第11話 壁

 修は鉄パイプを構え直し、中位悪魔と対峙した。悪魔の瞳がじっと修を見つめ、獲物を品定めするように細められる。


 悪魔が地面を蹴ると同時に、修は反射的に飛び退いた。悪魔の鋭い爪が空を裂き、地面に深い爪痕が刻まれる。


「速い……!」


 修は息を呑んだが、すぐに体勢を立て直し鉄パイプを振るう。悪魔の横腹を狙った一撃は寸前でかわされたが、掠めた跡に黒い霧のようなものが滲んだ。


「悪くない。」


 悪魔は笑みを浮かべ、再び間合いを詰める。しかし、修の目には今までとは違う光景が広がっていた。


 悪魔の動きがしっかりと見える──見切れる。爪を振るう瞬間、足元のわずかな角度、呼吸のタイミング……すべてが手に取るように分かる。修は思わず笑みをこぼした。攻撃を仕掛けるたびに悪魔の動きが読める。鉄パイプを振り下ろす速度も次第に速くなり、悪魔を掠めるその感触が心地よかった。


 いける……! これなら……!


 まるで戦いが舞踏のように思えてくる。修の体は痛みを感じながらも軽く、動きと魔力が研ぎ澄まされていくのを感じた。悪魔が爪を振るえば、修はそれを間合いギリギリでかわし、反撃の鉄パイプが悪魔の腕を捉える。今までの努力が点だとすると、その点と点が繋がって線となっていく感覚が手に取るように分かる。


 鋭い音が響くたび、修の内側に高揚感が広がった。


「ほう……少しは楽しめそうだな。じゃあこれはどうだ?」


 悪魔の瞳が細められた。修も油断していたわけではなかった。しかし、その瞬間悪魔の動きが急激に変化した。空気が切り裂かれるように一気に間合いを詰められる。


「速っ……!」


 反応はしていた。修は鉄パイプを振り下ろし防ごうとしたが、悪魔の一撃はそれよりも早かった。修の視界が一瞬揺らぎ、次の瞬間には悪魔の爪が胸元を狙っていた。


「うわっ!」


 修はマナレギュレーターで即座に障壁を展開し、悪魔の攻撃は防ぐことはできた。しかし障壁越しに直撃を受け、その衝撃と共に吹き飛ばされてしまった。


「ぐっ……!」


 全身に痛みが走り、息が詰まる。立ち上がろうとするが、視界が歪む。障壁にここまで魔力を持っていかれるとは思わなかった。


 聞いてた話と違うぞ……。昨日の内に試していればよかったと後悔するが、もう遅い。


 修は荒い息を吐きながら、立ち上がろうと足に力を込める。しかし、悪魔は余裕の表情を浮かべたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「どうした?終わりか?」


 悪魔の声が耳元に響く。しかし、その挑発に修の中で燃え上がるものがあった。


「まだ……やれる。」


 痛みを無視し、修は鉄パイプを杖代わりに立ち上がる。全身が悲鳴を上げているのが分かる。


 それでも、この状況が不思議と修のテンションは上がっていた。


 そうか、これだ……!


 この感覚──生きていることを全身で実感する。鼓動が高鳴り、細胞の一つ一つが目覚めるように、魔力の流れが体中を駆け巡るのが分かった。いつもの数倍、いやそれ以上に魔力がはっきりと感じられる。修は小さく笑みを浮かべる。全身が痛むにも関わらず、戦いの中で確実に自分が成長していることを感じる。それがたまらなく心地よかった。


 その感覚を逃すまいと、修は自ら間合いを詰め、再び鉄パイプを振り下ろした。悪魔はそれを軽々とかわしたが、修の攻撃は止まらない。連撃を繰り出し、わずかな隙を作り出していく。


「なんだ……さっきまでとは違うな。」


 悪魔の表情から少しずつ余裕が剥がれ落ちていく。眉間にわずかな皺が寄り、額にはじんわりと汗が滲んでいる。爪を振るう速度がさらに増し、焦りを隠すように口元が強張った。


 次第に修の攻撃が何度か直撃し、悪魔の黒い霧が散っていく。紙一重で攻撃を躱し続ける。悪魔は舌打ちとともに視線がちらりと少年の方へと向けた。その瞬間、修は悪魔の目の奥に光る不穏な企みを感じ取った。


「そのガキを……」


 悪魔が指示を出しかけた瞬間、修は迷わず少年の前に立ちはだかった。


「させるかっ!」


 その命令とともにさっきまで引いていた、低位悪魔が少年に襲い掛かる。しかし、修はそれを一刀両断で霧散させた。だがその直後、中位悪魔が即座に高威力の魔法を展開し、修は防ぐ間もなく直撃を受けてしまった。


