第5話
「ネーリ……」
半信半疑で覗き込んだ小舟で、仰向けに寝そべっている彼を確かに確認して、フェルディナントは驚いた。
「……フレディ?」
ネーリがゆっくりと身を起こす。
その拍子に彼の長めに伸びた髪が、耳から零れ落ち、ぱさ、と揺れた。
フェルディナントは小さく息を飲む。
何故か、揺れたネーリの、柔らかそうな栗色の髪が目を引いた。
不思議だった。
これまでも、ネーリの子供のように輝く瞳や、優しく笑う表情に惹き付けられたことはあったけど、髪を広げて仰向けに寝そべり、身を起こす、他人のそんな些細な仕草一つに惹きつけられるなんてなかった。
「「どうしてこんなところに?」」
気まずさを紛らわせようとして、相手の話をしようとした呼びかけが、ただ、当然のようにそう口にした言葉と見事に重なった。
神聖ローマ帝国では十代で将軍職に着き、むしろ年齢らしからぬ智謀と実力を認められて来たフェルディナントは、そんなことで思わず赤面する。
まるで神の前に、自分の分相応の幼さを曝け出されたような気持ちになったのだ。
「いや……それは……、」
そして思い出す。
別に俺は、何か下心があって、ネーリを探してここに来たわけではないのだから、やましいことはなにもない。彼は自分に言い聞かせた。
重なった言葉に目を丸くした後、いつも通り温かい笑顔をネーリが見せてくれたから、一瞬の狼狽が嘘のように鎮まる。
自分の心に一瞬で火をつけ、
一瞬で彼は包み込んでしまう。
「……お前は、どうしてこんなところにいるんだ」
おかげで落ち着いた、優しい声が出た。
フェルディナントはこの、ずっともっと後、この日の出来事のことを何度も思い出すことになる。そのたびに、彼は人生の深さと、儚さを同時に思った。
多分人生は、些細なことで失われる。
一瞬だったり、
一度の判断の間違いだったり、
他愛無い、どこにも可能性があり得る、『ズレ』で、運命が大きく歪んだり、
簡単なことで崩れ去る。
彼のそれまでの人生は、どちらかというとそのズレで歪んだ運命をたどることの方がずっと多かった。
一瞬で吹き飛んだ国に、自分だけいなかったのもそうだ。
……運命を、呪ってばかりだったと思う。
でもこの時、ネーリに出会い、この時些細なズレが起きて、彼が笑ってくれた、そんなことが、後の自分の運命を変えて行ったと信じるのだ。
つまり、運命の歪は、いいことにも悪しきことにも現われる。
人生は儚い。
同時に、簡単に崩れ去ったりは決してしない。
フェルディナントはこの日から、そう、信じるようになった。
この時妙に気が立って、ネーリと言い合いなどしていたら。
彼に会わなかったら。
勝手な行動をする愛竜を叱り飛ばしても、規律違反だと駐屯地に引き上げていたら。
きっと全ての幸福がそれだけで、消え去っていたはずだ。
ネーリとも、二度と再会出来ないまま、彼を永遠に失っていただろう。
でもそうはならなかった。
(運命に触れた時、その瞬間は、人にはそれが幸福なものか悪しきものかは、分からない)
判断が出来るのは、もっと時間が経った後だ。
だからこそ、どんな運命に出会ったとしても、その時は掴まなくてはならない。
受け止め、それがいいものになるよう、最善を尽くす。
自分に出来る限りの全てを運命に捧げたら――、
きっと悪しき運命でも受け止められる……、
受け止めたい、と思える自分でありたいと願うから。
◇ ◇ ◇
「……ぼくは……、」
ネーリは何かを言おうとして押し黙った。海からの風が、彼の髪を揺らし、頬に触れた。
