第4話
夕暮れの中、教会を訪れると、ネーリが絵を描いていた。
今まですれ違うことが多すぎて、ここに来た時に彼はいないと思うことが、当たり前のようになっていた。いつものように祈りを捧げ、絵を見ようと奥の部屋に行くと、キャンバスの前に座って、描いていたのだ。
(あ……)
思わず、開いた扉のところで、立ち止まっていた。
聖職の質素な作業着。
服も、暑さを凌ぐために剥き出しになった彼の四肢も、色に汚れている。
絵の前では、絵に全ての意識を集中させる。
美しい体勢など構っていられない。
大きなキャンバスの下に色を塗っているので、左足を大きく開いて、右足は折りたたんで椅子の上で組み、背中を丸め、低い体勢でずっと描き込んでいる。
何も身にまとわないで絵の海の中、毛布一枚に包まって眠っていたあどけない姿とは、今は全く違う。
そういえば、フェルディナントもよく、王宮にいる時と戦場にいる時では雰囲気が一変すると言われることがある。それは命をやり取りする戦場と、優雅に踊っていれば面目を保てる王宮の夜会では、どっちが必死に集中するかなど、分かり切った話だ。
(そうか。画家にとってはあの場所が、戦場なんだな)
ネーリが集中しているのが伝わって来たので、フェルディナントは声は掛けなかった。
十分ほど彼が描いているのを眺めて帰ろうと思ったのだが、何本もの筆を、左の手の指の間に挟んで、筆を洗う時は側に置かれた、螺旋状の筒型オブジェに、まるで芸術作品のように階段のように並べられた段差に張られた水に順に筆を浸していく仕草や、鞄に並べられた色とりどりの小瓶から色を取り出して、調合している真剣な横顔なども、絵を描かないフェルディナントにとっては全てが新鮮で、興味深くて、あと十分だけ……を繰り返しているうちに瞬く間に時間が過ぎてしまった。
今日は午前中のうちに修練を終え、兵たちにも午後から明日一日休みを与える日だったので、身体は空いていたのだが、少し街を見て帰る、と補佐官には言って出て来たので、生真面目な副官と自分の愛竜は遅いなー……と思っているだろうな、などと絵が思い浮かんでしまった。
にゃーん……。
フェルディナントは遠慮していたというのに、するりと部屋に入って行った白猫が、絵の具の小瓶に興味を持って近づいたのにネーリが気付き、慌てて抱き上げた。
「あぶないあぶない。折角真っ白で可愛いのに絵の具が付いちゃうからね」
ネーリは筆を水の中に入れると、猫を片手で抱えたまま、他の自由な四肢を伸ばして伸びをした。思い切り背を反らして伸びたものだから、簡易的な椅子がぐら、とバランスを崩し、彼は座った体勢のまま仰向けに大転倒しそうになった。
ギョッとしたフェルディナントが慌てて部屋に飛び込んで、床まで後頭部がニ十センチくらいになりかけたネーリの背に、寸前で手を滑り込ませて窮地を救った。
「フレディ?」
仰向けのまま、驚きに目を丸くしたネーリがフェルディナントを見上げて来る。
「……大丈夫か?」
彼が何とか無事だったので、とりあえず深い溜息をついた。
「ありがとう」
数秒後、自分の状況が理解出来たネーリがくすくす笑って、そう言った。
「わ、笑うなよ。本当に慌てたんだから」
「違うよ。フレディを笑ったんじゃない。自分を笑ったの。今の完全に後頭部強打してたなーって。この椅子ガタガタしてるからよくやるんだー」
「笑い事じゃない。危なかったぞ今」
「だね」
椅子は立て直せなくて、カタン……と結局倒れたが、フェルディナントはそのままネーリの身体は助け起こしてやった。
「ありがとう、フレディ」
ネーリは微笑んだ。
「あ、ああ。」
フェルディナントは彼に出会うまで、こんな素晴らしい絵を描く人物はどんな人なのだろうかと、随分長い間一人で人物像を想像していた。その結果、きっと知的で落ち着いた、若さを弱点に思わせない、大人びた人なんだろうと勝手にイメージしたわけだが、実際会ったネーリ・バルネチアは、フェルディナントの想像したどの人物像とも違った。
