第12話 しばらくリンゴは見たくないかな
”リンゴいかがっすかー?”
二人の間に、ほっかむりをした見るからに怪しいリンゴ売りが割って入った。
「い、いや別に今リンゴは食いたくない」
「まあまあ‥‥」
「うがっ!」
ラクサンティスを突き飛ばした若いリンゴ売りの男の顔を見たスーは、『うっ!』とこけそうになる。
「お兄‥‥」
慌てて言葉を飲み込む。リンゴ売りのアルフレッドがスーの耳に近寄った。
「おいスー‥‥ちょっと近づきすぎじゃないか?‥‥お兄ちゃんちょっと心配」
「そ、そんな事ないよ‥‥だいたいどうしてそんな‥‥」
「おい、何なんだ貴様はっ!」
「へい、リンゴお待ち!」
「もがっ!」
怒ったラクサンティスの口に、アルフレッドは熟れた赤いリンゴを突っ込む。ラクサンティスは目を回してまた倒れた。
「フっ、口ほどにもない奴‥‥スーを口説くには百と五十年ばかり早いわ、うわっはっはっ!」
”まずいぞ、早く取り押さえろ!”
それまで何気なく歩いていた辺りの通行人がワラワラとアルフレッドを押さえて引きずっていく。
”お兄ちゃん、お兄ちゃんはなぁ!‥‥うお お‥‥離せ、離せぇぇぇっ!”
そのまま彼方に消えていく。悲痛な叫びはいつまでも木霊していた。
「‥‥お兄ちゃんの馬鹿‥‥」
その時のスーの心情は、怒るべきか心配してくれた兄の行為に照れるべきか‥‥複雑な所で揺れていた。
「‥‥うぅ‥‥今日は厄日か‥‥二度も目を回すなんて‥‥ぺっぺっ」
リンゴを吐き出したラクサンティスが、どうにか立ち直る。
「そ、それで‥‥返事は?」
「あ、あの‥‥‥‥」
ここまで真摯な態度に、否と答えるのは心苦しかったが、それでも舞台を忠実に再現するという事から、そうせざるをえなかった。問題はどう角を立てずにやんわりと断るかである。
ぎゅっとスーの手を握る。それだけでスーは頭が真っ白になる。カーっと顔を赤らめたスーはベラベラと喋りだす。
「‥‥そんな‥‥私なんて‥‥先月なんか、安かったから、コロッケまとめて買っちゃって、そのせいで三日に一日はコロッケ出しちゃって‥‥それでもお兄ちゃんやケリガンはおいしいって食べてくれてるけど、ほんと貧乏症をなおさないと‥‥それでけちったお金で、ついふらふらと夏物の自分の服買っちゃって‥‥ご、ごめんなさーい」
「‥‥あのー‥‥もしもし?」
両手を掴まれていたスーは、そのまま『きゃー!』と首を横に振る。
「シ、シルル‥‥本当に具合悪くないのか?」
「‥‥えへへへへ‥‥」
「シルル‥‥俺は‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
ラクサンティスがシルルの顔をたスーを見つめたその時、
”リンゴいらんかぁっ!”
「ぐおっ!」
華麗なフットワークでアルフレッドが真下から出現し、手にした真っ赤なグローブ‥‥ではなく、リンゴでラクサンティスを吹き飛ばす。
「‥‥フ‥‥決まった‥‥」
片手を真っ直ぐ伸ばし、身を乗り出して格好をつけたアルフレッドが、砕けたリンゴをシャリシャリと食べ始める。
「もうっ、馬鹿ーっ!」
「ぬおおおおお!」
スーの右ストレートを顔面に喰らったアルフレッドは、再び街の風と供に去っていった。
「はあはあ‥‥だ、大丈夫ですか?」
「‥‥う‥‥む‥‥な、何なんだあれは?」
「さ、さあ、新手のリンゴ押し売りかな」
「そ、そうなのか?、まあいいけど」
パンと埃をはらって立ち上がる。
「それで君の返事は‥‥」
いいかけた後、辺りにゴロゴロという雷に似た音が響く。二人が顔を上に向けた途端、白く濁った空から雨粒がポツポツと落ちてきて、噴水広場の石畳に点状の跡を付け始める。
「すごい‥‥本当に雨を降らすなんて‥‥」
ケリガンの細工に一瞬だけ感心したが、
「あれ?」
よくよく見れば、雲というよりは煙である。高さもかなり低い。怪しいと思って観察してみれば、降ってくる雨の位置にもムラがある事から、雨宿りの場所を探して走っている人々の服はあまり濡れていないのがすぐに分かる。
