第3話
「【夏至祭】で蝋燭を乗せた小さなこういう玩具の船を水路に浮かべるんだよ。それにこういう紙を被せると、色が綺麗でしょ」
「そうなのか」
「神聖ローマ帝国では【夏至祭】ではそういうことしないの?」
「そうだな……特には……。町々や村では色々してるんだろうけど」
「そうなんだ」
ネーリは糊を使って、器用に子供たちが描いた紙を丸めたり四角にしたりしてやっている。受け取った子供たちがはしゃいでいる。無邪気なその様子に、さすがに表情が緩んだ。
「……ここはいつ来ても子供が無邪気に遊んでていいな」
確かに、ここはヴェネト王宮を最南に、円形に広がるように構成される街の、北の外れに位置する。歓楽街がある旧市街は西側にに広がっているが、反対側なので、比較的静かなのだ。連日多発した殺人事件もほとんどが西側で起こっている。
「フレディ、ちょっと疲れてるように見える。……大丈夫?」
深く溜息をついたフェルディナントに気付いて、ネーリが手を止めた。
「いや。平気だ。今日はたまたま……街で夜警の任務についてたから。これから帰って寝る。数時間寝れば大丈夫だ」
「大変だね」
ネーリが心配そうに自分の方を見て、気遣うような優しい声でそう言ってくれた。
フェルディナントは小さく笑む。単純かもしれないが、単純でもいい。今ので本当に少し元気が出た。
「……ありがとう。でもここに来て少し安心した。西側の市街で事件が立て続けに起こってて。けど、ここは平穏そうだ」
ネーリは頷きながら微笑む。
「ここは昔から全然街並みが変わってないんだ。だからご近所さんもみんな顔見知りで、知らない人いたらすぐ分かるんだよ。昼間お父さんやお母さんが働きに出てる家の子は、教会に集まれば、神父様や街の誰かが面倒見てくれる。教会っていうより、この辺りの人の休憩所って感じなんだ。ここは。厳かで立派な教会も好きだけど。ぼくこの教会のこういう空気が好きで」
神聖ローマ帝国の教会は、特にフェルディナントが出入りしていたような所は、もっと厳格に出入りを規制している。教会は子供の遊び場などではなかったから、教会に子供がいる景色は、彼にとっては実は非常に珍しいと感じるものだった。
「俺も幼い頃から、習慣で教会には出入りしてたけど、もっと厳かな所ばかりだった。子供がはしゃぐと、むしろ大人たちに睨まれるような……」
ネーリの黄柱石の瞳が、フェルディナントの話を優しい瞳で聞いてくれている。
「いや、……俺も襟元締めて長時間行う礼拝は苦手だから……こういう空気は落ち着くよ。教会に、……君の絵が飾られてる雰囲気も好きだ」
一日一日、会うたびに、まるで恋をしてるみたいだ、と思う。
一番最初の出会い方は、かなり事故だったので、ネーリの方にも若干の戸惑いのようなものがあったが、それが今はない。自分が会いに来ると目を輝かせて迎えてくれる。自分を呼んでくれる彼の声が来るたびに優しくなっているように聞こえて、嬉しかった。
「ありがとう」
丁度鐘が鳴った。
朝ごはんだー! と子供たちがはしゃいで出ていく。
ネーリは「ネーリ、またねーっ!」と出ていく子供たちに、椅子に頬杖をつきながら笑って手を振る。
「ここでは教会の鐘が、朝ごはんの合図」
そうなのか。フェルディナントも笑った。
「西側の事件のこと、神父様もちょっと言ってたよ。フレディ、新しい守備隊を作ってる途中なんだよね? その待機場所に、グラッシ教会がなってるって。黒い軍服のひと、僕も見かけた。あれって神聖ローマ帝国の竜騎兵団のひとなの?」
「うん。そうなんだ……」
「警邏隊はどうなったの? この数日突然警邏隊の人を見なくなったって街の人が言ってた」
「みんな不安がってるか?」
「う……ん……、不安がってるというか……不思議がってる感じ。ほらみんな今【夏至祭】の準備で忙しいから……」
彼は軽く笑ってそう言ったが、じっ……、とフェルディナントが天青石の瞳で自分の方を見ていることに気付き、笑みが消えた。
「そ……」
「そ?」
何かを言おうとしているネーリを見極めようとして、真剣な表情で彼を見ていたフェルディナントは突然目の前が真っ暗になった。ネーリがフェルディナントの瞼を軽く両手で押さえたのだ。
「ん……何するんだネーリ」
「そんなに近くで真剣な目で見つめちゃダメだよ」
