第2話 その夜のこと

 僕は自分で自分が信じられなかった。見知らぬ女性を家に招き入れるなんて。他人から見たら非常識とも言われるような行動を取れるような人間じゃなかったはずなんだ。でも、あの階段に座り込んで震えていた姿を見て、見捨てるわけにはいかなかった。


「あの、そこがキッチンで……」


 玄関を入って数歩のところで、僕は言葉を詰まらせた。疲労で頭が重い。目の前の少女——小鷹狩こだかり 美羽さんは、黒のパーカーとジーンズ姿で、びしょ濡れのままだった。


「あ、ひとまずお風呂で暖まったほうがいいですよね」


 疲れすぎているからだろうか。普段の僕なら言わないようなことが口から飛び出す。


「え……」


 彼女はびっくりした顔をしている。だが、僕はそれを拾わずにテーブルの上にビニール袋を置くと、クローゼットからバスタオルとスウェットの上下を取り出す。幸いなことに、どちらもまだ開封していない。


「これ、使ってください。どちらも新品ですのでご安心を。あ、着替えをお持ちでしたら、スウェットは脱衣所のところに置いといてくれれば大丈夫です」


 玄関で立ち止まったままの少女に、バスタオルとスウェットの上下を押し付けるように渡す。


「あ、え、その……あ、ありがとう、ございます」


 渡したときに触れた彼女の指先は冷たかった。


「浴槽にお湯張ってもらって大丈夫なんで。男物でよければ、シャンプーとボディソープも使ってください。脱衣所とお風呂はカギかかるので、カギかけてから入ってくださいね。あと、トイレは脱衣所の奥です。何か聞いときたいこととか、ありますか?」


 脱衣所のドアを開けつつ、言っといたほうがいいかなって思ったことをベラベラと説明する。


「あの……た、岳仲たけなか、さん」


「はい?」


「顔、すごく青白いですけど。岳仲さんが先にお風呂入ったほうがいいんじゃ……」


「ああ、ちょっと仕事でトラブルがありまして。実は3日間ほとんど寝てないんですよ」


「え!?そんな状態で、私なんかのために……」


 小鷹狩さんが慌てた様子で踵を返そうとした。だが、僕が押し付けるように渡したバスタオルとスウェットの上下を抱えていることに気づいて戸惑っているようだ。というのも、小鷹狩さんの姿が二重に見えているからなのだが。


「大丈夫ですから、お風呂どうぞ」


「でも……」


「本当に大丈夫ですよ。僕はあっちのソファで休んでますから」


 僕は彼女の反論は受け付けないとばかりにさっさと部屋の奥に行き、玄関やキッチンなどの水回りと LDK の間にあるドアをそっと閉める。そして、背負ったままだったビジネスリュックを下ろすと、視界が揺れた。僕はそのまま崩れるようにソファに座り込んだ。


「ちょっとだけ……ちょっとだけ、目を休めよう」


 仕事柄というのもあるが、この3日間は特に目を酷使した気がする。きっと目が疲れてるだけだ。そう思った僕は、目を閉じたまま手探りでネクタイを緩める。すると、急に押し寄せてきた疲労感と睡魔に、体を起こせなくなる。


 意識が遠のいていく中で、最後に浮かんだのは姉の顔だった。


「こんなとき、姉さんだったらどうする……?」


***

 

 目が覚めたのは、誰かが肩を優しく揺すっている感触がしたからだ。


「……かさん……仲さん、岳仲さん」


「んあ……?」


 ゆっくりと目を開けると、頭が白い見慣れぬ女性が僕の顔を覗き込んでいた。


「……あーっと、こ、小鷹狩、さん?」


 寝ぼけた頭が少しずつ稼働してきたことで、僕を心配そうに覗き込んでいる女性が小鷹狩さんだということを認識できた。かすかにシャンプーの香りがする。


「はい。お風呂、ありがとうございました」


「あ、いえいえ。暖まったみたいでよかったです」


 そこでようやく彼女の頭が白いのは、バスタオルが巻かれているからだということに気が付く。


「すみません。ドライヤーあるの伝えてませんでしたね」


「あの、ドライヤーは持ってきていて。コンセント使ってもいいですか?」


「そうなんですね。どうぞどうぞ。脱衣所のところか、ここの角のコンセントが使いやすいと思いますよ」


「あ、ありがとうございます!」


 ぺこりと頭を下げた小鷹狩さんは、一度脱衣所に引っ込むとカバンを持って戻ってきた。LDK の角のコンセントを使うようだ。


 時計を見ると、午前2時を過ぎたところだった。彼女がドライヤーで髪の毛を乾かし始めたのを見て、僕はソファから立ち上がる。ここの部屋は 1LDK で、奥の部屋を寝室として使っている。シーツと枕カバーを変えて、彼女にベッドを使ってもらうのがいいだろう。


「姉さん、ありがとう。アドバイスの真意は違うのかもしれないけど、シーツと枕カバーは2、3枚用意しておいたほうがいいって教えてくれて感謝するよ」


 姉への感謝を口にしながら、手早くベッドのシーツと枕カバーを変える。彼女の髪は長めだから、乾かすまでに少し時間がかかるだろう。軽く寝室を片付けながら、寝室のドアにつけるカギのようなものを見繕っていく。


「これならいいかな」


 最終的に、中学生の修学旅行で買った木刀をドアレバーの下に差し込むことで動かなくする、という方法に行き着いた。木刀を持っていてよかった。そんなことを考えていると、ドライヤーの音が止まった。


「終わりました?こっちにベッドあるんで使ってください。シーツと枕カバーは洗濯したやつに変えたので」


「え、いや、そんな……私なんかに……」


「ちゃんと寝たほうが疲れも取れますよ。それに」


 両手を左右に振って遠慮する彼女に、僕は持っていた木刀を渡す。


「この木刀をドアレバーの下に差し込んでもらえたら、カギ代わりになりますから」


 通路を開けようとして下がろうとしたところで、体がふらついた。


「あ……無理しないでください。私なんかより、岳仲さんがベッドで寝た方がいいですよ。岳仲さんのベッドですし」


 誤魔化そうとしたが、小鷹狩さんの目は騙せなかったようだ。


「僕は大丈夫ですよ。ちょっと睡眠不足なだけですから」


「そんな、私なんかのために」


 小鷹狩さんの声が震えている。


「小鷹狩さん」


 僕は自らの体を支えるように、壁に片手をついて、小鷹狩さんの顔を見た。彼女の瞳が潤んでいるように見えた。


「『なんか』って付けるの、やめませんか」


「え?」


「誰かの価値を決めるのは、その人自身だと思うんです」


 疲れているせいか、普段なら言えない言葉が自然と口をついた。


「小鷹狩さんは、なんかじゃないですよ」


 返事をする代わりに、美羽さんは小さく頷いた。


「それじゃ、お休みなさい」


 僕の言葉に促され、寝室に向かう彼女を見送る。小鷹狩さんは、寝室に入ったところでくるりとこちらを向いた。


「あの、ありがとうございます。明日には、帰りますから」


 それだけ言うと、彼女は寝室のドアを閉めた。そのあとしばらくの間ドアレバーがガチャガチャ動いていたが、少し上がった状態で止まったので、無事に木刀を差し込めたのだろう。だが、明日には帰るという彼女が、今夜はちゃんと眠れるだろうか。


 そんなことを考えながら、僕はソファに倒れ込むように身を預けた。意識が闇に沈んでいく直前、遠くで携帯の着信音が鳴っているような気がした。

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