少女が見上げる世界の広さは
@chelsea-milky
小さな人形と大きな世界
僕‥‥長嶺基樹は、都内の喧騒を外れた郊外の住宅地に向けて車を走らせている。
目的は藤宮雪華‥‥フジミヤセツカという十六歳の女の子に会う為だ。
社会人なので、もちろんそれは仕事としてだ。
あまり‥‥と、言うか、全くモチベ―ションはない。
全てがどうでもいいというのが、今の僕の心境だ。
「‥‥‥‥」
あまり速度を上げずに走っているせいか、時折、後ろの車が追い越していく。それは何だか今の僕に合い過ぎて、乾いた笑いが出てくる。まだ、笑う‥‥という表情が出来るのかと、その事に驚いている。
「‥‥‥‥」
僕は車のナビの端に表示されてる到着時間を横眼で見る。彼女の住所に到着するのはまだ時間がかかるようだ。
なぜ、こんな事になってしまったのか、ここしばらくの事を振り返ってみようと思う。
少し前の僕は、都内の官庁に勤務して五年という、やっと社会というものが朧気ながらにも見えてきた頃だった。
家が裕福とはとても言えない様な中、奨学金を借りてバイトをしながら、何とか大学を卒業する事ができた。本当なら高校を卒業したらすぐ働く方が良かったのかもしれないが、僕には昔からの夢があった。
僕の家は自営業をしていて、いつもお金に苦労をしていた。周りの子と違って、僕は何処にも遊びにも連れていってもらえず、おもちゃのような物もあまり買ってはもらえなかった(唯一、買ってもらったのは実写の変身ヒーローの人形だけ)。中学にあがっても塾などにも通えず、高校も近くの私立校ではなく、公立に行くしかなかった。スノーボードの選手になりたいと思っていた時期もあったが、それも諦めるしかなかった。
そんな中で、誰でも将来の夢を自由に選択出来る社会だったら‥‥そう考えるようになっていったのは自然の事だった。少年時代の青臭い正義感にしか思えないかもしれないが、僕の場合は、今までの生い立ちが十分な根拠だと思う。
大学を卒業して議員会館の事務という仕事につく事ができた。そこで監査局次長の青木さんに出会った。
僕の仕事ぶりを青木さんに気に入られ、何度か個人的に飲みにつれていってもらった事がある。そこで青木さんも、僕と同じように、社会の歪みを正していきたいという考えを持った人だという事を知った。それを知った僕は、まさに水を得た魚だった。
僕は数年で企画官として監査室へと移動になった。まだ二十五だったので、異例の出世だったんじゃないかな。
『何か困った事があったら、何でも相談してくれよ』
青木さんはいつもそうやって僕の事を気にかけてくれた。僕も青木さんの役に立ちたいと必死に仕事を頑張っていた。
週に二、三回は資料をつくる為に徹夜して職場に泊まり、青木さんが必要だと思う事は、どれだけ大変な事でも、少しでも何かの助けになると思えばと思い、全く苦にはならなかった。
その甲斐あってかは分からないけど、青木さんは部長へと昇進し、僕も課長補佐になった。
『全て、長嶺君のおかげだよ』
ある日、僕は青木さんの家に昇進祝いとして呼ばれた。
『いえ、全て部長のお力添えがあっての事です』
『いやいや、これからも頼りにしてるよ』
僕はその時、青木さんが上に立てば、社会が良くなってくる‥‥そう信じて疑わなかった。
社会はこうあるべきという自分の理想を体現してくれるだろうと、本気で思っていた。
仕事はこの上なく順調だった。
そんな中、僕は同じ職場にいる後輩‥‥笹原椎奈‥‥ササハラシイナに告白された。
『以前から、先輩の事‥‥気になってて‥‥お願いします。私と付き合ってください』
彼女は所謂、美人の類で、街を普通に歩いているだけで振り返るぐらいに人目を引く。それに加えて、女子大を主席で卒業した程の才女で、家は資産家という噂まである。一般家庭の僕なんかが到底、釣り合う人じゃないのは確かだ。
『え?‥‥あ‥‥よろしくお願いします』
舞い上がった僕は、普段からメールの返信で使う様な文面の台詞を返してしまった。
それを聞いた彼女はフフと微笑んだ。
付き合う事にはなったけど、相変わらず僕は忙しい。
あまり二人で会う時間が取れずにいたけど、彼女はそれを咎める事はなかった。
『ごめん、明日ちょっと用が出来て』
この台詞を何度言った事か。
『ねえ、どうしてそこまでするの?』
『それは‥‥』
僕は彼女に胸の内を話した。
『凄いね‥‥私も出来る事なら協力する』
『ありがとう』
『でも、明日の事は一つ貸しだから』
『はは』
彼女は笑って肘で僕を押した。
どんな事も彼女が側にいてくれれば乗り越えていける。
少なくとも、あの時は本気でそう信じていたんだ。
約束された将来。僕の事を理解してくれる彼女‥‥その頃の僕は幸せの絶頂にいたと思う。
あの日までは。
その日、僕は一人残って残業していた。ビルは消灯してて、同僚は誰もいない。僕のデスクまわりだけが青白い光を放っている。
『ん?』
眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、何の気なしにこの部署の資金フローを見ていたけど、その中の一つに違和感を感じて、スクロールしていた画面を止めた。
青木部長にあちこちから何回も小口の献金があった。それは問題にならない額なんだけど、献金してきた先の名前を精査してみたら、名称を違うもので登録しているだけで、実体は同じ団体だった。合計するとかなりの額になっている。
部長はその事に何も言ってなかった。すると、知らずに受け取っていた可能性がある。
どうするべきか?
考えるまでもなかった。
青木部長の潔白を晴らさなければ。恐らくはこれらの架空の団体の実態を割りだす事で、黒幕が見えてくる。
深夜だったけど、部長に電話した。
すると部長はすぐに来た。
『‥‥そうか。これは私を引きずり下ろす為の罠の可能性があるな』
『そうですね』
部署内の改革を進める青木さんは、敵が多い。その中の誰かだろう。
『だが、この程度は些細な話だ。騒ぎたてる事でもないだろう』
『もしもの事があります。ここは徹底的に調べて、罠にはめようとした者を追求するべきかと』
『そうだな』
部長は頷いた。
『私の方でも調べてみる。長嶺君は、一旦、家に戻りなさい』
『‥‥ですが』
『もちろん、明日は早朝から働いてもらうぞ。覚悟しとけよ』
『分かりました』
背中をバシっと叩かれて、僕はまた身が引き締まる。
終電ギリギリで電車に滑り込んだ僕は、借りてるマンションに着くなり、スーツを着たままベッドに倒れるように眠ってしまっていた。
『‥‥‥‥ん』
目覚ましの音で僕は目覚めた。
いつもと同じ朝。何も変わらない。
急いで身支度してマンションを出る。睡眠は足りてるとは言えないが、そんな事を言ってる場合ではない。
入口の身分証をかざしてエレベーターに乗ろうとした。
行先の階のボタンを押したが
『ん?』
エラーの表示が出た。
『あ、長嶺さん』
何回か試してると、途中で守衛に止められた。
『何でしょう?』
『長嶺さんの身分証だと、四階から上には行けませんよ』
『え?』
勤務している監査室は八階にある。
『そんな事はないでしょう?』
『いえ、バーコードの登録がそうなってます』
『‥‥まさか、昨日までは普通に』
何度やっても同じだった。
『何かの手違いだと思う。青木部長に連絡を取ってほしいんだけど。部長はもう来てる?』
『それが‥‥長嶺さんの連絡は繋ぐなという指示が‥‥』
『そんな事‥‥誰が‥‥』
『青木部長です』
『まさか!』
携帯を出して電話をかけたが繋がらない。
一体、何がどうなってるんだ?
