恋人探しは無人駅で

高海クロ

本編

 その日、俺は運命に出会った。

 たとえば、桜咲く坂道で、「あんぱん!」と呟く少女を見つけたときのような。

 たとえば、春休み、長い坂の下で白いベレー帽を拾ったときのような。

 往々にして春に訪れるといわれるは、俺の場合、しんしんと雪の降る静かな無人駅に降り立ったのだった。




 十二月二十五日。世間はこの日をクリスマスと称して、やれ恋人たちの季節だのケーキやチキンがどうしただのと、周りの迷惑をかえりみず自分たちが楽しむための免罪符として長年利用してきた。イエスもまさか、自分の降誕記念日をどこの馬の骨ともわからない製菓メーカーや広告代理店の連中に土足で踏み荒らされようとは思ってもいなかったに違いない。恋人がサンタクロースなのはわかったから自慢ならSNSでやれってんだ。少なくとも、俺の目につくところでは控えてもらいたい。

 とまあうらみつらみは野球部男子中学生の食欲よりも無尽蔵にでてくるが、隠してもいずれバレることなので白状すると、実は俺も、先述の例に漏れず今日という日を浮かれ気分で迎えていた人間の一人。重要な箇所に傍点を打っておいたが……この場合の”だった”は、つまるところ”過去形”を意味する。……まあ聞いてくれ。

 よわい十六、高二の冬。俺はラブレターが空想上の存在ではないことを、ある朝自分の下駄箱を開けたときに知ることとなった。

 俺が初めてみたはパステルピンクの封筒にハートのシールで封をされ、女の子然とした丸っこい文字で俺の名前が宛先として記されていた。

 意味もなく人目をはばかった俺は男子トイレの個室に入り、丁寧にシールを剥がして中の便箋を取り出す。封筒と同じパステルピンクの便箋には、この様に書かれていた。

『十二月二十五日の十八時に、遠沢駅前公園で待ってます』


 さて、現在時刻、十二月二十五日十九時三十五分。現在地、遠沢駅前公園。公園内人口、一。周囲に人影──なし。これが意味するところはなんだろう。

 いたずら? 不慮の事故? 勘違い?

 なんでもいい。ここには誰もいない、誰も来ない。俺宛のラブレターを書いた少女は、いない。

 全てがどうでもよくなった俺は、どの方面に向かうのかすらろくに意識せず、適当な切符を買ってタイミングよくホームへやってきた電車に飛び乗った。どこだっていい。行くところまで行ってやるさ。冷えた身体に車両内の暖房が眠気を誘う。いいや、寝ちまおう。どこかの駅に着いたときに自然に目が覚めるだろう。そうしたら、適当に駅前の喫茶店でココアを飲んでそれから──そうだな、ヒトカラでも行ってやろうか。悲しみは雪のように、オツじゃないか。


 俺は車掌に起こされる形で目を覚ました。ここが終点らしい。

『太田駅』。聞いたことがない。電車を降りると、古びた改札が一基、俺を出迎えた。駅員を含め周りには誰もいない。無人駅らしい。自販機の弱々しい明かりが、ぼうっと空に揺蕩たゆたう白い粒に反射して──雪が降っていることに気がついた。

「寒い……」

 中学のときに親戚のおっちゃんにもらったコートのポケットに手を突っ込み、体を縮こまらせた。吐く息は白く、俺の目の前でたちまち霧散した。

 カラオケどころか、コンビニすらなさそうな片田舎の無人駅に一人、そこはかとない不安がこみあげ、俺は数時間前の自分の自棄を恨んだ。スマホを見るともう電池残量は少なく、帰りの電車を待つ時間さえ心許こころもとないほどだった。

 時刻表を見ると、次に遠沢駅までの電車が出るのは二時間後。しばらく時間を潰す必要がありそうだ。

 ポケットから財布を取り出し、自販機で缶ココアを買おうと歩きだす。なんせデートの予定だったんだ。お金は充分にあるからな。

 ──と、その時だった。自販機の陰になって今まで気づかなかったが、どうやら俺の他に人がいることに気が付いた。それも、女の子。

 クリスマスの夜に、誰もいない駅で女の子が一人。何もないとは思えなかった。

 俺は自販機に綺麗にシワを伸ばした千円札を入れ、ホットココアを二本購入した。冷え切った手にホット缶の熱がジンジンと染み渡るのを感じつつ、一本は左手と一緒にコートのポケットへ。もう一本は──

「ほらよ、寒いだろ」

 その少女へ手渡した。

「……ども」

 少女は驚いた様に俺の顔と右手──に握られたホットココア──を見比べて、ほんの僅かに頭を下げた。

 近くにあったベンチに並んで腰掛け、ほぼ同時に缶を開ける。開封前によく振ってくださいという注意書きに、開けてから気付く。最初の一口は、味が薄かった。底に溜まっているのだろうか。