「……お前は、街にいるかと。今日は【夏至祭】だから。街の者と、準備をしてただろ?」
ああ……、ネーリはその時思い出したように呟いた。
驚く。あんなに熱心に花で飾ったり、していた。
忘れるはずがないのに、その時は確かにネーリは、意外なことを指摘されたかのように、一瞬目を開いて、それから、そっと顎をフェルディナントから逸らしたのだった。
「僕、時々そういうことがあるんだ。どうしても描きたい絵が出来たりすると、その他のことなんて、全て考えられなくなっちゃうんだよ。周囲のことが見えなくなる。ダメだとは思うけど……どうしようもない欲求なんだ」
ザザザ……ン…………。
(ネーリ)
今のは、問いの答えになってない。
フェルディナントはゆっくりと、崩れかけの桟橋に腰を屈めてしゃがみ込んだ。
彼は自分が理解出来ないことが起きると、視野を広める癖があった。
戦地でも、人でも、なんでも。
一カ所を見て理解出来ないなら、十カ所を見る。それでも分からないなら自分の立ち位置を変え、一歩下がり別の角度から眺めてみる。必ず見つけられるものがある、と彼は信じて生きてきた。
ネーリと一緒に、小舟に、絵を描く道具が入ったカバンがあった。
何度か、教会のアトリエで見たことはあったけど、持ち歩いているのは初めて見る。
だが、ふらりとアトリエから出て来るのに道具鞄などは要らないはずだ。
「…………国を出て行くつもりだったのか?」
ネーリは静かな、心はもう決まったような顔で、夏至祭に華やぐ水の都の方を見ていた。
そうだと言われたわけじゃなかったが、言われたのが分かった。
フェルディナントは無意識に、自分の左胸、心臓のあたりを押さえていた。
戦場で敵に脇腹や肩を剣で抉られたこともある。
竜騎兵になりたての頃は竜騎兵の竜に嚙まれたこともある。
本当に体に風穴が空いた。
でも、その時感じた痛みの比じゃなかった。
もっと身体が受けた時の痛みは、痛み以上に怒りや、こんな手傷を受けた自分への苛立ちや、燃えるような感覚がある。
身体に少しも傷はなかったけど、ネーリが国を出て行くと聞いた時、間違いなくこのあたりに、風穴が空いて、……痛くて、寂しくて、血の気が引いた。
「……でも、……どうして」
「もうそろそろ、去るべきかなと思って」
「ネーリ、」
フェルディナントは向こうを見るネーリに話しかける。
何かを、話さなければならないと思った。
会話を終わらせてはならない。会話が終われば彼は去ってしまう。
「絵を、俺に売ってくれると言ったんじゃなかったか?」
「もう絵は貴方のものだよ。神父様に、貴方が僕の絵を買ってくれるかもしれないっていうことは話したから、僕がいなくても、神父様があとのことはして下さるはず。教会の傷んだところを直したいって言ったら、快く承諾して下さったから。だから、平気だよ」
違う。そうじゃないのに。
「ネーリ、最近、お前を失望させるような事件が、たくさん街で起きてるのは認める。でも必ず俺たちが犯人を見つけ出して、街の治安を取り戻すよ。もう少しだけ時間を与えてくれ。きっと、必ずヴェネツィアの平穏は」
「フレディ。ヴェネツィアにも、貴方たちの働きにも、失望なんてしてないよ」
「ならどうして突然……」
ヴェネツィアに失望なんてしてない。
「…………ヴェネツィアが、ぼくに、失望したんだ」
微かに聞こえた言葉に、「え?」と怪訝な顔を浮かべたフェルディナントを、ネーリは振り返った。
「僕の話はもういいよー。
折角の【夏至祭】なんだもの。乗って! フレディ!
