16話 第一の砦
砂煙を巻き上げる突風が、乾ききった大地を容赦なく叩きつけていた。
つい先ほど、ペネロペのゴーレムに吹き飛ばされ、乗騎のガロカリスまで奪われてしまったハル。
彼の胸には、底知れない脱力感と、どうしようもない自己嫌悪が広がっている。
(まさか、二度も同じ手に引っかかるなんて……僕は、なんて甘いんだ)
唇を噛みしめ、悔しさをこらえる。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
日没までに「ガルヴァン砦」へ辿り着けなければ、明日以降の試験に進む資格など失ってしまうからだ。
周囲を見渡すと、時折吹き荒れる突風のせいで視界は悪く、遠くの地平線には陽炎が揺れるのみ。先ほどまであちこちに潜んでいたサンドウォームの気配は多少薄れたように思えるが、完全に安心はできない。
(このまま徒歩で向かうしかないのか……?)
思考がぐるぐると巡る。そんなとき、かすかな鳥の鳴き声が耳を掠めた。
ハルははっと顔を上げ、音のする方へ足を向ける。
突風と砂をかき分けながら進むと、奥まった場所で一羽のガロカリスがうずくまっていた。
全身が砂で覆われており、脚が小刻みに震えている。どうやら別の受験生の乗騎だったようだが、何らかのトラブルで置き去りにされたのだろう。
ハルはゆっくり近づき、驚かせないよう声をかける。
「大丈夫……? 君も怖かったんだね。ごめん、驚かせる気はないよ」
そっと手のひらを伸ばして傷を確かめる。幸い大きな外傷はなさそうだが、酷く消耗しているのか脚を引きずっている様子だ。
ハルは鞄を探り、ペネロペに奪われずに済んだ少量の水と干し肉を取り出して差し出す。はじめは警戒していたガロカリスも、鼻先をくんくん動かしたあと、一気にそれらを食べ始めた。
「空腹だったんだな……ごめん、これしかなくて」
ハルは申し訳なさそうに呟くが、心のどこかで安堵している。
敵意のない存在が、自分の新たな“足”となってくれるかもしれないからだ。
少し経つと、ガロカリスの震えは幾分落ち着いてきた。
「無理をさせたくはないけど、砦まで一緒に行ってくれるかな? ここにいたらサンドウォームに襲われるかもしれないし、君もそのほうが安全だろ?」
言葉をどこまで理解できるかわからない。
しかし、ガロカリスは大きな瞳を瞬かせ、ハルの手を拒む様子はない。
ハルは小さく息をつきながら鞍の位置を調整し、騎乗の体勢をとる。
自分もボロボロだが、この運命的な出会いに賭けるしかなかった。
***
こうしてハルは、脚を引きずるガロカリスに乗り、砂丘を遠巻きに迂回しながら進み始める。
傾きかけた太陽はすでに赤みを帯びている。
時計を見るまでもなく、日没が迫っているのは明らかだった。
(急ぎたいけど、ここで走らせすぎて転倒したら意味がない……)
焦る気持ちを必死に抑えつつ、ガロカリスをなだめながら速度を維持する。
やがて、地平線に石造りのシルエットがうっすらと浮かんできた。淡い光を受け、硬い壁が存在感を示す。
「……あれが“ガルヴァン砦”…!」
その姿がはっきり見え始めるにつれ、ハルの胸は高鳴る。
砦の外には何十羽ものガロカリスが繋がれており、すでに到着した受験生が休息を取っている姿も見える。ハルは懸命に走る乗騎の首を軽く叩く。
「あと少し……がんばってくれ!」
脚を引きずりつつも前へ進むガロカリスを励ましながら、砦の手前に設置された検問所へ向かった。
***
待ちかまえていた試験官が「ギリギリだったな」とつぶやくと、ハルは荒れた呼吸のまま答える。
「は、はい……何とか……!」
「到着が遅かったから明日のスタート順は大幅に後回しだ。ま、通過は通過だ。そこの名簿に名前を書け」