軽く首を振るようにして手から逃れると、そんな風に言われてフェルディナントは赤面した。
「べ、別に見つめたわけじゃない……見てただけだ。今真剣な話をしてたんだぞ俺は……」
「分かってる。ごめん、フレディの瞳の色って間近で見るとやっぱりすごい迫力だよ。
吸い込まれるみたいに感じる」
「……べつに、普通の水色だ。そ、それに……、吸い込まれるみたいだというなら、……その……、お前の瞳の方が……その、」
「普通じゃないよ」
「普通の薄い水色だよ。もっと宝石のような美しい青い目の人間だっているし……」
「そんなことない」
今、近くで見つめるなと言ったばかりなのに、ネーリは両腕に軽く顎を預けると、鼻先で微笑んで来る。
「いつも調合しながら色んな青色を見てるもの。フレディの瞳の色も描いてみたけど本当に難しい。これって色にならないの。僕ひとの瞳を見るの好きなんだ。じっと瞳の奥まで見てると、本当に同じ瞳を持ってる人なんて一人もいない。それにね、僕がそう感じるだけかもしれないけど、人の瞳と宝石が違うのは、そこに感情が宿ること。感情にも色があるんだよ。怒ったり、喜んだりすると濃い色になったり、安心してると薄い色合いに見えたりするの。フレディの瞳って、最初から薄い色だから、すごく周囲の色を吸い込んで色が変わって見える。だからかな。不思議な瞳の色してる人だな、って一番最初に会った時から思ってた」
一番最初に会った時……と自然と、深夜の薄暗いランプの明かりの中で、一糸纏わぬ姿をしていたネーリを思い出してしまい、顔面が火を噴くように熱くなった。
「でも……わっ!」
今度はネーリの目の前が真っ暗になる。
フェルディナントが今度は手の平で彼の瞼を軽く押さえたのだ。
「真っ暗だよー フレディー」
ネーリが明るく笑っている。
まったく、子供みたいな人だ。
それでも、美しい楽園のような絵を描き、柔らかな、優しい言葉を話す。
(本当に、今まで会ったことのない人間だ)
……なんて魅力的なんだろう。
その、彼が。
今王都で多発している、事件になど絶対巻き込まれて欲しくなかった。
「……。ネーリ」
フェルディナントはゆっくりと立ち上がった。
ネーリは座ったまま彼を見上げる。
(そう、フレディの瞳が一番きれいだなって思う時は)
神聖ローマ帝国の将校だけど、笑ったり怒ったり、彼は表情豊かだ。そのたびに瞳の色も色々と変わっている。
でもこの時。
年齢とか、異国とか関係なく、彼が軍人という立場をただ一つ背負って、使命を果たそうと集中している時に見せる瞳が、一番綺麗だと思う。
いつもはあまり、自分からは触れたくないような素振りを見せることが多いのに、時々呆気なく触れて来ることがある。守護職としての使命に徹した時は、触れることへの恐れなど、掻き消える。彼は生粋の軍人なのだ。
「俺は他所の人間だ。まだ着任して間もないし、この国の事情は分からないことの方が多い。でも、引き受けたからには使命を果たしたいんだ。俺が守護職に着いた街で、お前やあの子供たちを、悲惨な事件には絶対巻き込みたくない」
ネーリの手を握り締める。
「もし何か、俺に話してもいいということがあるなら、教えてくれ」
彼は俯いた。
「うん……。そうだね……、フレディが新しい守備隊を作るんだもんね。ぼく、分かるよ。君は……。……あなたは、力のない民衆を苛めるような人じゃない……。」
俯いたまま、ネーリは尋ねた。
「この数日、警邏隊の姿見えないけど、彼らをそうさせたのは……フレディ?」
「そうだ。事件の概要を追ってると、どうも警邏隊の連中があの仮面の襲撃者に狙われてる節があるんだ。だから、これ以上事件を起こさないために一度警邏隊の活動は中止させた」
「そう……。」
彼にはそこまでの権限が与えられているのだ。
神聖ローマ帝国、フランス、スペイン。
この三国の軍をネーリは見かけた。彼らは王宮にも出入りしていて、多分王家の人間が呼び寄せたのだろうけど、詳しいことは分からない。
【シビュラの塔】……。
重く、その姿が頭にチラつく。
「ネーリ」
俯いて目を閉じていたネーリはゆっくりと瞳を開いた。
立ち上がって見下ろしていたフェルディナントがもう一度、教会の床に膝をつくようにして、しゃがみ込んで、俯く彼の顔を覗き込んでいる。
