第4話

「へ~。ここが神聖ローマ帝国の駐屯地か~」

 執務室で仕事をしていたトロイは、振り返った。

 そこに見慣れない若い将校が二人、入って来る。

「俺んとこに比べると全然狭いね~」

「アホか! 本人目の前にしてそんなこと言うなや!」

「鳩尾に肘打ちしないでよ。最近流行ってんの? 俺最近鳩尾攻撃されすぎてなんかその辺微妙にいつも痛いんだけど、これってもしかして骨とか折れてませんよね?」

「誰に聞いとんねん」

 イアンが舌を巻いて言い返している。

 漫才のようなやり取りをしながら入って来た二人を、怪訝な表情でトロイは見た。

「あの……申し訳ありませんが客人は東館の方で……」

「ああ、ちゃうねんちゃうねん! 客人なんてそんな大層なもんやない。お宅のとこのフェルディナントに旧友が会いに来たって伝えてくれへん? 俺はスペインのイアン・エルスバトいうもんや」

 トロイは立ち上がった。

 すぐに敬礼をする。

「失礼いたしました。スペイン艦隊総司令イアン・エルスバト将軍ですね。

 私はフェルディナント様の副官トロイ・クエンティンと申します。

 申し訳ありません、将軍は夜警に出ておられ、まだ街から戻られていません。とはいえ、もうすぐこちらには戻ると思うのですが」

「おー。さっすがあいつの副官。優秀やな。いや。俺も徹夜明けやねん。駐屯地戻る前にそや昔の友達に挨拶しとこー思ってな」

「そうでしたか」

「俺もさっきまでフェルディナントがここに来とるってこと知らんかったんや。あいつとはスペイン陸軍の士官学校で学友やったんよ。こいつは……まあ語って聞かせるようなもんやないからええよな?」

「ええくないよ。なに人の紹介面倒臭くなってんのイアン君。君、時折そういうことあるね?」

「やかましいわ。黙っとれ」

 その時、軍靴の音が聞こえてきた。

「――トロイ、遅くなってすまない。休む前に新しい部隊の」

 現われたフェルディナントに、トロイが敬礼し、何かを言う前にイアンが歩み寄る。

「おわー! ホンマや! フェルディナント! ひっさしぶりやな~~~! 俺のこと覚えとるか⁉」

 親し気にバシバシと肩を叩かれ、一瞬怪訝な顔を見せたが、フェルディナントはすぐ気付いた。

「イアンか」

「背ぇ伸びたなあ~ あんのチビがこんな大きくなって。久しぶり!」

 旧友二人は手を握り、軽く肩を抱き合った。

「お前も、元気そうだな。トロイ、俺の部屋で話す。この資料に目を通しておいてくれ」

「了解しました。ただいまお茶をお持ちいたします」

 三人で一度外に出る。

「へぇ~。あれが『竜』ってやつ?」

 ラファエルが興味深そうだ。

「ああ」

「王妃が嫌ってたよ~~~~~」

「まあそうだろうな」

「おっ。意外と冷静なんだね?」

「竜騎兵団の騎竜は愛玩動物じゃない。頭を撫でてもらう必要はない。嫌う人間はいるだろうけど、有事の際にあんなに頼りになる奴らはいない。竜に助けられれば、姿への恐怖なんてどうでも良くなるさ。特にヴェネトの街は入り組んでる。何かあった時に空路を使えるのは必ず強みになる」

「そうやなぁ。なんか城下で事件多発しとるらしいけど、意外なほど混乱は広がってへん。お前らの火消しが上手く行っとるからやろな」

「イアン。丁度いいお前に頼みがあったんだ」

 隣接する騎士館に入り、フェルディナントは客間ではなく自分の執務室の方に二人を連れて行った。抱えてきた資料を机に置く。

「俺に頼みって?」

「スペイン艦隊がいずれ海上演習をするだろ。その時に竜騎兵団も共に飛行演習をさせてほしいんだ。王妃が竜騎兵団を非常に警戒して、集団行動が規制されてる。市街上空以外の単独飛行は許されてるから、巡回は今はそうやってるが、あまり飛ばしてないと騎竜も戦の勘が鈍って来てしまう。お前たちの演習に紛れて行えば、さほど角は立たないかもしれないから。それで王妃に提案して、許可をもらえればそうしたい」

