雪の夜

和泉茉樹

雪の夜

      ◆


 私が玄関の軒下から外を見ていると、すぐ後ろに人の気配が立った。

「雨は止まんなぁ」

 振り返ると、長い白髪に長い白いひげの老人が杖を片手に立っていた。

 この村、ソリン村の長老格の老人クロウだった。

 そうですね、と私はもう一度、雨が降りしきる光景に視線を向け直した。

 このソリン村では三ヶ月ほど、毎日、雨が降り続けている。異常気象という言葉が当てはまらない異常事態だった。村は周りと比べてわずかに高くなっている丘の上にあったのが、今では周囲をぐるりと水に囲まれている。

 川が氾濫しているせいで、村に出入りするには小舟を使うしかない。そんな場所に長く留まる者がいるわけもなく、住民のほとんどはどこかへ行ってしまった。村にいたのは周囲の田畑での農作業をすることで生計を立てていたものだから、ここではもう生活するのは難しい。誰の目にも自明のことだった。

「あっ」

 私は思わず声を漏らしていた。

 クロウの家から見えるところを、ちょうど舟が一艘、ゆっくりと近づいてくるのだった。ほとんど水没した家屋の水面から出ている屋根を避け、舟は近づいてくる。

 舟にクロウも気づいたようで、「これでもうしばらく、飢えないで済めばいいが」と低い声で言った。絶望しきっているようではないが、疲労の色は隠せない。

「クロウさん、私、様子を見てきます」

 行ってきなさい、とクロウが玄関の脇に置いてあった傘を差し出してくる。私は私で、すぐにブーツに履き替えた。もうブーツは汚れきっているので雨も泥ももう関係ない。

 軒下を出て、雨が傘を静かに打つ音の連なりを聞きながら、私は走った。

 舟に乗っている人をすぐに確かめたかった。降りしきる雨に煙っていて遠くからでは確認できない。

 ブーツが水たまりの泥水をはねるのも構わず、私はついに船着場代わりされている水没しつつある建物のすぐそばにきた。ここまで舟を進めてきたのは見覚えのある男性だ。ソリン村のそばの集落の男性だけど、すでにソリン村とその周囲で降り続ける雨のせいで、その集落も半分は水の下だと聞いている。

 その舟から建物の屋根に軽く跳ぶようにして移動した人物が、船頭の男性に何かを渡している。渡し賃だ。それくらい貰わなければソリン村まで舟で来る理由もない。今ではこの舟がソリン村に人や物資を運ぶ唯一の手段でもある。もはや水に沈む運命の村に手を差し伸べる者は多くない。

 屋根の上を器用にバランスをとってこちらへ来た人物は、どうやら男性らしい。細身で、外套をまとっている。フードをかぶることで雨を避けている。

 私はその姿を見て、少し落胆した。

 私が待っていた人ではない。

 外套の男性が私のすぐ前まで来て、おや、というように首を傾げた。

 私が見上げるように見ると、フードの奥から奇妙な色の瞳がこちらを見ている。鮮やかな緑と青がゆらゆらと溶け合っているような瞳をしている。

「お嬢さんは、この村の人だね」

 静かで落ち着き払った声に私は「はい」と答えた。

 私の言葉や様子に何を察したのか、男性が重々しく頷く。

「私は、こういうものだ」

 そう言うなり、男性は外套の前を僅かに開くと、剣の柄のようなものを見せてきた。

 私は最初、その行動が何を意味するか、さっぱりわからなかった。

 じっと剣の柄を見ると、そこに紋章が刻まれている。

「えっ……」

 私は絶句してしまった。

 紋章は、掌と足跡が意匠されている。

「それって……」

 そうだよ、と男性が微笑む。

「僕は魔法特別調査官だ。この村の異常の謎を解明するために来た」


       ◆


 外套の男性はカマチと名乗った。

 私は彼をクロウの元へ連れて行き、カマチは深紅の外套を脱ぐと丁寧に魔法特別調査官であることをクロウに名乗った。彼の外套は雨の中を来たはずなのに、少しも濡れていないようだ。