もう少し街の側まで行こう。特等席でヴェネツィアを見れるよ」
突然明るく彼は言うと、フェルディナントの手を取り、船へと誘導する。
本当は舟遊びなどしてる場合ではなかったが、導かれて、船に乗ってしまった。
杭に繋いであった綱を本当にネーリは外した。
船は漕いでもないのに滑るように干潟から離れていく。
「この辺りの海の流れ、いつもヴェネト本土に向かって波が流れ込んでるんだよ。だから、漕がなくても勝手にヴェネツィアに近づいて行くんだ」
確かに、オールの必要もなく、そんなに風が強いわけでもないのに船は勝手に進んでいく。向かい合うように座ったフェルディナントの所から、干潟に行儀よく座っていたフェリックスが、船が海に向かって離れたのを見届けたかのように、翼を広げ、上空に羽ばたいて去ったのが見えた。
◇ ◇ ◇
「……実は後悔してるんだ」
風と波の向くまま、船で流されていた。
どちらも、言葉がなく、近づいて来る水の都の夜景を見ていると、ぽつりとネーリが言った。フェルディナントは彼を見る。
「【青のスクオーラ】の話を、フレディにしたでしょ」
「ああ……」
「よく考えたら、するべきじゃなかったって」
「何故だ?」
「だって……彼らは危険だから。関わったらフレディに危険なことが起きるかも」
「あのなあ……」
フェルディナントは帽子を取って、喉元を覆っていたスカーフを完全に抜き取って外した。淡い金髪を、風に晒すようにわしわし、と軽く掻いた。彼は無意識だったが、ネーリは少しその仕草に目を留めた。
彼がそんな仕草を見せるのは、初めてだったからだ。
「俺は守護職だ。しかも自分で望んで軍人になった。危険が怖いなら守護職なんてとっくにやめてる。大切なのは街の平穏を取り戻すことだ。その為には正確な情報が必要なんだ。
俺はお前に言われるまで【青のスクオーラ】の名前さえ知らなかったんだぞ。側で聞いたって、聞き逃してたかもしれないことが、これからは聞き逃さないでいられる。それはいいことなんだよ。ネーリ。余計な心配しなくていい。それに……お前はいまいち分かってないようだけど……これでも俺はそれなりに戦場では剣を使うんだぞ。お前さては俺のこと剣も使えない小僧だと思ってるだろ?」
「そんなこと思ってないよー。だってフレディ竜騎兵団の隊長さんなんでしょ? 一番強いから若くてもそんな役目に着けてるって、僕だって分かるよ。そのくらい」
ネーリが明るい顔で笑った。
「本当か?」
フェルディナントは半眼である。どうも信用出来ない。
今までは、人に会うと恐れられたり警戒するような表情を向けられた。それが心地良かったわけではないけれど、非凡な存在だと理解されることで、つまり、話が早くなることがあったから、いいと思っていた。
ネーリだけは会った時から、大きな目を輝かせて「フレディー」なんて友達みたいに呼んで来るものだから、いまいち、街の青年くらいの認識しかされてないのではないかな、と疑ってしまう。
(……でもそんな認識なら……そうだよな。別にわざわざ別れなんて言う必要ないか。所詮、ネーリの中では俺は、その程度の存在でしかなかったんだ)
言い訳がましく、そう思おうとしてる、自分が嫌になる。いつから俺はこんな女々しい奴になったんだ。
水の都の方に視線をやっていると、不意にネーリの手が動いて、フェルディナントの胸元に伸びた。そこにあった、指輪に触れた。何かと思ったが、普段服の下に入れてあるものが、スカーフを抜いた拍子に外に出たのだろう。
「あ、ごめんね……キラって光ったから何かなと思って」
ネーリが、手を引っ込めた。
一瞬身を引いたフェルディナントはああ……と頷き、小さく笑った。
「母の指輪なんだ」
見ていいよ、と彼の方に鎖ごと見せると、ネーリは目を輝かせて指輪を手の平に乗せて見ている。
「綺麗な指輪だね。お花の模様が彫ってある。ここのところ、すごく繊細だよ」
ありがとう、とフェルディナントに指輪を返す。
「フレディのお母さんは……」
「今は離れて暮らしてるけど、元気だ。身体があまり強い人じゃないから、療養も兼ねて別の国の別荘で暮らしてる。こういうものはあまり持つのは性分じゃないんだが……まあ、俺は軍人だから、いつ何が起こるか分からないからな。たった一人の家族だから」
「……お父さんは亡くなったの?」
フェルディナントが小さく頷くと、ネーリがフェルディナントの手に、重ねてきた。
「そう…………ごめんね、こんなところで聞いたりして」
「いや、いいんだ」