「んー。お前の頼みなら聞いてやりたいし、俺としては一向に構わんけど。ちょっと検討してええか。俺としてもまだ王妃に挨拶も出来てない。噂は色々聞いとるけどな……自分の目でもどんな人間が確かめんと。猜疑心の塊みたいな奴やったら、お互いの領域が確立されるまでは、共同で何か行うとか、むしろ控えた方がええで。スペイン艦隊と神聖ローマ帝国の竜騎兵団が力を合わせてなんぞしてきおったら大変や、なんて思われるだけで得策やないやろ?」

「確かに、それはそうだな」

「お前んところの事情は分かった。俺も二日後に王宮に挨拶行く予定になっとるから、ちょっと待ってくれるか」

「ああ。分かった」

「フランス艦隊は無視なの?」

 ラファエルがにこ、と微笑む。イアンが面倒臭そうに、額を掻いた。

「あー……こいつは……まあフランスのそういうやつや……。俺の友達やないから、お前も気を遣わんでええで……」

「なによそのやる気のない説明~~~~。フランス王弟オルレアン公の息子にしてフランス艦隊【オルレアンローズ】の総司令官にしてフランス聖十二護国の一つフォンテーヌブロー公爵家当主ラファエル・イーシャ様に対してさ~~~。また噛まずに言えた♡」

 フェルディナントが小さく息を飲んだ表情をして、ラファエルは機嫌が直る。

「このアラゴン野郎は俺の肩書に一切敬意を示さないからつまんないんだよね~~~~。

 俺が期待してるのそーいう反応。よろしく~」

「勘違いすんな。お前の肩書には敬意は払ってる。俺はお前個人に敬意を払ってないだけや。」

 きっぱりとイアンが言った。

「……よろしく」

 フェルディナントは一応、ラファエルから差し出された手を取って挨拶を返した。

「神聖ローマ帝国のフェルディナント・アークだ」

「よく知ってますよォ。うちのイル・ド・フランスを随分可愛がってくれたしねえ。まあでもここにいる限りは偉大なるヴェネト王国様にこき使われる苦労人三匹だから。出来る限り仲良くしようね?」

「……ああ、そうだな」

「こんなこと言っとるけどな。こいつ王妃様にそれはそれは気に入られおったそうやから。

このままにしとったらあかんで。フェルディナント。面倒なことは全部こいつに押し付けて、こいつが手痛いミスすんのコツコツ狙って行かな」

「今、絶対『フランスを窮地に入れる作戦』が発動したね⁉」

「この前もソレなんぞ言っとったけどなんやねん……」

「ああ、気のせいだったか……」

 腕を組んで浮かしかけた腰を下ろし、ラファエルが落ち着く。

 騎士が客人にお茶を入れて、下がって行く。

「……ここ女の子いないのね……」

 女官じゃなかったことにラファエルががっかりしている。

「最初いたんだが竜を怖がって辞めてしまった」

「はぁ、そうですか……お馬ちゃんだったら女の子に逃げられなくて済んだのにねえ」

 ラファエルのことは無視して、イアンは明るい表情でフェルディナントを見た。

「お前がここにいるってこと、ここに着いてから知ったよ。ホンマ久しぶりやな」

 フェルディナントも少しだけ表情を崩す。

「俺も今知ったばかりだよ。誰が来るのかとは思っていたんだが」

「元気やったか。フェルディナント。……【エルスタル】の話は聞いた。お前が継いだことも。……酷い話やったな……。けど、だからこそお前がここに来てる思わなかってん。

皇帝からの勅命か?」

 イアンからは、自分を気遣う気配がちゃんと伝わって来たので、フェルディナントはこの話も不愉快には思わなかった。

「勅命だったが、あくまでも俺のことは気遣って下さったよ。ここに来ると決めたのは俺自身だ。来たいと思ったわけではないが、他の誰かがここに送り込まれて、自分が国で、何もせずに何かを待っていたいとは、思わなかった」

