第2話
「ラファエル」
額を撫でられ、目が覚めた。
「目、覚めた?」
「んー……うん……、」
「相変わらず寝起きが悪いわね」
くすくす、と笑っている。
「ちがうよ……一晩中波の音が気になって……眠れなかった……」
「あら。やることやったら自分だけ気持ち良さそうに寝ちゃったくせに」
女が紅茶を淹れている。かぐわしい花の香りがして来た。
一瞬、波の音を忘れるような気分になり、安心した。
身じろいで、うつ伏せになり、目を閉じる。
幼い頃の夢を見ていた。
とても幸せな夢だ。
もう少し、見ていたかった。
うつ伏せになり、また柔らかな枕に埋もれて微笑んだまま目を閉じている金髪の貴公子に、女はくすくすと微笑う。
「ラファエルってば、貴方はホントにヴェネトに来ても全然変わらないのね」
「んー?」
「私なんて、ヴェネト王太子が来月十六歳になって、花嫁探しをするらしいからって今からお父様の言いつけでここに来たのよ。こんな野蛮な国」
「野蛮?」
「【シビュラの塔】」
「ああ……」
「お母様なんて泣いて喧嘩してたわ。貴方は可愛い娘を、あんな化け物を他国にけしかけるような悪魔の所に嫁がせる気か! って。そんなに強くお父様に言う人じゃないのに、大げんか。でも結局、そういうことを言われてここに来てる女の子たちは多いのよ。いくらなんでも王太子の実家は消滅させないでしょ? だから、何としてでもヴェネト王国の世継ぎの王子の心を射止めなきゃいけないんだって」
「女の子は大変だねぇ……というかそんな大層な使命を背負ってここに来た君が、俺とこんな風に遊んだりしてていいの?」
いじわる! と花瓶の花を一本抜き放ち、彼女は投げつけて来た。
「ラファエルってば本当に暢気なんだから。貴方のお父様もよりによってなんで貴方を使節団に選んだのかしら。どう考えても戦向きの人じゃないのに……」
「逆さまじゃないかな? 今、本国にいたってイングランド戦線のことを考えなきゃいけない。僕がいたって全く役に立たないと思うよ。その点、ヴェネト王国での任務は夜会に出て、件の冷酷非情な王妃様に気に入られることが最優先。
夜会ならフランス王家の中で僕が実力随一さ。
王妃の愛人の実家だってきっと消滅させられないと思うんだけどどうかな?」
ぶふ! と令嬢らしからぬ吹き出し方をしてしまって、彼女は「紅茶を飲んでる時に笑わせないで」と注意した。それから立ち上がり、折角すでに支度を整えたのに、まだベッドで寝ているラファエルの裸の背に、もたれかかって来る。
「……でも、貴方のそういう大らかな所って、わたし好きよ。
なんか安心するのよね。毒気も抜かれるっていうか。その瞳のせいかしら。……ねえラファエル、貴方は怖くないの? あの王宮にいる人たちは…………恐ろしいことをする人たちよ」
「全然」
「ホントに?」
令嬢は驚いて、ラファエルの顔を覗き込む。
「ぜーんぜん。まあ他国を三つ一瞬で消滅させといて説明もないとかは、いい度胸してるねえとは思うけどね」
「私は怖いわ。あんな恐ろしい力を持ってるんですもの」
「大丈夫だよ。なんとかなるさ」
「貴方って昔から全然その性格変わってないのねえ。特別秀才ってわけでもないし、特別武術に秀でてるわけでもないのに。それでも貴方って、現われるとその場の空気を独占しちゃうのよね。本当に不思議な才能だわ」
「僕は芸術の女神様に愛されているから」
本当に、こっちの心を蕩けさせるような笑顔で、彼は微笑った。
◇ ◇ ◇
『ラファエル』
また夜会があった。
嫌だと思ったが、もしかしたらまたあの子に会えるかもしれないと思って、いつものようにひとりぼっちにされると、庭の方に出て彼の姿を探した。見つからなかったので、急に孤独が悲しくなる。涙が零れそうだった目を擦っていると、頭上から声が掛かった。
ジィナイースが二階のテラスからこちらを覗き込んでいる。
「ジィナイース」
「また会えたね。君が今日もいるかなあって探してたんだ」
そっちに行くよ。
