、これからのことは全部もう手遅れだって気がして、夜中にパニックになることってあるでしょ。酒にしか救えない夜ってあるじゃない」

 レンジがピピピ、と高い音を出し、井原は温かくなったミルクを取り出す。

「私の場合は、ミルクとクッキーですね。ホットミルクとチョコチップクッキーにしか救えない魂もあるんですよ」

「あはは、可愛いな~」

「可愛くはないですけど……。でも、落ち着くんで、エミさんも試してみてください」

「そっか」

 二人は明かりのついていない真夜中のキッチンで、しばし黙ってミルクと酒を飲む。井原がうとうとし始めたのを見て、エミさんは肘で小突く。

「明日も仕事でしょ。早く寝なよ」

 仕事なのはエミさんもでしょ、という言葉を井原は飲み込む。

「私、寝るのは得意なんです。エミさんの代わりに、私が眠ってあげられたら良いのに」

 井原はマグカップを持って、自分の部屋に戻ろうとする。

「そうだね。本当にそうできたら良いけど」

エミさんは驚いた顔をしてから、曖昧に微笑む。

「でも、誰だって自分のためだけに寝るんだよ」

 エミさんは瓶を床に置き、井原に手を振る。

「いい夢見てね」


 井原は、自分の瞼が開かないことに気がつく。井原ははじめ、自分が失明したか、世界が無になったのかと思う。少し考えてから、目ヤニがこびりついて瞼が張り付いてしまったのだと分かる。

 井原は指先を唾で濡らして、少しずつ瞼の目ヤニを取る。カサブタを無理やり剥がす時のようにチクチクする。

 ようやく瞼を開いた井原は、ぼんやりした頭のまま、いったい今は何時で、何月何日なんだろうと考える。何も思い出せない。何かを忘れてしまったのではなく、何もかもを忘れてしまったのだ、と井原は思う。

 頭を上げると、破片になった記憶がバラバラと崩れ落ちて、余計に失われる。井原はおもむろに立ち上がり、玄関を目指して歩き出す。足の裏に何かが当たる感覚が久しぶりで、不思議な心地がする。井原が玄関のドアノブを回すと、それはゴトリと崩れ落ちる。井原はノブのない腐りかけたドアを開き、部屋を出る。狭い廊下の冷たい石の感覚を踏みしめ、井原は階段へ向かう。階段を下りるのにはより高度な動きが要求されるが、井原はゆっくり時間をかけ、なんとかそれをこなす。

 アパートのガラスのドアは崩れ落ちて、強烈な外の光がアーチの形に差し込んでいる。井原はそこから踏み出せないまま、光を眺める。それは間違いなく太陽の光だが、長い間眠り続けていた井原の目には怖いくらい眩しい。光はアパートのタイルの床に反射して、静かに輝いている。

 しばらくして光に目が慣れてくると、井原はアパートの外に広がる光景を見る。そこは完全なる荒地だ。周りに立っていたはずの建物や、道路や、標識は全部跡形もなく消え去っている。遠くに崩れかけた駅の残骸のようなものが見える。ところどころに見える文明の名残は、すべて深いツタや苔に覆われている。

 井原は足を踏み出して、柔らかい土の感覚に驚く。足の裏に湿気まじりの土がくっついている。そこでようやく、井原は靴を履いてくるのを忘れたことに気がついた。

あたりには誰も見当たらない。私が眠っている間に、人類は疫病で滅亡してしまったんだろうか、と井原は思う。リップ・ヴァン・ウィンクルになった気分だった。人類どころか、植物以外の生き物は見当たらない。鳥のさえずりも、犬の鳴き声も聞こえない。もしかしたらバクテリアや、細菌や、目に見えない生き物は存在しているのかもしれない。井原は雨水の溜まった地面に座って、濡れて柔らかくなった土を掴む。井原は耳を澄ますが、何も聞こえない。

