海に沈むジグラート⑥

七海ポルカ

第1話

 声がする。


 自分を、呼ぶ声だ。

 いつの間にか眠っていた。

 身を起こして、大きなベッドの上で、瞬きをする。

「……?」

 踏み台を使わずに、大きなベッドからなんとか下りると、窓辺に寄った。

 背伸びをすると、辛うじて空が見える。

 でも鍵までは手が届かない。

 その時、また聞こえた。

 波間に、ジィナイース……、と誰かが呼んでいる。

 行かなければならないような気がして、夜は、恐ろしい魔物が歩いているから部屋からは出てはいけないよ、と言いつけられていたが、彼は廊下に出ていた。自分には届かない所に鍵が掛けられているはずなのに、扉に触れた時、重いはずの扉がふわり、と自然と開いたのだ。

 暗い廊下は嫌いだ。いつも祖父の逞しい腕に抱かれて、寝室に連れて来てもらう。恐る恐る、暗い左右を覗き込むと。ふ、と何かが闇の中に浮かんだ。

 光だ。

 黄金色の光。

 いや、花が咲いている。

 光の花が、一輪、一輪と咲いて行く。

「わぁ……!」

 驚いて、花の方に歩いて行く。

 触ってみると、その光の花は、砂糖菓子のように儚く、ホロホロと崩れて行った。

 花の欠片までも、黄金色に輝いて、綺麗だ。

「きれい」

 咲いて行く花の道を追って、駆け出していく。

 厳重な警備がなされているはずの塔の扉も、近づくと自然と開いた。

 小さな森の向こうまで、光の花は導くように咲いて行く。

 森を抜けると、一面に湿地帯が広がっている。

 ここは王家の狩場で、今日初めて、狩りに連れ出してもらった。

 祖父が狩りを愛するから、きっととても楽しいことなのだろうと思っていて、今日は本当に楽しみだったのに、湿地帯に飛来する鴨や、隣接する森でウサギやシカなどを仕留めて、大人たちは楽しそうだったが、殺されて引きずられて拾われてくる動物を見た時に、狩りの意味が初めて分かって、大粒の涙が零れた。

 大泣きをすると祖父はとても驚いたようで、狩りをすぐ中止して、館に戻ってくれたけど、機嫌は直らなかった。みんなあんなに可愛いのに、意味もなく殺すなんて可哀想だと、泣きじゃくった。そのまま、毛布に潜り込んで泣き疲れて眠ったのだ。