 クロウとカマチがテーブルを挟んで向かい合い、何か話し始めた。私はお茶の用意をして、二人の元へ運んだ。その時に二人の会話の内容がわずかな部分だけ聞こえた。

「クロウ殿は何かご存知ありませんか。この村の有り様は普通ではありません。間違いなく魔法使いが関与しています」

「と言っても、もうこの村にはいないのではありませんか。既に住民は、二十人もいません」

「では、その二十名から話を聞きたいのですが」

「それは、誰も拒まないと思いますが……」

「魔法特別調査官としてこの村の異常を解消するのが僕の仕事です。どうか、クロウ殿の方からもお力添えをいただけると助かります」

 そうですか、とクロウは何かを考えるそぶりをして、しかし最後には了承するように頷いた。

 私は少し離れて、何となく窓の外を見た。

 雨は降り続けている。この雨が止むことなんて、あるのだろうか。

 雨の幕の向こうに川が氾濫してできた水面のがどこまでも続き。

 何かが見えた。

 何かが水面をこちらへ近づいてくる。

 また舟が来たのか? どうして?

「あの、クロウさん、舟が」

 私がそう言うと、クロウも窓の向こうを見た。彼も怪訝そうな顔つきになったが、私を見ると「様子を見ておいで」と言った。私は急いで支度をして家を出た。家を出る寸前にカマチが「あのお嬢さんは?」とクロウに訊ねていたのが聞こえたけれど、私は家を出てしまったのでクロウがどう答えたかは聞こえなかった。

