第3話 選択の代償

 タクマはその夜、ほとんど眠れなかった。崩れかけた廃ビルの一角、風が漏れ込む暗い部屋の隅で、膝を抱えながら考え続けていた。ミサキとの出会いは彼にとって予想外だった。そして、彼女の言葉や行動が、自分の中で深く根付いていた価値観を揺さぶっている。


「助け合うか…」


 かつて自分もそんな言葉を信じていた気がする。しかし、それはこの世界が崩壊する前のことだ。今では人を信じることが命取りになる。それを幾度も体験してきた。


 ミサキの物資を奪おう—そんな考えが頭をよぎる度に、タクマの胸には罪悪感が芽生えた。それでも、彼の中には生き延びたいという本能がその葛藤を押し込めようとする力があった。


「どうすればいいんだよ…」


 囁くように自分に問いかける。だが、答えは出ない。彼は雨が止むのを待つこともできず、ただ目を閉じて夜明けを待った。


 ---


 翌朝、空は灰色の雲に覆われたままだったが、雨は上がっていた。タクマは重い体を引きずるようにして立ち上がり、ミサキの方へ目を向けた。彼女は既に起きており、廃材を整理していた。


「おはよう、よく眠れたかい?」


 ミサキは穏やかな声で問いかけた。その声には敵意も疑念もない。タクマは少し戸惑いながらも、短く答えた。


「ああ、まあな。」


「そうか。それならよかった。」


 ミサキは微笑みながら手を止めると、持っていたリュックサックをタクマの前に置いた。その中には食料や簡単な道具が詰まっていた。


「これを持って行きな。」


 タクマは驚きで目を見開いた。


「なんで…?お前がそれをくれる理由が分からない。」


「理由なんて必要ないさ。君が生きていけるように少しでも助けになれば、それでいい。」


 その言葉はタクマにとって信じがたいものだった。この世界で、ただの善意だけで物を渡す人間がいるとは思えなかった。


「…俺に何かをさせるつもりなんだろ?対価が必要なんじゃないのか?」


 ミサキは首を振った。


「そう思うのも無理はない。この世界じゃ、誰もが何かを奪うか奪われるかしか考えないからね。でも、私は違うよ。奪うことで得られるものは少ない。与えることで繋がる未来の方が、きっと大事だ。」


 その言葉は、タクマの胸に深く刺さった。彼はその場で立ち尽くし、リュックを見つめたまま動けなかった。


「俺には…そんな考え方は無理だ。」


 彼の声は震えていた。ミサキは彼の言葉を否定せず、ただ穏やかに微笑んだ。


「無理だと思ってもいい。でも、少なくとも覚えておいてほしい。助け合うことができるということを。」


 そう言うと、ミサキは再び廃材の山へと向かった。彼女の背中を見つめるタクマは、自分が何をすべきか分からなくなっていた。


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 昼近くになり、タクマは意を決してリュックを手に取った。


「少しだけ借りる。」


 ミサキにそう告げると、彼女は振り返らずに小さく頷いた。


「気をつけてね。」


 その言葉に少し救われた気がしながら、タクマは廃ビルを後にした。彼が向かったのは、街の中心部に近い広場だった。そこにはかつて人々が集まり、活気に満ちていた場所だ。しかし、今では崩れた建物と錆びた車が散乱し、荒野のような風景が広がっていた。


 彼がその場所を目指した理由は、食料を確保するためだった。噂では、そこにまだ手つかずの備蓄があるという話を聞いたことがあったのだ。


 しかし、広場に着いたとき、彼はすぐにそれが単なる噂ではないことを悟った。


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 広場には複数の人影があった。彼らは明らかに組織化された一団で、武器を手にして辺りを見張っていた。廃墟の中に入り込み、何かを探している様子だった。


 タクマは物陰に身を潜めながら、その様子を観察した。彼らの装備や行動を見る限り、ただの生存者たちではなさそうだった。恐らく、略奪者—この世界で最も危険な存在だ。


 彼の心臓は高鳴り、呼吸が浅くなる。だが、引き返すわけにはいかなかった。ここで何も得られなければ、自分もまた飢え死にするだけだ。


「どうする…」


 彼はミサキの言葉を思い出した。助け合うことが未来を繋ぐ—しかし、この状況で助け合いなど通用するはずがない。彼はリュックの中に手を入れ、小さなナイフを握りしめた。


 慎重に足を進めながら、彼は廃墟の中に潜り込んだ。略奪者たちに気づかれないように食料や物資を探す。そしてようやく、使えそうな缶詰をいくつか見つけた瞬間だった。


「おい、そこに誰かいるぞ!」


 鋭い声が響き渡る。彼は反射的に振り返ると、略奪者の一人がこちらを指差していた。タクマの頭の中で警鐘が鳴る。


「やばい!」


 彼は全力で走り出した。背後から足音と怒号が迫ってくる。崩れかけた壁を飛び越え、細い路地に滑り込む。心臓が喉まで張り裂けそうな勢いで鼓動していた。


 そのとき、突然彼の目の前に別の人影が現れた。


「こっちだ!」


 それはミサキだった。彼女は手招きしながらタクマを誘導し、廃材の山の中にある隠れ場所へと案内した。


「何でここに…」


「後だよ。今は隠れるんだ。」


 二人は息を潜めながら、略奪者たちが去るのを待った。その間、タクマは彼女に助けられたことへの感謝と、自分の弱さへの苛立ちで胸がいっぱいになっていた。


 彼女の言葉が少しずつ、彼の中で形を成し始めていた。この世界で選ぶべき道が、本当にただ奪うだけでいいのかどうか。


 夜が更け、静寂が訪れる中、タクマは再び自分に問いかけた。


「本当にこのままでいいのか?」


 その問いに答えるためには、まだ時間が必要だった。

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