イメージと違ったが、失望などは一つも無く、
彼の真実の姿をイメージ出来なかったことが、要するに自分が、芸術を理解する素質に見放された証なのだろうと思ってしまう。いざこうしてネーリを前にすると、一撃で理解出来たからだ。
彼にはまさに、あの絵を描いた人だと思う、魅力があった。
瞳の輝きも、
よく人に笑いかける時の笑顔も、
時間を忘れて描くことに集中する姿。
こういう人間に、フェルディナントは会ったことがない。
芸術をとことん排除して生きてきた報いなのだろうか、芸術家というものがみんなこんなに魅力的なのか、彼だけが特別にそうなのか、判断が出来ない。それでも王宮に出入りはしていたし、彼は貴族だ。知り合いにも貴族が多く、芸術家を庇護したり、自ら絵を描かせてるような人々もいた。夜会などでお抱えの音楽家や芸術家を紹介されたことは絶対あるのに、顔も名前も覚えていない。ただ、どんなことを話していたか、とそれを思い出そうとしたのに、全然内容に興味が持てず、面白くも無かったことだけ何となく覚えているから、きっとこれは――ネーリだけの特徴なのだと彼は思うことにした。
「また会えたね」
立ち上がって、ネーリは笑った。
邪魔ではなかったようだと思い、フェルディナントは少し安心した。
「今来たの?」
色で汚れている両の手の平を見せてから、部屋の奥に洗いに行った。
「……少し前だけど、集中してるみたいだったから」
「なんだ。気にしないで声掛けてくれて構わないのに」
本当は少し前どころか随分前だったけれど、ずっと見てるなんて変な奴と思われたくなかったので黙っておく。
ネーリが戻って来た。
「フレディはどの絵が気に入ってるの?」
「え?」
「神父様がいつも見に来てるって言ってたから。なんか好きな絵があるのかなって」
「おれは……、いや、特別何が目的で来てるわけじゃないんだ。あ、いや……その、どれでもいいってわけじゃなくて。……ここにある絵はどれも好きだ。こんな風に言われると……気が多い奴のように思われたくないんだが……、」
上手く言えない。
全部いいなんて子供みたいな感想だ。
芸術が分かる男なら、もっと気の利いた誉め方が出来るのだろうか。
くそ。剣技とか戦術ならいいとか悪いとか、もっと的確に見極めれるのに。
全然上手く感動を伝えられない。
フェルディナントはもどかしかったが、芸術家は気難しいとも言うから、場合によってはつまらなそうな顔をされてもおかしくないのに、ネーリはそんなフェルディナントを優しい眼差しで見てくれていた。
別にそう言われたわけじゃないのに、まるで「分かってるから大丈夫だよ」と言われてるみたいだ。ちゃんと伝わってるよ、と。
「……どの景色もとても綺麗だ。庭園の緑と、海の青と。あと……この干潟の景色……神父が、ネーリの住まいから見える景色だと言ってたが」
「うん。そうなの。ぼくの家の前がこの景色だよ」
ネーリが一枚の絵を取った。
干潟の絵はこれだけじゃない。たくさんある。
「大好きなんだ」
干潟の景色の奥に、水上都市がうっすらと映り込んでいる。
「この水上都市は……ヴェネツィア、だよな……?」
「うん。そうだよ」
これが家の前の景色なら、王都ヴェネツィアの対面側にあるということだ。
ヴェネトは南北に干潟が伸びていて、三日月のような陸地がある。
神聖ローマ帝国の駐屯地も北の外れだ。
そういえば確かにこういう風に市街が前方に見える。とすると、駐屯地からそんなに離れていない場所だ。
ネーリがどこで暮らしているのか全く分からなかったので、思ったより近いところに住んでるのかもしれないと思って、フェルディナントは嬉しかった。
色んな景色。
こんな美しい世界。
彼は他の街でまた描きたくなるモチーフを見つけて夢中で描き始めたら、きっとここで一瞬会った自分のことなんかすぐ忘れてしまうのだろう。
「君は……他の街にもよく行くのか?」
「ぼく? ううん。僕はずっとヴェネト暮らしだよ」
「えっ」