 少女は缶ココアをカイロ代わりにするように両手で包み、自分の口から漏れる白い空気を見つめていた。何に遮られることもなく、自重のままに落ちる雪が吐息と重なったとき、ちょうど保護色のようになって見えなくなるその刹那を、ただ綺麗な瞳で眺めている。

 少女はこちらを向かないまま、その薄ピンクの唇を小さく動かした。

「……カレシにフラれたの」

「聞いてないが」

「あなたに話しかけたわけじゃない」

「……そうか」

 電車は既に走り去っていなくなっている。世界から、俺と彼女の声以外の音が消えてしまったかのように静かだった。

「今日デートの約束だったのに、待ち合わせ場所に来なくてさ。電話したら、『他に好きな子いるから』って言われたの」

 俺は何も答えなかった。俺に話しかけたわけじゃないからだ。でも、他人の独り言をしっかり聞く機会なんてなかなかないから、黙って耳を傾けていた。

「別にクリスマス一人なのも寂しいと思って、告白してきた男子をとりあえずオーケーしただけなんだけどさ。だから手をつないだことも、キスだってしたことないような相手なのに、なんだか悔しくて。自棄やけになって、適当な電車に乗って、そのうち寝ちゃって、気が付いたらここにいた」

 驚いた。俺と全く同じことをしていたやつが他にいたとはな。

「ねえ」

 彼女は、急にこちらに向き直る。つられて俺もそっちに視線を投げると、真剣な面持ちで俺を見つめる彼女と目が合った。大きくて、丸い、綺麗な黒い瞳だった。長いまつげに氷の粒が乗っている。

「それは、俺に話しかけているのか?」

「独り言だと思う?」

「思わないから聞いたんだ」

「ふふ、そっか」

 彼女は少しだけ笑って、足をブラブラさせたかと思うと、すっくと立ちあがった。

「ね、少し付き合ってよ」

 両手を背中の後ろで組んで、彼女は俺を見下ろした。断られることを考えているのか、子供がおやつを欲しがる時のような切ない表情をした彼女の、赤いマフラーにくるまれてくびれた黒髪が白い雪に映えた。

「……どうせ戻りの電車までは時間があるしな。いいぜ」

 俺の返事を聞いて、彼女はぱあっと笑う。子犬のようにかわいく笑うやつだなと思った。

「ありがと。私、古市ふるいち雪名ゆきなっていうの」

「俺は木田きだあらただ。……じゃあ古市、付き合うっていっても、なにするんだ?」

 俺が名前を呼ぶと、古市は少し不服そうに唇を尖らせた。別に怒らせるようなことを言ったつもりはないのだが。

 古市はココアを飲み干してゴミ箱に投げ入れると、「どうせ明日から会うことないんだしさ」と笑って、

「下の名前で呼んでよ」

 そう言って微笑んだ。

 俺は家族も含めて異性を下の名前で呼んだことはなく、正直に言うとそれは少しばかり緊張するお願いだった。だが、俺はなんとなく、こいつの頼みはなるべく叶えてやりたいと、そう思っていた。

「わかったよ。雪名」

「よろしい。……新君」

「なんだ」

「呼んだだけ」

「なんだそれ」

 はははと雪名は楽しそうに笑う。その笑顔を見ていると、誰も来ない公園で一時間半以上待ちぼうけを食らったことも、この必要十分という言葉を知らない地球の執拗な寒波も、許せる気がした。


 なんてことはない。ただ当てもなく二人で歩いただけ。お互い縁もゆかりもない見知らぬ土地。知り合いがいたわけでも、幼少期に住んでいたわけでもない何の思い入れもない田舎町。面白いものがあるはずもない。だが退屈だったわけではない。近くに海があるのか、潮風のせいで錆びついたトタンの家や看板を見て、昔ここは駄菓子屋さんだったとか、優しい老夫婦が住んでいて、息子夫婦が都会に引っ越して寂しさから犬を飼っていたに違いないなどど、好き勝手な歴史を楽しそうに語る雪名の横顔を眺めているだけで俺は充分だった。