「ここには私しかいない」

 井原は呟く。誰もその言葉を聞く人はいない。井原はもう一人ぼっちだ。井原の求めていた、完璧な静寂がそこにある。


 ついに、井原が夢から覚めるときがやってきた。目覚めた瞬間、井原は大きく息を吸い込んだ。それは長いこと海に潜っていた人が、海面に急上昇して息継ぎをするのと似ていた。水中からの急浮上が危険なように――急激な減圧で血液中の窒素が気泡化し、意識障害を起こしうる――、井原の覚醒も危ういものだった。自分が落ちたはずなのに浮上したことで、井原は混乱した。あたり一面に膨張していた井原は、急激に縮小した。世界に広がった身体は元の大きさに戻り、流れ出た脳と走り去った記憶が我先にと身体に入り込んだ。それがあまりに急だったので、井原の中心に何か強力な引力が発生して、全てを吸い込んだかのように思えた。

 同時に、井原は胃がねじ切れるかのように痛むことに気がついた。あまりに痛むので、井原は初めそれを何らかの病気だと思い、次に生理痛だと思い、それが猛烈な飢えであると認識するのに時間がかかった。ずっとものを食べていなかったので、井原の胃は徐々に消え去りつつあった。この頃の井原は自分に胃が存在することすら忘れていた。しかし、冬眠からの中途覚醒には多大なエネルギーを要するものだ。覚醒に要したエネルギーを補填するよう、身体が求めているのだ。

 井原は足と腕を、全力の意思の力を持って動かさねばならなかった。意思! 井原が最後に意思を持って何かをしようとしたときから、本当に長い時間が経っていた。

溶けていた井原の身体はその形を取り戻したものの、まだそれは生肉の塊だった。井原はなんとか身体を前に進め、台所を這いずって食べるものを探した。ずっと掃除をしていなかったので、床にはうっすら埃が積もっていた。床だけでなく、シンクにも、コンロにも、そしてもちろん井原にも埃が積もっていた。すべてを眠らせる雪のように、埃はずっと積もっていたのだ。

 台所はほとんど空虚だった。もう長い間買い物に行っていないので当然だった。冷蔵庫の中には消臭剤しかなかった。井原は棚を漁り、インスタントのだしとカレールーを食べた。何も食べていなかったところにカレールーは刺激が強すぎたらしく、井原は食べては吐き、また食べては吐いた。井原は戸棚の後ろに落ちて忘れ去られていたパンを食べ、防災リュックの中に入っていたカンパンとチョコレートを食べ、アルファ化米を炊かずに食べた。ガスが止められていたので、お湯は沸かせなかった。

井原は醤油を舐め、塩と砂糖を舐め、ゆでていないスパゲッティをちぎっては吸い込んだ。オリーブオイルをボトルから飲もうとしてまた吐いた。あたりにオリーブの香りが広がり、井原は一瞬、また眠りそうになる。キリストの弟子たちを眠らせたゲッセマネは、オリーブ山の麓にある。

 井原は目につく何もかもを食べた。すべてが井原の口の中に吸い込まれていくようだった。胃は食べるものを求めるのに、長く動かしていなかった井原の手足は、耐えがたいほどゆっくりしか動かない。井原は、自分が大食と享楽の巨人ガルガンチュアに生まれ変わったのかと思った。これほどものを食べたにも関わらず、ほとんど何かを噛んだ記憶がなかった。井原は自分の中にこれほどのブラックホールが生まれたことに驚いた。映画『インターステラー』に、「ガルガンチュア」と名付けられたブラックホールが出てきた。暴食の象徴としてのブラックホール。

 ブラックホールは、すさまじい重力を持つ天体だ。太陽の三十倍以上の質量を持つ恒星が死んだあとに現れる。星の中心では核反応が起こり、それによって周囲のガスが温められている。しかし核反応の燃料を使い果たすと、星を支えるガスの圧力が効かなくなり、星は自身の重力に引っ張られて収縮し始める。重力に対抗できるだけの反発力がない重い恒星は、無限に収縮し、永遠に潰れ続ける。そうして、それがブラックホールになるのだ。

