第3話

 教区を見回り、これから合同礼拝の為に中心街に行かなければならない。

 教会に戻って来ると、奥の部屋が開いていた。

 フェルディナントがネーリの絵を買いたがっているので、ネーリがその部屋にも鍵を掛けるようにしていたのだが、フェルディナントが今まで通り、時間のある時に見れるよう、鍵は聖母子像の足元に置いておくようにしてある。

 てっきりフェルディナントか、ネーリが来ているのかと思い、部屋に入ろうとすると、その二人ではない、見慣れない真っ青な軍服姿が夕暮れの光の中に佇んでいた。

 おや、と思う。

 長身の軍人は、いつかのフェルディナントのように、腕を組んで、部屋の中の絵をじっと見ていた。

「あの……」

 神父は声を掛ける。

 振り返った軍人は一目で良血であることが分かる、金髪碧眼の貴公子だった。

「ああ、勝手に申し訳ない。扉が開いていたので、つい見てしまった」

 彼は背まである髪を軽く一つに結った姿で、優雅に一礼をしてみせた。

 神父はああ、と笑って頷く。

「申し訳ありません。鍵を掛け忘れたんですな。私はこれから少し外に出なければならず……良ければ、出る時にそこの鍵を掛けておいていただけませんか? 鍵は聖母子像の足元に置いておいてください」

 青年は笑った。

「そんなにはっきり鍵のありかを言っていいのですか?」

「盗難防止というわけではないのです。ここは近所の人間しか入って来ないような教会ですし。今はさすがにみんな出払っていますが、いずれ誰か戻って来るでしょう。子供たちや、老人が、遊び場にしているような所ですから。ただ、猫が入って絵を荒らしてしまうので」

「なるほど。それはいけない。必ず鍵を掛けて出ましょう」

「何か御用でしたでしょうか? 軍の方とお見受けしますが……」

「ああ、いや……お気になさらず。私はフランス海軍の者で、怪しいものではありません。

珍しい【夏至祭】の街をぶらぶらと歩いていたら、涼し気な聖堂があったのでつい休ませていただこうとしたらこんなに素晴らしい絵が飾られていて、驚きまして」

「良ければゆっくりご覧になって下さい。私はもう行かねばならないのですが――」

「どうぞ。私に構わず、お勤めに向かわれてください」

 青年は温和に笑った。

 フェルディナントとはまた違う雰囲気の青年だったが、こちらも礼儀正しそうな若者だ。

「では、お言葉に甘えて」

 神父が一礼し出て行くと、青年が呼び止めた。

「失礼、この絵には名前が描かれていませんが、作者の名前が分かりますか?」

 ああ、と神父は微笑む。

「ネーリ。

 ネーリ・バルネチアという若い画家です」

「そうですか。ありがとう」

 神父が出て行くと、ラファエルは部屋の中に戻った。

「……ネーリ……、か」

 彼の絵だ。間違いない。

 フェルディナント・アークが持っていた絵と、似た干潟の絵がある。

 王都ヴェネツィア中のアトリエを訪ね歩いて、全て空振りだった。まさか、こんな小さな教会の奥で彼が描いているとは。ローマの貴族の城で、美しい聖域のような庭で、草の上に広々と道具を広げて描いていた頃を思い出す。

 ここはお世辞にも大きく美しい教会とはいえない。

 ローマの城に隣接した聖堂でも、この五倍くらい大きかった。

 イタリアから、ヴェネト王国へと渡って、彼がどんな暮らしをしているのだろうかと、いつも、思いを馳せていた。

 カタン……、

 そこにあった椅子に腰を下ろして、ラファエルは側の絵を持ち上げ、イーゼルにそっと置いた。

 ……城にいる、あの王太子が【ジィナイース・テラ】を名乗り、我が物顔をしている以上、彼が幸せな境遇ではないのだろうことは、予想していたけれど。

 想像以上に劣悪な環境だ。

(それでも……)

 子供の頃でさえ、ジィナイースは絵が抜群に上手かったが、今は更に腕に磨きがかかっている。

 絵とは、芸術家の心を映す鏡である。こんな環境で描くことを強いられるようになって、きっと失望や悲しみがあるはずなのに。

(相変わらず、なんて美しい絵を描く人なんだ)