 ぎりぎりで障壁を展開するも、残りの魔力はほとんど吹き飛ぶ。衝撃とともに修は地面へと叩きつけられた。


「ぐあぁっ!」


 全身に激痛が走るが、視界の端で少年が無事であることを確認し、修は安堵の息を漏らした。


「びっくりした、ちょっと危なかった。」


 悪魔がゆっくりと修に近づき、口元に冷たい笑みを浮かべる。


「約束と違うだろ!」


 喉がかすれる声で叫んだが、悪魔は肩をすくめるだけだった。


「なあ、そんなこと信じる方が悪いんじゃないか?」


 ふざけた態度に、修の胸に怒りが燃え上がる。けれど、体は動かない。魔力はほとんど尽き、立ち上がる気力すら残っていなかった。


 ほんと……馬鹿みたいだ。


 こんな場所、初めから来なければよかった。そもそも、僕らはまだ学生だ。命を張ってまで守る必要があったのか──。


 そう考えると、途端に無力感が押し寄せてくる。悪魔の冷たい視線がじわじわと胸に重くのしかかる。


 こんなことのために……。


 ぼんやりとした視界の隅に、少年の姿が映る。だが、はっきりとした輪郭ではなく、ただの影のようだった。


 ここで2人ともやられる。守れなかった。これで終わりだ。


 ──いや、待てよ、違う。


 少年が悪魔に連れ去られそうになった瞬間、胸の奥から燃え上がるような感情がこみ上げてきた。しかし思い返してみれば、それは決して崇高な正義感なんてものではなかった。


 僕は自由を奪われたくなかったんだ。


 少年が連れ去られる光景は、僕自身の平和が踏みにじられ、未来が奪われることそのものだった。悪魔が手を伸ばしていたのは、少年だけじゃない。僕の“自由”を搾取しようとしていたんだ。


 そうだ。僕は英雄なんて崇高なものじゃない。誰かを守ることを誇りに思うような人間じゃない。ただ、理不尽な力が目の前にあることが許せなかった。震える体を起こしながら、修はゆっくりと拳を握りしめた。


 その結果がこれか──。


 信じられないけど。こんな絶望的な状況で、自分が戦いを楽しんでいる自分もいる。


 でも、今なら分かる。


 この状況こそが、自分の成長を証明。圧倒的な壁にぶつかりながら、それを乗り越えようともがいている自分が嬉しくて、心が震える。


 そうか、これが“壁”か。


 目の前にそびえる、悪魔という魔力、フィジカルの圧倒的な才能。天才や生まれ持った力を持つ者たち──。だけど、その壁を超え勝利した時、凡人は天才もを上回る成長を得たことになる。彼らの背中に手をかけ、一歩ずつ追いつき、やがて超える。


 今なら、今だからこそ!それが手に入る予感がする!こいつに勝てば超えられる。


 修は自分の胸に手を当て、ドクンドクンと激しく脈打つ鼓動を感じ取った。熱い。燃えている。壁を壊し高みにいる理想の自分。それに確実に圧倒的なスピードで近づいている。これが戦っている最中に感じていた高揚感の正体だった。


 追い詰められているのに……楽しい。


 自分でも信じられないほど、心が静かに燃え上がる。視界はクリアになり、血液と魔力が体中を巡るのがはっきりと感じられた。さっきまで動かなかった体が、今は燃え上がる心の熱が軽く感じさせる。


 どこかで聞いたことがある、火事場の馬鹿力という言葉。普段なら守りに意識が向かう生存本能が、今は邪魔をしていない。今がおそらくその状況だ。どうせ負けたら終わりなら──今全てを賭けて勝てばいい。


 修は全身を貫く震えを感じながら、初めて“全力”という言葉の意味を理解した気がした。余裕を持って戦っていた今までの自分が、いかに甘かったか思い知る。


「これは負けたら終わりの真剣勝負だ。覚悟は決まった──。」


 悪魔が訝しげにこちらを見つめているのがわかる。今の自分をどう思っているのかは知らないが、修は思わず全身で笑った。


「ハハ……。」


 悪魔が一瞬、目を細めて動きを止める。この状況で笑う修の姿が、異様に映ったのだろう。


「悪いな……まだこんな世界なのに自分だけが負けないと思っていたよ。」


 修は口元を拭いながら続ける。


「でも、もうそんな甘い考えはやめる。ここからは本気で全力で生きるよ。」


 自分の声が静かに響いた。心の底から湧き上がる高揚感を抑えきれず、修の笑いは止まらなかった。


「……あんたのおかげで、ようやくわかったんだ。ありがとう。」


 修は、まるで世界の全てが新しく見えるかのような感覚に浸りながら拳を握る。視界が冴え渡り、痛みすら戦いの鼓動として受け入れられた。武器はもういらない今はこの感覚にできるだけ長く浸っていたい。


「さあ、続きをしようか。」


 修はゆっくりと立ち上がる。その足取りは軽く確かで、心地よい痛みとともに、再び悪魔と向き合う準備が整っていた。

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