『部長から預かってます』
『‥‥』
守衛から小さな封筒を渡された。僕は破る様に開けて、中の紙を取り出した。
『‥‥辞令‥‥長嶺基樹は、本日付けで監査室から。精神保健福祉課への移動を命ず‥‥』
精神保健福祉課? そんな馬鹿な事が‥‥。しかも場所も都内から移動になっている。
『こ、これは何かの間違いだ!』
そんな事をしても何もならない事は分かっていたけど、エレベーターのボタンを連打して、それから扉を叩いた。
『くそ!』
そうして力尽きた頃、そのエレベーターの扉がス‥‥と開いた。
『長嶺君』
出てきたのは青木部長だった。
『部長! どういう事ですか!‥‥急に異動だなんて!』
『書いてある通りだ。あまり騒がないでもらいたい』
部長は感情の無いただの言葉を淡々と口にする。
『そんな‥‥なぜです!』
『君には期待していたんだが‥‥私の見込み違いだったというわけだ』
『そ‥‥』
部長は顔を近づけてきた。
『知っての通り、私のやろうとしてる改革は迂遠なものだ。その目的の前には全ては些事に過ぎない。君は枝葉末節の全てにおいて解決しようと思っているようだが、それは不可能だ。むしろ関わる事で本題から遠ざかってしまう。君は優秀だったかもしれないが、改革を行う上ではむしろ邪魔でしかない。夕べ、それが確実なものになった』
『な‥‥』
部長は背筋を伸ばした。
『確か君は福祉支援相談員の資格を持っていたな。そこにまわしたのは、私からの温情だ』
それだけ言ってエレベーターに戻ろうとした。
『そんな事を!』
『‥‥‥‥』
頭に血が上った僕は部長の胸倉をつかんでいた。
『不正を無くすのが目的だったのに、それじゃあ、あんたも、他の奴と一緒じゃないか!』
『おい、こいつをつまみだせ!』
守衛に後ろから押さえられる。
『長嶺さん! 駄目ですよ! これ以上、騒ぎを起こすと、警察を呼ばなければならなくなります!』
『‥‥‥‥』
僕は掴んでいた手を離した。
『ふん』
それが僕が聞いた青木部長の最後の声だった。エレベーターが閉まり、そこから姿が消える。
『‥‥長嶺さん‥‥大丈夫ですか?』
『‥‥‥‥迷惑をおかけしました』
『私物は後で郵送しますので』
『ありがとうございます』
挨拶だけの関係だった守衛さんに挨拶をしてビルから離れた。
何処をどう乗り継いでいったのか、全く覚えていない。
目を覚ますと、僕は自分の部屋のベッドの上にいた。
同じ目覚めでも、今朝とは全く違う。
時計に目をやると八時‥‥カーテン越しに光は入ってきていないので、夜の八時のようだ。
『‥‥‥‥』
スマホを手に持つと、着信があった。
椎奈だった。
きっといきなりの移動で驚いたのだろう。
メッセージが残されていたので再生する。
=‥‥元気?=
いつもの通りの彼女の声に少しだけ心が和らぐ。
=今日、来てないから、どうしたのか聞いたら‥‥別の部署に移動になったって聞いて‥‥どうして福祉課なの?=
『‥‥僕も聞きたいよ』
=あのまま監査室にいれば、あなたの夢が叶ったはずなのに‥‥ううん、あなたが決めた事なら仕方がないのよね。あなたの人生だから=
『‥‥‥‥あのままでいれば‥‥』
確かに出世していったかもしれない。だとしても何処かの段階で青木部長とぶつかっていた。もしくは、目を瞑って生きていく事を決めていたか。
=私ね‥‥しばらくあなたと距離を置こうと思ってるの=
『‥‥‥‥』
=自分を見つめ直す時間が必要だろうし=
『‥‥‥‥』
=それじゃあ‥‥さよなら=
『‥‥‥‥』
何が距離を置くだ。完全に別れる気でいるじゃないか。
要するに椎奈は、監査室で出世していく僕が好きなだけであって、僕個人はどうでも良かったのだ。
普段であればそんな事を聞いたらショックだったろうが、自分でも不思議な程に落ち着いている。今朝の事に比べれば小さな話だ。これが逆に聞いていたら目も当てられない。普段、神様は信じていないが、今だけはその事に感謝している。
「‥‥‥‥そうしてまだ律儀に働いているなんて」
意識は現在に戻った。
藤宮雪華の家までもうすぐだ。
僕は過去の灰色の記憶を、車のフロントガラス越しに見える、薄い雲を見上げる事で薄める事にした。
到着した先は高級住宅が並ぶ地域で、その家も大きな庭がある。雪華の家はその中でも一際大きい。
「世の中は不公平だな」
記憶の中で感謝したはずの神様に、今度は不平をぶつける。
表札を確認する。
藤宮‥‥確かにここのようだ。
僕は首から身分証を下げる。
介護福祉課、ひきこもり支援推進員‥‥それが今の僕の肩書だ。
移動になった先で、僕は天下りか何かと思われたのか、あまり良い印象は持たれなかった。ひきこもりの人を更生させる部署になったのは、やっかみ的なものが少なからずあったのだろう。とかく、ひきこもり問題は面倒な事らしい。
だが、もうどうでもいい事だ。
規定通りの事をただ淡々とこなして、日々を過ごしていけばそれで良い。
「ごめんください」
インターフォンのボタンを押して話すと、すぐに返事が返ってきた。
=はい=
「介護福祉課から来ました。支援相談員の長嶺といいます」
=少々お待ちください=
すぐにガチャっとドアが開けられる。出てきたのは年配の女性‥‥恐らく雪華の母親だろう。
「支援相談員って男の人なの?」
「以前こちらの係だった君島は移動になりまして。新しく私が担当になりました」
「まあ。前の方はまったく連れ出せなかったみたいだし、男の人の方がいいのかもね」
「‥‥‥‥」
どう答えれば良いか分からず、僕はただ笑って返す。
家の中に通されたが、それは豪邸というものを外から想像していた時より散らかっている感じを受けた。長い廊下の先に二階へと続く階段がある。藤宮雪華‥‥彼女の部屋は二階の奥のようだ。
「はやくうちの子を学校へと通わせてください」
二階にあがる途中で話しかけられる。
「はい、今日はその話し合いに来ましたので」
「話し合い? そんな悠長な事を前の方も仰ってたけど、結局、何もできずに逃げてしまったじゃない」
母親は少しイライラしてるようだ。まあ、気持ちは分からなくもない。
引き継いだ資料によると雪華は中学に入ってから家にひきこり始めている。小学生の時までは普通の‥‥と、言うか、普通より出来た子だった。中学から今まで四年間‥‥かなり年季が入っている。読んでいるだけで気が重い。最初の担当を何でこんな難易度の高い子に当てたのだろうか。
やはり何かの悪意を感じる。これは早々にギブアップして他の人にまわした方が良さそうだ。
家族構成は父、母、雪華、それに妹が一人。中学生の妹の方はちゃんと学校に通っている。
「とにかく、会ってみます」
部屋の前まできた時、閉じられた何の変哲もない木製の扉が、来る者を拒む、何だか圧を放っているように見える。
「鍵は?」
「内側からかけてあるけど、合鍵はあるから」
母親はそう言って小さな鍵を渡してきた。いくら役所の職員とは言っても、娘の部屋の鍵をいきなり渡してくるのは妙な感じがするが。
「お風呂も食事も時間になると降りてきてるから、ひきこもりなのに、その辺はちゃっかりしてるのよね」
「‥‥‥‥」
違和感の正体は、この母親の他人行儀な言い方だ。
「雪華ちゃん、役所の方が来たから、出てきなさい」
中から返事はない。
「雪華ちゃん! 役所の人の前でみっともない事をしないで!」
「あまり刺激しない方がいいと思いますが」
僕は大声を出す母親を止めた。
「‥‥では、お任せします」
母親はそれだけ言って、行ってしまった。
雪華は母親に好かれてはいないのだろうか? ひきこもり状態を好む親はいないだろうが、母親の心配は娘の為ではない気がするのだが。
「こんにちは」
ドアをノックする。福祉課の職員が来てる事は、分かっているはずだが、それでも、もう一度声をかける。
やはり反応がない。こうなっては仕方がない。
僕はドアノブに鍵を入れて回した。カチっと小さな音がして、扉は僕の意志で開閉が可能なものになる。それでも感じる圧は変わらない。
招かれざる客には変わりがないのだ。
「失礼します」
ノブを回してドアを開ける。
ひきこもりの一般的なイメージというのはどういうものだろう。
一日中ゲームをしてるか、ネットサーフィンをしてる。もしくは、ベッドの中に一日中、籠っている‥‥そんな感じなのではないだろうか。
もし原因が鬱なら、精神科の先生を紹介してそれで終わり‥‥それが一番楽でいい。
僕は学生の間に取らされた資格を持っているだけで、他人の精神に対して何の経験則もなければ、行動の責任を取る事も出来ないのだから。
「‥‥‥‥」
部屋を開けた時、予想に反して部屋の中は散らかってはいなかった。
と、言うより物が無さすぎる。家具と言えば、机にベッド‥‥ぐらいか。机は彼女の年齢から言えば幼なすぎるキャラクター物の勉強机だった。テレビどころか、時計の類も無い。中学の前に引き籠ったなら、そこで彼女の時は止まってしまってるのだ。
カーテンが閉まっていて薄暗く、カビ臭い臭いがする。
これは部屋というより牢獄だ。
「‥‥‥‥」
藤宮雪華は部屋の隅に座っていた。
髪はいつから切ってないのか、かなり長く、俯いている彼女の顔は見えない。服装は上下同じ灰色のスエット。痩せた腕で自分の脚を抱えていた。
僕が部屋に入ってきても何の反応もない。ただじっとしている。まさかあの体勢で寝ているとも思えないけど。
「こんにちは」
「‥‥‥‥」
声をかけても何も返さない。
これでは調書を取る事も出来ない。三時までには帰って報告書を出さないと、煩く言われる。それは避けたい。
仕方がない。
僕は彼女の前髪をゆっくりと左右に開いた。
「!」
彼女は寝てはいなかった。僕と目があった藤宮雪華は、それまでの静止状態が嘘の様に、急速に立ち上がり、近くにあった小物を手あたり次第に投げつけてきた。
「ま、待ってください! 僕は支援相談員の‥‥」
「帰れ!」
「ぐ!」
何だか分からないが、硬いものが額に当たった。打ちどころが悪かったのか頭が揺れてきた。手を当てると血が出ている。
「では、失礼します」
外に出てドアを閉める。閉まる直前に何かが投げられ、廊下の壁に当たる。
「参ったな」
話し合いすら出来ない。どう考えても更生させる事は無理だ。
無理だった事をそのまま報告するしかない。
向いてない事をやらせた課長が悪い。そう思う事で溜飲を晴らす事にしよう。
「まあ!」
物音に驚いた母親が走ってきた。
「相談員さん、額の怪我は‥‥」
「え?ああ‥‥」
シャツの袖が汚れてる。血は止まってるようで、怪我は見かけほど大した事がなかったらしい。
「まさか雪華がやったのですか?」
「まあ、そうですね」
「あの‥‥まさかその事で、損害賠償的な事は‥‥」
「そんな事はありませんよ」
「そうですか! それは、それは!」
母親は心底、ほっとした表情になった。娘の事より、そんな事を先に気にするとは、少しだけ雪華が気の毒に思えてきた。
「今日はこれで戻ります。上と相談してこれからどうするかを考えたいと思います」
もう二度と来る事はないだろう。
全く、今日は厄日だ。
早く役所に戻って、報告したらすぐに家に帰ろう。
こんな仕事、まともな神経ではやってられない。
時間を確認する為に腕時計に視線を落とす。
「‥‥‥‥」
視線の先、廊下の床に何かが落ちていた。
さっき最後に雪華が投げたものだ。
僕はそれを拾いあげる。
「‥‥人形?」
派手なドレスと派手な髪型をした女の子の人形。手には小さな杖を持っているから、魔法使いの少女がモチーフなのだろうか。服のあちこちは破れていて、汚れも目立っている。随分と古いもののようだ。
「‥‥‥‥なんだかな」
僕は、どうしたものかとしばらく考えてからその人形をカバンにしまった。母親に預けても、その辺に置いても捨てられそうで、かと言って雪華の部屋に戻る事もできない。次に会う時に返すのが一番良い。
次?
