第2話: 初めての争い

森を抜けた先に広がっていたのは、小さな村だった。木造の家々がまばらに立ち並び、村人たちが畑仕事をしている。直人は安堵の息をつきながら、村に向かって歩き始めた。


村の広場に差し掛かったところで、何やら騒がしい声が聞こえてきた。数人の村人たちが集まり、二人の男が激しく言い争っている。


「だから言っただろう!この羊は俺のだって!」


「嘘をつけ!俺が見つけたんだから、俺のものだ!」


怒号が飛び交う中、直人は思わず近づいて声をかけた。


「何があったんですか?」


村人たちは一斉に直人を振り返り、しばし沈黙が続いた。ようやく一人の初老の男性が口を開いた。


「この二人が、羊を返すべきかどうかで揉めているんだよ。だけど、どっちの言い分が正しいか分からないんだ。」


状況を整理するため、直人は詳しく話を聞くことにした。


話を聞くと、問題の羊は放牧中に迷子になり、偶然別の男がそれを見つけたのだという。一方、元々羊を飼っていた男は、自分の羊だと主張して譲らない。


「でも、証拠がないんだよ。」初老の男性が困り果てたように言う。「この村にははっきりとしたルールがないから、こういう時どうすればいいか分からない。」


直人は考え込んだ。現代日本の法律であれば、所有権を証明する書類や証拠があれば解決できる。しかし、この世界ではそうした証拠が存在しないばかりか、羊を返すべきかどうかという考え方そのものが曖昧だった。


「つまり、力の強い方が勝つ…そんな世界なのか。」


直人の言葉に、村人たちは頷く。彼らにとって、それが当たり前の現実だった。


「でも簡単です。最初に『所有』していた方が権利を持つのが基本ですからね。」


直人は明るい表情でそう断言したが、その瞬間、村人たちの一部が顔をしかめた。「所有」という言葉が通じていないのかもしれないと思った直人は慌てて補足した。


「あなたがこの羊を元々飼っていた証明ができれば、返してもらうべきことが明確になります。」


その言葉を聞いた男は少し驚いたような顔をした後、思い出したように口を開いた。


「だったら、この羊が俺のものである証拠なんて簡単だ。俺はこの羊に『白い腹毛』があることを覚えている。」


しかし、その言葉に周囲の村人たちは首をかしげた。


「『所有』ってどういう意味なんだ?そんなこと考えたこともないが。」一人の村人が疑問を投げかけた。直人は言葉に詰まりながらも、「つまり…あなたがその羊を元々管理していた、持っていたという意味です」と説明した。だが、それを遮るように別の村人が言った。「白い腹毛?そんな羊、この辺りじゃ珍しくないぞ。」


「おい、勝手なこと言うなよ!」男が激昂するが、他の村人たちは次々に否定的な意見を述べ始めた。


直人は冷静を装いつつ、内心では焦っていた。「証拠が希薄な場合、村人全体の証言が重要だ」と説明しようとしたが、村人たちはその理屈自体に馴染みがなく、次第に不満を募らせていった。


「そんな面倒なことする必要があるのか?」

「結局、力のある方が決めるのが一番手っ取り早いだろう。」


直人が用意した法律の基準そのものが、村人たちには受け入れられにくいことに気付くのは、この後のことだった。


さらに、拾った男が怒りを込めてこう言い放った。


「今この羊は俺の手元にあるんだから、これが俺のものなのは当たり前だろう!」


直人は「所有権を有する者は自己の物を占有する他人に対し返還請求権を行使できる」という民法の原則を基に説明しようとしたが、話が進むほど村人たちの顔に困惑と不満が浮かび始めた。


「それって、俺たちのやり方を否定しているのか?」

「なんで知らない奴のルールに従わなきゃいけないんだ?」


最終的に議論は決裂し、元々の羊の所有者が拾った男に詰め寄る形で、事態は混乱の一途を辿った。


その夜、村の隅で直人は一人、六法全書を開きながら反省していた。


「この世界では、日本の法律をそのまま適用するなんて無理なんだ…。」


彼の目は条文を追いながらも、全く頭に入っていない。現実の問題は、法律知識だけではどうにもならないと痛感していた。


「俺のやり方が甘かったんだ。」


初めての挑戦で、大きな壁にぶつかった直人。彼の心には、無力感と同時に、この世界で新しいアプローチが必要だという認識が芽生え始めていた。


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