 傘をさして、ブーツでぬかるみを踏むのも構わず急いで例の半分水に沈んだ家の方へ行く。

 今度は舟に乗っているのは見るからに小柄な人物だった。その人物も船を操ってきた男に硬貨を渡したようだ。拝むようにしている様子が見て取れる。

 私は足を止めて、その人物がこちらへ来るのを見た。傘を差しているが、靴は普通の靴のようだった。何かぶつぶつと声を漏らしているのが聞こえてくる。

 近づいてくると、その人物が女性で、しかもまだ若い、幼いと見えてきた。カマチと違いフードをかぶっていないので、黒髪をひとつに結んでいるのも見えた。

 彼女は私になかなか気付かず、気づいた時には二人の距離はかなり近かった。

 少女が顔を上げ、視線がぶつかる。

「ああ、あなた、ここがソリン村であってる?」

 声は澄んだ高音だった。

「え、ええ、そうです。あの、どうしてこの村へ?」

 そんなことを聞いてしまったのは、彼女の深みのある黒い瞳に見据えられると聞かずにはいられなかったからだ。黙っているのが、許されない気がした。

 彼女はちょっと斜め上を見てから、軽く頷くと答えた。

「ま、物見遊山かな。雨が降り続けている村ってどんなところかな、と」

 はあ、としか答えられなかった。少女はニコニコと笑うと話を前進させた。

「というわけで、泊まるところもないのだけど、あなたのおうちで泊めてもらえたりする? それとも、空き家とかないかな」

「え、え? この村に滞在するんですか?」

 雨が止まなくなって村へ来る人なんていなくなったのに、いきなり滞在者が来るなんて、想像もしていなかった。

 少女は私の混乱など気にした様子もない。

「私の名前はハルカ。あなたは?」

「私は、アンナと言います」

「アンナちゃん、その、あなたのご両親に私を泊めてもらえるか、聞いて欲しいのだけど」

「それは、できません」

 なんで? とハルカが首を傾げる。

 私は少し寂しさを感じながら言葉にした。

「私の両親はここにはいないんです」

「それはどうして?」

「両親は、魔法屋で、別のところで仕事をしています。私は一時的にここに預けられただけなんです」

「預ける? こんなところに?」

「そろそろ迎えに来てくれるはずなんですけど」

 そうかぁ、とハルカは共感したような声を漏らした。しかしそれ以上は何も言えないようで、顎に手をやりながらまた斜め上を見ている。

 短い沈黙にも耐えられなくなって、私は申し出ていた。

「私が居候しているおうちで、話してみましょうか?」

 あら、とハルカが明るい表情に変わった。

「泊めてもらえればありがたいけど、無理ならそれでいいんだよ」

「いえ、大丈夫です。話してみます。こちらへ」

 ごめんね、とハルカは拝むようなポーズを取った。

 私が歩き出すと、彼女は後ろをついてきた。ちらっと振り返ると、ハルカは周囲を確認しているようだ。村の様子を観察しているらしい。

 ハルカの目元には好奇の色が少しもない。

 もっと落ち着いていて、冷静な視線だ。

 彼女が私に気づいて不意に微笑んだので、私は前に向き直った。

 クロウにどう説明しよう、と考えているうちに家はすぐそこになっている。


       ◆


 家に入ろうとすると、玄関のドアが開いてカマチという名の青年、魔法特別調査官が出てきた。深紅の外套を着ていてフードを被ろうとしたところだった。

 彼の方でも私たちに気づいて少し目を丸くした後、微笑んだ。優しそうな、人好きのする笑みだ。

「おかえりなさい。アンナさんというそうだね。少しおうちにご厄介になると思うけど、許して欲しい」

 やっぱりカマチもうちに泊まるのか。客のための部屋はカマチが使うだろうから、ハルカを泊めるなら私の部屋になるのかな。

「この村の方ですか?」

 不意に私の後ろにいたハルカが声を発した。

 私が振り返ると、ハルカはカマチの方を見ている。カマチが笑顔のまま首を左右に振った。

「僕は魔法特別調査官だよ。この村の異常を調べに来た。カマチといいます。あなたは?」

「ハルカです。私もこちらのおうちでご厄介になるつもりです」

 そうか、とカマチは気にした様子もない。というか、ハルカはうちに泊まれない可能性は考えないのだろうか。

 私に「それでは用事があるので」と目礼して、フードを被ったカマチが雨の中へ踏み出していった。さっきクロウと話したように、雨が降り続ける異常について調べるため他の住民に話を聞きに行ったらしい。

「魔法特別調査官が来るなんて、よっぽどの大事だねぇ」

 一緒に雨の中に消えたカマチを見送ったハルカが言った。私は、そうだね、と頷いた。

「カマチさんの力で雨が降り止めばいいんだけど。でも、雨が上がっても土地は酷い有様だろうし、この村、どうなっちゃうんだろう……」

「あれ? アンナって、ここにたまたまいるだけじゃないの? すぐに別の土地に行くんでしょ?」

「そうだけど」

 私はハルカをまっすぐに見て、正直に言った。

「でも、お世話になったし、忘れることはできないよ」

 言葉の裏に、ただ見物に来たあなたとは違う、という思いがあるのが滲んでしまった気もするけれど、ハルカは気にした様子もなく、玄関の軒下に入ると傘を閉じた。

「アンナって優しいんだね。その優しさのおかげで私も今日くらいは屋根のあるところで寝られると助かるんだけど」

 図々しいなぁ、と思った次には、言葉の解釈の間違いに気づいて驚いてしまった。

「今日くらいは屋根のあるところで、って言った?」

「うん、言った」

 まったく笑顔のままハルカが頷く。

「それって、ここに来るまで野宿したりした、ってこと? 一人でしょ?」

「ま、野宿はしたりしなかったりかな。特別なことでもないよ」

「なんで? 街道を移動して、旅籠に泊まればいいじゃない」

「お金も惜しいし、時間も惜しいし、いろんな事情があるわけ。それでアンナ、いつまでそこにいるの? 中に入らないの?」

 軒下で雨を避けている形のハルカがニコニコしているのに思わず溜息を吐きそうになりながら、私も傘を閉じてハルカの脇を抜けて、玄関のドアを開けた。

 入ってすぐの居間で椅子に腰掛けていたクロウがこちらを見て、おかえり、と言いかけたようだが、ハルカを見て表情に疑問符が浮かんでいる。

 どう説明しよう。

「あの、クロウさん、こちらの方はハルカさんといって、その……」

 私が言葉に詰まった時、まるでそうなると知っていたようにハルカが口を挟んだ。

「ハルカと言います。一晩でもいいので、泊めてもらえませんか? お金なら少しはあるんですけど。そうじゃなければどこか、別の泊めてもらえるところを紹介してもらえませんか?」

