ネットで知り合った人とシベリア鉄道に乗ってみた。
佐藤宇佳子
第1話 発端
【ロシアに行きたい。シベリア鉄道に乗りたい。でもひとりでいくのもなあ……】
その「つぶやき」を見た瞬間、私の頭はキュイーンと高速回転を始めた。
秋に十日ほど仕事を休むには――
いつ上司へうまく切り出そう――
しわ寄せには十分配慮してと――
てきとうな口実を探さなきゃ――
ルーチーンワークは問題なし――
――チン!
そしてメッセージに応答した。
【一緒にロシア行きたいです! 乗りましょうシベリア鉄道!】
シベリア鉄道をご存知だろうか? 極東ヴラジヴァストークからロシアの首都モスクワまでの9,289 kmを時速60から140 km/hで八日間かけて走破する長距離列車だ。9000 km超と聞いても、ぴんと来ないかもしれない。札幌と福岡間の道路距離が約2,200 km、北海道と九州を二往復してもまだ足りないと言えば、何となく想像つくだろうか?
その人(仮にZさんと呼ぶ)を知ったのは二〇一〇年ごろのことだ。C国に留学中のピアニストで、私より一回り近く若い女性だった。当時私はC語の勉強を再開して間もないころで、情報に飢えていた。ネットでたまたま見つけた彼女のブログをなめるように読み、あっというまにその洒脱な文章に溺れた。とにかくうまい。気の向くまま自由に書き散らした日記ながら、破綻のない展開や意識的に織り交ぜられた上品な笑いに、書き手の人間性がのぞいていた。なにより真摯で、でも飾り気には欠けていた。ピアニストって、こんなざっくばらんなの? 思わずそう突っ込みたくなるくらい、そしてちょっと心配になるくらい、あけすけに自分を打ち明けたブログだった。
二〇一一年からZさんとツイッター(当時)を介して交流する仲になったが、直接お目にかかる機会はなかった。当然だ。C国に音楽留学しているピアニストと文字どおり「泥臭い」仕事をやっている私とでは、どう考えても接点はない。芸術家とネットで交流できるというだけで、当時の私は舞い上がるような喜びを感じていた。
ピアノには複雑な思いがある。遠いむかし、自分の能力の限界を痛感させられたのがピアノだったのだ。
五か月違いの従姉はピアノが好きで努力家で、なおかつ、努力を成果に結びつけられるだけの能力に恵まれていた。音楽好きだった私は彼女と比べられながらピアノを続けた。嫌いではなかった。でも、いくら時間をかけて努力しても、得られるものは惨めなほど少ない。高校生のころ従姉に誘われ一緒に出場したコンクールで、私はあっさり予選落ち、彼女は本選に残ったうえ入賞したのを見て、いっそすがすがしいほどの実力差を感じた。高校三年の夏にピアノを止め、それ以降ピアノにはほぼ触っていない。努力だけではいかんともしがたい世界がある、それを実感させてくれたピアノ。焦り、悔しさ、悲しさと常に隣り合わせだったピアノ。それでも音楽は好きなのだ。音楽留学しているZさんとの交流は、ノスタルジーであり、慰めであり、従姉に対するささやかな優越感をもたらすものでもあったのかもしれない。
数年後、もろもろの理由で日本に帰国したZさんは医学生になった。もう一度書く。医学生だ。音楽から医学へ。想像を絶する転身である。コンクールで入賞し、国内外で演奏会に出演していたピアニストが医学部へ?! 妬ましくなる多才ぶりである。
Zさんがその能力をいかんなく発揮し、医学の道に邁進している様子を私はネットで追っていた。「ロシアに行ってみたい」。それは彼女が医学部三年生の春の発言だった。「このさき海外旅行なんて難しくなる。今のうちに興味のあるロシアに行ってみたいな」。
他愛もないひとりごとだ。食いつかれ、バディ立候補されちゃうなんて、予期していなかっただろう。でも勇み立った私をZさんはすんなり受け入れてくれた。狂喜乱舞しつつ、彼女の無防備さが心配にもなった。
後で聞いた話だが、この旅行計画を知った彼女の友人はかなり心配していたらしい。そりゃあそうだ。素性の知れぬネッ友とふたりきりで海外旅行なんて、ふつうの人はやらない。ついでに言うと、私の友達も顔をこわばらせていた。でも、私はZさんと交流してみたかった。十年来の推しなのだから。Zさんが何を思って承諾してくれたのか知らないが、乗っからせていただこう。
こうして、崇拝の対象にも等しかったZさんと、ふたりっきりでロシアに行き、シベリア鉄道に乗るという、げへへ、神様、これ、どういうご褒美ですか? 計画が幕を切った。
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