「他の国には行ったことない。行ってみたい気はするけど、旅に出ようかなって準備すると、この国離れるのが急に寂しくなってやめちゃうんだ。昔から、ずっとその繰り返し」
フェルディナントは部屋中の絵を思わず見回した。
「でも……、これ全部ヴェネトではないだろ?」
「うん。ヴェネトの景色も多いけどね。それ以外は僕がイメージして描いた場所だよ」
「じゃあ、実在しない場所なのか?」
驚いた。まるで写実したような、絵なのに。
「じゃ、……あの、大きい庭園の絵も?」
フェルディナントが指差すと、ネーリが頷く。
「エデンの園だね。そうだよ。あれは空想の場所。頭に思い描くんだよ。この世界で一番綺麗で、安心出来て、行ってみたいところを」
確かに、あれはそういう絵だ。
美しい場所。
でも、何か居心地が良さそうで、心惹かれる。
行ってみたいとフェルディナントも思った。
何の目印もなく、見本もなく、あんな絵を描けるのか。
「……あの、フレディ……どうかした?」
思わず「どういう頭の中をしてるんだろうこの人は」の顔でネーリの顔を間近でまじまじと眺めてしまった。
「あっ! ご、ごめん!」
ネーリは吹き出した。
「ううん。いいんだよー。突然鼻先で見つめて来るからどうしたのかと思ったよ。フレディの目ってやっぱりすごい色してる。ドキドキしちゃった」
彼は笑いながら、もう一度干潟の絵を見た。
「別にそんなことないんだろうけど、ヴェネトを離れようとすると、いつも思うんだ。 なんとなく……『今離れたら、二度ともうヴェネトには来れなくなる気がする』って。もう二度とこの景色を見れなくなるかもしれない、そう思ったら寂しくて、怖くなるんだ」
フェルディナントは自分の意志で【エルスタル王国】から離れた。父が母を見捨てるなら、自分が母と共に行って守ってやらなければと思った。だから後悔はないけれど。
……もし、いずれ消滅することが分かっていたら、あの土地から自分は離れなかっただろうか?
エルスタルの名を継いで、あの国の記憶と共に生きていけるかと思ったが、亡国の名を継いだ途端感じたのは猛烈な孤独だった。
自分だけがその名に生きている。
もう誰も共には生きてくれない。
感じたことがあるフェルディナントは、そう言ったネーリの気持ちが少しだけ分かる気がした。
「そんなことはない」
ネーリは振り返る。
「別にここを離れても、君が戻りたいと願えばいつだって戻って来れる。ヴェネトはここにあるんだから」
ヘリオドールの瞳を瞬かせてから、彼は微笑んだ。
ありがとう。
「ここにある絵はどれも好きだって言ってくれたよね」
「え? うん……」
「なら、これ、フレディにあげる」
美しい朝の干潟の絵を差し出して来る。
「えっ。で、でもこんな大事なものを」
「いいんだよー。僕がここにいない時もいっぱい絵を見に来てくれたって神父様に聞いたんだ。嬉しかったから。君にあげるよ。贈りたいんだ。受け取って」
フェルディナントは、ここの絵は価値のあるものだと思った。
貴族が買えば立派な値が付くはずだ。
そんなに道端で摘んだ花のようにプレゼントなどしてはダメなものだと思ったが、あまりにネーリが澄んだ瞳で笑いかけて来るから、差し出された絵を受け取る。
そうだ。もし本国に帰ることがあったら、この絵を皇帝に見せればいい。皇帝は芸術を見る目を持つ人だから、きっとこの絵を見れば「これを描いた画家に会ってみたい」と言ってくれるはずだ。そうすれば神聖ローマ帝国の宮廷にネーリを招くことも出来る。
絶対にそうしよう、とフェルディナントは決めた。
「……本当にいいのか?」
念のため、もう一度聞いた。
キャンバスの前に座る画家が戦場の騎士なら、彼らにとって生み出した絵は、きっと騎士の剣や、命を預ける武具や愛馬ほどの価値があるものだろう。簡単に手放せるものではないはずだ。だがネーリは嬉しそうに微笑んだ。
「勿論だよー。フレディが僕の絵を持ってくれてると思ったら嬉しいもの」
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