第8話 7,ランドセルの夢

鎌倉の小さなアパートに住んでいた頃、私が幼稚園の年長さんの冬を迎えた時だったか、母に、行き付けない場所に連れて行かれた事がある。




割と毎週の様に、休日には家族で横浜に繰り出し、高島屋デパートでウインドウショッピングをした後、地下街でクラチの焼きそばを食べて帰る事が多かったから、おそらくその際に見繕ってくれたのだろう、「かっこいいお洋服買おうね。」と母が張り切って私のブラウスとスカートを選んでくれたのを朧気ながら覚えている。




何故、朧気ながらなのかと言えば、気分が乗らなかったのである。襟付きのきっちりした真白いブラウスは、よそよそしい感じがして馴染めないし、合わせる紺の吊りスカートは、ひだがいっぱい付いててはき慣れないし可愛くない。




買ってと言った覚えはないのにどうして買ってくれるんだろう、と不思議だったが、いつも母親に対してしていた様に、嬉しい素振りを無難に見せていた。




普段着に着る代物でもなし、ハンガーにかかったそれらを見ているだけだったが、ある日おもむろに袖を通す事を強いられた。




気心地に慣れずモゾモゾしている私は、次に、初めて会う大人の前に座らされた。




目の前にはテーブルがあり、テーブル越しに、知らない大人が立つか座るかして、何やら色の付いた紙や鉛筆を出して、意味不明な事を私に言った。




テーブルの上で、何色かある様々な形の積み木を動かすという様な話だったが、初めて行く場所で初めて会う人に意味不明な事を言われ、どれをどうしろと言うのか全く分からなかった。




そんな事があった後、母の言う「かっこいいお洋服」はタンスの中に収まり、見る事はなくなったのだが、今度は、母が「かっこいいランドセルだよ!」と目力も強く、プレゼンして来た。




箱に入ったランドセルを、就学を控えた娘の為に買って来てくれたらしかった。




今になって考えると、いつも行っていた横浜の街で、どうして一緒に選ばせてくれなかったのだろう、と不思議になるが、当時は、選ぶと言っても赤か黒かの二色が主流であった。敢えて選ぶとすれば、本革かクラリーノかというところだ。




さて、いつになく饒舌な母のプレゼンを耳にしながら、箱を開けた時の私の顔を、タイムマシーンで過去に戻って是非この目で見てみたい、というのが私の夢なのだが、その時の私は、さぞ目を疑っていた事だろう。母が間違いをしてる、と思っただろうか。いや、いつもママは正しい事をするから、間違ってるのは私の方か?


とにかく最上級にテンパったに違いないのだ。




箱を開けると、黒いランドセルがあった。




最上級に固まっていたと思われる私の前で、母のプレゼンは尚も続けられた。




「ただみんなと一緒で赤いランドセルにしたらつまんないよ。」


「みんなと違ってるのが良いんだよ。女の子が黒いランドセル背負ってるの、かっこいいよ!」




キラキラと異様に光る母の目。いつものママと違う、と肌で感じた気がする。




そりゃあ、女の子が赤、男の子は黒、という決まりがある訳でもなんでもない。


でも私は、他の女の子達と同じ様に、赤いランドセルを背負って学校に行きたかった。


頭は混乱する一方で、自分自身の感情がもはやわからなくなっていた。




い-や-だ!


の三音節を自分が言えるまで、何億光年もかかる気がした。


母の気持ちはちっとも分からなかった。何だか罰を受けている様な感じがしていた。




かっこいいお洋服の時には見せていた無難な嬉しい素振りも、今回はただただ不可能だった。




呑気者で鈍い私が、地元の横浜国大付属小学校に通う児童達の背負っているランドセルが、男女に関わらず全員、黒。という事に気付いたのは、五年も六年も経ってからだった。




母は、プライドが高い人物であったのだろうか。




だとしたら、もう少し私が賢く立ち回る、お受験にも対応出来る子供だったら良かったのに、と口惜しい限りである。


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