 美しい景色を描くことが堪らなく楽しい、と目を輝かせていたあの頃のままだ。

 絵を見れば分かる。

 ジィナイースの魂が、苦難などには少しも汚されず、今も温かく美しいことが。

 会いたかったな……とラファエルは思ったが、諦めた。

 ようやく彼のアトリエを見つけたのだから、焦らずともじきに、会えるはずだ。

 ラファエルは、彼に会うためにヴェネト王国にやって来た。

 他の理由はない。

 この国に悪魔が住んでようと、化け物が住んでいようと、どうでもいい。

(ジィナイースがいてくれるなら)

 彼の美しい絵。この世の苦しみから解き放たれたような、聖域。

 だが、ラファエルは知っていた。彼の絵に嘆きが一切感じられなくても、悲しみや不安が全くそこに存在しないわけではないのだ。ジィナイースには、自分の持つ、そういった負の感情を、押し隠す強さや優しさがあった。幼い頃から、彼はそうだったのだ。

 ジィナイースの祖父は貿易商で、仕事上、多方面から妨害なども受けることがあるのだという。その為彼らは一カ所に留まらず、常に世界各国を移動し続けているのだと、彼から聞いたことがあった。

「お前はいつ帰っても我が家にいるなあ」と、苦笑しながらもジィナイースの隣に当然のような顔で座っているラファエルの頭を撫でて、もう一人の子供のように歓迎してくれたジィナイースの祖父は、豪気な人で、人に恨まれるような人には思えなかった。

 しかし貿易とは利害が絡むため、大損をした人間がいると、思いがけず恨まれることもあるという。

 色んな所に行けるのは楽しい、とジィナイースは笑っていた。

 本心だと思う。

 だが彼はこうも言っていた。

「いつか、誰にも追い立てられない綺麗な場所を見つけたい」

 城を出るたび、たくさん描いた絵は手放さなければならない。

 自分だけの城を持って、大好きな絵をずっとずっとそこで描きたいと彼は言っていたのだ。

 ラファエルはジィナイースが一度だけ口にした、彼の願いをずっと覚えていた。

 彼が今や、継承したフランス聖十二護国の一つフォンテーヌブロー領の公爵家には、広大な敷地の中に小さな城がまた幾つもあるが、ひと際美しい、小さな湖の側に立つ城があった。そこはラファエルが居住するようになって、一番最初に整えさせたのだが、未だに誰も住んでいない。

 彼の取り巻きの女性たちは、ラファエルがそこに住みたいのだろうと思っていたらしく、いつまで経っても移り住まないことを訝しんで、一体どこの愛人に与えるつもりか、と耳を強く引っ張られて詰問されたこともあるが、愛人じゃないよ、と何度言っても未だにこの誤解は解けていない。

 ラファエルはそこを、ジィナイースがもし訪ねて来てくれた時は、彼の住まいにしたかったのだ。アトリエに使える大きな広間も、画材も、全て揃えてある。彼が好きな時に、訪問して、寛げる場所を作っておきたかったのである。

 あの城に比べれば、ここはとんでもない環境だけど。

 それでもジィナイースは「絵を描けるなら幸せだ」と、今もこうしてたくさんの絵を描き続けている。自分も今や、きっとジィナイースにも恥じないような地位を手に入れた。

だが、地位や名誉に囚われず、一途に自分の好きなことをしている彼の生き方には、いつも憧れる。

 ラファエルにとってジィナイースへの感情は、友情、憧れ、初恋、様々な想いが混ざっていて、とても一言では言い表せなかった。

 この世で唯一無二の人だ、と思っている。

 ジィナイースにもそんな風に思っていて欲しいけど、多分今より全然無力で魅力のない子供だった自分には、きっとそこまで彼を惹き付けるものはなかっただろう。

 ラファエルは苦笑する。

 ……でもだからこそ見て欲しい。

 今の自分を。

 彼に相応しい人間になろうと思って、あれから十年の月日をラファエルは過ごして来たのだ。

 会いたかったが、仕方ない。

 でも同じ街にいることが分かったし、彼のアトリエも見つけられた。

 ゆっくりと立ち上がる。


「またすぐに会いに来るよ」


 愛し気に、ジィナイースの絵を見つめてそう言うと、ラファエルは部屋に鍵を閉め、聖母子像の足元に鍵を置くと、小さく祈りの仕草を捧げてから教会を後にした。



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