こちらを気遣う、優しい声に、フェルディナントは微かに笑う。
「ネーリこそ……貿易商の祖父の話は聞いたけど、他の家族のことを聞いたことがない」
ずっと気になっていたことをこんな時に勢いであっさり聞けた。どうせこれが最後ならと開き直ったおかげだ。
ネーリは首を振る。
「お父さんは僕が生まれてすぐに病気で死んじゃった。お母さんも全然記憶に残ってないんだ。そのくらいの時に亡くなって、僕をおじいちゃんが引き取ってくれたの。貿易船のみんなが、僕の家族だった」
「兄弟も?」
「うん。僕ひとりだから」
ネーリも家族がいなかったのか……。
フェルディナントは初めて知った。確かに彼には家族の気配がなかったけど、愛されて育った人間特有の大らかさや温かい雰囲気を感じたから、意外だった。でも、話を聞くとその祖父が、幼いネーリに寂しい思いはさせなかったのだろう。
「見て、フレディ」
自分の膝に頬杖をついて、何か考えるような表情をしていたネーリが不意に目を輝かせて、前方を指差した。
水の都の上空にぽつぽつと光が浮かんでいく。
「誰かが明かりを、飛ばしてるんだね」
最初は数個だったが、段々と増えて行く。
……綺麗だね。
明かりを見上げて彼は優しい声でそう言った。
「……ネーリ」
彼は自由を愛する人だから、こんな言葉は、嫌がるのかもしれない。しつこいと思われそうだ。でも思われたっていい。どうせ陸に戻れば、別れが来る。それにどこにいるか、決めるのは彼だ。フェルディナントはただ、気持ちを伝えただけ。それがネーリにとって必要なら、受け止められるし、無価値なものなら顧みられない。ただそれだけのことだ。
そうしてほしいんじゃない。
ただ知って欲しいのだ。
大切に想ってることを。
ここにはいる意味がないなんて、思って欲しくない。
「……もし、ヴェネトを本当に出るなら……。
神聖ローマ帝国に来てくれないか?
王都に俺の屋敷がある。ほとんど戻ってないから、好きにアトリエとして使ってくれていい。その、……おまえを、……君を束縛したいとかそういうんじゃない。本当はいつか、君の絵を皇帝陛下に見せて、神聖ローマ帝国皇帝の居城の、宮廷画家になって欲しかったんだ。……君の絵を買ったら、屋敷に飾って、幾つか陛下に献上したいと思ってた。君がどこか旅に出て、絵を描きたいなら好きにしてくれていい。でも旅の途上で帰ろうかなと思った時は、俺の国に……。俺はきっと、死ぬまで軍人としてしか生きられないような奴だけど、君が宮廷画家になってくれて、君の絵が神聖ローマ帝国王都の宮廷に飾られるなら」
そこまで言って、フェルディナントは気づいた。
言おうとした、続きの言葉を自覚したのだ。
『俺もきっとそこに帰りたいと思えるようになるから』
今、そう思えていないから、そう願った。
気付いてしまった自分の言葉を、弁解しようとした時、フェルディナントは息を飲んだ。
水の都を見つめる、ネーリの横顔が、街の明かりに照らされてよく見えた。
頬を零れ落ちる、涙が。
「ネーリ」
痛いほど彼の想いが伝わって来る……。
「本当はヴェネトから……ヴェネツィアから離れたくないんじゃないのか?」
ネーリは首を振って俯く。
「……そんなことない。きっともう、離れなきゃいけないんだ」
知らずのうちに首を横に振っていた。
そんなのは嘘だ。
フェルディナントは、国を失いたくなど無かった。
でも奪われた。
受け止めるしかないのだ。
それでも、時が戻り、あの日【エルスタル】が滅び去ることは変えられなくても、自分がどこにいたいかだけは決められるとしたら、彼は迷わず【エルスタル】にいることを望んだ。
幼い頃からあまり、寄り付かなかった場所、
郷愁さえきっと覚えない。
それでも家族が、生きる国だった。
一度もまともに会ったことのない自分のもとに、目を輝かせて駆けてきて、迷いもなく『兄』と呼んでくれた、幼い妹の手を握って、穏やかに眠らせて、一緒に死んでやりたかった。
叶わないからもう願わないけど、
ヴェネツィアはまだここにある。
光り輝いている。
離れたくないのに離れるなんて愚かだ。
「ここにいたいならずっといろ。離れたくないなら離れる必要なんて無いんだ。
ネーリ。
お前には才能がある。
だからいたいところは、必ず自分で決められる」
ネーリがやっと、フェルディナントの方を見てくれた。
水気を帯びた黄柱石の瞳が、光に照らされて輝いている。
彼が望んでくれるなら、迷いなんてとっくに消え失せた。
フェルディナントはネーリの両手を、握り締めた。
「どこにも行くな!
