第6話 UNREST

ここで生活し始めて、はや二年が経過した。僕は数々の仕事をこなし、この生活にもすっかり慣れきっていた。人生のピークが更新され続けているような感覚だ。しかし気がかりがないといえば、嘘になる。近頃、テセウスは体をどんどんサイバネティック器肢に置き換えていっている。両手両足に加え、背中や臓器までも代替している。それだけなら、僕も構わない。問題は彼女の人格が変質してきているということだ。食の好みや趣味が、サイバネティック=オーガニズム施術を受ける前後で大きく変化する。さらには人間味が薄くなり、合理性を重視するようになったように思う。平たく言えば、冷たくなったのだ。人間ならば誰しも変わる。そんな言葉では片付けられないほど、彼女の変化は大きかった。そのことを強く感じた1日をここに記したいと思う。


僕はカウンターに腰をおろしていた。ここでブラッドオレンジジュースを飲むのが毎日の習慣になってしまった。鼻から抜ける芳醇な香りと、木製テーブルの雰囲気が僕が二年前までの自分とは違うことを痛感させた。僕もまた変わったのだ。

今日は仕事の依頼がない。そんな日は決まって、テセウスがどこかに出かける。そして傷だらけになって帰って来る。何をしていたのか聞いても、適当にはぐらかされるのが常だ。

グラスを几帳面に拭き上げるソフィストが視界に入る。隣のラックには一つとして同じ形のないグラスが寸分の狂いもなく並べられていた。彼の趣味なのだろう。

「...悪いな。二年も居候させてもらって。」

「仕事が円滑に進むなら、大歓迎です。win-winと言えるでしょう。」

なんとなく気になって、彼に質問した。

「あなたとテセウスは、どんな関係なんだ?」

「端的に答えれば、あなたと同じ仕事の関係です。私が仕事を斡旋し、彼女がこなす。」

入口に目を向ける。今日は一日中雨。既に夜の十一時になろうとしていた。僕は彼の纏う独特の雰囲気に流され、思わず悩みを吐露していた。

「...テセウスは...前と違っているように思える。」

「人は誰しも変わりゆくものです。」

彼はかなりの長命者だ。達観していて、掴み所がなく、不思議な感覚になる。

「体をどんどん機械に置き換えている。彼女が彼女で無くなっていくのが...僕は怖い。」

「...そうですね。では、私の質問に心のなかで答えてみてください。」

思ってもみなかった返答に困惑しつつも、僕は静かに頷いた。


「体のすべてが機械に置き換わったとき、それは本人と言えますか。」

僕は、言えないと思った。機械は機械だ。人間にはなり得ない。そう結論付けたとき、彼は心を読んだかのように補足した。

「ここで、人間は約6年ですべての細胞が入れ替わることに留意しておいてください。」

途端に僕は、よく分からなくなった。

「次に、心臓だけ機械に置き換わったときは。」

僕は迷ったが、本人と言えると判断した。

「では、脳だけ機械に置き換わったときは。」

どうだろう。思考がうまくまとまらない。ぼやけた輪郭を掴もうとして手を伸ばすも、霧散していく。ジュースを口に含み、目をつぶった。

「最後に、何が本人を本人たらしめると思いますか。」

僕は熟考した。どれくらい時間が経っただろう。秒針と雨粒の音がやけに大きく聞こえる。答えが出たとき、それは思わず僕の口から飛び出てしまった。

「記憶...だと思う。本人自身の。」

彼は意味深に頷くと、言った。

「イデアの支配者であるNRの創始者、ステファン=モルダーブランはこう私達に問いました。無機質は夢を見るのか。今の時代において、チップこそが本人たらしめると言われています。」

「じゃあ...僕は。」

「幽霊、と言えるでしょう。」

僕はそれを聞いたとき、この二年で忘れかけていた疎外感が再び蘇った。様々な考えが脳裏で泳いでいる。潜ったり、溺れたり。

「イカロスはどう思う。」

「お前とジジィの会話はつまらないと思ったね。」

相変わらず、性根の曲がったやつだ。だが最近付き合い方が分かってきて、意外と気が合う。数刻立った後、彼はおもむろに答えた。

「...強いて言えば、俺だ。俺が覚えてればそれでいい。」

真面目に答える彼があまりに珍しくて、僕は思わずからかった。

「?」

「っ、例えばよ、この不死身のおじさんが認知症になって、全部忘れたとする。したら、こいつはお前にとって別人になるのか?」

彼なりに僕を励ましているのだろう。なんだかむず痒くて、適当に返事をした。


すると、ドアが開く音が聞こえ、雨が地面を跳ねる音が大きくなった。そこには右腕のサイバネティック器肢を酷く損傷したテセウスが立っていた。呼吸が荒い。損傷は確実に銃創だった。雨水や冷却水、潤滑油の混じった液体が床に滴り落ちる。

「...テクニカを読んでおきます。」

ソフィストが言う。彼女は感謝の意を伝え、椅子にもたれかかった。僕に気づいたようだ。

「ごめんね心配させて。大丈夫だから。」

そう言って無表情に僕の頭を撫で、部屋に戻っていった。行きつけのタコスも食べなくなったし、笑うことも滅多になくなった。ぴかりと外が一瞬明るくなる。数秒後に雷が遠くで鳴り響いた。


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