 いけしゃあしゃあと喋るハルカからちらっと私に視線を向けたクロウが、苦笑いで応じる。

「この村ではいくらお金があっても仕方がないのだけど、アンナが連れてきたのだから追い出したりはしないよ」

 ハルカは明るい声で「ありがとうございます!」と応じると、彼女はその場で薄手の上着を脱いで雨を払い始める。私は先に家に入ってクロウに謝った。

「すみません。客間はカマチさんですよね? ハルカさんは私の部屋で寝てもらいます」

「すまんね、アンナ。食事はなんとかなると思うから」

 玄関ではハルカがしきりに靴の泥を落としていた。

 雨は降りやまない。けれど急に二人も来客を受け入れ、空気が変わった気がした。


       ◆


 私がすぐに夕食の料理を始めると、ハルカが「泊めてもらうわけだし」と料理を手伝ってくれた。

「アンナのご両親は魔法屋って言っていたけど、本当?」

 そうだよ、と芋の皮を剥きながら答える。雨の湿気のせいで部分的に悪くなっているので、そこは丁寧に切り取っておく。食べ物は貴重なので削ぎ落とすのは最低限にしないといけない。

 ハルカがややアクロバティックなナイフの使い方で芋を処理しながら会話を続ける。

「じゃあアンナも魔法使いの素質があるんだ?」

「少しね。ほんの少し」

 私の返答に、立派、立派、とハルカは楽しそうだ。

「いつかは王都へ行って、公認魔法使いになるつもりでしょ? 私にはわかるよぉ」

「それは勘違い」

 私がはっきり否定すると、そうなの? と応じながらハルカが皮を剥き終わった芋を軽く宙に飛ばす。ナイフを持った手が走り、次の瞬間には芋はバラバラになりながら鍋の中に飛び込んでいく。

「もしかしてハルカって手品師?」

「違う違う。今のは大道芸の類かな」

「魔法じゃなくて?」

 私のからかいに、ハハハ、とハルカが声にして笑う。

「あんな魔法はないね。訓練すれば誰でも出来るようになるもの。アンナにもわかるでしょ?」

「もちろん。冗談が通じてよかった」

「アンナはどんな魔法を使うの? 練習くらいはしているんでしょ? 公認魔法使いにはなれなくても、魔法屋くらいにはなりたいだろうし」

 うーん、などと誤魔化そうとしたけど、見せて、見せて、とハルカがせがんでくる。

 国家に採用される高位の魔法使いが公認魔法使いなどと呼ばれるのに対し、在野の魔法使い、実力のない魔法使いが魔法屋と呼ばれる。

 奇跡のような現象は起こせなくても魔法屋は様々な場面で重宝される。私もいずれは魔法屋として生計を立てるつもりだった。両親がとりあえずの教師代わりだったけれど、その両親も仕事のせいでつききりで私を指導することもできず、かといって有望な教師をつけることもできず、悩んでいるようだった。

 それが気まずくて、私は時折、自分だけで魔法の訓練をしていた。

「いいじゃん、アンナ、ちょっとだけ。ね?」

 私は手元の芋を切って鍋に入れ、じゃあ少しだけ、と包丁をまな板に置いた。

 私は両手を少しだけ前に出して、見えない球体を包むような位置に加減した。

 あとは集中して、目には見えないけれど確かに感じられる、不可視の流れのようなものを両手の中に引っ張り込むイメージを必死に思い浮かべる。

 すると、両手の間の虚空に何か点のようなものが生まれ、少しずつそれは大きくなっていく。

 点は本当に小さな水滴で、水滴が大きくなっているのである。水滴は宙に浮いていて落ちることはなく、揺らめきながらそこにあり続ける。

 私は息を詰めて、唇を噛んで必死だったけれど、水滴はあるところで大きくなるのをやめ、上下に不安定に揺れ始める。

「空間を意識して」

 ハルカの声がしたかと思うと、彼女の手が私の手に触れていた。

 何かが私の手に流れ込んできた気がした。

「もっと小さな空間に力を集中させて。もっと空間を限定するの」

 私の両手の中で、水滴のブレが急に消えた。

 ピタリと球体のままで安定している。

 思わず私はハルカの方を見た。彼女は楽しそうに片方の瞼だけ閉じて見せた。

 今、何をしているの?