 夜の湿地帯は不気味だった。

 波すらなく、

 風すらなく、

 静まり返っている。

 時折何の音か分からない音が聞こえた。

 動物の声なのか、虫なのか、自然の音なのか。

 撃たれて、射貫かれ、息絶えた動物の姿が頭に過って、ぎゅ、と目を瞑る。

 すると、足元からまた光の花が咲いた。

 湿地の上を、ゆっくりと咲いて行く。

 先を見ると、ふと、闇の中に灯台のように、白く輝く塔が建っていた。

 天を貫くような高さだ。


 ジィナイース……、


 また声が呼ぶ。

 不思議な声だった。声ではなく、音かもしれない。

 それでも自分が呼んでいると分かるし、

 何故か、行かなければならない気がした。

 そっと湿地帯に裸足を下ろすと、泥に濡れるはずの足が、濡れなかった。

 沼と自分の足の間に、まるで見えない道でもあるように、歩けた。

 恐る恐るもう一歩踏み出すと、やはり沈まない。

 足の裏はフワフワとする。

 綿を踏んでいるようで、歩みを進めると、導くようにまた光の花は暗い湿地帯の上に道を作り、本来ならば道など無いそこを、ただ真っ直ぐに天魔の塔へと辿り着く。

 もっとも――幼い彼にはそこがどこかなど、分からなかったが。

 白く輝く塔の前にやって来る。

 上を見上げたが、頂点は雲の中で見えない。

 あたりをキョロ、とすると、振り返った向こうに自分のいた館と、隣接する尖塔が見えた。

 そしてその奥に、寝静まった水の都のほのかな光が。

 見たことのない景色だ。


 ジィナイース……


 風が吹いた。

 寝間着の、長い裾をゆっくりと揺らす。

 振り返ると、いつの間にか、塔の扉が開いていた。

 巨大な黄金の扉が、音もなく。

 中は真っ暗だったが、遥か先に、僅かに光が見えた。


【ジィナイース】


 その時である。

 幻視が起きた。

 一瞬周囲が、水の中になったのだ。

 自分の身体も、水の中にあり、塔の中も、水中だ。

 色とりどりの魚が周囲に泳ぐ。

 光の花が静かに咲き、魚たちは花に集まる蝶のように光の花に寄って、美しい尾を揺らした。魚たちが、塔の中へとゆっくり入って行く。


【ジィナイース】


     【貴方を待っていた】


【水の王……】

    【さぁ、恐れることはない。

       その、光に輝く瞳で――私のそばに】



 ジィナイース……。


 優しい声だ。

 分かる。

 これは、信じていい声だ。

 自分を守り、愛してくれる声だから。



「ジィナイース!」



 突然、幻視から醒めた。

 振り返ったジィナイースを、慌てて館から追って来た祖父と、その側近たちが驚いた顔で見ていた。彼らの驚いた顔を……今でも忘れられない。

 そんなことがあったのはその一度きりだった。

 声に呼ばれることも無かった。

 夢のような出来事なんだろうと、幼い頃の一夜の、不思議な記憶。

 祖父は水の都から自分を連れ出した。

 色んな国に行った。色んな美しい場所を、見せてくれた。

 祖父が亡くなった時、水の都に久しぶりに戻り、葬儀を行った。

 葬儀には出なかった。

 出れなかったのだ。

 誰も呼びに来ず、一人で離宮で過ごした。

 寂しくて、絵を描いた。

 夜も眠らず、夢中で描いた。

 祖父の姿、いつも一緒にいた側近や、友人たちの姿。

 祖父に寄り添い、自分にも優しかった、母親のような女性たち。

 床一面に絵が広がっても、描き続けた。


『祖父の死が悲しくて、あの子は気がおかしくなったに違いない』


 誰かが言った。

 泣きながら、眠ったある夜……、


『ジィナイース……』


 また、あの声が聞こえたのである。

 幼い頃の記憶を辿る。

 不思議なことを、純粋に信じれていたあの時とは違う。

 自分は本当におかしくなったのかもしれないと思った。

 でもそれでもいい。

 迷いなく光の花の道を辿り、いつかのように裸足のまま、闇の中の湿地帯を抜け、白く輝く塔までやって来ると、まるで自分を待ってくれていたかのように、黄金の扉が優しく、内側へと開いてくれた。


【さぁ……こちらへ】

        【水の王】

      【待ちわびていた 貴方の誕生を!】


   【ジィナイース】





 激しい閃光が、全身を貫いた。



「‼」



 瞳を開いた。

 ……鐘が鳴っている。

 幾重にも、重なる。聖堂の鐘だ。

 ネーリはゆっくりと身を起こした。夏の夕方なのに、寒気を覚えた。

 立ち上がり、書きかけの、干潟の絵をそっと手に取った。

 別れがたい、故郷……。

(でももう、これ以上誰かが死ぬのは嫌なんだ)

 自分がこの国にいない方がいいのは、もう分かってる。

 思いは断ち切らなくてはならない。

 ネーリは書きかけだったもう一枚の絵を手に取ると、小屋の外に出た。

 外は黄昏時の干潟だ。

 水の都全体から、鐘の音が反響する。太腿まで水に浸かる場所へ行き、絵を浮かべる。

 完成しかけていた聖堂の絵が浮かび、すぐに波にさらわれ、沈んで行った。

 これでいいんだ、と思い、背を向けて歩き出す。

 筆と、紙があれば生きていける。

 これまでだってそうだった。

 小屋に入り、描く道具を古い鞄に入れると、ネーリはすぐに外に出た。干潟は街道沿いに続き、やがて最果てに辿り着くと、そこからは船でしか陸地に行けない。

 ヴェネト王国はアドリア海の奥にぽつりと浮かぶ孤島だ。

 どれだけ歩いても、

 世界の果てまで陸地を歩いても、来ようと思わない限り、辿り着かない場所。

 もしくは、……この地に郷愁を覚える人間しか、ここは用のない場所だ。

(郷愁は覚える)

 でもきっと、捨てられるだろう。

 潮の引いた、濡れる干潟を歩きながら、この道に光の花は咲いてるのだろうかと、そんなことを考えた。

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