 今、井原の中心部は燃料を使い果たし、ガスのように周囲を取り巻いていた井原の身体は収縮した。

 もしかしたら、井原の中に誕生したこのブラックホールでは、時間の流れが遅いのかもしれない。もしかしたらこのブラックホールだけが、ジローくんと同じ時空を共有できるのかもしれない。事象の地平線に立つジローくんに、ようやく手が届きそうな気がした。光すら逃れられないほどの絶望と、すべてを飲み込む飢えだけが、井原がジローくんに近づくための術だった。

 『インターステラー』でアン・ハサウェイが言った。「愛だけが、時空を超えると知覚できる唯一のもの」、と。井原はコショウを舐めながらさめざめと泣いた。たまらなくジローくんに会いたい。

 部屋中のものを食べ尽くした井原は、ようやく落ち着きつつあった。ガルガンチュアは相変わらず飢えた獣のように餌を求めたが、井原にはものを考え、食べ物を探す余裕ができた。ガスが止められたということは、井原の預金は底をついたか、感染症で社会が崩壊し、もうガスを供給できる状況ではなくなったということだ。どちらにせよ、終わりが近づいていた。

 井原はふと、幽霊がいなくなっていることに気がついた。井原は玄関に向かったが、幽霊の姿はない。井原はまた、ジローくんの祭壇から外れているアクリルキーホルダーを元に戻した。井原は幽霊が隠れていそうな場所を探した。カーテンの裏、ソファの下、トイレの中。井原の広くないアパートに、探す場所は多くなかった。しかし、幽霊の気配はどこにもない。あのささやき声も、ドレスの布がこすれる音も聞こえなかった。

 探していない場所は、あと一つだけだ。井原は玄関のすぐ隣の扉を開けた。眠り通しで痩せ衰えた井原の腕には、その扉はずいぶん重かった。そこはエミさんの部屋だった。エミさんが時を止めた日から、この部屋もずっと同じように時を止めたままだ。読みかけで放ってある漫画。シワだらけのままのベッドのシーツ。そして、部屋からあふれんばかりのジローくんのグッズ。アクリルスタンド、メタルキーホルダー、缶バッジ、クリアファイル、ミニフィギュア、それらが部屋を取り囲み、井原を圧倒する。

 やはり幽霊はいなかった。井原はカーテンをめくり、机の下を覗いた。井原がベッドの下を探ると、封のされていない小さな段ボールが出てきた。開けてみると、それは大量の未開封のウエハースだった。ずいぶん前に、『テニスの王子様』とコラボをしたのだ。エミさんはオマケについているシールを全種集めると言って、コンビニで箱ごと大人買いをしていた。それはとうの昔に賞味期限が過ぎていたが、井原は気にしなかった。プラスチック包装の小さなギザギザをつまみ、するすると袋を破く。銀色の内面から出てきたウエハースは湿っていて、朽ちかけた段ボールを食べているような気分がした。まだ食べ物を求めてキリキリと痛む井原の胃の中に、それはポロポロと落ちていった。ひとつ食べ終わると、もう一つのウエハースの袋を剥いて食べた。ガルガンチュアが消えてしまったら、またジローくんは遠くに行ってしまう。ウエハースは口の中の水分を奪って、井原をひどく不快にさせる。それでも井原は食べ続けなければならない。エミさんが残したウエハースを。他には食べるものがないのだ。

 口の中のバラバラになったウエハースを咀嚼しながら、井原はエミさんのことを思い出す。エミさんがジローくんのことを話すとき、衝動をこらえるみたいに肩が上下する。口に手をあてて、必死に息を整えようとする表情。ペンライトの海の中で光っていた横顔。横浜アリーナを出たあとに、二人とも何も言わなくてもまっすぐにファミレスに入る。笑うときによく手を叩く仕草。興奮するとすぐ赤くなる頬。井原はエミさんと一緒にジローくんを愛したからこそ、いっそうジローくんを愛した。

 死んだ人を愛するのと、存在しない人を愛するのでは、どちらが辛いのだろう。切り裂かれたウエハースの袋は、ガラスの破片のようにベッドの上に散らばった。窓からの光で、銀色の内面がキラキラ光っている。すべてのウエハースを食べ終えた井原は、エミさんのシワだらけのベッドに寝そべった。そして、井原は再び眠りにつく。

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惰眠の技法 雷田(らいた) @raitotoko

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