私は彼のことを知らない、彼は私のことをしらない

樂斗

【Ⅰ】

 部屋の照明を消した。壁に設置されている埋込型のスイッチの心地よい音は私を非日常に誘い込む合図だ。見渡す限り真っ暗で、私の低すぎる視力のせいで余計に目の前に何が置いてあるのかもわからない。

 今日は母親が家にいない。もちろん父親も。とは言っても、父親はデフォルトで家を開けているから、私にとっては母親がいないことが非日常なのだ。

 毎月訪れる私の安息日。ユダヤ人が一週間のうち第七日目を安息日とするなら、母親がいないこのたった一週間が私にとっての安息日。三年前、母の大好きな祖母が亡くなってから毎月彼女は実家に帰るようになった。車を三時間ほどの距離走らせて、着いたら一週間彼女の実家を掃除する。ただ、それだけ。

 「あー、緊張するっ!」

 暗闇のなかを慣れたテンポで進み、ベッドの上に寝転ぶ。謎の動悸に襲われながらスマートフォンに電源を入れて、視界に飛び込んでくるのは闇の中の一点の光。

――これ以上視力下げてどうするんだよ。

 ブルーライトを顔面に当てながらあるアプリを起動した。私の大好きなパンダのキャラクターがスマホの中で踊っている。毎度陽気なものだ。画面左上に表示されている時刻は深夜一時で、こんな時間に受験前の高校生がスマホをいじっているのは不適切だが、加えて未だ風呂に入らずこんなことをしているのには訳がある。画面の中のキャラクターの頭上に表示されているのはアプリの名前、それも赤の他人と通話ができるという所謂暇電アプリの。そう、私はこれから親がいないという絶好の機会に、赤の他人と通話をする。

 ツッツッツッツ......、気味の悪い待機音は私の心臓の異常な動きを活発にする。異常な動きといってもその正体はコミュ障のコミュニケーションに対するただの緊張というやつなのだが。

 「......あ、もしもし。はじめまして、聴こえますかー?」

 「え、あ!はいっ!」

 待機音は突然に終わりを告げて、次に飛び込んでくるのは知らない男の声。とても優しげな、そして親しみやすそうな重低音。

 「んーっと、如月ちゃん?何歳?」

 ハンドルネームは如月。もちろん偽名。大好きな特撮番組の主人公から命名した。突然だが私、桜井瑞希は生粋の特撮オタクである。

 「じゅ、十七歳です。そちらは?」

 「二十一だよー!え、高校生じゃん。高二?」

 「いえ、高三です。受験生なのにこんなことしてんの馬鹿ですよねー」 

 自虐気味で作り笑いをする。予想通り二十一歳を自称するこの男は、十七歳というワードに食いついた。「ですよねー」なんて少しスマホを遠ざけて呟いてみる。これは呆れ、である。

 「大学生ですか?こんな時間に通話なんてしていていいんですかー」

 お前が言えた事じゃないだろう。まあ、どうせこの時間にこのアプリを使用している輩なんて二通りしかいないのだ。一つ、人肌恋しくなって暇電してる奴。そして、欲求不満の変態野郎だ。きっと彼は後者である。

 「いいのいいの、明日は大学ないから。それより如月ちゃん声めっちゃ可愛いね。モテるでしょ」

 はい、きたよ誘い文句。可愛い、モテる、そんなもの声だけでわかるものか。

 「えーっ!いやいや、可愛くなんてないですよぉ」

 少しカマトトぶってみた。

 「可愛いよ。......ねえ、普段オナニーとか、する?」

 唐突な質問に言葉を詰まらせる。その数秒、スマホのスピーカーから発せられるのは絶え間ない雄の荒い息の音。そして何とはいわないが、布の擦れる音に隠れた水音。何をしているのか容易に想像がついた。

 そして私は受話器のマークを軽く叩いて舌打ちをした。

 「いつものパターンきたー」

 思わず呟いてしまう。

 言わずもがなこの暇電アプリは野獣の生息地。画面の向こうではどんな顔の奴が雄の巣窟に迷い込んでくる雌を狙っているかわからない。そうはいっても、本当のサバンナと違うのはいつでも逃げることができるところ。雌に狙いを定めた雄は欲情している。しかしその欲のはけ口となるかは雌次第なのだ。一部の雌は雄とのまぐわいを欲しているから、たまに画面越しに盛っているやつもいるらしい。

 「はい、次」

 受話器マークを再び叩く。待機音を聞き終えて、画面に表示されたのは「そうた」というハンドルネーム。

 「こんばんは、はじめまして」

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