ある夜に見つけた

あいすらん

第1話

 坂上広告代理店総務部フロアの朝は、次々に吐き出される紙の音やコーヒーを淹れる音、パソコンのキーを叩く音など、さまざまな音に満ちている。

 その全てが、二日酔いの頭にズキズキとささり、


(うう……辛い……)


 こめかみに指先をつけながら、私、福田麗香ふくだれいかは深いため息をついた。


 昨日はとんでもない1日だった。

 会社でとてつもなく嫌な事があり、高校時代の友人が経営しているバーでくだを巻いていたら、偶然そこに同期の山下タケル《やましたたける》がやってきて。


 お互い1人だったから一緒に飲み始めて、気がつけばホテルで目が覚めた。

 逃げるようにしてその場を立ち去ったけど、どうしてそうなったのか全く思い出せない。


 まさか同期とワンナイトなんて。

 職場の男とは絶対、深い関係にならない。

 そう心に決めていたのに。


 ピロピロとスマホがメッセージの通知を告げる。

 見るとタケルからだった。


『お昼休み、屋上で話そう』


 名前を見ただけでドキンとしたのに……。

 文字を見ると、もう心臓が止まりそうだ。


 昨日の事は忘れよう。

 きっとそう言われるのだろう。

 あの天使みたいに綺麗な顔で。引導を告げられるのだ。


 わざわざ釘を刺さなくてもタケルが知らんぷりするなら、わざわざ蒸し返したりしないのに……。


「わかった」


 覚悟を決めて返信を打つ。

 もやもや解消のために他の男とホテルに行くなんて……自分が最低な女だってこと、改めて自覚しながら。


 ◇


 屋上に行くと、タケルは先に来ていた。

 手すりギリギリのところにいて、ビル群を眺める後ろ姿が、まるで一枚の絵みたいに様になっている。


 私に気づいたらしく振り返る。

 180を超えるスラリとしたモデル体型は、ごく普通のスーツをハイブランドに見せている。

 高い鼻、切れ長の目、薄く形のいい唇。どこから見てもいい男だ。

 同期の中でも1番人気。仕事もできるし頼りになる。

 特別仲良し、ってほどでもなかったけど、悪い印象は全然なかった。

 そんな彼と今後は微妙な関係になってしまうんだなあ……。


「あの、昨日はごめん……」

「パン買ってきた。食べようぜ」


 謝罪の言葉は彼の声にかき消された。

 見ると手に紙包みを持っている。


「え? 私と?」

「そ。ほら、好きだろ。アンジェルのパン」

「そりゃ、好きだけど……」


 意外すぎて、馬鹿みたいに口をぽかんと開けてしまう。

 口止めされてお互いちょっと謝って、さっさと解散。

 そんな想像をしていたのに……。


 居心地悪いなあと思いながら、手すりの下のコンクリートの突起に腰掛ける。

 彼の腕が触れた。

 距離が近い?

 なんで?

 心臓がドキドキしてしまう。


「あのね……昨日は……」

「部長に言えた?」

「え?」


 またしても言葉が被った。

 とっとと謝ってしまいたいのに……。

 え? 部長?


「計算ミスは自分のせいじゃないって事。あなたのせいなのに、濡れ衣被せないでくださいって言ってやるーって昨日言ってたろ」

「ああ、そうね……いや、言わないわ……部長がパワハラ気質なのはみんな知ってるし……私だけじゃないもの」

「我慢しすぎると良くないぞ。まあ、俺でよかったらいつでも愚痴きくから」

「……ありがとう」


 これは一体どういう事だろう?

 私の頭の中には疑問符がいくつも浮かび上がっていた。

 そりゃ、昨日私は君に、散々部長の愚痴を言いました。

 君は根気強く聞いてくれてたよね。だから私も気持ちよく酔ってしまったんだと思うの。


 でもその後大事件があったじゃない。

 普通、部長のことなんて忘れるでしょ。

 ちなみに私はそうだったわよ。

 そんなこと、どうでもいい出来事として、棚上げされました。


「ねえ、タケル。パン、すごくおいしい。ありがとう。そしてごめん。昨日のこと」


 私は改めて切り出した。


「ん? なんで謝んの?」

「君をお持ち帰りしちゃったことよ……あ、ホテル代は払うから」


 そう言うとタケルは苦笑した。


「普通、お持ち帰りって言ったら俺の方だろ……てか、別に謝らなくても。何もしてないんだし」


 そう。彼は紳士だった。

 私がベッドでぐーぐー寝ている間、彼はソファで寝ていたのだ。


「最悪な気分だったのに、君が慰めてくれたから……楽になれたわ……だからと言ってホテルに誘うなんて……最低だったと思ってるの。だからもう気を使わないで……忘れてください」

「そうはいくかよ」


 と、手を取られて握り込まれた。

 とくん、と心臓が大きく跳ねる。


「バカだなあ……君は……つけ込まれたのも知らないで……」

「え?」

「誘ったのは俺だ……もっと君の可愛い愚痴を聞いていたくて」

「えっと……」

「君が暗い顔してるのも、常連の店に向かうのも想像できてた。もちろん、最初から誘う気なんてなかったよ……でも君は鈍感だからなあ。ただ普通に飲んだだけじゃ、ただのいい人で終わっちまうだろ? だから結果オーライだったと思ってる」


 ちょっと待って。

 一体彼は何を言ってるの?