「……よく分かるわ。俺もそやねん。こんなとこ、全然来たくなかったけど。誰かが何かをしなければならんのは分かったから。兄貴たちも姉貴たちも、国でそれぞれ重要な役目に着いとるし、結婚して独立して家族とか領民とか抱えてる。婚約しとるのもいるしな……。その点末っ子の俺はまだ重要ってほどの国の役目には着いとらん。そんだったら……――まあ、俺が来てここぞとばかりにいつも俺をこき使って苛めとる上の兄弟たちに恩売っとくのもええな! と思ってな!」

 わざと明るくそう言ったが、フェルディナントは理解した。

 彼がスペイン陸軍の士官学校に入学したのは、異例の若さだったので、随分異質な目で見られた。スペイン出身でもなかったので怪訝な顔もされた。だがイアンだけは、お前チビのクセに優秀な奴やな~~~~頭ええわ! などと初対面で頭をわしわし撫でてきて、いつも友好的に付き合ってくれたのだ。仲が良かった友人の一人だ。

 彼は親が厳しい、上の兄姉が末っ子の俺をこき使ったり苛めて楽しむから嫌だ、などと常に身内を愚痴っていたが、その当時は妹もおらず、兄弟の末であったフェルディナントは、身内に愚痴を言って楽しむような空気の家族でさえなかったので、本当はイアンが憎まれ口を叩きながらも、自分の家族たちを愛しているのが分かった。

 彼は友人や家族を、非常に大切にする。今回、この危険な任務を、他の兄弟に任せてはいけないと思って、自ら出て来たのだろうことは分かった。

「……お前ならそう考えるだろうな」

 少しだけ優しい声でそう言ったフェルディナントに、ニコニコしていたイアンが突然表情を変えて、腕を伸ばしてガシッと抱き寄せて来た。

「フェルディナント~! お前やっぱええ奴やな! あかん! なんか久しぶりにお前の顔見て気持ち緩んだわ!」

 彼は泣いていた。

「国がまだあって、身内も山ほどいる俺には、お前の本当の辛さは分かってやれんけど。

きつさは、察して余りあるつもりや。一瞬で母国が亡くなるなんて、……俺なら絶対耐えられへん。お前は強いな。お前は、守ってやれなかったとか、そういうんを考える奴やけど……。自分を責めたらあかんで。悪いのは、悪さをした奴や。自分を責めて、そうし過ぎて、命とか粗末にしたら絶対あかん。

 お前は絶対生き延びて、【エルスタル】の名前を残していけ。

 それが、お前を孤独にしやがった奴への、一番の復讐やから。

 お前は絶対に幸せにならんとアカンで。フェルディナント。

 国を失ったお前が皇帝陛下の為やってここに来たこと、偉い思ってんで。俺は。

 確かにスペイン艦隊率いてる立場はあるけど、なんかあったら俺に言え。俺は出来る限りお前の力になったるからな!」

 ラファエルはソファの背もたれに肘をつき、二人の様子に苦笑している。

 イアンは、多分自分では違う理想像を目指しているのだろうが、普段クールに見せようとしていても、彼の情の篤さが災いして、こういう時に素が隠し切れない。他人の痛みに同調し、力になってやらなければという感情が押さえきれない、非常に情熱的な性格をしていた。

 フェルディナントがここにいると、ラファエルから聞いた時は、そんな反応は見せなかったのだが、いざ本人を目の前にすると、国を失い、たった一人で神聖ローマ帝国の為にとこの地に来たフェルディナントの姿を見ていると、感情を殺せなかったのだと思う。

「お前のそういうとこ、ほんと鬱陶しい」

 ラファエルは優しい声で言った。

「……でも嫌いになれないんだよねえ。」

「……喧しいわ……黙っとれフランスのアホが……」

「イアン君それ俺の上着だから。鼻とかかまないでお願い。新調したばっかのやつ一応言っとくけど」

 フェルディナントは泣いているイアンの肩を軽く叩いた。ありがとう、という意味だ。

 お互い別の国の命運を背負っているから、どうなるかは分からないけど。気持ちはありがたく受け取っておく。何より、幸せにならないといけないという彼の言葉は、今のフェルディナントの胸には響いた。