ネーリ。
お前に側にいて欲しいんだ。
俺は、お前の絵が好きだから。
あの絵を描く、お前が好きだ。
ほんとは! ヴェネツィアとか絵とかどうでもいい!
…………おまえという人間に、
……………………俺が、
……側にいて欲しいんだ。
お前がどこにいても、
何しててもいい。
でも一番望む所で、幸せに……微笑ってるお前がいて、そこに俺がいたいんだ。
だから」
ヴェネト近海に貴族の所有する大型船が浮かんでいるが、そこからも光が飛ばされている。
「…………だからいなくなるなんて言わないでくれ」
ネーリの目から、大粒の涙が零れている。
彼がこんなに泣くほど、別れがたく、愛しい場所から、何故『去らねばならない』のか、理解出来なかった。
いつも明るく、思いやりがあり、温かな雰囲気を持つ彼が、辛そうに泣く顔が耐えられず、フェルディナントは手を放し、代わりに両腕を彼の身体に深く回した。
抱きしめる。
「泣くな、ネーリ。
何があっても俺が守ってやる。
お前の愛する場所も、
描いた絵も、
……お前も……必ず俺が守る。
だからもう泣くな……」
ぎゅ、とそれまで腕の中でじっとしたまま、動くことが無かったネーリが初めて、身じろいで、フェルディナントの服を少しだけ握り締めたのが分かった。
「……ありがとう……フレディは優しいね」
心配させまいとしたのか、手の平でごしごし、と目のあたりを擦って、ネーリは笑顔を浮かべフェルディナントに微笑い掛けて来る。まだ涙で水気を帯びてるのにこちらに笑いかけて来ようとする、その姿や優しさに心惹かれて、フェルディナントは自分に、正直になれた。
「優しいんじゃない。お前が好きだから……、俺はお前が好きだから、優しくしてやりたいと思ってるだけだ」
白い額にこの前よりよほど素直に唇が触れる。
ネーリは長い睫毛を伏せて口づけを受けた。
手が、フェルディナントの心臓のあたりに触れる。
確かめるみたいにそっと置かれた手に重ねて、握り締めた。
伏せていたネーリの瞳が開き、こちらを見上げて来る。
光に照らされるヘリオドールの瞳が、輝いて本当に綺麗だ。
拒むことも出来る、速さで、ゆっくりとフェルディナントはネーリに顔を近づけて、触れるだけの優しい口づけを落とした。あまりにも柔らかくて、自分には縁のないその感触に、自分がとんでもない罪を犯した気がした。
でも伏せた瞳をそっと開くと、丁度ネーリも同じようにもう一度見上げて来て、頬が花色に色づいて、何もフェルディナントが彼にとって、悪いことをしていないんだと伝わって来る、優しい瞳でこちらを見て、微笑いかけて来てくれた。
フェルディナントは安堵して、深く息をつくと、ネーリの額にもう一度自分の額を寄せた。
「……フレディ、頬が赤い」
「…………お前だって赤い」
くす……、と笑いあって、フェルディナントは両手をネーリの首筋に当てた。
そこも熱を帯びるように温かだ。
フェルディナントはもう、窺うような素振りは見せなかった。
自分からもう一度ネーリの唇を奪いに行く。唇を合わせ、探ってるだけなのに、ネーリという人間が側にいて、それを自分に対して許してくれているという事実を思うだけで、堪らないくらいに駆り立てられた。
心が自分の側にいてくれるうちに、彼の何もかもを、自分のものにしてしまいたい、という強い欲求。
欲情と言ってしまっていいその感情を自覚して、フェルディナントは唇を放すと、ネーリの身体を強く、両腕に抱きしめた。突き放して組み伏せてしまいたいという願いを封じ込めるように、強い力を込めて、腕の中にしまい込んで、誤魔化す。
(大切にしたい)
ネーリが望まないことは何一つしたくないけど、
望んでくれるなら、何だってしてやりたいと願う。
すぐ側で水音がした。
飛ぶ力を失った明かりが、ゆっくりと下りてきて、水面に着地し、水の中へと消えていく。