全く‥‥またここに来るのか?
「また伺います」
そう言ってしまってから僕はため息をつく。
車に乗り込んでから、役所に帰るまでの道すがら、今回の事を頭の中で整理した。
なんで面相な仕事を引き延ばすような真似をしたのか‥‥しばらくは理由が分からなかったが、途中で来る時に見覚えのある車窓からの景色を目にした時、その理由が沸き上がってきた。
あの時、昔の自分を振り返って考えていた。
子供の時、大切にしていた、変身ヒーローの人形‥‥今でも捨てずに持っている。雪華の家は貧乏ではないが、それでもこの人形は大事なものだったのだろうな。
絶対に彼女に返さなければならない。
とりあえず、それを目標にしますか。
役所に帰ってから、僕は事の顛末を報告した。
「なるほどな。あそこの家は相変わらすだ」
課長は僕の書いた書類をぞんざいに机の上に投げた。
「で、君はこの案件はどうするべきだと思うかね?」
「これでは調書に何も記入できません。ある程度の記述の体裁が出来た所で、精神科預かりにしてもらった方が良いのではないかと」
「そうだな。確かにこのままではこちらの不手際だけが残る。ではそのように処置しておけ」
課長は、話はそれで終わりだと言わんばかりに、手でササっと僕を追い払った。
「‥‥‥‥」
頭を下げて、自分の机に戻る。
ひきこもり支援などといっているが、役所仕事も甚だしい。これで誰かを更生させる事が出来るとはとうてい思えないのだが。
家に戻った僕は引き出しから、小さな人形を出す。
実家から持ってきた変身ヒーローの人形。
部署が異動になってから引き出しにしまってしまったが、それまではずっと飾っていた。
「‥‥‥‥そうだな」
どうやったら雪華に人形を返せるのか‥‥今は、その事だけに集中しよう。
何日かの退屈な事務仕事の日々の後、再び藤宮家を訪れる事になった。
「あら、また来たんですか?」
「はい、よろしくお願いします」
今度は母親はついてはこなかった。鍵だけを玄関で渡される。
「こんにちは」
ドアをノックをする。なるべく優しく。
返事が返ってこないのは予想通りだ。
「失礼しますね」
鍵を回して中に入る。
部屋の中は片付いている。片付けというのは鬱には出来ない行動なので、彼女は病気ではない。
前と同じポーズ、同じ服で雪華は同じ場所にいた。
「‥‥‥‥こんにちは」
「‥‥‥‥」
だろうね‥‥という感想しか出てこない。このまま反応が無ければ、部屋の適当な所に人形は置いていけばいい。
調書?‥‥知った事じゃない。僕には難しすぎる案件なんだ。
どうせそんな流れになるなら‥‥と、少し悪戯心が沸き上がってきた。僕の悪い癖だ。誕生日プレゼントのサプライズに、前の彼女、笹原椎奈に予想より驚かれて、何回か怒られた事があった。
「‥‥‥‥」
椎奈の事を思い出して、僕は少し不愉快な気分になる。
気を取り直して僕は雪華に近づいた。
長い髪はシャッターの様で、まるで何人をも拒絶しているようだ。何とかしてその天の岩戸を開く事が出来ないだろうか。前のように強引に開くと、色んな凶器が飛んできてしまう。
そうだな‥‥。
僕はカバンから、持ってきた変身ヒーロー人形を出した。
「こんばんは、雪華ちゃん」
人形を左右に振って顔に近づける。
「今日はね、女の子が倒れてたから連れてきたんだよ♪」
雪華の魔法少女人形を僕の人形の後ろにくっつける。
「ねえ、顔をあげてよ」
「‥‥‥‥」
ビクっと雪華の体が動いた。顔をわずかに上に向けると、彼女の瞳が隙間から見えた。
「ねえ、どうしたのー?」
「‥‥‥‥」
「この子が遊びたがってるよ」
我ながら気持ち悪い声を出してるのは自覚している。
「‥‥エイミー」
「⁉」
今、何て言った?
「それは‥‥このコの名前?」
「‥‥‥‥」
雪華は気が付かない程に小さく頷く。
「返して!」
「ただいま、雪華ちゃん」
彼女の伸ばした手に人形‥‥エイミーーを返した。
「いい名前だね」
「‥‥‥‥」
それきり雪華はまた黙ってしまった。
この辺までにしておこう。
少しづつ、少しつづ‥‥心を開いてもらうには時間がかかる。
無事に目的を果たした事で、少しこの仕事にやる気が起こってきた。
「では、エイミーも無事に帰宅出来たし、僕も帰るとするよ」
「‥‥‥‥」
「では、またね」
天の岩戸は閉じていて、こっちを見てるのかどうかは分からなかったが、僕は大袈裟にお辞儀をする。
「職員さん、雪華はどんな感じです?」
玄関で母親にそう聞かれた。
「時間がかかりそうですが、少しづつ好転させていきたいとは考えています」
「なるべく早く何とかしてください。世間体が悪くて‥‥」
「‥‥‥‥」
娘の事を考えていない一方的な言い方だ。母親がこうだとすれば、父親はどうなのだろうか? 妹は? 誰か一人でも雪華の味方がいれば良いのだが、彼女があんな状態になったのは少なからず家庭に問題があるのだろう。だとすれば、カウンセリングを本当に受けなければならないのは、雪華ではなくこの家庭の方なのだ。
「それでは」
軽く頭をさげて家を出た。
また‥‥の機会は、意外にすぐに訪れた。エイミーを渡したすぐ次の日、僕はまた藤宮雪華の家を訪問していた。
いつもの様に部屋の前まで来た。
鍵を使おうと、鍵穴にさしたが、
「ん?」
鍵がかかっていない。かけ忘れるとは思えない。
少しは心の鍵も開いてくれたのだろうか。
「こんにちは、雪華さん」
「‥‥‥‥」
中にいた雪華は、いつもの通りだ。僕はため息をつく。まだ先は長い。
彼女の脇に例の人形があったのを見て、僕は表情が緩んだ。
「今日は、少し話を聞かせてもらいたいんだけど‥‥駄目かな?」
「‥‥‥‥」
少しだけ、一瞬でも目を逸らせば見逃してしまうぐらい、小さく頷いた。
「ありがとう」
僕は彼女の勉強机の上に書類を広げた。
「‥‥‥‥」
話すまで少し間を置く。表情は見えないけど、雪華は、かなり緊張しているのが雰囲気で分かる。普段、誰とも話さずに何年も過ごしてきたんだ。それは当然の事だ。
だから僕はただ黙って、彼女の側にいた。
一分‥‥二分‥‥彼女は動かない。次の瞬間も、その次も同じなのだろう。
今、何を考えているんだろう。どんな思いでこの部屋での時を過ごしてきたのだろうか。
「‥‥‥‥」
彼女の人形を見る。寄り添ってきたのはあの人形だけだ。そんな大事な物を投げてしまったのは、彼女としては、それだけ僕という侵入者で気が動転していたに違いない。そしてその事に彼女自身も傷ついているのだろう。
何とか力になってあげたいものだけど。
今日はもう帰ろうか‥‥そう思いかけたが、
「‥‥‥‥の?」
「!」
消え入りそうな声で話しかけてきた。顔は見えないが、口元を見ると、何かを話そうとしてるのが分かる。
「‥‥‥‥が‥‥聞き‥‥たいの?」
「‥‥‥‥」
聞いてるうちに何を言おうとしてるかが分かった。
「今日は雪華さんのプロフィールの確認です。僕が読み上げるので、合っていたら頭を縦に、違ってたら横に振ってください」
「‥‥‥‥」
首は縦に振られた。
そこからは細かく聞いていく。生年月日、家族構成などの基本的な事や、過去の調書にある不登校の始まった年から現在までの期間など。
本当はイエス、ノーでは答えられないものもあるが、それは追々で良い。
雪華は喋られないわけじゃない。長い間、ろくに会話をしてこなかったので、喉が発生の仕方を忘れてしまっているのだ。
そして、性格もひねくれてはいない、素直な子だ。
「雪華さんは、この状態から抜け出す事を望んでいますか?」
「‥‥‥‥‥‥」
長い沈黙があったが、結局首が動く事はなかった。
答えとしては上々だ。迷っているのだとすれば、この部屋に引き籠り続ける事を必ずしも望んでいるわけではないのだ。あとは条件さえ合えば、社会復帰が出来るかもしれない。
だが、そのあたりはデリケートだ。個々人で全て違うだろうし、こちらが選択肢を間違えた途端に降り出しに戻される。決して憶測で聞いてはいけないのだ。こればかりは彼女自身から口にしてもらわなければならない。
次からやるべき事は決まった。
発声練習‥‥まずは、彼女の凝り固まった喉を柔らかくする。どうすればスムーズに出来るか考えた。
「じゃあ、僕の言う言葉を繰り返して、言ってください‥‥あ!」
「‥‥ぁ」
「次は‥‥い!」
口を大袈裟に開いてみせる。
