第4話

 深夜の鐘を合図に、休憩をしに街へ出ていた竜騎兵団が戻って来た。

 最近は【夏至祭】前に騒ぎを起こさないように、気を張っていたから、いい気分転換になったようだ。騒ぎが起きない限りは交代制で睡眠も取るよう命じて、こちらはトロイに任せ、フェルディナントも一度駐屯地に引き上げることにした。

 数時間仮眠をとる。

 馬で駐屯地に戻ると、フェリックスが近づいて来た。

 騎竜は平時も、規律を悪戯に乱さない、落ちつきが求められる。普通の尺度から言うと、フェリックスは好奇心旺盛な方だった。この部隊の隊長騎だが、一番若く、要するに「ヤンチャ」な所がある。任務遂行中は規則違反めいたり命令に従わないような素振りは一切見せないのでフェルディナントも多少大目には見ているが、騎士は日頃からの態度や行動が大切だ、と思っている彼としては、愛竜の普段の好奇心旺盛さは、そんなに喜ばしいことではなかった。

 繋いでおけばうろつかないのだが、繋ぐと何故かしゅん、としていることがあるので、あまり繋がないようにしている。

 休暇中の王家の森ならともかくここは一応駐屯地だから、あまり悠々とうろつかないで欲しいのだが、ヴェネトに来てから時々フェリックスはこういう行動を見せることがあった。

(やはりあまり飛ばしてやってないから、イライラしているのかもな)

 通常は竜騎兵団は毎日飛行演習を行う。ここでは週に二、三回だし、戦闘訓練は行えない。近隣を軽く飛び、隊列などの確認をするのが限界だ。

 とはいえ、他の騎竜だって同じ状況で耐えてくれているのだから、お前も頑張って耐えてくれよ、という気持ちを込めて、フェリックスの額に手を添えたが、愛竜は手綱を咥えて、期待に満ちた目でフェルディナントを見て来た。

「……おまえ……絶対に俺の気持ちが伝わってないな?」

 はやくー、というように首を振った。

「……。」


◇   ◇   ◇


 バサリ、と翼が大きく羽ばたく。

 気持ち良さそうだ。

 全く。

 フェルディナントは苦笑する。

 竜は賢い動物だから、こういう関係はあまり良くないのだ。

 一度要求を飲むと、ずっとそれを覚えていることがある。そうすると次に自分の要求が飲まれないと不満を覚えて反抗的になることがあるのだ。フェリックスは今まで一度もそういう兆候がないため、許してはいるが、あまり良くはない。

「いいか、今は我慢させているから、特別だぞ。お前だけが望んだ時に飛ばせてもらえると他の竜が思ったら悪いだろ」

 緩やかに下降してから、また気持ち良さそうに上昇している。暢気なものだ。

 フェルディナントは王都ヴェネツィアの方を見た。

 好きに来させたが、フェリックスは王都の方から離れる方に自然と飛んで来た。

 いつもより明るい。

 それに、水路に沿って光の粒が見える。

 水路に明かりを浮かべる、とネーリが話していた。

 ヴェネト王国の周囲には干潟が広がっている。

 その所々に小さな家なども建っているから、干潟の家と言われてもどれかは分からない。

(そうか……でも家の前から描いた絵だと言っていたから……)