水面に光の花が咲く。
いつかと同じように。
王妃は言った。
『ジィナイース』という名を失ったお前になど、誰ももう興味を持たないと。
世話になった教会に恩返しをしたくて、描いた絵を売ろうとしたけれど、城に関わる、身分を伏せた人間がみな競り落としてしまった。
当然金などは払われなかった。
『イタリアに消えなさい。お前は二度とヴェネト王国に戻ることは許さないわ。ローマの城に戻るならば、信頼する貴族に命じて、生活する金は援助してやる。でもヴェネトに留まり、今後もこんな絵を売って、『ジィナイース・テラ』の名をお前が悪用するようなことがあれば、どんな手を使ってでもお前を潰すわ。お前を匿う者たちも。教会だろうと、聖堂だろうと必ず私が潰してやる』
悪用じゃない。
僕の名前だ。
世界に生まれた最初から、それは僕の名前だった。
貴方に呼んでもらう必要なんか一つも無いけど、
僕を愛してくれる人は、みんな僕をその名で呼んだ。
悪用してるのは貴方たちだ。
ジィナイースはそう、言いたかった。
「……お兄ちゃんは……」
何と思っているのだろう?
顔を見たこともない、兄。
双子だと聞いたけど、自分に容姿は似てるのだろうか?
『ジィナイースに兄などいないわ』
王妃は憎しみを孕んだ表情で彼を見た。
『おまえは、この世にもういない』
……なんという敵意なんだろう、と思う。
何があれば、一体これほど誰かを憎めるのだろう。
世界も自分の想いのままに、全て力ずくで歪めて。
見ていられなかった。
……見て、いたくなかった。彼女を。
ネーリは背を向け歩き出した。
『お前を守るものなど、もういないわよ。
万が一これ以上私の目障りになるようなことをすれば……いいわね?』
声は聞こえたが、もう振り返らなかった。
あの時、きっと去るべきだった。
それでもどこかで、この地と自分はまだ繋がっている気がして、離れられなかった。
呼ぶ声はもう聞こえないし、
呼んでもいない。
【お前を守るよ】
どうして彼と、出会ったのだろう?
彼と出会って、また光の花が咲き始めた。
多分この出会いが無かったら、この国を去って、多分楽しい思い出が詰まるローマにも戻らず、本当に誰の記憶からも消えて、きっと世界から消え去ったのに。
フェルディナントの胸元に頬を寄せる。
「……フレディ、……ありがとう。
あのね、
ぼく……自分の名前が嫌いだったんだ。すごく」
フェルディナントはネーリの髪を撫でていた、手を止める。
「……そうなのか……? でも……いい名前だよ。お前にとても合ってると、……俺は思う……」
ネーリは首を振った。
「……今は好き。フレディが優しい声で僕を呼んでくれるから」
フェルディナントは赤面した。
「よ、呼ぶくらい……。」
いくらでもするけど。
「……ありがとう」
「ネーリ?」
彼は押し黙った。
だけど、フェルディナントの胸に体を預けたまま、光がある方を見る彼の空気は、柔らかい。まだ何か、分からないけれど、何かをネーリが抱え込んでいるのは分かった。彼が突然ヴェネツィアを出ようとした理由は、そこに関わっているのだろうことも分かった。
今は彼はそれを口に出す気は無いようだった。
でも、別に構わない。
(俺だって本当の名前を言ってない)
いつも神聖ローマ帝国のフェルディナントと名乗る。
今は【エルスタル】の名を、口にしてやれないし、そうする意味もきっとない。
でもいつか、ネーリには知って欲しい。
自分が失った国の名を継いでいること。
だから、もう大切に思うものは、何一つ失いたくないと願っていること。
守り抜くという言葉が、自分の場合、決してその場限りのおざなり言葉じゃないことを理解してほしいから。
(お前は、俺が必ず守る)
……約束する。
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