 そう聞こうとした時、不意に背後で音がして、私は短く声をあげて振り返っていた。水の球体も支えを失って半分は床にぶちまけられた。

 音がしたのは、いつの間にか後ろにいたクロウが取り落とした杖が床に落ちたせいだった。

「ああ、驚かせてすまんね」

 クロウがゆっくりと杖を取り直す。ハルカはなんでもないように「雑巾ってどこですか?」と聞いている。クロウが雑巾の場所を伝えると、ハルカは台所を出て行った。

「アンナ、さっき何かしたかね」

 そうクロウが訊ねてきたので、私は正直に「少し魔法の練習を」と口にした。クロウは、そうか、と穏やかな顔で言うと、すまないね、と続けた。

「誰か、魔法に達者なものをつけてやれればいいのだが」

 いいえ、と私が応じた時にハルカが戻ってきて雑巾で濡れた床を拭き始めた。

 クロウはまだ何か言おうとしたようだけど、玄関の方で「ただいま戻りました」というカマチの声がしたのでそちらへ行ってしまった。

 私はハルカと二人になって、やっと確認できた。

「ハルカ、さっき、何をしたの?」

「別に」

 床にかがんでいたハルカがこちらを見て、ちょっと不敵な笑みを見せた。

「少し魔法を使っただけ」

「魔法……?」

「気にしないで。ほら、鍋が煮立ってきたよ」

 私は料理に戻ったけど、魔法を使った時の違和感が手から抜けなかった。

 ハルカは何をしたのだろう?


       ◆


 夕飯の間、カマチはクロウにしきりに不思議がっていた。

「この村の異常は間違いなく魔法によるものですが、魔法を使っているものが見当たらないのです。魔法屋すらいません。高位の魔法使いは離れたところで大規模な魔法を行使することもありますが、だとしてもこの雨が降り続ける魔法にどんな意味があるのか……」

 クロウは具の乏しいスープを匙ですくいながら、難しい問題です、と答えていた。

「最初は村のものはみな、すぐに解決すると思っていました。しかし雨は止まず、村は半ば水没してしまい、もう諦めているのです。魔法特別調査官でも原因がわからないとなると、もうこの村は捨てるしかないのかもしれませんな」

 心中、お察しします。無念そうにカマチがわずかにこうべを垂れた。

 私も胸が痛んだが、そのすぐ横ではハルカが皿の中のスープをしきりにかき混ぜていた。具が少ないなぁ、などと今にも言いそうだ。

 それでもさすがに空気を読んだのか、常識があったのか、ハルカはスープには文句を言わなかった。

 食事が終わり、食器を片付けた。風呂を沸かそうにも燃料が限られているので、水を使って布で体を拭うしかない。順番に体を清めた。

 クロウは自分の寝室へ入り、カマチは形だけの客間に入った。私は自分の部屋にハルカを連れて行った。彼女は私の寝間着を借りている。サイズはちょうどいいようだ。

 私は料理の時のことをハルカから聞き出すつもりだったけど、彼女は床に敷いた布団に入ると、「おやすみぃ」と言った次にはもう寝息を立てていた。そんなに早く眠れるもんか、と思ったら、本当に眠っていた。

 起こすわけにもいかないので、私も自分の布団に入って部屋の明かりを小さくする。

 ハルカが何者かを考えているうちに私は眠っていた。

 誰かが揺すってきた時、私は何が起こっているかわからなかった。

「何……」

 声は途中で口元を手で覆われたことで遮られた。

 やっと意識がはっきりして、薄闇の中でハルカが私の口元を押さえ、そして自分の口元では人差し指を立てているとわかった。

 静かにしろ、ということらしいけど、何なのか。

 視線でそれを確認すると彼女は私の口元から手を離して、無言で起き上がった私の耳元に口を寄せてきた。

「黙っていて。お願いね」

 なんで? と聞きたかったけど、それより先にハルカはドアのところへ驚くほど静かに移動し、立て付けが悪くて常に軋むドアを完璧な無音で人一人通り抜けられるだけ開けた。

 何をしているんだろう?

 私が立ち上がろうとした時、ハルカがするりとドアの向こうに消えた。

 誰だ、と声がした。

 急に強い光がドアの隙間で瞬いたかと思うと、音はしないのに家全体が揺れて軋んだ。

 驚きのままに私はドアに飛びついて開け放ち、目の前の光景に絶句してしまった。

 ハルカがこちらに背中を向けて立っている。その向こうで、床に尻餅をついているのはカマチだ。そのカマチを見下ろしているのは、クロウだった。

 もしやカマチは強盗だったのか、と私はまず思った。それをクロウが何らかの方法で退けたのか、と思ったのだ。実際、カマチは例の剣を抜いていて、すでに部屋は薄明かりしかないとはいえ、はっきりと白刃が光を跳ね返していた。