 しばらく歩くと、海が見えてきた。大雪で積もるような地域でもないため、海岸の砂浜まで歩いて入ることができた。

 波が届かないあたりで、二人立ち止まった。ふと、お互いの手の甲が触れ合って、すぐに半歩離れた。

「見て」

 雪名が空を指さし、俺はその先を追うように頭上を見上げた。いつの間にか白粒を落とす雲には切れ目が入っており、そこから覗き込む夜空には煌々と星が輝いていた。

 雪名はオリオンの三連星みつらぼしを指して、横目で俺を見た。

「あの三つの星にも、それぞれ名前があるの。右からミンタカ、アルニラム、アルニタク」

「そうなのか、知らなかった」

 雪名は指を滑らせて、次におおぐま座のしっぽに当たる部分、いわゆる北斗七星を指さす。

「きっとあの星の一つ一つにも名前はある。でも、私は知らないんだ」

「俺も知らないさ」

 雪名は再び俺を見て、また空に視線を戻す。

「私たちが知らないだけで、この世のすべてに名前があるの。きっと、あの星の名前を知っている人もどこかにはいるはずで」

「そうだな」

 言いたいことはわかる。俺は最初雪名の名前を知らなかったが、でも彼女には名前があって、それと同じことだろう。

 雪名は腕を下して、半歩ほど距離を詰める。また、手の甲同士が触れ合った。今度は俺も雪名も距離をとらなかった。手の甲は、触れ合ったまま。お互いの体温を伝え合うように、お互いを温め合うように、くっついて動かなかった。一秒、二秒、三秒……時が止まったように、俺たちはそのまま星空を見つめた。波の音だけが聞こえてくる。

「じゃあさ」

 雪名の澄んだ声が静寂しじまを裂いた。寒さのせいか、少しだけ赤らんだ頬で俺を見つめている。

「私たちの今日の出会いにも、”名前”があるのかな」

 切なさをたたえた彼女の表情に、思わず鼓動が高鳴るのを感じた。

 俺は、を知っていた。自販機に向かおうとして、雪名を見つけたその瞬間から、俺はその”名前”をひとりでに理解していた。

 雪名が知らないだけで、には名前があって、俺はその名前を知っている。ただそれだけの事。だが、俺は教えようと思わなかった。もしまた会うことがあったら、同じことを聞かれたら、その時初めて気が付いたようなふりをして答えてやるさ。

「さあな、知らん」

「そっか、うん……そうだよね」

 雪名は笑った。切なさは感じられなかった。ちょっと前に見た、子犬を彷彿とさせる無邪気な笑顔だった。


 その後、俺たちは元の駅へ向かって歩き出した。月と星しか明りのない世界に、遠くから駅の照明が差し込むのが見えた。

「私は親が車で迎えに来てくれるみたい。新君は?」

「電車で帰るよ。あと五分で次の電車だ」

「そっか」

「ああ」

 駅に着いたとき、ちょうど電車がすぐそこに見えていた。俺は急いで切符を買って、改札を通った。

「新君」

 呼び止められて、振り返る。雪名が、手を振っていた。

「じゃあね」

「ああ、じゃあな」

 俺は電車に乗り込み、ドアが閉まると同時に背中を持たれた。外は見なかった。きっともう、雪名はいないだろうから。



 *****



 今日は十二月二十五日。十七歳の俺は、一人クリスマスを迎えていた。友人どもは恋人と過ごすらしい。着払いで水素爆弾でも送りつけてやろうか。”メリークリスマス”と熨斗のしを巻いてな。

 十九時半、俺は遠沢駅にやってきて、切符を買った。ほどなくしてやってきた電車に乗り込み、誰もいない車両を見まわして、適当な席に座った。

 満充電されたスマホを開き、メッセンジャーアプリを開く。母親からどこへ行っただのいつ帰るのかだのとメッセージが届いていたので、心配させるのもよくないと思い適当に返信した。パーティーなら俺を待たずに始めてくれて構わないからさ。


 やがて、電車は終点で止まった。

 相変わらず寂れた駅だ。よりその荒廃っぷりに磨きがかかった改札を抜けて、自販機の方へ向かう。雪が降る外をぼんやり眺めながら缶ココアを一本購入し、取り出そうと体をかがめたとき、視界の隅になにか――女の子が映ったのに気が付いた。取り出したココアを左手と一緒にコートのポケットに入れ、もう一本缶ココアを買う。

 視界を掠めたは、自販機の陰のベンチに座っていた。俺はその少女にゆっくり近づいて、右手に持ったココアを手渡した。

「また、カレシにフラれたのか?」

 彼女は驚いたように俺と右手を交互に見比べて、ココアを受け取るとニコっと微笑んだ。子犬よりも、幾分可愛らしい笑顔だった。

「ううん。カレシ、つくりにきた」

「……そうか」

「ねえ、あの時私が聞いたこと、覚えてる?」

 少女――雪名は、缶ココアをカイロ代わりに両手で包みながら、俺を上目遣いに覗き込む。

「ああ、覚えてる」

「あの答え、今ならわかる?」

 雪名は寒さのせい――じゃないんだろうな、顔をこれでもかと赤くして、涙目になりながら俺をじっと見つめた。

 彼女は気付いたのだろうか。その答えを、その名前を。

「ああ、知ってるよ」

 俺は雪名の目をまっすぐ見て、はっきりと、間違っても聞き逃さないように、言葉を紡いだ。


「”運命”っていうんだ」





 了

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