言われるがまま、受付台に置かれた名簿にペンを走らせる。
ざっと見たところ、すでに百名以上が先に名を連ねていた。
***
書類を終え、一息ついたところで、聞き慣れた声が耳を打った。
「ハル! 無事だったのか!」
振り向けば、砂まみれの姿でルーク、イオ、ヴェルンの三人が駆け寄ってくる。
みんなボロボロだが、互いに無事である事実に、ハルの胸はじわりと温まる。
「もう、すっごい心配したんだから……! サンドウォームと砂嵐でめちゃくちゃだったし!」
「あのあと、俺たち三人もバラバラになっちまったんだ。かなりキツかったが、でも全員生き残れたのは不幸中の幸いだな……」
ルークがほっと息をつきながら語り、ヴェルンはハルを見て穏やかに微笑む。
「ハルさん、本当に大丈夫でしたか? ギリギリだったでしょう」
「うん……本当にギリギリだった。あの後、またペネロペに騙されてガロカリスを取られてしまって……」
ハルがしょんぼりと経緯を説明すると、ルークは目を剥いて呆れ返る。
「はあああ!? ま、また!? 二度目かよ、お前……ほんと学習しねえな」
「ご、ごめん……でも、あんなふうに弱々しく見せられたら、つい……」
自分でも情けなく感じる。イオは呆れ顔でため息をついた。
「もう……明日からは本気で気をつけなよ。あの子に近づいたら危険なんだからね、絶対に」
「うん……わかってる……」
ハルはうなだれるほかない。三度目があればさすがに笑い事では済まないだろう。
***
その後、砦の高い櫓に取り付けられた大鐘がゴン、ゴンと重く響き、門が静かに閉ざされる。結局、一日目のレースを突破したのはざっと百名ほどらしい。
砦の一角には到着順の掲示板が貼り出されていた。
上位にはヒュレグ・エルヴェインやアリア・シルヴァリーフなど、おなじみの実力者たちの名前がずらりと並ぶ。彼らはとっくにゴールして、悠々と休息を取っているようだ。
中盤にはルーク、イオ、ヴェルンやペネロペの名前がある。
一方、ハルはほぼ最下位。明日のスタートもかなり遅れるのは見えている。
「こりゃあ厳しいな。明日は“順位が早い人順にスタート”だろ? ハル、お前いつ出発になるんだ……?」
「まぁ……きっと、かなり後ろのほう……」
ルークの苦笑混じりの言葉に、ハルは肩を落とす。
***
その後、ルークたちと別れて砦内の宿泊スペースへ向かう途中、ハルは大勢の受験生が集まる救護テントを目にした。重傷者が相次いでいるのか、教師やヒーラーのスタッフが忙しなく動き回っている。
床には乾ききっていない血の痕が点々と残り、ベッドの一つでは意識を失った受験生が横たわっていた。その首筋には、人間とは思えない大きな手形がはっきりと刻まれている。
「ひどい……こんなに重傷者が……やっぱりあのサンドウォームに襲われたのか……?」
ハルが顔を曇らせたところへ、背後から聞きなれた涼しげな声がした。
「どうも、それだけじゃないみたいよ〜」
振り返れば、先ほど自分を騙し討ちにしたペネロペが、しれっとそこに立っている。ハルは思わず怒りが込み上げる。
「ペ、ペネロペ……よくも――!」
だが、彼女は軽く肩をすくめてかわす。
「んもー、またその話? 一日目を突破できたんだからいいでしょ、細かいことは水に流してよ。ね?」
ハルは当然納得などできないが、彼女が口にした情報が気になって問いかける。
「“それだけじゃない”って、どういう意味だ?」
「ふふっ。黒い体をした異形の化け物に襲われたっていう被害者が何人もいるんだって。サンドウォームとは全然ちがうみたいで、長い腕とか触手があったとか、証言はいろいろだけど……」
「黒い化け物……? サンドウォームとは別のモンスターってこと?」