自分を探してくれる人がいるなんて、ラファエルは思いもしなかった。
嬉しくて、うんと頷くと、身を乗り出したジィナイースがいきなり飛んだ。
確かに、ここは庭園の外周通路だから、普通の二階よりは下が近い。
それでも二階だ。
「わあああああああ!」
人が宙に舞って、ラファエルは声を上げた。
しかし、くるんっ! と上空で一回りして、少年は見事に地面に着地した。
「じじじじジィナイースっ!」
顔を真っ赤にしてラファエルが慌てていると、ジィナイースは何事もなかったかのように歩いて来た。
「どうしたのラファエル?」
「……きみ、可愛い顔してるけど随分無茶をするんだね……」
「? おじいちゃんのお家ではもっと高い所から飛び降りてるよー。下が綺麗な池だから、飛び込むととても気持ちいいの」
そうだ、とジィナイースが手に持っていた筒から、紙を取り出す。
「君に見せたかったんだ」
なんだろう、と思って丸まっていた紙を開いてみると、ラファエルは驚いた。
そこに、自分がいた。
「これ……ぼく?」
ジィナイースが微笑った。
「この前、君とお別れした後どうしても描きたくなって描いたんだ。君の瞳の色がなかなか上手く出せなくて、何枚も描き直したけど、これは気に入ったから君に見せたかったの」
ラファエルはもう一度、描かれた自分を見る。
自分だと、分かる。
それくらい、上手だった。ジィナイースはどう見たってまだ子供だけれど、これは子供の描く絵じゃない。ラファエルは芸術にはそんなに詳しくないけれど、家が裕福だから、日々価値のある芸術は、嫌でも目に触れる環境で生きてきた。
だから、分かる。
これは芸術家の絵だ。
絵の中の少年は、本当に不思議な明るい青い瞳をしていて、整った造作をしていて、魅力的な子供だった。ラファエルは自分をそんな風に思ったことはないし、他人からそんな風に誉められたこともない。
でも、絵の中に描かれた少年が誰を描いたかは分かる。
それくらい自分に酷似していたからだ。
「気に入ってくれた?」
はっ、とする。
言葉が出なくて、こくこく、と大きく頷いた。
「よかった。じゃあ、それは君にプレゼントする。受け取って」
「えっ、い、いいの?」
「だって君を描いたんだもの」
ジィナイースは歩き出す。
美しい薔薇の花の香りに、顔を近づける。
「ぼく、綺麗なものを見ると、すごく感動するの。感動すると、その気持ちを表現したくて、絵に描きたくなる。自分一人で、部屋の中でじっとしてても、絵は描きたくなれないんだ。だからぼくに綺麗だと思わせてくれる物にも、人にも、他の色んなものにも感謝するんだよ。だからラファエルにも感謝してるんだ」
感謝だって。
彼の為に、べつに何にもしてあげてないのに。
ジィナイースが薔薇の花に手を伸ばした。
「だめだよ! 棘で怪我する!」
慌てて駆け寄ると、ジィナイースはすでに、白い薔薇を摘んでしまった。
「大丈夫だよラファエル。この薔薇は花の周りには棘がない種類だから」
ほんとうだ。
大慌てした自分を恥じて、ラファエルは真っ赤になる。
「ご、ごめん。こんなに素敵な絵を描く君の手が傷ついたら、大変だと思って……」
そんな風に言った少年に、ジィナイースは目をぱちぱちとさせたあと、柔らかい表情で微笑んだ。
「ありがとう。優しいんだね」
一瞬、頬にジィナイースの唇が触れた。
彼は摘んだ白い薔薇をラファエルにくれた。夜会で花をもらったことなんて、人生で初めてだった。
「ねえ、君はこの前も庭にいたよね? 庭が好きなら、今度僕のおじいちゃんの家に来て。
とても綺麗な庭があるんだよ。きっと君も気に入ってくれるはずだから……」
ラファエルの手を握って、ジィナイースは歩き出した。
――その日から。
自分の人生は一変したのだ。
少年時代の、ごく短い間のことだったけど。
(あの時が、人生で一番幸せだった)
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