アレの迎え方

山野エル

アレの迎え方

「30過ぎたら来る・・よ」


 何の前触れもなく上司の風間にそう言われて、影山草司は「はあ?」と思ってしまった。

 ついさっきまで、再雇用の田中が備品の在庫チェックをしないことを遠回しに責めていたはずだったのだ。


「来るって何がですか」


 影山の同期、朽木美桜が半笑いで応じると、向かい側の席で香水のにおいを漂わせる柿谷が鼻を鳴らす。


「色々来る・・のよ」


 そんなことも知らないの? と言いたげだ。


 はっきり言って、淀んでいる。職場の雰囲気のことだ。


 影山はその淀みの元凶が再雇用の田中だと思っている。ググれば分かる。「再雇用」と打ち込めば、サジェストで「みじめ」と出てくるのだから。

 性懲りもなく凄まじい加齢臭を漂わせて「あ、忘れた」と「そうだったっけ?」を駆使して、仕事量を調整しているように見える。


「君たちもね、備えておいた方がいいよ」


 風間がヘラヘラと笑いながら影山と朽木に指を突きつける。


「そうそう、突然来る・・のよ」


 若作りするのを諦めきれていない空気をありありと見せつける柿谷が、こういう時だけは先輩面をする。



***



「転職しようっかなぁ……」


 駅への道すがら、朽木がため息をついた。影山は意外そうに彼女をまじまじと見つめる。


「向上心あるなぁ」


「影山は我慢できるの? 面倒な仕事ばっかり押しつけられて、上は詰まってるんだよ」


「大学の友達が転職活動してて、結構メンタルやられてんだよ。そういうの見てると、現状に甘んじてた方が賢いんじゃねえかと思って……」


「柿谷さんの香水のニオイでイライラしてくるんだよね。そのくせ、お昼に餃子とか食べてくるんだよ。なんのニオイを発したいんだよってイライラすんだよね」


「イライラするポイント独特すぎるだろ……」


「ウチの会社ってなんか……くすんでない?」


「淀んでる感じはするな」


 朽木は顔を引きつらせる。


「やだなぁ……、私、来月30なんだけど」


 同じ誕生月の影山はピンと来ていないようだった。


「30過ぎたらって話、まだ気にしてんの?」


「諸先輩方を見たら分かるでしょ。絶対やばいことになるんだよ……」


 険しい顔でそう言う朽木と改札を通り抜けて、影山は笑って手を振る。


「明日の飲み会、バックレんなよ」


「…………分かってる」


「すげえ嫌な間があったんだけど」



***



 月の最後の週末に定期開催される総務部懇親会──。


 朽木もバックレることなくその席に肩を並べていた。


 居酒屋に行く時間が迫ると妙に元気が出る再雇用の田中が、いつもならちんたらやるルーティン業務を倍の速度で終わらせたことによって、20時にはジョッキをぶつけ合うことになった。