 さっきから騒がしかった心臓が、さらに速度をはやめていた。


「ここから始めよう。な。もっと俺を知って……そして好きになって欲しい」


 私は彼の目をマジマジと見た。

 真剣そのものな瞳の中に、不安げな私が映っている。


 そして唐突に思い出した。

 昨日の夜のこと。


 ◇


「部長の横暴は前からだからなあ。ストレスためると良くないぞ。俺の姉貴、それで体壊したから。無理すんなよ」

「……それは別にいいのよ……」

「良くないって」

「ほら。麗香。タケル君も言ってるじゃない。あんた頑張りすぎなののよ」


 カウンターの向こう側からバーのママである友人花江が口を挟む。

 ちょっとだけ前からタケルはこの店に来ていたらしく、2人は仲が良さそうだった。


「仕事を頼まれるのは嬉しいのよ……頼られてるんだなあと思えて自己肯定感があがるわ。でもね……だからってね……ミスまで押し付けられるのはどうかと思うなあ……!!」


 ああ、また腹が立ってきた。


「おかわりちょーだい」


 酔いで甘ったるくなった声で私は花江に言う。


「はいはい。薄くしといたから」


 花江は心得た感じでカクテルを差し出す。ちびちびと啜りながら私は自嘲気味に呟いた。


「本当はわかってるの……1番悪いのは私だって。だって、言い返せてないんだもの……苦笑いで許して……そりゃ相手も増長するよね……」


 今日はたまたま同期がいたから、思わず愚痴ってしまったけど、こんな事誰にも相談しないし。

 1人で抱えて1人で不満を膨らませて。情けないなあ。

 もっと竹を割った人間になりたかった。

 例えば、タケルみたいに。


「君はなんでもストレートに言うよね。上司にでも」

「間違ったことをそのまんまにしとくと気持ち悪いからな」

「しかも全然嫌味がないのよね……偉いなあ。私も見習いたい……」


 ぽんぽん、と頭を叩かれる。

 見ると、タケルはなんて言うか、とても慈愛に満ちた目をしていた。


「福田はさ。優しいんだよ」

「えっ?!」

「優しいからさ、人に恥をかかせたくないんだよ。ほんのちょっとくらいなら自分が泥をかぶればいい。あんなパワハラ親父にすらそう思ってるんだろ?」


 私は慌てた。

 ちょっとくらいは、そう言うところもあると思うけど……!

 確かに人があわあわしたりバツが悪そうな顔をしてるの見るのは苦手だけど……。

 でもでも、当然それだけじゃなくて……。


「それは良く見過ぎ! 私なんて、ただの同調圧力に負けがちな気弱なダメダメOLで……!」

「あはは」

「何がおかしいのー?!」


 酔いが回ってきたせいか、私は彼の表情の変化がどんな感情をあらわしているのか、さっぱり読めなくなってしまった。


「君の人の良さにつけ込んで、搾取する奴らは多いんだろうな……でもさ、その不器用さ、俺はすごく好きだよ」


 好き……?


 ポッ、と胸に桃色の火がともった気がした。

 わけもなく胸がドキドキして……見慣れたタケルの綺麗な顔がさらに光り輝いて見える。


 そんなつもりの言葉じゃないのに、何を私ったら意識してるの……。

 恥ずかしくてたまらなくなって、さらに私はアルコールを煽った。


 ◇


 なんだ。

 前半は部長のせいだけど後半は君のせいで酔っちゃったんだ。


 記憶がないから確実とは言えないんだけど、もしかしたら私も、君ともっと長くいたかったから、ホテルにのこのこついてったのかもね。


「というわけで、今日、早速デートしようか。行きたいとこある? ないなら俺が決めるけど、どう?」


 タケルが言う。

 好きになって欲しい、と言うけれど返事を急かさない優しさや、次の予定をサクサク決めていく強引さに戸惑いを覚える。

 タケルってこんな人だったんだ。


 でも、ちっとも嫌じゃない。

 もっと知りたい。彼のこと。


 頭の中には行きたい場所のいくつかが浮かんでいて……。

 新しい扉が開かれようとしてた。

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