「何だかなぁ‥‥」
まずいかな‥‥とスーはポリポリとアゴをかく。が、その心配は無用であった。
「あの木の下で雨宿りしよう」
「え?う、うん」
手を引かれてスーは広間脇の大木の下に入る。先ほどまであれほどいた人々の姿は何処にもおらず、役者の人達はその辺を心がけている様だった。
「へくしっ!」
おかげで結構濡れてしまったスーは、猫の様なくしゃみをする。ラクサンティスはスーの肩に自分の上着をかけた。
「大丈夫だよシルル‥‥これはにわか雨さ、すぐにやむ」
「え?」
ばれたか!と、ハっと顔を見つめる。言葉の通り雨は嘘の様に消え去った。
「不思議だと思うかい?‥‥実は今日起こる事を知っているんだ」
「‥‥‥‥‥‥」
「俺は‥‥長い夢を見てた‥‥そこで俺は普通に生活してた‥‥こうして起きていても 俺はまだあれが夢だったとは信じられない‥‥夢で見た事は‥‥俺がこれから体験するはずの未来だったのなら‥‥君の返事もまた同じなのかもしれないな‥‥だけど、俺は違う‥‥」
ラクサンティスは疲れた様に微笑む。
「夢の中の私は何て言ったの?」
「リールが俺を好きだから、彼女と交際してくれないか‥‥とね‥‥シルルは‥‥グラシィール財閥のあの悪名高い老人に養子として望まれてる‥‥そう言った‥‥どうなんだ?」
「‥‥‥‥:」
スーは否定も肯定もしなかったが、驚きも無しに言葉を受け取ったその沈黙は、自然、是の意味に取られた様であった。
「‥‥グラシィール家の金があれば、どんな事でも出来る‥‥しがない煙突掃除には用 はないってね。それを聞いた俺は‥‥怒った。金に負けたんだと思ってね‥‥だから 俺は‥‥怒りに任せて‥‥この街にあるグラシィール家の別邸に火をかけた‥‥そうしたら大火となって町は全部燃えて無くなった‥‥今から考えれば馬鹿な事をしたも だ‥‥あんな事になるなんてな」
「‥‥‥‥」
ようやく理由が分かった。
「でも、怒るのも最もだと思うし‥‥それはもちろん、火をつけたのは悪い事だけど‥‥」
「じゃあ、君は俺に何て答えるつもりだった?」
「そ、それは‥‥:」
「君は優しいコなんだな‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
空には虹がかかっている。それは通りの並木の端と端とを結ぶ程の小さな虹だった。
「シルルも友達の為に、自分を犠牲にして、あえて俺にあんな事を言ったんだ。それに気づかず、突っ走っていたあの頃の俺は子供だったんだ」
ラクサンティスは目を閉じて笑った。スーはただ黙って話に耳を傾ける。
「それを今、こういう場を与えられたおかげで思い知らされた‥‥やられたよ」
「‥‥知って‥‥らしたんですか?」
恐る恐る聞いたが、
「最初はまんまと騙されてたけどね。俺だって今は馬鹿じゃない。話してれば君がシルルで無い事ぐらいはすぐに分かる。だから途中からは騙してたのは俺の方だった」
ラクサンティスは肩をすくめて、さも当然の様にさらりと言い放った。
「じゃあ‥‥あの‥‥それで、あなたは‥‥これからどうするつもりなんですか?」
「俺がラクサンティス本人だという事は、君に話してしまったしね。さてどうするか‥‥ん?」
柱の陰や、民家の中から藍色のズボンに水色のワイシャツという独特の制服を身に纏った警官達が出てきた。ラクサンティスは直立したまま逃げる様子はない。
「スーシェリエさん‥‥ご苦労をおかけした」
デネブ警部が、はちきれそうな腹を見せ、悠々と近づいてきた。
「何だ、またあんたか」
警部の顔を一目見てラクサンティスは顔をしかめる。
「また一段と腹にゼイ肉が付いた様だな。キロ当たりで計算すると豚肉より安そうだが」 軽口に警官達は『HIHII!』と、歯茎を見せて笑いころげた。
「やめんか馬鹿者がっ!」
胡座をかいて、シンバルの様に手を叩き続けている部下の頭を叩いた。