 確か左手にヴェネツィアの街が映っていた。

 そうだな、こんな感じだ、と距離感を測って近しい場所を見つけた。

 地上には幾つか、干潟の側に小さな家が見える。

 あの中のどれかがアトリエなのだろうか。

 だが、今は人の気配はどこもせず、地上は暗がりだった。

 今日は【夏至祭】だし、きっとネーリは街にいるだろう。

 随分街から離れてしまった。

「フェリックス。離れ過ぎだ。もう戻るぞ」

 手綱を引いた時、ぐい、とフェリックスが首を下げ、がくん、と一瞬高度が下がった。

 それくらいのことで驚きはしないが、フェルディナントは眉を顰めた。

 今のは――明確な命令無視だ。初めてのことだった。

「フェリックス!」

 ばさ! とひと際大きく翼を羽ばたかせると、滑降の体勢に入る。

 こんな命令無視を戦闘中にされたら、他の竜も混乱する。初めて見せる愛竜の反抗的な行動に、怒るよりも困惑したフェルディナントを乗せたまま、フェリックスは海面付近まで高度を下げた。滑るように近づいて行く。その時気づいた。単なる気まぐれの、反抗的な行動じゃない。フェリックスの黄金色の瞳が見開かれ、夜闇に輝いている。何かを探しているのだ。

「フェリックス?」

 首筋に触れると、丁度彼は一鳴きして斜めに迂回し、方向転換した。

 下りていく。

 暗い地上に目を凝らし、気付いた。

 干潟がこの辺りで終わる。弓月型に伸びた浅瀬の、奥に、一槽の小舟が心許なげな杭に繋がれたまま、静かに揺れていた。

(あれは――)


◇   ◇   ◇


 ネーリは星の瞬く夜空を見上げていた。

 迷った時は空の星を見れば、自分の居場所が分かる、と船の上で祖父が言ったことがあった。

(これからどこに行こうかなあ……)

 小舟の上で仰向けになり、星を見ながら考える。

(どこでもいいんだ。今は暑いから、北の方の街に行こう。冬が近づいたら海の凍らない南へ……。それでいい。いつかはここだと思う場所が見つかるよ。きっと……)

 綺麗だなあ。

 数時間ずっと見上げて、星の光が目に焼き付いた。

 静かに目を閉じる。

 不思議な存在だ。

 星は、どうして地上を照らすのかな……。

 空の上から星が照らすなら、

 星よりも高くに、彼らを浮かばせる世界があるはずだ。

 画家は本能的に、見えない世界も描ける、と神父が言っていたことを思い出す。

 海は、底にいくに従って、光は段々失われ、暗くなって行くのだろうと言っていたけれど。

 本当にそうだろうか?

(だって星は、夜闇にも浮かんで世界を照らす)

 それなら光の届かない海の底にだって、星のような光があるかも。

(星が例えば、海の底の光だとしたら

 僕たちのいるこの地上は、

 星の海と地上の海、二つの海の狭間にあるのかも)

 考えていると、絵を描きたくてたまらなくなった。

 明日の朝、明るくなったら漕ぎ出て、どこかの街に行って……絵を描ける場所を探して、一人で籠ってしばらく描き続けたいな。

 そうしてまたいつか旅に出たいと思ったら、旅に出て、またどこかを見つけて。

 一人っきりで閉じ込められて、優しい思い出を泣きながら、思い出しながら過去を描くことしか出来ない暮らしなんて、絶対にもう二度と嫌だ。

 それを思えば、例え一人っきりでも、この世界の色んな場所に行って、まだ見ぬ世界のことを描けることは、きっと幸せなことだ。

 干潟に佇む水の都。

 朝に見ても、昼に見ても夜に見ても、どの季節でも――美しくて、大好きだった。

(大好きだったよ。ヴェネツィア)

 目を閉じて、一晩だけ、別れを惜しもうと考える。

 思い切り惜しんで、寂しがって。そしてこの恋を終わらせる。


(僕には手の届かない星だった)


 ザザ…………、

 大きく、ゆったりとした波を少し感じた。


「……ネーリ?」


 瞳を開いた。


 ――【水の王】……。


 そんな天啓めいた言葉が思い浮かんだのは、こちらを見下ろす澄んだ天青石の瞳の色が、水の都を想う心に、呆気なく染み込んだからだと思う。

 いつか見た、青い美しい幻視を想わせる、不思議な色……。


「……フレディ……、」


 僕が本当に持たざる者で、

 本当に不幸な子供なら。



(どうしてこの時彼に出会ったのかな)


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