「‥‥ぃ」
驚いた事にこの作業を雪華は全く嫌がってはいない。
「‥‥う」
「‥‥ぅ」
個々の言葉の発声は、ちゃんと出来てる。つまりは繋ぎの部分が問題なのか。
そんな支援相談とは一見、何の関係もない事を、何回か繰り返した。課長の方も、調書が順調に埋まっていっているものだから、特に何も言ってはこない。と、言うより、最初から引きこもりの子の事なんて全く興味がないのだろう。
そうして一か月ぐらい経った頃。
「こんにちは」
僕がそう言うと、
「‥‥こんにちは」
中々に流暢に受け答えをしてくれる。
その頃にはただ俯いていた顔を上げてくれるまでになっていた。時折、髪のシャッターのの隙間から雪華の顔が見える事があるが、これは憶測でも何でもなく、彼女は可愛いいし、美人だ。もし、雪華が普通の子の様に学校生活を送っていたら、彼女のクラスメイトの男子は彼女を放ってはおけないだろう。それが、こんな牢屋の様な所で、ずっと一人で過ごしてるとは‥‥運命というものはままならないものだ。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥長嶺‥‥さん?」
ずっと黙っている僕を変に思ったのか、雪華はそう聞いてきた。彼女は僕の事をそう呼ぶようになっていた。
「雪華さんに、一つお願いがあります」
「何‥‥で‥‥しょうか?」
「前髪をかき分けていいでしょうか?」
「‥‥‥‥!」
雪華は大きく体をのけ反らせた。
「‥‥どう‥‥して‥‥ですか?」
「雪華さんと顔を見て話をしたいからです」
「‥‥‥‥」
彼女は完全に固まってしまった。
さすがに駄目だったかなと半場、諦めた頃、
「‥‥どう‥‥ぞ‥‥」
雪華が頭を近づけてきた。
「‥‥‥‥」
彼女の髪はあまりにも長すぎて、前を向いているのか後ろを向いているのか分からなくなる時がある(体の向きですぐに分かるんだが)。
ちゃんと風呂には入っているので、世に言う、一般的な引きこもりと違って髪は綺麗で艶がある。
「‥‥‥‥」
僕は両手を真っ直ぐに真ん中に差し入れ、そしてゆっくりと、左右に開いた。
「こんにちは」
「!」
至近で彼女と目があった。これが実質の初体面だ。
推測通り、雪華は美人だった。
ずっと家の中にいて、さらに髪のシャッターで日陰になっていたせいか、顔は白すぎたが、そのせいで大きな瞳が、さらに大きく際立って見える。
「‥‥‥‥」
彼女は慌てて離れた。途端に元の前後不明の状態に戻る。
「うん、やっぱり顔を出してた方がいいよ」
「‥‥‥どう‥‥‥して?」
「せっかくの美人が隠れてるのはもったいないから」
「‥‥え?」
驚いて、また固まった。もうピクリとも動かない。
何とか雪華をまともな‥‥普通の格好に出来れば、それだけで彼女の周りはかなり好転するはずだ。周りからの刺激が増えれば、今までのような内に閉じこもってばかりもいられなくなるはず。彼女一人では耐えられない箇所を補助してあげられれば、あとは自然と外の世界に意識は向いていくだろう。
「‥‥‥‥美‥‥人?‥‥私‥‥が?」
中学の多感な時期を一人で過ごしていれば、そんな事も分からないのだろう。
改めて室内を見渡しても、スマホやパソコンどころか、テレビも雑誌もない。親はどういうつもりでいるんだろうか。
「‥‥よし」
決めた。
この仕事につく前は、何なら辞めても構わないと思う程に、何もかもがどうでも良かった。だが、今は、全力で藤宮雪華をただの女の子のルートに戻したいと思う。
おかしなもので、今まで死人同然だった僕は、彼女によって生き返る事ができた。
「雪華さん!」
「!」
大きな声を出し過ぎた。少し体を震わせている。
「ごめん‥‥雪華さん。明日‥‥お出かけしましょう」
「‥‥え?‥‥嫌‥‥」
そう言うとは思ってた。
「美容室に行って、服を買いましょう。きっと僕が言ってる事が正しいと分かってくれるはずです」
「‥‥でも」
「大丈夫、僕がついてます。本当に駄目だと思ったら、すぐにこの部屋に戻りますから。明日、少しだけ我慢してください」
「‥‥‥‥」
「お願いします」
「‥‥‥‥はい」
ごり押しで何とか了解はとりつけた。が、彼女本人以外にも問題は残っている。
支援対象を外出させる事は、課の了承が必要になる。僕はそれがどうしても必要な事である事を課長に説明した。
「長嶺君は経験が無いかもしれないが‥‥引きこもりを外に連れ出すと、だいたいは途中でパニックになって暴れ出す。もしくはその場で泣き叫んで手がつけられなくなり、最悪、警察が呼ばれてしまう。そうなれば支援課の立場がどうなるかは分かるだろう?」
「藤宮雪華に関してはその心配はないと考えられます」
「なぜ?」
「彼女は外の世界に興味を持ち始めています。自らその世界を否定する様な行動は取らないでしょう」
「‥‥‥‥」
課長は椅子の背もたれを倒し、大きなため息をついた。
「君の言う事には何の確証もないな。それでもしもの事があったらどうするつもりだ? 課では責任は取れないぞ」
「自分が責任をとります」
もともと辞めるつもりの場所だ。リスクは何もない。
「‥‥そうか」
面倒そうに、判を押して渡してきた。
「少しでもおかしな事になったら‥‥分かってるな?」
「承知しています」
頭を下げて部屋を出た。
廊下は電気代の節約の名目で、ほとんど灯がない。総務にこれからかかる経費を申請してもまず通らないだろうな。
まあいいか。
今はそんな事より、明日の計画を練る事が最優先だ。
そう何度も連れ出す事は出来ない。恐らく明日一日が勝負になる。
僕は自分のデスクに戻ると、早速情報を集めた。
そして当日を迎えた。
「お早うございます」
朝から僕が藤宮家のインターフォンを鳴らすと、出てきたのは男性‥‥藤宮雪華の父親だった。恰幅が良く、見るから会社の上役という感じがする。実際、その通りで藤宮ブループの会長の地位にいる。
「お早う。君が雪華の引き籠り支援の職員か?」
「はい。今日はお嬢さんの‥‥その‥‥身の回りを整えようと思いまして」
だめだな。父親が出てくる事は想定してなかった。言葉が、しどろもどろになる。
「それは結構な事だ。アレを少しでもまともにしてくれると助かる。恥ずかしくて何処にも紹介できない。ああ、部屋にいるから連れていってくれ」
「‥‥‥‥」
僕は何かを言おうと口を開きかけたが、その前に父親は奥へと戻ってしまった。
前任者の作った資料は本当に当てにならない。これの何処が家庭円満なんだ?
課長の気に入る文面を並べただけじゃないか。
車のトランクからスーツケースを下ろし、雪華のいる部屋まで持っていく。
ノックをすると、
“‥‥どうぞ”
中から返事が返ってきた。
勉強机の椅子に座っていた。いつもの通りの灰色のスエットを着てはいたが、床に体育座りしていないだけ成長したと言えるんじゃないか?
「昨日言った通り、今日は外に出かけよう」
「‥‥‥‥うん」
雪華は渋々という感じで答える。
「その前に‥‥一旦、これに着替えてくれ」
僕はスーツケースから昨日買った新品のジャージを出した。
彼女は同じ古い服しか持っておらず、丈もあっていない。
この白いジャージは何処かの服屋に行って彼女の服を買うまでの短い間だけだ。このままボロボロのスエットで出るのは、好奇の目で見られる事になるので、それは避けなければならない。
「じゃあ、僕は一旦、外に出てるから」
そしてこのジャージの良い所は、大きなフードが付いている所だ。美容院‥‥ヘアサロン?‥‥に入るまでの間、これで隠す事が出来る。
“‥‥どうぞ‥‥”
「‥‥‥‥」
僕は髪をジャージの内側に押し込めて、頭にフードをかぶせる。
「‥‥前が‥‥見えない‥‥」
フードから覗いているのは顔ではなく、真っ黒なもの‥‥髪だった。
「じゃ、手を掴んで」
「‥‥‥‥」
僕が出した手を、雪華はまるで触ると感電でもするかのような仕草で、恐る恐る掴んだ。
転ばない様にゆっくりと階段を降りていく。
「そこ、段差があるから気を付けて」
「‥‥‥‥」
しまった。
玄関まで来たとき、そこで自分の失敗に気が付く。
靴まで頭が回らなかった。恐らくというか、当然、雪華の靴はないだろうし、あったとしてもサイズが合わないはず。
車にサンダルか何かなかったような‥‥。
僕は一人で車に行こうとしたその時、
“あれ?”