「ったくお前ら本当に国家公務員か‥‥おいフェルナンド‥‥いやラクサンティス‥‥ そんな事を言ってられるのも今のうちだぞ‥‥スーシェリエさん」
「は、はい」
「こいつは自分をラクサンティスだと名乗りましたか?」
「‥‥‥‥‥‥」
聞かれて体をビクっと反応させ両手を握りあわせ、拝む姿で下を向く。
スーは迷っていた。ここで否定すれば彼‥‥ラクサンティスは罪には問われない。本来ならばそんな事を考える必要もない事も分かってはいた。
「‥‥あ‥‥あの‥‥」
じっとたたずむラクサンティスの黒髪の下の眼差しに表情はなく、判断はスーの一言に委ねられる。
「‥‥か、彼は‥‥‥‥」
「彼は?」
デネブ警部が言葉を繰り返す。
「‥‥彼は‥‥‥‥」
ラクサンティスは僅かにうつ向いた。
「彼は‥‥ラクサンティスです‥‥私に何度もそう言ってました」
「ほう!、聞いたがフェルナ‥‥ラクサンティス!‥‥もう逃げられんぞ」
「別に逃げるつもりはないさ。さあ捕まえるなら、とっとと捕まえるんだな」
ワーワーと、取り囲んだ警官達は、後ろ手に手錠をはめた。
「あ、あの‥‥私‥‥すみません」
「君が気負う必要はない。何れはこうなっていたんだ。むしろ今は晴れた気分だ」
ラクサンティスは静かに寂しげな笑みを浮かべる。
「スー‥‥君がどういう人で、シルルとどういう関係にあるのか俺は知らない‥‥だか ら、もしかしたら、こんな事を頼むのはお門違いかもしれないが‥‥」
「‥‥‥‥」
スーは真剣な眼差しに吸い込まれる。
「シルルの事を頼む。シルルはグラシィール財閥の養子になった事で皆の憎しみを一身 に背負った。あれほどまでにかばっていた親友のリールにも見放されたんだ。金に目が眩んだ訳じゃない。全ては兄を探す為だったんだ。それでも今だ見つけられずにいる彼女は、たった一人。あまりにも可愛そうだ」
デネブ警部が綱を引く。ラクサンティスはスーから離された。
”おーい!”
すっかり打ち解けたケリガンとラバンが、連れだってテクテクと歩いてきた。
「お疲れ様です、セントバイヤーさん」
「さっきの会話は、ボクの発明品で録音出来たから、証拠としてばっちりや。ラクサンティスは見つかったし、これで依頼は完了やな」
「うん‥‥そうだね」
楽しげなケリガン達に比べて、スーの顔は暗い。
「どうかしたんですか?」
ラバンが顔を覗き込む。
「‥‥お兄ちゃんは何処?」
「アルフレッドさんなら、そこの納屋の中に‥‥」
「ありがとう!」
聞くが早いか、スー駆け出す。
「お兄ちゃん!」
ガラ‥‥と、教えられた小屋の戸を開けると、
”うーっ!”
干し草の山の向こうに、柱に荒縄でグルグルにくくり付けられたアルフレッドが芋虫の様にもがいていた。
「もう‥‥お兄ちゃん‥‥何やってるの」
半泣きで縄を解く。
「ぷはー! 助かった!‥‥ったく、ラバンの奴、雇い主に向かって何て事を‥‥賃金カットだ!‥‥ん?」
「‥‥‥‥‥‥」
スーはアルフレッドにもたれ掛かって、しくしくと泣き始める。
「スー、どうした! 誰かにいじめられたのか?」
ゴゴ‥‥と、アルフレッドの背後から怒りのオーラが立ち登った。
「‥‥分かんない‥‥分かんないけど、悲しいの‥‥すごく‥‥」
「何だそりゃ?」
スーにきつく抱きしめられたまま、アルフレッドはしきりに首を傾げ、
「そうか、そうか‥‥」
ポンと手の上にリンゴを出してニコと笑う。
「腹が減ってるんだな。ほらリンゴだ!」
「‥‥‥‥‥‥」
「ん? どうしたスー‥‥:これは上等な紅玉だぞ」
「馬鹿ーっ!」
「ぐおばっ!」
スーに吹き飛ばされ、頭から干し草の山に突っ込んだアルフレッドは脚を虫の様に痙攣させる。
「‥‥はあはあ‥‥もう‥‥昔から全然変わってないんだから‥‥」
その時には既に笑い顔に変わっていた。
これをもってV2作戦は静かに終結したのである。
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