「うーん、ちがうかな。この感じは、誰かの魔法による攻撃だよ。粘土みたいな体だったって証言もあるみたいだけど、たぶん土魔法の一種ね。しかも相当強力な……」
土魔法と聞くと、ペネロペのゴーレムが真っ先に連想される。
「土魔法……まさか、それって君の仕業じゃ……?」
ハルは疑いの目を向けるが、ペネロペは小首をかしげる。
「失礼ね! いくら私でもそこまでやらないわ。超えちゃいけないラインは分かってるつもり」
ペネロペの発言に、ハルは複雑な表情になる。しかし言い争っても意味はなさそうだ。
「でも、私も同じ土魔法使いだから、なんとなくわかるの。この犯人、”レースに勝ち残るため”とかじゃなく、“受験生を襲うこと”自体が目的っぽいわね。明日以降も気をつけたほうがいいわよ」
そのとき、また別の声が聞こえた。
「去年の試験と同じ手口……間違いないわね。“受験生狩り”よ」
姿を現したのは、スーツ風のローブをまとい、金属フレームの眼鏡をかけた女性教師――エリザ・ハークウィックだ。
彼女は真剣な目つきでハルたちを見回す。
「あなたたちも噂は聞いているんじゃないかしら? 去年も外部フィールド試験の最中に、黒い化け物が受験生を襲う事件があった。重傷者が多数出たけど、正体はわからずじまい……」
――去年、受験生が何者かに襲われる事件があったらしい。重傷者も多数出たとか……追い詰められた受験生同士の仕業なのか、あるいは外部の何かが潜んでいるのか――結局はっきりした原因はわからないままなんだって。
第二試験で聞いたヴェルンの話を思い出すハル。
「試験官の間では、中止すべきという意見もあったわ。でも、最終的には試験は続行することが決定したわ。伝統的な試験だし、途中でやめれば世論やスポンサーの貴族も黙っていない」
「そんな……」
「……私も不本意よ。グレゴリ校長は“警戒体制を強化する”とは言っているけど、広大なフィールドを完璧に警護するのは事実上不可能。――つまり、これ以上参加するなら、受験生の自己責任ということ」
エリザは言葉を切ってから、ハルの傷だらけの姿を見つめた。
「……今の私にできることは、受験生にリタイアを勧めることくらいね。ハル・アスターブリンク、あなたは今日のレースでほぼ最下位に近い順位だったわね。ここから巻き返すのは現実的にかなり厳しいはず。正体不明の脅威が潜んでいる以上、リタイアを選ぶのも一つの手だと思いますよ。実際、すでに数名は撤退の意志を示していますから」
そう言い残して、エリザは足早に去っていった。
ペネロペは鼻で笑いながら、ぼそりと言う。
「自己責任ねぇ……。私は続けるわよ。なにがなんでも勝ち残るから」
そしてハルを横目で見やり、邪気を含んだ微笑を浮かべる。
「ハルくんはどうするの~? ここでリタイアする?」
「……冗談じゃない。ここまで来て、諦めるつもりはないよ」
***
やがて砦の鐘が鳴り響き、荒野の空は夜のとばりに包まれていく。
中庭には無数の松明や魔法灯がともされ、各々が疲れを癒すため、宿泊スペースへ散っていく。
ガロカリスの鳴き声が、夜風にまぎれてかすかに聞こえてくる。
ハルも毛布を肩まで引き上げ、疲労のままに瞳を閉じる。
だが、意識の奥底では不安が渦巻き続けていた。
(“受験生狩り”……本当にそんな奴が紛れ込んでるのか?)
風の止んだ夜の荒野には、得体の知れない気配が漂っているのかもしれない――。
まだ始まったばかりの三日間レース。明日の二日目は、さらに過酷な試練となるだろう。
ハルは、かすかに震えるまぶたを閉じ、束の間の休息へ身を沈める。
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