女の子の声が聞こえた。
「‥‥‥‥」
その瞬間、僕の手を掴む雪華の手に力がこもる。
「ねえ、そいつを何処に連れていくの?」
見れば中学生ぐらいの女の子だ。彼女が雪華の妹なのだろう。
それにしても、そいつって‥‥。
「今日は色々と街をまわる予定です」
「ふーん‥‥」
彼女は頭の後ろに手を組んで、脇を通り過ぎていく。
「今日はパパ達と出かけるから、帰ってきても誰もいないかもよ」
「そうですか。帰宅は何時ぐらいか分かりますか?」
「分かんないよ。遊びに行くんだから」
「そうですか」
雪華の手が震えている。サンダルを探す? そんな事で、雪華を一人残してはおけない。
僕は彼女を抱きあげた。
「!」
思った通り、軽い。母親の言うにはちゃんと食べてはいるとは言っていたが、それも怪しいものだ。妹の方はぽかんと見ているが、そんな事はおかまいなく、雪華を車まで運んでいく。
何とか助手席のドアを開けて、彼女を下ろす。
「驚かせてごめん」
「‥‥‥‥いえ」
ドアを閉める。それからゆっくりと車を動かした。
雪華は流れる景色の方に顔を向けている。僕の方からでは分からないが、髪の隙間から見えるほとんど知らない世界に緊張しているだろう。それとも、心踊らせているのか‥‥。
「‥‥‥‥」
フードを被り、さらに髪の毛で狭められた風景しか今は見えてはいないが、世界はこの車の天井を突き破り、何倍も、何十倍も広がっているんだ。もちろん、そこにはたくさんの人がいる。全員が良い人とは限らないが、悪い人だけでもない。何とも微妙な世界がね。
僕の場合は、あまり良い人とは巡り合わなかったんだろうな。
予約してあったヘアサロンに到着した。どの店か良いとか全く分からなかったので、とりあえず口コミの良い所を選んだ。
「さ、着いたよ」
車に常備してあったサンダルを出して、彼女に履かせる。再び乗る時はもう視界はクリアになっているので、こういう事はしなくて良くなってるはずだ。
「こんにちは。予約していた長嶺ですが」
「はい、伺ってます。こちらへどうぞ」
店内には他に客が三人いた。美容師も客も女性で、何だか僕は居心地が悪い。
雪華は理容室の椅子に座った。そこでフードを取ると、数年分の髪が露わになる。
後ろに立っていた美容師は一瞬、ぎょっとした顔になったが、そこはプロ‥‥すぐに営業スマイルに戻った。
「き‥‥今日はどの様にカットしますか?」
と、聞かれても僕に女性の髪型なぞ分かるはずもない。
「全部、お任せします」
「はあ」
それだけ言って僕は後ろの待合室に行った。
「‥‥‥‥」
置いてある雑誌を捲るが、どれも女性向けで、それで時間を潰すのは難しそうだ。
僕はネットでも見てようかとスマホを出した。
何の気なしに写真を開く。
椎奈の写真がたくさん出てきた。
楽しそうに笑ってる彼女の顔。こっそり大盛のラーメンに注文を差し替えられて驚いている顔‥‥今では何の感慨も無い。ただ、こんな物をまだ保存している自分が情けなく感じるだけだ。
自分も先へ進まなければならない。
だから、スマホに保存してある全部の写真を消去した。
大体、二時間ぐらい経った頃、
「終わりましたよ」
「え? はい」
僕がソファーから立つのと、待合室に雪華が入ってきたのは同時だった。
「こんな感じでどうでしょうか?」
長かった前髪は眉のあたりで真っ直ぐに整えられており、耳の脇から一房だけ、垂れている。後ろもかなり切ったはずだが、それでも上の方で結んだポニーテールは、背中まであった。現実味がないほどに黒く輝いている。
「髪質が凄い良かったので、なるべく利用しようと思いまして」
美容師はそう言ってるが、それは当然だな。ずっと日光にあたらずに過ごしてきたんだ。
「雪華さん、どうですか?」
「‥‥‥‥」
そう聞くと、彼女はゆっくりと顔をあげた。
「これは‥‥」
顔を見た僕は、自分の審美眼が間違っていない事を確認した。
目鼻立ちは、可愛いと美人の狭間にある。十六歳ではあるけど、中学手前で時間が止まっているんだ。そのアンバランス差でもたらされる、何て言うか‥‥ミステリアスな感じだ。全く日焼けしていない顔は、透き通りそうなほどに白く、吸い込まれそうな黒い髪との比較で、その雰囲気を何倍も増幅させている。
只の人間というより、物語に出てくる人物のようだ。
「長嶺‥‥さん?」
「いや、やっぱり雪華さんは、綺麗だなと思って」
「‥‥‥‥」
久しぶりに外の世界に顔を晒した恥ずかしさか、彼女は顔を赤くさせた。元が真っ白な肌なだけに、すぐに変化が分かる。
会計をすませて車に戻る。エンジンをかけて走りだすと、彼女はまた車窓からの景色を眺めていた。
だが、今はさっきまでとは違う。
視界を妨げるものは無い。
この短時間で彼女の世界は広がったんだ。
「‥‥‥‥何か‥‥怖い‥‥」
「どの辺りが?」
「‥‥見られるのが‥‥」
「大丈夫、すぐに慣れますよ。自信を持って」
「‥‥‥‥」
前と同じように、わずかな首振りで意志を伝えてくる。その動きは縦だった。
次は彼女の服を選ばなければならない。
それがまた難しく、ネットを参考にしたり、実家の妹に聞いたりと、出来る限りの情報は仕入れた。が、結局は着るのは僕ではないので、最終的には彼女の好みのままが一番良いだろうという結論に至る。
それに僕が服屋の店員に女性物の服について、根ほり葉ほり聞くのは気が引ける。
「いらっしゃいませ」
服屋‥‥ブティック?‥‥に入った僕らは、多分、ダサいジャケット姿の僕と、ださいジャージ姿の雪華を見て、普段は来ないような客だという事を感じただろう。
「彼女に合う服を見立ててもらえますか?」
例によって丸投げする。
店員は雪華を上から下までじっと観察する。
「どのような感じで着られますか?」
「普段着と外出用を何着か‥‥あと、出来れば‥‥その‥‥中に着るものも‥‥」
ああ、言いづらい。
「‥‥なるほど」
そんな僕を見て店員は何かを察したようだ。何か‥‥ちょっと笑ってる気がする‥‥。
「かしこまりました。では彼氏さんは向こうでお待ちください」
「は?」
勘違いしているようだが、あえて訂正するのもおかしい。
俯いてしまった雪華を任せて僕はまた待合室の椅子に座る。置いてある雑誌を広げると、今度はちゃんと男性向けのもあった。こんな感じで彼女のショッピングに付き合わされた彼氏‥‥という案件は良くある事なのかもしれない。
それほどかからないだろうと思っていたが、気が付けばもう昼になっている。
「遅いな‥‥」
そう呟いた時、雪華が戻ってきた。
「‥‥へえ」
白のTシャツにベージュのワンピース‥‥清楚なイメージだ。
「彼女の肌が綺麗なので、ガーリー感と透明感で‥‥」
店員はそんな説明をしてくるが、それは耳に入ってこない。ここまで来ると、その辺のモデルなんて話にならないレベルだ。
「お会計は全部で‥‥」
「‥‥‥カードで‥‥‥」
持ってきた予算は軽くオーバーしている。あの紙袋二つの中に、そんな高級なものが入っているとは‥‥女物の服は高い。まあ、前の職場で稼いだ金だ。こんな事に使えるなら禊のようでむしろ清々するというもの。
「長嶺‥‥さん‥‥すみません」
「これは経費だから気にしない」
それは嘘だが気をつかわれても困るので、これは良い嘘だ。
「そうだ! かわりに写真を撮らせてくれないかな?」
「写真?」
「そう」
スマホを出してカシャっと、一枚撮る。
ちょっとだけ口を開いて、驚いてる顔になったが、まあ、商店街をバックにいい感じに撮れたんじゃないかな。
記念すべき一枚目にふさわしいじゃないか。
「さて、目的は達成したし‥‥」
役所に戻って、レポートを書かなければならない。かかった費用は無視して(嫌味を言われそうだしな)、とりあえず、今の雪華の生き生きとした表情を報告しよう。これから社会復帰を目指すなら、これ以上の成果はないじゃないか。
さすがに課長も文句はないだろう。
「そろそろ帰‥‥」
「‥‥‥‥」
途中で雪華が僕に顔から体当たりしてきた。そして商店街を指さす。
「どうしたの?」
「行ってみたい‥‥」
「ああ、もうお昼だからな」
そう言えば、今日は家に帰っても誰もいないとか言ってたな。今までもそういう時があっただろうけど、その時、一人で家にいた雪華は、昼食なんかはどうしてたのだろうか?
あの両親、家族なら、事前に用意しておくとか、出前を頼んでおくとか、そんな事はしない気がする。
「じゃあ、寄っていこうか」
今時の女子高生が立ち寄る、飯屋って何処だ? 指の先にあるのは、バーガー屋、牛丼屋、ラーメン屋‥‥おしゃれとは程遠い。それでも、これから先、一人で店に入る事もあるだろう。良い訓練かもしれない。
その中でバーガー屋を選択。その決め手になったのは、中でお喋りをしてる女の子達がいたからだ。そう言えば今日は日曜。休日出勤は気にしないが、なるほど、混んでるはずだ。
店の自動ドアが開いて中に入ると、雪華を目にした若者達が、早速彼女を話題にしている。それは以前とは違い、良い話題だ。振り幅が凄い。
「さて、これが券売機というものだ」
「はい」
「ここにお金を入れるか、スマホに入れたチャージ‥‥は、また後でいいか、ここにお金を入れて。買いたい商品の画面に触ると‥‥」
ガチャ‥‥と、小さな食券が出てくる。
彼女が引きこもる前は、店員に商品名を言って買うのが普通だった。今は見るもの全てが新鮮に感じてるだろう。
「この券をあそこの店員に渡すと、この商品が出てくるんだ」
「はい!」
雪華は目を輝かせてる。
「やってごらん」
お金を入れて、後の操作を任せる。
「‥‥‥‥」
何にするか色々迷っているようだ。季節限定とか、この店舗のみとか、まあ、種類はたくさんあるから仕方がない。僕もたまに入るときは、定番のチーズの入ってるやつだけだ。
二つある券売機の一つを完全に占領してしまっていたけど、後ろのお客さんに、手を合わせて、すみませんのポーズを取る。
そうして出てきた食券の何と枚数の多い事か‥‥釣りボタンを押しても、ほとんど戻ってこないし。
そうして出てきたのは、山の様なバーガー。何なら一個で腹一杯になりそうなんだが‥‥。
「分からなかったので‥‥」
「腹、壊さないようにな‥‥」
「はい!」
雪華は意外に大きく開いた口でかぶりついた。
「‥‥‥‥」
その状態で動きが止まった。
どうしたのかと見てると、そのうち、目からポロポロと涙が流れてきた。
「そんなにまずかった?」
「いえ‥‥」
雪華は口を拭くナプキンで涙を拭った。
「昔‥‥‥‥お父さんとお母さんとで‥‥大きな池のある公園に行って、そこでよく食べてたなって‥‥食べたら懐かしい味がして‥‥それで思い出しちゃって‥‥」
「‥‥‥そうなのか‥」
そんな時期もあったのか、それがどうして今はあんな感じになったのだろうか。
「‥‥お母さんは‥‥私が小さい頃に病気で死んじゃって‥‥それで‥‥再婚して‥‥」
「‥‥‥‥」
資料ではあの妹は新しい母の連れ子となっている。前任者はその事に関して他に何も書いてなかったが。
「言いにくい事は無理に言わなくていいから」
支援員として、言ってはいけない事を僕は言っている。原因となるものを全て聞き出し、治療や社会復帰の為に役立てる事がセオリーだという事は僕も十分に知っている。
「いえ‥‥長嶺さんには‥‥聞いてほしいんです‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥再婚したら‥‥お父さんもお母さんも‥‥私の事は構わなくなって‥‥でも、私は頑張って良い子でいなくちゃって! ‥‥でも‥‥結局何も‥‥変わらなくて‥‥」
「‥‥‥‥」
大声を出している雪華を、周りは何事かと注目してくる。僕は何も言わずに黙って聞いていた。
頑張った結果、それが報われないと知った時‥‥人は誰しも無気力になるのらしい。雪華に限らず、僕もそうだった。
「君はもう、自分で考えていける。どこにだって一人で行ける。どんな人にだってなれる。君は自由だ」
言ってて耳が痛い。どの口が言ってるのか‥‥自分が自分に言い聞かせてるようだ。
「‥‥‥はい‥」
彼女はそれしか答えない。それで納得したのかどうかは分からない。
僕達は店を出た。雪華は一個と半分でギブアップ。残ったバーガーは包みに入れて持ち帰るしかなかった。
どこにだって行ける‥‥と、言った手前、このままあの家に戻るのもな‥‥違う気がするんだが。
大きな池のある公園か‥‥。
「ちょっと遠回りしていくか?」
「はい!」
今度の、はい‥‥は元気がある。よろしい!