「旦那がうるさいから、一杯だけね」


 柿谷が言い訳がましくビールを胃の中に流し込むと、風間がニコニコと面々を眺める。


 影山にとって、この飲み会のメリットは会社から月5000円支給される社内交流費で一食分を浮かせられることだけだ。


 まわりでは学生らしい集団が盛り上がっているというのに、刺し盛りと梅水晶とひじきの煮物が並ぶこちらのテーブルでは、柿谷が辛気臭い顔をしている。


「いつもブスッとしてね、まともな会話なんてないわけよ」


 旦那のことらしい。しかも、一杯だけという話だったのに、三杯目の冷酒を傾けている。


 かと思えば、


「やっぱり、事前に社内メールで提出書類を明記しておく方が提出率がね──」


 と風間が仕事の話を持ち出してくる。


 再雇用の田中といえば、ピストン輸送かというレベルで席を立っている。実際、膀胱の中の液体を便器に運んでいるので、ピストン輸送といえばピストン輸送である。


 ちなみに、“再雇用の田中”というのが、影山の中での田中のあだ名みたいなものだった。たまに、田中を呼ぶときに「さ──」と口を突いて出てしまう。


 風間は記憶喪失ばりに、何度も口にしたことをさも大金言かのように口にする。


「君たちもそのうち分かるよ。年齢重ねるとね、世界が変わるからね」


 結局、飲み会の話題はそこに落ち着いてしまう。だから、影山も朽木もこの飲み会に気が乗らないのだった。


 ところが、今日の朽木はひと味違った。


「そんなネガティブなマウント取られても悔しくないです」


 そう言って、空になったジョッキをテーブルに打ちつけた。


「マウントじゃないのよ~、みんな経験するのよ、これが。30になる前に来た・・りもするのよ」


「30過ぎたら来るんでしょ。前倒しされてるじゃないですか」


 朽木は職場を去るのをいいことに、ここでバトルを仕掛けているのかもしれない──影山はそう考えて、仲裁役を買って出た。


「まあまあ、俺らには分からないことがあるんだよ」


 朽木がギロッと睨みつける。


「なに? いつもグチグチ文句言ってるクセに理解あるフリしてさぁ~!」


 再雇用の田中が笑っている。


「元気ハツラツだねぇ」


 朽木はイラっとして再雇用の田中を指さす。


「リポビタンDみたいなこと言ってないで、田中さんは仕事ちゃんとしてくださいよ!」


 影山は諸先輩方と顔を見合わせる。


「それ……オロナミンCじゃね? アルファベット一個先行っちゃったよ」


「うるさい!」


 柿谷がカラカラと笑う。


「30過ぎるともっとひどくなるわよ~!」


 遠くで、ズシン、と何かが音を立てた気がして、影山は周囲を見回した。


 客たちは思い思いに振る舞っていて、異変があったようには見えない。


「こういうこと話してると、早めに来るんだよ。僕が君たちくらいの時もそうだったからね」


 風間が昔を懐かしむように目を細める。朽木は歯軋りをして詰め寄る。


「だーかーらー、何が来るっていうんですか!」


 柿谷が人差し指を口に押し当てる。


「ねえ、待って、聞こえない……?」


「はあ? 何がですか?」


 影山は再びまわりを見回す。再雇用の田中が重いまぶたをショボショボさせて船を漕ぐ以外は何も変化はない。


 風間が店の入口の方へ顔を向ける。


「ああ……、早めに来た・・みたいだね」


 ガラス張りの入口の向こう、繁華街の道の真ん中に、黒い塊のようなものが蠢いていた。



***



 ふと気づけば、店内から客の姿がそっくり消え去っていた。


「え……? なに、これ?」


 風間が立ち上がって、ネクタイを緩める。


「備えてる人にはね、あれ・・が見えるんだよ」


「なんなの……あれ……」


 道の真ん中に羽後メルタールの塊のようなものが店の入り口にぶつかる。無数の手が伸びて、ガラス窓を叩き始める。


「ひっ……!」


 狼狽える朽木をよそに、柿谷も立ち上がる。


「懐かしいわねぇ。初めて見てから何年経ったのかしらねぇ」


 そう言って、どこからともなく奇妙な形をしたライフルを取り出して肩に担いだ。


「え? え……?! ええっ……!?」


 慌てふためく影山の前に風間が手を伸ばす。その手には、禍々しい形の刀が握られていた。


「さあ、戦うんだ」


「いやいやいや、なんなんすか、これぇ!!」


 その時、蠢く黒い化物が店のガラス窓を破って入り込んできた。


 銃声がして、柿谷のライフルが放った弾丸が化物に風穴を開ける。


「ギャアアアアアア!!」


 黒い化物が悲鳴を上げる。しかし、すぐに穴は塞がっていく。


 柿谷はもう一丁のライフルを朽木に差し出した。


「だから、来る・・って言ったでしょ」


「あんなのが来るなんて聞いてないですよ!!」


 うめき声を上げて、化物が迫って来る。風間が床を蹴って禍々しい刀を横一閃すると、化物が上下に両断される。


 苦悶の叫びを上げる化物を背に、風間が笑う。


「30過ぎるとね、みんなあれと戦うものなんだよ。君たちも今のうちに慣れておいた方がいい」


 こんな騒がしいというのに、再雇用の田中はテーブルに突っ伏していびきをかいている。


 化物から触手が伸びる。柿谷が叫んだ。


「あの触手に気をつけて!」


 朽木が構える暇もなく、勢いよく伸びた黒い腕が彼女を弾き飛ばす。


「おい、朽木!」


 ただの同期だったはずの彼女が今では戦友に変貌していた。


 影山は朽木のそばに駆け寄る。見たところ、朽木には怪我はないようだった。だが、その表情は暗く沈んでいる。


「おい、どうしたんだよ!」


「ああ……、シワとかたるみとか気づかないフリしてきたけど、メイクのノリとかが変わってきて、年取ったんだなぁって事実を突きつけられるんだよね……」