 ネーリ・バルネチアに瞬く間に惹かれて行く自分に、戸惑いがあったからだ。

 国を失ってここにいるのに、彼と会ってる時に心が安らぎ過ぎて、罪悪感を時折感じるほどだった。でも、イアンの言葉を聞いて、別にいいのだと。

 失った人間が、何かを得ても、それは失われたものに対する裏切りではないのだと、そう誰かに言ってもらえたような気がして、心が安堵した。

 イアンが泣いていたので、しばらくラファエルと、互いの軍の状況や、ヴェネトについての印象などを話していた。そのうちに感情が昂っていたイアンもようやく落ち着いてきたようで、話に加わる。そのうち昼の鐘が駐屯地に鳴り、そうだ寝なきゃいけなかったんだなと彼らは思い出す。

「俺らが寝てるうちはお前が街を見回っとけよラファ」

「なんでよ」

 ラファエルが笑っている。

「お前は昨日の夜だって普通に寝とったやろが」

「俺も帰ってお昼寝する。イアン君。君、俺が夜どのくらい勤勉に働いてるか知らないね?」

「腹立つわ! この野郎! フェルディナント、絶対こいつにヘマさせたろうな!」

「今『二国が手を携えてフランスを窮地に追いやる作戦』発動したね⁉ っていうかもう恥ずかしげもなく大声ではっきり宣言したね⁉」

 ラファエルを無視して、イアンが部屋を出ていく時に振り返る。

「夜勤明けに、邪魔して悪かったな。また連絡するわ。お前よぉ街に出とるんやろ。美味い店でも今度教えてや。一緒に飲も。あ、勤務外でな!」

 士官学校時代も頑として任務中に羽目を外そうとしなかったフェルディナントを思い出し、イアンがそう付け足すと、彼も笑った。

 イアンはどちらかというと気分で飲んだりしてしまうので、その頃随分飲め、いや飲まないで喧嘩をした。今では笑えるような、可愛いケンカに過ぎなかったが。

 フェルディナントも小さく笑い、「ああ」と頷く。

「そや。近いうち街案内してくれへんか? いつも港から近道して駐屯地戻ろう思て迷子なるねん」

「いいぞ。俺は大体、頭の中には叩き込んだ」

 イアンが口笛を吹く。

「さすがやな。おまえは偉い」

 んじゃな! 手を上げ、廊下を去って行った。

「じゃあ俺も戻るけど。あいつの説明じゃ、俺のすごさがいまいち伝わんなかったと思うけど、俺はスゴイから仲良くしといた方がいいな、って思ってた方が君の為…………」

 だよ、と言葉を結ぼうとして、ラファエルはフェルディナントの肩越しへ視線を向けた。

 相手の視線がずれて、フェルディナントも気づいた。

 窓辺に飾った一枚の絵。

 許可もしていないのに、ラファエル・イーシャは勝手に部屋に入って来た。

 絵を間近で覗き込む。

「――この絵……」

 贈ってもらったネーリの絵だ。

 朝日の中の干潟を描いたものである。

 執務室にはこういったものを置かない傾向のあるフェルディナントなのだが、何かと心労絶えないヴェネトでの勤務になりそうなので、側に置くことにしたのだ。今は執務室に飾っているが、動かしやすい大きさの絵なので、フェルディナントは律儀に仕事が終わり、隣の私室に戻る時は、絵を連れて戻るようにしている。私室ではベッドの側の棚に飾るのだ。色々なことを考えてしまう夜に、この絵が側にあると、不思議と心が落ち着いて眠れるからである。