僕は郊外へとひたすら車を走らせた。
建物の高さが低くなり、木々の自然が目につくようになってくる。一時間程飛ばした後、僕は車を降りて助手席のドアを開けた。
「‥‥ここは」
「多分 君が昔、来てた場所だと思うけど」
ここは都心からすぐ近くにある有名な公園だ。まるで山の中を歩いているような錯覚に陥る程に敷地は広い。魚の泳ぐ池や自然の森もあり、桜も紅葉も楽しめるが、今はそのどちらも見れないのが残念だ。それでも人はそれなりにいる。
「‥‥‥‥」
雪華は自然の芝生の上を歩きだした。木の板が道として池の周りを囲んでいる。でこぼこして不安定な道だが、雪華は体をくるくると回転させながら辺りを見渡している。
「長嶺さん! ここです! ここに座って眺めてた気がします!」
「そうか」
それは何より。
「これって鯉? 大きな金魚ですね!」
「‥‥鯉は金魚じゃないから」
はしゃぐ雪華の後を、ゆっくりとついていく。
僕の視点から見れば、自然の中で飛び回る雪華こそ、おとぎ話の妖精のようだ。
これはシャッターチャンスとばかりに、何枚か勝手に撮らせてもらった。
彼女が笑ってる。
本当に良かった。
「長嶺さん‥‥」
唐突に近づいてきた。
「私‥‥今日の事‥‥一生忘れない」
「大袈裟だな。これからはどんどんこんな思い出は増えてくるよ」
「はい!」
その返事も素晴らしいものだった。
車に戻ってからも、雪華は大事そうにバーガーの袋を抱いている。僕はしばらくジャンクフードの類は見たくはない。
「長嶺さんは、明日は来るんですか?」
「明日は‥‥行けないな。次は‥‥」
頭の中のスケジュール帖を開いて確認する。
「今週の金曜日だね」
「四日も‥‥間が空きますね」
雪華の声が落ち込んでいる。
「大丈夫。君は必ず社会復帰出来るから。焦る必要はないよ」
「‥‥はい」
そう言っても、あまり表情が明るくならない。
彼女は四年以上のブランクがある。大人の四年と中高生の四年では、その貴重さや感覚がまるで違う。焦る気持ちは理解してるつもりだ。僕の言葉程度で安心できるような類ではないという事も。
雪華を家に送り届け、僕は休日の庁舎へと戻る。
何が日曜か、休日かと、デスクのパソコンを立ち上げ、今後の彼女のスケジュールを立てていく。
最終目的は、ちゃんと学校に通うようになる事だ。そこで友達をつくり、当たり前の学生生活を送る‥‥それで社会復帰は完了する。大学に行くのか就職するのかは、その時の彼女の決断次第で、その時はもう立派な大人だ。彼女自身が判断して決めるだろう。今の僕が言う話ではない。
その為にはまず、中学卒業認定試験を受けて、中学卒業した事を証明しなければならない。その上で、その年の高校を受験できれば、最短で復帰が可能だ。
中学卒業認定試験は十月に実施とある。あまり時間がない。家庭教師が必要になるが、あの両親はそれを雪華に許してくれるだろうか、それも怪しいものだ。
とりあえず、説明だけはしてみよう。もしかしたら‥‥。
‥‥などと考えていたのは、甘かった事を、後で思い知らされる。
「雪華に家庭教師?‥‥中学校‥‥卒業認定試験?」
両親二人を前に、僕は制度の説明をする。
「はい、合格すれば中学卒業の資格が得られますので‥‥そこから‥‥」
「そんなみっともない事が出来るか! 娘がそんな資格を取らなければならないなんて、知られでもしたら大事になる」
「‥‥‥‥」
僕は机の下に置いてある拳を握りしめた。
何がみっともないだ。実の娘をあそこまで追い込む方が何十倍もみっともない!
「‥‥では、許可は頂けないと?」
「当たり前だ。そんなものにかける金はない」
「分かりました」
これ以上は何を言っても無駄のようだ。この人達の前には一秒たりともいたくはないので、僕は雪華の部屋に向かう。
階段を一歩一歩上がっていく。雪華には前もって話をしてある。この両親の対応を話したら、きっと落ち込むだろう。このまま伝えたくはない。
「‥‥‥‥」
昔、中国の曹植という人物は、七歩歩く間に詩を作らねば、死罪と言われた中、立派な詩を作る事が出来た。僕も今は同じ感覚だ。
この階段を登り切り、彼女の部屋に着くまでに、対策を考えなければならない。
「‥‥‥‥そうだな」
僕は階段の途中で立ち止まり、それから客間へと戻った。
「ん? まだ何か?」
「はい、先ほどの件なのですが、私が雪華さんに認定試験の勉強を教えます。これは経費がかかりません」
「‥‥まあ、そうだな」
「もし試験に合格したら、翌年の高校受験‥‥それならば普通に受験なので、その時は家庭教師をお願いしたいのですが‥‥」
「‥‥‥‥」
父親は考え込んでいる。さあどうする?
中卒試験がみっともないとは言っているようだが、それは本心ではないだろう。家庭教師という金をかけて、なおかつ落ちるなどという事を考えているせいだ。つまり、全く雪華を信用していない。
資金をかけた分のリターンの割合を考える‥‥経営者らしい判断だが、そもそもの雪華の情報が不足している。ここで無料という要素を足せば、失敗してもリスクは無い。成功すればタダで中卒資格が得られる。そして合格した暁には、高校に受験して、そして合格してもらわなければ、それまでの行為が無意味になってしまう(中卒で良いというわけではないだろうし)。そうならない為にも家庭教師を付けざるをえない。僕にそこまでの先生としての才があるとは思っていないだろうから。
「分かった。君の言うように高校受験の際は家庭教師をつける事にしよう」
「ありがとうございます」
頭を下げたその時、僕は心の中で舌をだす。なんとなくこの手の人達の扱いがうまくなってきた気がする。
その事をすぐに雪華に伝えた。
「長嶺さんが‥‥先生‥‥」
「そういうわけで、お互いに頑張ろうか」
「はい!」
彼女が笑顔になると、僕も何だか幸せな気分になる。
その瞬間をまた写真。
それはそれとして‥‥中学卒業程度の問題なら問題ないと高を括っていたが、僕に人に勉強を教える事が出来るかどうかは未知数だ。
もちろん、僕も勉強する。意外に忘れている事があり、知らなかった事もたくさんある。それに自分が知ってるからと言って、それを伝えられるかは別問題。
加えて、五科目まんべんなく覚える必要がある。
大丈夫だろうか‥‥という不安は尽きなかったが、予想以上に雪華の頭は良かった。
過去門などは、ずっと部屋で復習してし、何よりその熱意が凄い。
「ここは、これで良かったのですよね」
「ああ、正解だ」
「良かった‥‥あ、あと、ここなんですけど‥‥」
「そこは‥‥」
これなら僕が教える事はあまりなさそうだ。
「ちょっと休憩しようか」
「はい先生!」
「‥‥いや‥‥先生はやめてくれ」
呼ばれ慣れない言葉に、ちょっと照れてしまうじゃないか。
「あまり根を詰めるよりは、たまに休んだ方がいいよ」
「はい、最近は近所を一人で散歩出来るようになりました。バスにも乗れるので遠くにいく事もできます」
「‥‥その格好で?」
どういうわけか、せっかく買った普段着を着ずに、僕が持ってきたジャージを使っている。まあ、それで近所を歩いてたら、ランニングの途中と思われるので、それもいいか。
「はい、気に入ってます」
「なら、いいんだけど」
そうして月日は過ぎていく。僕の半年と彼女の半年は体感が違うというのは前も言った通り。あっと言う間だった気もするが、雪華には長い半年だったと思う。
十月になり試験当日。僕は試験会場まで彼女を乗せていく。十時から開始だったが途中で渋滞にはまるかもしれないので、余裕を持って出発する。
「緊張してる?」
いつもより口数の少ない雪華に、わざと明るめに声をかけた。
「‥‥いえ、そんなには」
「そうだね。もう十分に合格できると思うよ。緊張する必要なんてない。いつもの通りでOKだ」
「‥‥‥‥はい」
やはり表情が沈んでる。いつもは窓から景色を眺めていたが、今日は俯いたままだ。
「長嶺さんは‥‥これからどうするんですか?」
「君の合格祝いを言った後、家庭教師を探すよ」
「長嶺さんが教えてくれればいいのに」
「恥ずかしながら、高校入学試験ともなると、僕では力不足だ。高校入試なんて、遥か遠い昔の話だしね。やっぱり専門家に頼んだ方がいいよ」
「‥‥その‥‥」
「ん?」
「じゃあ、もう、家には来ないんですか?」
「いや、様子は見にくるよ」
「‥‥本当に?」
「担当だからね。どうして?」
「‥‥‥‥」
それっきり黙ってしまった。
そのまま会場へと到着する。受験票と筆記用具を持って車から降りた。
「あの‥‥長嶺さん‥‥私‥‥」
「なに?」
送迎用のレーンで止まっていたので、後ろの車からクラクションが鳴らされる。
「ごめん、終わった頃、また迎えに来るから」
「‥‥‥‥」
窓を閉めて会場を後にした。四時ぐらいに終わるので、その頃に迎えにいけばいい。それまでは仕事をしなければならないが、やはり手につかない。
緊張してないと言ってはいたが、大丈夫なのかとか、知らない範囲が出てきたらとうしようとか、果ては、昼食に持たせた弁当、揚げ物が多かったが、お腹を壊したりしないだろうか‥‥など。これでは、先生と言うよりオカンに近い。
「では、お先します!」
結果、かなり早い時間に仕事場を出て、車を飛ばして試験会場の出入り口付近で待つ。
チャイムが鳴ってしばらくすると、試験を受けた生徒達がぞろぞろと出てきた。
「‥‥‥‥」
その中から雪華を探す。背はそれほど高くはないが、目立つのですぐに分かるはずだ。
“長嶺さん!”