「なに言ってんだ、急に……?!」


 柿谷が化物に弾丸を撃ち込んで、影山たちを振り返る。


「あの触手に触れると、年齢を感じてしまうのよ」


「なんだその設定!」


 朽木がため息をつく


「いつの間にか明るい色の服も捨てちゃってんだよねぇ……」


「おい、しっかりしろ!」


 影山が朽木の頬をビンタする。朽木がハッとして我に返る。


「え、今、私のこと殴った?」


「殴ってない、殴ってない」


 柿谷が化物を指さす。


「さあ、朽木さん、あれをやっつけるのよ!」


 朽木は訳が分からないと言うように逡巡している。その隙をついて、化物の口のようなところから黒い液体が吐き出された。


 その飛沫が影山に降りかかる。


「あっ……!」


 途端に、影山も死んだ表情を浮かべる。


「いつの間にか活躍してるサッカー選手がだいたい年下になってんだよなぁ……。それに比べて、俺は何やってんだって感じだ」


「影山……」朽木は深刻そうに同期の顔を覗き込む。「あんた、サッカー好きだったんだ……」


 柿谷はずっこけそうになる。


「そんなことより、影山くんを我に返らせて!」


 朽木が迷いなくテーブルの上から余ったジョッキの中身を影山の顔面にぶちまけると、影山がハッと目を見開く。


「おい、ビショビショじゃねえか……」


「私じゃない」


「ジョッキ持ってんじゃねえか!」


 風間が手を叩く。


「仲間割れはそれまでにしよう。奴をるよ」


 交通費精算しといて、と言うようにして風間が刀を構える。


「30過ぎたらみんなこんなことしてんですか……?」


 風間が笑う。


「これが大人ってやつだよ」


「ハードすぎるでしょ……」


 嘆く朽木の視界の中で、化物が黒い霧のようなものを撒き散らしていた。柿谷が叫ぶ。


「あ、まずい! こいつ、何年振りかのやつ・・・・・・・・よ……!」


「なんだよ、そのざっくりとした名前……」


 黒い霧が店内を漂う。


 朽木がボソリと言う。


「若い子がいる時に好きなアーティスト言うの、ちょっとためらうんだよね……。知らないみたいな顔されるとそれなりに傷つくもんね……」


「なんだ、そのピンポイントな年齢感じる瞬間あるある……」


 朽木に喝を入れる影山の隣で、風間がふらついている。


「老々介護って言葉が頭をよぎるようになったんだよね、このところ……」


「悩みがリアルすぎる……」


 向こうでは、柿谷が暗い表情を見せている。


「ちょっとしたことでイライラして、これが更年期障害なのかもって今なら思うけど、そのうちそんなことすら感じなくなるのかもしれないわね……」


 朽木が悪寒を感じて自分の両肩を抱く。


「めちゃくちゃ怖いこと言ってる……。私たちの比じゃない……」


 彼女の隣で、影山が諦めたように肩を落としている。


「俺らもダメなのかもしれないな……。気づいたらさ、無難な選択をしてるんだよ。人生に波風立てたくないっていうか……」


「しっかりしてよ、影山!」


「マンションの上の階の外国人が毎晩ハッスルするようになったし……」


「それは年齢関係あるの……?!」


 触手が伸びて来て朽木を殴りつける。


「ああ……、私も声かけられてナンパだと思ったら、お尻にトイレットペーパー挟んだまま街歩いてたってことがあったなぁ……」


 柿谷が自分を奮い立たせて立ち上がる。


「朽木さん、それはただおっちょこちょいなだけ……! 奴に惑わされないで!」


 化物が動きを速めて、店内を駆け巡る。


 その黒い身体からは無数の触手が爆発するように飛び出して、手当たり次第に総務部の面々を苛めていく。


 影山たちはなんとか厨房の方に逃げ込んで態勢を整えようとした。


「待って、田中さんが……」


 テーブルに突っ伏していた再雇用の田中がゆっくりと立ち上がって化物を見つめている。


「さ──田中さん、危ないからこっちに来て!」


 影山が叫ぶ。


 黒い触手が鋭く老体に押し寄せた。


 しかし、田中は身体をよろめかせて、襲い掛かる触手をかわしていく。田中は最低限の動きだけで黒い触手を紙一重のところで回避しているのだ。


「か、軽くいなしてやがる……!」


 唖然とする影山の耳に田中ののほほんとした笑い声が届く。


「この歳になるとね、諦めってものがつくんだ」


 余裕綽々の様子で厨房を振り返る田中の背後から黒い化物が飛び掛かる。


「田中さん、後ろ、後ろ!」


 田中がお辞儀をしたかと思うと、黒い化物が壁に投げつけられていた。


「あ、合気道……?!」


「老いを感じるのにもだいぶ慣れてきたねぇ」


 超然として佇む田中に、影山は圧倒されていた。


「つ、つええ……」


 武器も持たずに、そして、激しく動くでもなく黒い化物をボコボコにする田中の姿は影山の目に光り輝いて見えた。


 黒い化物は見る見るうちにしぼんでいく。


「さあ、止めを刺すんだ」


 田中がそう言って、総務部の面々は迫りくる黒い化物へと武器を向けるのだった。



***



「田中さん、アレ・・、どんな状況ですか?」


 影山が曖昧にそう尋ねると、再雇用の田中はOKサインを返してきた。どうやらアレ・・で通じているらしい。


 あれから職場の雰囲気は少し良くなったように影山は感じていた。


 もうそろそろ昼休みが終わる。


 朽木と柿谷が席に戻って来る。香水に餃子が混じったニオイが影山のところに微かに漂ってきた。


 マッサージ棒で肩をグリグリとやりながら、風間が口を開いた。


「さ、午後も頑張ろうか」

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