「ここでの話は決して口外しないし――何があってもお前のことは俺が守る。」
天青石の瞳が真っ直ぐに自分を見つめて来る。
「……フレディ……」
「約束する。……いいな?」
数秒押し黙ったが、こくん、と小さく頷いた。
「全ての人がそうって言うわけじゃないけど……少し前から街の警邏隊が変なんだ。前は……警邏隊の人たちも、こういう教会に来て、街の人と一緒に祈ってたんだよ。勤務中でも、祈る時は特別だって一緒に……。でも、数年前から警邏隊の人達がすごく暴力的になって来た。教会に訪れる人は、みんな裕福な人ばかりじゃない。迷って来る人もいる。雨を凌ぎに来る、そんな理由だっていいんだ。教会は誰も拒んだりしない。……なのに、そういう人たちが教会に入ろうとすると、暴力を振るって追い払ったり……歓楽街でも、今、店に警邏隊の制服がいると、街の人は入りたがらなくなってる。あの子たち、親になんて言われてるか知ってる?」
まだ外で、楽しそうに飛び跳ねている子供たちを見やって、ネーリは言った。
「『警邏隊の制服にだけは絶対に近づくな』って」
「……いつからそういう風になったのか、はっきりと分かるか?」
「はっきりとは……でも三年前くらいからだと思う」
「その頃ヴェネト王国で何かあった?」
「分からないけど、思い当たるのは……今の王様が病気で臥せったのがそのくらいだと思う」
フェルディナントは息を飲んだ。
そして、【シビュラの塔】が火を噴いた。
「ネーリ。お前の身を危険に晒したくないから、詳しくは言えないが……俺たちも街のことは探ってる。警邏隊は貴族に雇われてる私兵団のように今は動いてるようなんだ。罪を犯した警邏隊を問い詰めても、この貴族に辿り着かない。俺はヴェネトの貴族のことはまだ分からないから……」
「……【青のスクオーラ】……」
ネーリが小さく呟いた。
「……ヴェネトの格の高い貴族を知りたいなら、
「それは……」
「王様が病で倒れてるから、特別な王家の補佐役として、選ばれた六つの大貴族がいるんだ。……今のヴェネトは一つの国じゃない。小さな力の集合体なんだ」
ネーリがフェルディナントの頬を両手で包んだ。
「――でも!」
思わず息を飲む。
いつも大らかに微笑んでいるネーリが、こんな必死な表情をしているのは初めて見る。
「絶対に無理はしないで、フレディ……、警邏隊の人が街からいなくなれば、このまま街は平穏に戻るかもしれない。フレディが……新しい守備隊の人達が着任してくれれば、それで全てが済むかもしれない。それならそうして。何かを暴いて欲しいんじゃない。君が危険な目に遭うなら、何もしてほしくないんだ」
「ネーリ……」
「約束して。【青のスクオーラ】の名前も、安易に口に出しちゃ絶対ダメだよ。あれは陰の組織なんだ。……命を大切にして」
何故、ヴェネツィアの町はずれにアトリエを持つ画家である彼が、そんな情報を知っているのかは気になった。聞きたかったが、あまりにネーリが不安げな表情でそんな風に言って来るから、フェルディナントは安心させてやりたくて――手を伸ばしていた。
ネーリ・バルネチアの身体を両腕で抱き寄せる。
「……心配しなくていい。無理に踏み込んだりはしない。ただ街が平和になって欲しいだけだ。警邏隊は絶対に解散させる。街にはフランスとスペインの軍も護衛団を連れてきて着任してる。場合によっては三国で街の守りを強化するよ」
フェルディナントの腕に抱かれたまま、ネーリは彼の肩に頬を預けた。
「その二つの国の船も港で見かけた。……みんなは誰に呼ばれてここに来たの……?」
「……。……誰だろうな」
本当に、それは的を射た問いだ。
誰が、何のために自分たちをこの地に呼んだのか。
あの忌まわしい【シビュラの塔】なのか。
王宮に咲く悪の華か。
それとも別の……何かなのか。
ネーリを抱く腕に力を込める。
(でも例えどれだとしたって、俺は……)
この地に来たことを後悔なんてしない。
(お前に会えたから)
込み上げる思いをどうにかしたくて、フェルディナントは自分の肩に頬を預け、目を閉じているネーリの首筋に唇を押し付けていた。
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