「……その絵がどうかしたか?」

 まじまじ、とラファエルが見ているのでさすがに声を掛けた。

「いや……。俺は、もっと派手な感じの絵の方が好みなんだけど。……この絵はいいね。素朴だけど、美しい」

 ラファエルの第一印象がなんだか五月蝿い奴だな、という感じであまり良くなかったフェルディナントだが、絵を誉められて少し心が和らいだ。

「ああ……。そうなんだ。俺もそう思って……あまりこういうものを手元に置くことは無いんだが」

 食い入るように見ていたラファエルは、屈めていた長身を元に戻す。手を顎に添えて、少し考えるような仕草を見せた。

「いや。俺はそれなりに絵を見る目はあるって思ってるけど。――すごくいいね。ヴェネツィアが映ってる。外からの絵だ。この朝靄の隙間に見える海の青……。素晴らしい」

 指で辿るようにして、そう言った。

「これを描いた画家の名が知りたいな。他にどんな絵を描いてるのか知りたい。ヴェネトの画家? アトリエを訪ねてみたいな。どこかの貴族お抱えの画家なんだろうか?」

 ああ、と言おうとして一番最初、軍人の自分の素性を、一瞬だけだったがネーリが警戒するような素振りを見せたことを思い出した。

(……言い訳かな)

 あの教会は、自分とネーリ二人だけが知っている場所にしたいなんていうのは。

「いや……そういうのではないと聞いたが。すまない、彼は幾つかアトリエを持っているらしく、はっきりとした拠点は分からないんだ」

 ラファエルは特にフェルディナントの話を変だとは思わなかったようだ。

「そうなのか。へぇ……芸術はフランスが一番だって思ってたけど。ヴェネトにも腕のいい画家がいるね。俺たち、短い赴任にはならなそうだろ? だから使わせてもらってる迎賓館にも好みの絵を飾りたいなって思ってたんだよ。まだ気晴らしを見つけられてなくて。

でもこんな画家がそのへんに転がってるなら、期待出来そうだね。ありがとう。いい絵を見せてもらったよ」

「いや……」

 ラファエルが歩き出す。

「戦するしか能がないのかと思ってたけど。さすがの審美眼だね、フェルディナント将軍」

 部屋を出ていく時に肩越しに振り返って、フッ、と笑みを見せた。

 フェルディナントは扉を閉めると、絵の側に戻った。

 海と空の狭間。

 光が優しく広がる。

 ……ネーリの顔も、こんな風に優しいのだろうか、とそんな風に考えて、フェルディナントは頬に熱を感じた。額を押さえる。

 目を閉じると、数時間前の出来事が鮮やかに脳裏に蘇った。



 首筋に唇を感じて、さすがに両肩を跳ねさせたネーリが驚いた表情で自分を見上げてきて、心の奥を曝け出すほど瞳は無垢な驚きに見開かれていて、どこまでも覗き込めるのに、そこにフェルディナントを否定するようなものが一つもなくて、嬉しさで――もう、唇を奪ってしまいたかったのに、寸前で聖堂の鐘が鳴って、ハッと一瞬、他人の身体に許しもなく触れるという罪と、自分が向き合わされているような気持ちになった。

 自分の理性と、そうでないものの、深い谷底を覗き込んでるみたいだ。

 子供の頃から、骨の髄まで叩き込まれて来た、騎士道精神が、鎖のように自分の四肢を縛る。身動き出来なくなったその時、自分の瞳が、繋がったままの自分とネーリの手を捉えて、じゃあこの手を放して、二度と会いに来ない覚悟などが、自分に出来るのかと思ったら呆気なく答えは出ていた。

 ネーリの唇を指先で押さえると、自分の指越しに、唇を押し付けていた。

 深い谷底も、

 四肢を縛る鎖も、

 そんなものは存在しなかった。

 単なる幻想だ。

 偽りのない思いがあれば、自ずと答えは出る。

 ネーリの頬が染まって、本当に薔薇色に見えた。フェルディナントは唇を放すと、立ち上がり、別れも言わずに足早に教会を後にしていた。あれ以上あそこに留まったら、ついにはあそこが聖堂だとか神の家だとか、そんなこともどうでも良くなりそうな自分を強く自覚したのだ。

 しかも、心底、喜んで堕ちて行きそうな自分が。


「……ネーリ……」


 光の干潟に眠る、水の都ヴェネツィア。

 フェルディナントは彼を少しでも近くに感じたくて、絵に額を触れさせた。



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