第1話: 異世界の目覚め
冷たい土の感触が頬に伝わった。鼻孔をくすぐるのは湿った土と草の匂い。橘直人は、ぼんやりと目を開けた。
「ここは…どこだ?」
視界に映ったのは、見慣れない薄暗い森だった。背の高い木々が彼の頭上で天を覆い、所々から漏れる光が地面にまだら模様を作っている。頭の中は混乱していた。確か、交通事故に遭い、あの時、自分は…。
「死んだはずだ…。」
直人はゆっくりと起き上がった。身体を動かしてみると、不思議と痛みは感じなかった。それどころか、身体の調子は普段よりも軽やかで、怪我どころか擦り傷一つ見当たらない。
ふと、目の前に転がる本が目に留まった。一つは使い込まれた六法全書、もう一つは民法の教科書だった。どちらも予備校の机に置いていたはずのもので、なぜここにあるのか理解できない。
「これも一緒に…転生したのか?」
直人は六法全書を手に取り、ページをめくった。条文がそのまま記されているのを確認し、少しだけ安堵した。異世界に来たらしいこの状況で、これだけは確かなものだと感じられた。
「とりあえず、この森を抜けるしかない。」
本を抱えたまま、直人は慎重に歩き始めた。足元には奇妙な形の植物が生え、木々の間には見たこともない果実がぶら下がっている。自然の豊かさは感じるが、どこか現実感がない。
歩き始めてどれくらい経っただろうか。直人は徐々に疲れを感じ始めていた。その時、近くの茂みから何かが動く音が聞こえた。
「誰かいるのか?」
恐る恐る声をかけると、茂みから姿を現したのは一羽の鳥だった。だが、その鳥はただの鳥ではなかった。全身が透き通るような青い羽で覆われ、目はまるで宝石のように輝いている。そして、次の瞬間、その鳥が口を開いた。
「おや、人間がこんなところに迷い込むなんて珍しいな。」
「えっ、鳥が喋った…?」
直人は驚きのあまり後ずさった。しかし、鳥は気にする様子もなく、木の枝に飛び移ると、面白そうに直人を見下ろした。
「お前、ずいぶん妙な格好をしているな。どこの国の者だ?」
「俺は…日本から来た。いや、正確には…たぶん、ここに『転生』してきたんだと思う。」
自分で言っていても信じがたい言葉だったが、他に説明のしようがなかった。鳥はその言葉に目を丸くし、首をかしげた。
「ふーん。『日本』という国は聞いたことがないが…。まあ、この世界では珍しいことでもないさ。お前みたいなよそ者が来るのは時々あるからな。」
「この世界…?」
直人はその言葉に反応した。
「ここがどんな場所なのか、教えてくれないか?」
鳥は羽をばたつかせて少し飛び回りながら答えた。
「ここは『エルデリア』という大陸だ。この辺りは『アルネスの森』と呼ばれていて、魔物が出る危険地帯でもある。」
「魔物…?」
鳥の説明にますます混乱が深まる直人だったが、鳥はあっけらかんとした調子で続けた。
「この世界では、剣と魔法が主流の時代さ。でも、まあ、それ以外は無法地帯みたいなものだな。国といっても、強い奴が適当に支配しているだけで、秩序なんてあってないようなものだ。」
「秩序がない…?」
直人の胸に、奇妙な違和感と不安が広がった。
「そうだ。例えば、お前がここで何かを持っていたとしても、力のある奴に奪われたらそれで終わりだ。契約書?そんなもん、ここでは紙くずだ。」
鳥の言葉を聞き、直人は頭を抱えた。この世界には法も契約もない。つまり、彼がこれまで積み上げてきた法律の知識や理論は、この世界では何の意味も持たないということだ。
「そんな…俺が今まで学んできたことは、全く役に立たないのか?」
直人は膝をつき、肩を落とした。これまでの努力が無駄になったという喪失感に襲われる。
だが、鳥はそんな彼をじっと見つめ、軽く羽を広げた。
「まあ、そう悲観するなよ。この世界でお前みたいな奴が何をするか、案外興味があるんだ。ここにはルールを作れる奴なんていないからな。」
「ルールを…作る?」
直人はその言葉を繰り返した。鳥の何気ない一言が、彼の心の奥で小さな火を灯した。
「そうだ。この世界で何ができるか、お前次第さ。」
鳥はそう言うと、空高く舞い上がり、森の奥へと飛び去った。
直人は立ち上がり、大きく息を吐いた。混乱と絶望の中でも、彼には一つの希望が見えてきた。
「この世界には秩序がないなら…俺がそれを作ることができるかもしれない。」
再び歩き出した彼の表情には、少しだけ確かな決意が宿っていた。
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