第2話

 目の前を、たくさんの花を乗せた荷馬車が過って行く。

 荷台には子供が二人乗っていて、はしゃぎながら花びらを荷台から飛ばしている。

「無事に始まったようですね」

「何とかな」

 守備隊本部になった教会の入り口にもたれかかり、フェルディナントとトロイは夕暮れ時、街中の鐘の音と共に始まった【夏至祭】に、小さく息をついた。

「油断は出来ませんが、しかし警邏隊の活動を中止した後は殺人事件が止まって良かった。

やはり、あの仮面の男、警邏隊に対する不穏分子と見て良いのでしょうか?街の人間も、まだ見慣れないような顔は見せますが、巡回する竜騎兵団に対して特に敵意などは見せていません」

「警邏隊の解散で、このまま治安が安定すれば楽なんだが……。どうだろうな。とりあえず三日三晩続くというこの【夏至祭】の最中に、城下町で目に余る騒動が起こらないように祈るよ」

 フェルディナントは教会の中に戻る。

「最近は働き詰めだったからな。竜騎兵に休息をやってくれ。羽目を外すのは困るが、羽は伸ばしていい。ただし大きな騒ぎが起きた時は招集をかけるからそのつもりで」

「全員にですか?」

「ああ。トロイ、お前も少し好きにしろ。街を見て回るなり、食事するなり、上で寝てもいい。心配するな。いざとなったら駐屯地の連中を呼ぶ。単なる交代制だ。三日は長いぞ。休める時に休んでおけ。俺は後でいい」

 こういう時に、逆らっても無意味なことをトロイはよく知っていた。

 敬礼をし、教会内にいた竜騎兵達に伝えると、それぞれが食事などしに、出て行くことにしたらしい。異国の【夏至祭】が興味深そうだ。

「では、しばらく外します」

「ああ」

 フェルディナントは散らかっていた書類を整えている。何かを言おうとして、トロイはやめた。ゆっくりと夕暮れの街に出て行く。


 一人になると、フェルディナントは一度綺麗にした机に王都ヴェネツィアの地図と、ヴェネト王国全域の地図を広げた。

 ヴェネトの地図の方には、飛行演習で確認した近隣諸島の様子も描き込まれている。

 フェルディナントの指が確認するように王宮の西側の海を滑り、今だ謎に包まれたその場所に触れた。夜陰に紛れてでもいいから間近で見てみたいが、そうもいかない。当然、監視はいるだろうし、竜騎兵が近づいたなどと知れれば王妃が黙っているはずが無かった。

 そのことで、神聖ローマ帝国に危険が及ぶようなことは絶対にあってはならないのだ。

 常に霧に包まれ、暗礁にも囲まれたその地に、外界から近づくことは出来ない。

 だが大体の場所は分かる。

 フェルディナントの指が、【シビュラの塔】のある場所を指し、そこから真っ直ぐ、北東の方へと移動した。

 地図を越えて、更に北東へ。

 目を閉じ、額を押さえた。

 本当ならば、【エルスタル】の民も、夏至祭を楽しみ、夜を継いで過ごす時期だ。

 フェルディナントは、楽し気に聞こえて来る表の、楽の音から目を背けた。

 ……ヴェネトの民を憎んでも仕方ない。

 彼らさえ、真相などは分かっていないのだから。

 守ればいいのだ。

 守れなかった、【エルスタル】の人々の代わりに、彼らを。

 今は、そうやって目先のことしか考えられない。

 本当はそれではダメなのだろうと思うが、自分が例え小国でもエルスタルの『王』であるなどと――王の自覚などは、持てなかった。

 神聖ローマ帝国皇帝の庇護のもとで、自分という存在が生き永らえている。

 国土も、国民も、全て失って。

 フェルディナントは少し喉元を、覆うスカーフごと緩めた。

 そもそも国を一から生み出すということは、どういうことなのだろうか?