 クロウの視線が私を見て、次にハルカを見たようだった。

「この男に縄を打つ手助けをしてもらえないかな、二人とも」

「その必要はありません」

 答えたのは、ハルカだった。クロウの顔から感情が消え、カマチも呆気にとられた様子でハルカを見ていた。私からはハルカの表情はうかがえない。

 ハルカが淡々と言った。

「この村の異常は、天の気と大地の気の乱れによるもの。魔法の中でも呪詛と呼ばれるものだと見当はついています。天と大地の気が正常な循環を離れてしまっているのですが、では、乱れた気はどこへ流れているのか」

 誰も口を挟まず、ハルカは言葉を止めなかった。

「気の全てはクロウさん、あなたに流れている。おおかた、延命のためでしょう。そう考えれば天候が変わるほどの膨大な気の乱れも説明できる」

「そ、そうだ!」

 声を発したのはカマチだ。

「この老人が原因なんだ! 二人とも、こいつを捕縛するのを手伝ってくれ!」

「そういうあなたも同じ穴の狢でしょう」

 そのハルカの一言で、カマチの表情が凍りついた。

「特別魔法調査官と身分を偽って、この村の気の乱れを利用して力を溜め込むつもりでしょう。気を取り込んだところでクロウを暗殺するのがあなたの計画。まぁ、クロウに手も足も出なかったようですが」

 カマチは何も言えなくなり、それに代わるようにクロウが口を開いた。

「お前は、なんだ?」

 私は、と言いながらハルカが片手を目の前に掲げた。

「私は、こういうものです」

 最初、目の錯覚かと思った。

 しかし違う。

 ハルカの手元から何かが生まれていく。

 真っ白いそれはあっという間にハルカの体を包み込んだ。

 真っ白い外套だった。

 それが意味するところを、私もクロウもカマチも知っていた。

 高位の魔法使いである公認魔法使いの中でも、特別に強い力を持つものには外套が下賜されるという。その外套はその魔法使いの性質そのものを意味するとか。

 ハルカは、本物の、まぎれもない魔法使いなのだ。

 短い悲鳴をあげてカマチが逃げようとしたが、その動きが唐突に静止した。不自然な、転ぶはずの姿勢でしかし動きを止めている。

 ハルカがこちらを振り返り、肩をすくめた。苦笑いが口元にある。

「ちょっと面倒になるけど、許してね」

 私はクロウの様子を見た。クロウもまた、カマチと同様に動きを止めていた。

「いったい、何が……」

「彼らの動きを凍結させたの」

 凍結?

 私が訊ねる前に、ハルカは窓に歩み寄り、カーテンを開けた。

 見て、と言われたので私は彼女の横に進んで窓の外を見た。

 雨が、止んでいる。

 代わりに雪が降っていた。

 見れば地面が一面の霜で覆われ、遠くに見える水面も凍りついているようだった。

 そんな地面や氷面から、白い粒子が舞い上がり始める。

 信じられない景色だった。

 私はハルカを見た。

 ハルカは窓の外を見ながらどこか退屈そうに言う。

「なかなか美しい」

 私は反射的に、そうだね、と答えていた。


       ◆


 翌日にはソリン村を取り囲んでいた水が嘘のように消えていた。

 クロウとカマチはどうやって事態を知ったのか、夜明けと同時に到着した対魔法警察に捕縛され、連行された。村の人もこれには驚いていた。

 その日の昼間、私の両親がやってきた。ちょうど仕事が一区切りになったというが、雨が止んでいて水も消えていて驚いていた。何があったのか、質問されたけれど私にはうまく答えられなかった。

 ハルカは対魔法警察と一緒に去っていった。ほとんど会話は出来ていなかった。

 あれが、本当の魔法使い。

 私は両親と一緒にソリン村を離れながら、神秘的な光景を一瞬で生み出した少女のことを何度も思い返した。

 奇跡の使い手。

 そう表現するしかない。

 あの夜から後、私は魔法を使うのが怖くなって、練習も避けるようになった。

 ハルカが怖かった。

 彼女は、人間ではないように思えた。

 忘れようと思っても、冬の寒い日、雪が降ると彼女を思い出す。

 私は彼女とあれ以来、会ったことはない。



(了)

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雪の夜 和泉茉樹 @idumimaki

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