その群の中から一目散に走ってくるロングポニーテールのジャージの少女。足取りは軽いし、何よりあの表情。結果は聞かなくても分かる。
「大成功でした!」
「!」
走ってきた勢いで僕に飛びつく。いくら体重が軽くてもさすがに支える事が出来ずにひっくり返った。
「良かった、良かった! はっはっは!」
「ふ‥‥あはは‥‥」
僕に覆いかぶさったままの雪華の頭を撫でる。
倒れているので、僕が向いてる方向には青空が見える。彼女の世界は今、車の屋根を突き抜けて広がったんだ。
「これでもう一人前だな。大手を振って親父に言ってこい」
「‥‥‥‥長嶺さん」
僕の体に回している雪華の両腕に力が入る。
「しばらく‥‥このままでいさせてください‥‥」
「‥‥‥」
まわりに人が集まってきている。それはそうだろう。いきなり抱き着いて二人で倒れているのだから。
「とりあえず帰ろうか」
「‥‥‥‥」
手を掴んで裏の駐車場まで引っ張っていく。また彼女は黙り込んでしまった。
次の日におこなった自己採点で、ほぼ合格が確定した。
家庭教師は、両親が探すそうで、これを機に雪華にも彼女の語る昔のように真摯に向き合ってくれればありがたいのだが‥‥あの家族‥‥一筋縄ではいかないだろうな。
それから数日が経った頃、僕はデスクで事務仕事をしていた時。
「長嶺君、仕事の方は順調そうだねー」
珍しい事に課長が近寄ってきた。不気味な程にニコニコしている。
何だ? 小言の前触れか?
「‥‥まあ、単純作業ですので」
「いや、君の仕事ぶりは以前から私もね。気づいてはいたんだよ。うん、君は逸材だってね」
「は?」
何かがおかしい。
「‥‥何かあったんですか?」
あったとしか思えない。
「おお! 先にこれを渡すべきだったな」
「‥‥‥‥」
課長に渡されたのは小さな封筒だった。この独特の薄い青色の封筒は見覚えがある。
開けてみると、それは異動命令書だった。
「‥‥‥‥元の‥‥監査局に‥‥異動?‥‥来週から?」
命令書の判は、岩沢となっている。青木さんじゃない。知らない人だ。
「いやー、監査局、課長補佐‥‥今後ともよろしく頼むよ」
「‥‥‥‥」
青木さんのあの言葉からすれば、僕が元の職場に戻れるとはとても思えない。
こんな時、誰に聞いたものだろうか‥‥僕には一人しか覚えがない。しかし出来ればもう話はしたくない人だ。
仕方なく僕は椎奈に電話をかけた。
=基樹?‥‥元気してた?=
「ああ、おかげさまで」
余計な世間話をする気はない。
=こっちから連絡しようよ思ってたのよ。基樹、こっちに戻ってくるんだよね?=
「‥‥‥‥」
知ってたなら話は早い。
「どうしてそういう話になったんだ?」
=それがね、基樹をそっちに飛ばした青木部長‥‥使い込みがバレて、辞めたって話だよ=
「!」
=多分、刑事告発されると思う。で、新しく部長になった岩沢さんが、基樹の事を知って、呼び戻そうって話になったみたい=
「‥‥‥‥」
椎奈も部署が違うのに、よくそこまで知ってるものだと感心する。
=良かったじゃない。そんなちっちゃな場所で燻ってる人じゃないものね=
「‥‥‥‥」
椎奈の物言いに、何となく腹が立ってきた。
=‥‥それでね‥‥私もあの時はちょっと気が動転してて‥‥基樹に酷い事を言っちゃったって思ってるの。距離を置いて分かったの。私には基樹しかいないって=
「‥‥‥‥」
全く酷い。椎奈の言う、ちっちゃな場所にずっといたら、そんな事は言ってこなかっただろう。そんなに肩書が重要なら、名刺とでも付き合えよ。
=ねえ、明日会わない?=
「いや、引継ぎが大変だから。それじゃ」
=待‥‥=
「‥‥‥‥」
僕は途中で電話を切った。
異動になった時は、どうにかして戻りたいと考えていた。自暴自棄にまでなっていた。
でも今は、それほど魅力的な場所だったとは思えない。
引継ぎは、はっきり言って大した事はしてなかったので、手続き上は楽だ。
だがそんな書類上の事じゃない、もっと大事な事がある。
雪華‥‥彼女と関わる事がもう出来なくなってしまう。
まだやるべき事が残っているというのに。
「違うな‥‥」
彼女はもう一人でやっていける。例え僕がいなくても。
「‥‥‥‥」
スマホの写真を開く。
彼女が笑っている。その笑顔を見てると僕にも力がわいてくる。
もう自分を騙す事はできない。
僕は彼女に惹かれている。こんな状況になってようやく分かるとは、僕は本当にどうしようもない人間だ。
彼女の真っ直ぐな心は、挫折感にまみれていた僕の心を立ち直らせてくれた。僕の方が彼女を必要としていたんだ。
今のこの状況がずっと続いてくれたらいいとは思うが、それはあってはならない事だ。
雪華にとって僕はただの支援相談員の担当にすぎない。自由を取り戻した彼女は、普通の生活を過ごし、何処かで彼女が惹かれる誰かと付き合い、別の世界を作っていくのだから。
それは彼女が望んだ、当たり前の幸せだ。
手が届くところまで、それが来てるというのに、僕がそれを壊してどうする。
それに。
「異動命令なら仕方がない」
そもそも考える余地はないんだ。それで納得するしかない。
僕はそれで良いとしても‥‥。
雪華にはどう説明したらいいのだろう。
どう言った所で、途中でいなくなる事に変わりはないのだから。
そんな事を一晩中考えてて一睡もできなかったが‥‥。
翌日僕は藤宮家を訪れた。まだ考えがまとまってはいなかったが、訪問する時間は決まっているから仕方がないのだ。
それにしても何も浮かんではこない。
適当な事を言ってごまかす事はしたくない。彼女には誠実でいようと思っている。だけど正直に伝えると傷つけてしまう。
「‥‥‥‥」
もう何度見ただろう。雪華の部屋のドア。
最初は鉄の板のように見えていたけど、今はただの、普通の女の子の部屋のドアだ。
「こんにちは」
“どうぞ”
それが合言葉のように、ドアが開く。
「待ってましたよ!」
雪華の笑顔が、今日は僕の心を抉る。
僕は黙ってカバンから書類を出す。
「あのね、今日はね、バスで隣町まで行ってきたの! 猫カフェがあったから、そこに行って、ずっと頬っぺたをすりすりして‥‥」
「それからね、コーヒーショップに行ったんだけど、注文が難しくて‥‥」
雪華は楽しそうに僕がいない時の事を話してくれる。そこには一切の余計な意味はない。ただ僕にそれを伝える事が嬉しいから話してる‥‥それだけだ。
言い出すタイミングが難しい。
「‥‥‥‥雪華さん」
杓子定規に言うんだ。
「はい?」
「実は‥‥僕は‥‥今週で異動になるので‥‥」
「‥‥‥‥」
「多分、今日が最後の訪問になります」
「‥‥‥‥」
「それで‥‥ここに、これまでの事に該当するかチェックをつけてほしいのと‥‥何枚かにサインを書いてもらいたいのですが‥‥」
「‥‥‥‥」
雪華の表情が固まる。どこかで見たような気がする‥‥そうか、それは僕がはじめて雪華と会った時のものと同じ表情だ。
「長嶺‥‥さんは‥‥もう‥‥来ないのですか?」
「‥‥そう‥‥だね」
「‥‥‥‥」
彼女は口を大きく開いた。何かを言おうとしたようだけど、それは途中で止めた感じだ。
何か言いたい事があるのは僕も同じだ。
が、それを言う事は出来ない。
彼女の未来の為にも。
僕は酷い奴で終わるしかないんだ。
「それでは書類は置いていきます。書き終わりましたら、ご両親に渡してください」
立ち上がって部屋から出ていこうとした僕の手を彼女は掴んだ。
細い彼女の腕には似つかわしくない強い力だ。
「長嶺さんは‥‥私の事を‥‥どう思っていたんですか?」
「‥‥それは‥‥」
酷い奴だ。そうなるしかないんだ。
「僕はただのひきこもり支援相談員です」
「‥‥‥‥」
その瞬間、フっと力が抜け、僕の腕は自由になった。
「‥‥それでは‥‥」
またね‥‥とは言えない。頭を下げて部屋を出る。
そうして俯いたまま庁舎へと戻った。
やたらと下手に出る課長を振り切り、家に戻る頃には夜も遅くなっていた。
「‥‥‥‥」
ネクタイを緩めてベッドに寝転ぶ。
何とも後味の悪い終わりだったが、これで全てがうまくいくはずだ。
どう罵られようが、そこはもう自分の心持ち次第だ。
元の職場に戻る為の準備がある。それをしてるうちに時間は流れるだろう。
「‥‥‥‥」
棚の上には、変身ヒーローの人形がポーズをつけて飾ってある。
より多くの人の為に活躍する為には、監視官から出世していくのが一番だ。
だから本来の自分の夢に戻る。それだけだ。
僕の思惑通り、気がつけば出向の日になっていた。
引っ越しの手続きと、荷物の整理で有給を出したが、二つ返事で受け取ってもらえた。
椎奈が手伝いに来ると言っていたが、それは断った。
短い期間だが、思い出が詰まったこの部屋と最後の日は向かい合っていたかった。そこに関係ない奴を中に入れたくはない。
「ふう‥‥」
ダンボールが三個‥‥あまり物を増やさない性格は、この場合は荷物が少なくて助かる。
残ったのは今晩寝る為の布団と人形だけ。明日の朝になったら布団は捨てて、人形はカバンの中。簡単な事だ。
「‥‥‥‥」
しかしまだ夕方だ。寝るにしては早すぎるが、暇をつぶすにしても何もない。
仕方がないので布団に横になり、適当にスマホを眺める。
「‥‥‥‥?」
部屋のチャイムが鳴った。
手続きは全部終わってるし、どうせ何かの勧誘だろうと無視していたが、チャイムの音はいっこうに鳴りやまない。
しまいにはドアを叩き始めた。
さすがに近所迷惑だ。
「何なんだ、しつこいな!」
僕は足に反動をつけて起き上がった。インターフォンなどというしゃれたものはないので、窓のレンズから外を覗いた。
「な!‥‥‥」
外に立っていたのは雪華だった。この小さな丸い窓から見ている事を知っているかのように、真っ直ぐに僕を見つめている。
=こんにちは=
「‥‥‥‥」
どうする? いや、答えるしかないだろ。
「どうしたの、こんな時間に?」
夜という程ではないが、夕暮れの時間の割に外は暗くなってきている。
=どうしても‥‥会いたくて=
「‥‥‥‥」
=ドア、開けてもらえませんか?