 かつて、まだ世界の多くが未開の土地だった頃、創始の王たちは、各々の国となるべき、肥沃の大地を探した。ここぞという大地が見つかり、そこが誰の土地でもないならば、彼らの土地とし、先に住まう者たちがいるなら、戦をし、勝ち取って領土を得ねばならない。

 フェルディナントは額を押さえるようにして、片手で顔を覆った。

 失われた【エルスタル】という国を、いつかは再興させたいと願う。

 それでもどこか新しい土地に見い出すということは、彼にはあまりにも現実離れしたことのように思える。

 エルスタルを新しく建国する為に、他国と戦などしたくはない。

 領土を奪うこともしたくない。

 エルスタルがどのように殺されて行ったかを考えれば、その思いは尚更、強くなる。

(結局俺に出来ることは)

 名を残す、くらいのことだ。

 神聖ローマ帝国の将軍として戦功を立て、取り立ててもらい、爵位を得て、結婚し、子を成し、その子供たちに【エルスタル】の名を継がせていく。失われた国の名なのだよ、と幼子に教えてやるのは簡単だが、どうして滅び去ったのかを説明するのは困難だ。

 フェルディナントの母親はまだ生きている。

 彼女も国を離れて他国の別荘にいたため、難を逃れたのだ。

 エルスタルに何が起きたのか、話した時、元々あまり怒ったり泣いたりという激しい感情を露わにする人ではなかったけど、もう真実を知っていたかのような表情で受け止め、そうですか……と押し黙った。

 フェルディナントは何も約束は出来なかった。

 ただ、自分は神聖ローマ帝国の軍人としてこれからも戦功を立てるので、貴方の生活に一切の苦労はさせないと、そのことだけは伝えた。

 今まで通り、何も変えず、安心して暮らしてほしいと。言えたのはそのくらいだ。

【エルスタル】のことは何も、約束できなかった。

 去り際、母親が自分の身に着けていた指輪を外し、フェルディナントに手渡して来た。

「身体に気を付けるのですよ。フェルディナント。母のことは心配はいりません。今の貴方は神聖ローマ帝国皇帝の忠臣。それだけを信じて、誇りに思って生きなさい。

 今はまだ……失ったものが多すぎて、迷いはあるでしょうが……。

 【エルスタル】の名を継ぐよう、仰って下さった皇帝陛下に感謝をするのです。そして失われた者たちを想うあまり、今、共に生きている方たちをないがしろにしてはいけませんよ。

【エルスタル】は貴方の光なのです。

 決して呪いや、自分を追い詰める痛みにしてはなりません」

 後にも先にも、無口な性格の母親がそこまでフェルディナントに対して何かを言ったのはあの時だけだった。

「貴方が生きてさえいれば、【エルスタル】が真に消え去ることはないのです」

 細い鎖に通して首から掛けている、母の指輪を取り出した。

 あの人はもう、国が失われたことを静かに受け入れている。

 そのことで、フェルディナントにどうにか国を復興させてくれなどという気はもう無いのだろう。

 彼女は【エルスタル】の王妃だ。

 父とは不仲で別居していたが、それでも離婚などはしていない。

 王妃として、国の非業をもうどうにもならないことだと、運命と共に受け止めている。

 ……フェルディナントは、まだそこまで、穏やかな心にはなれない。

 彼は【エルスタル】の王子だったが、ほとんどの時間を国の外で生きて来たからだ。

 母は、王と正妃が不仲では諍いのもとになると、国に争いを起こさない為に国を出た。

 父に寄り添えなくても、それが王妃としての決断だったのだろう。

 国の死を静かに受け止め、国を再興してくれと願わないでいてくれた母の姿が、ヴェネト王国の王妃の、他人も自分と同じ一つの命とも思わない傲慢な態度を前にした時にも、フェルディナントに怒りを、我慢させた。

 父のことは、とうとうどういう人なのか、あまり分からないまま死に別れてしまったが、フェルディナントはもし自分に子供が出来たら、この指輪を継がせ、これは【エルスタル】の王妃の指輪で、彼女は立派な人だったのだと、そのことだけはきちんと伝えようと心に決めている。

 もう、そのくらいのことしか、彼女にしてやれることはない……。


 また、どこかで鐘が鳴っている。

 これは誰を想って鳴らされている鐘なのか。

 フェルディナントには分からなかった。



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