「‥‥‥‥」
駄目だ。今、直接会ったら、僕は余計な事を口走ってしまう。
そうなれば彼女の未来を雲らせてしまう。
「もう、遅いから、帰りなさい」
=‥‥‥‥=
「‥‥‥‥」
=長嶺さんは‥‥開けてはくれないんですね=
「‥‥‥‥」
=‥‥‥‥さよなら=
長い沈黙の後、彼女の姿はドアの前から消えていった。
「‥‥‥‥」
僕はドアを背に寄りかかり、そのままズルズルと玄関の床に腰を沈めた。
どうやってここの住所を知ったんだろう。いや、そんな事より‥‥。
わざわざバスを乗り継いできたのか。この時間は帰宅ラッシュで人が多くて嫌だったろうに‥‥僕は、そこまでの想いを踏みにじったのか。
こうするしかないと分かってはいたけど‥‥これはさすがにこたえるな。
体育座りで、ぼうっとしてる‥‥‥これじゃ、会った頃の雪華のまんまじゃないか。
確かに時間が飛んでいきそうだ。
「‥‥‥‥」
スマホの写真を開く。
枚数は少ないが、どの写真にも雪華が写っている。
笑顔で手を振っていたり、道端の猫にひっかかれそうになって驚いてたり‥‥ひきこもりだった少女はそこにはいない。
「さよなら‥‥か‥‥」
彼女の方からその言葉を言われると、妙に現実味を帯びてくる。
一人の少女を救った‥‥ヒーローは孤独なものだ。
無理矢理納得させて、僕は布団に戻った。
ひどく落ち込んでる時は、やはり時間の体感はおかしくなっていくもので、どれぐらいの間、ぼうっとしていたのか分からなかったが、
「‥‥ん‥‥」
スマホの呼び出し音が鳴り、僕の意識は現実に戻される。
「はい」
名前を確認せずに通話に出た。
=もしもし、藤宮だが‥‥これは長嶺君の携帯でいいのか?=
「‥‥‥‥ふじみや?‥‥あ、はい」
瞬間、僕は支援相談員に戻った。
「長嶺です。どうなされました?」
=雪華が家に戻ってないので、何か知ってるかと思ってね=
「え?」
僕は時計を確認した。
もうすぐ九時になる。
=全く! どこを遊び歩いているんだか‥‥社会復帰もいいが、この辺の道徳も教えないとは、片手落ちもいい所だ。大体、相談員‥‥=
「‥‥‥‥」
父親はまだ話している途中だったが、僕は通話を終了した。
時間は九時をまわった。
雪華がこんな時間まで外を出歩いてるのはおかしい。
「探さないと!」
だが何処に? 彼女は携帯を持っていない。連絡手段がない。
「‥‥‥‥くそ!」
どうしても最悪な事が頭に浮かんできてしまう。
さっき、ドアを開けていれば‥‥いや、今は考えるのはやめだ。
とにかく外に出よう。もしかしたら、まだその辺にいるかもしれない。
スニーカーをサンダルのようにつぶして履き、ドアを勢いよく開けた。
「‥‥‥‥」
下に何か落ちている。それは前も拾ったもの‥‥雪華の人形だった。
こんな所に置いていくのは、どういう事だ?
いや‥‥そうか‥‥。
「‥‥‥‥」
僕は部屋に戻って車の鍵を掴む。
エンジンをかけた所で、雨が降りはじめ、フロントガラスに小さな雨粒が付きだす。
「何がヒーローだ!」
怒りに任せてアクセルを踏む。
『長嶺さんは‥‥開けてはくれないんですね』
雪華はドアを開けてくれたじゃないか。それに比べて僕は何だ?
行先は‥‥一か所しかない。
夜の公園は昼とは違い、遊歩道に沿って何本かの街灯があるだけで、ひたすらに薄暗い。まして雨ともなれば、視界も音も遮られる。
公園の駐車場に車を止めた僕は、広い敷地の中をひたすら走って探し続ける。
傘なんて用意してこなかった。今は一刻でも時間が惜しい。
「‥‥‥‥!」
小一時間程後、街灯脇のベンチに座っている白いジャージを着た人を見つけた。
今まで走っていたのに、見つけた途端に僕の歩みは遅くなる。
彼女に合わせる顔がない。
「いや‥‥そんな事‥‥」
頭を振って彼女に近づく。
雪華も傘はもっていない。街灯の明かりに照らされた雨粒が、光のシャワーの様に彼女の上に降り注いでいた。
「せ‥‥」
声をかける前に彼女は顔を上げた。
その瞳は‥‥最初に出会ったあの時の暗い目だった。
こんなに追い詰めてしまってたのか。
僕の声は届くのだろうか。
それは無理かもしれないが‥‥。
「‥‥ただいま」
魔法少女人形を雪華の顔の正面に向けた。
「ほら、ちゃんと連れてきたよ」
僕の変身ヒーローを雪華の人形の後ろから登場させる。
「エイミーに呼ばれて来たよ 僕が来たからにはもう安心だ」
「‥‥‥‥」
雪華はずっと人形を見つめている。
「これからはずっと君の側にいるからね、雪華ちゃん」
「!」
彼女はハっとして僕の顔を見つめた。
「長嶺‥‥さん?」
「こんにちは‥‥じゃなくて、こんばんは‥‥だね」
「‥‥‥‥どうしたんですか?‥‥こんな時間に?」
さっき僕が言った事をやり返された。
「迎えに来た」
「‥‥‥‥もう長嶺さんは、私の担当じゃないですよ」
「そうだね、でもそれは関係ないんだ」
「‥‥‥‥」
「帰ろう。風邪を引いちゃうよ」
「もう、放っておいてください!」
雪華はそう叫んで走り出した。
「もう、私には何もない! 家に戻ったって!」
「そんな事ない」
追いかけるが‥‥意外と足が速い。
雨の公園を駆けていく。
「もう! どうでもいいの!」
「どうでも良くなんかない!」
「!」
その先には池があったはずだ。僕は彼女に飛びついた。
僕達は地面の上に泥だらけになって横たわる。
「私‥‥‥私‥」
「‥‥‥‥」
泣きじゃくってる雪華の頭を何度も撫でた。
僕は信じ切っていた青木部長に裏切られて、全てがどうでも良くなっていた。僕を信じている彼女を突き放すなんて、それと同じ事だ。
「長嶺さん‥‥私‥‥」
「いいんだ。もういいんだ!」
自分で自分を苦しめる必要なんてない。
冷え切ってる彼女の体を抱きしめた。
「ずっと‥‥一緒にいてくれるの?」
「そうだよ」
「‥‥‥‥」
彼女も腕を回してきた。傍から見れば、雨の夜の公園で、地面の上で抱き合ってるという異様な光景だ。
「‥‥だから‥‥これからは‥‥何も心配する事はないんだ」
雨も空気を読んだのか、次第に小降りになってきた。
「‥‥くしゅん!」
雪華が猫のようなくしゃみをした。僕は笑って彼女を背負った。
「長嶺さん‥‥これ‥‥」
彼女は、背中越しに人形を見せてきた。
変身ヒーローの後ろに魔法少女人形をくっつけている。
「今、こんな感じ‥‥」
多くの人の為に戦うヒーローは、ただ一人の少女をおんぶしてる。
いいじゃないか。
それも立派なヒーローだ。
「これ‥‥くっつけちゃっていいかな?」
「もちろん」
僕は背中に感じる温もりに、確かな安堵感と幸せを感じた。
少女が見上げる世界の広さは @chelsea-milky
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