誰かの幸せを探していたら、君に出会った。

カユウ

第1話 階段の少女

 隣のチームが踏み抜いた地雷によって発生したトラブル対応によって、2日間会社に泊まり込み。今日は帰れると思った時には、すでに外は真っ暗だった。


 会社のデスクに置かれた時計の針は、21時を指している。PC 画面に映る僕の顔が、やけに疲れて見えた。


岳仲たけなかさん、コードレビューをお願いできますか?」


 新人の山田くんが、自身の PC 画面を指さす。覚えたての Git の使い方に四苦八苦しながらなんとかプルリクエストが発行できたようだ。だが、彼が作ったコードには、まだ改善の余地がある。それを指摘しようとして彼の顔を見ると、その目は輝いていた。


「大枠の方針はこれでいいんだけど、全体的に回りくどい書き方になってる。特にここの部分は、もう少しシンプルに書いたほうがパフォーマンスが上がると思うよ」


 穏やかな口調を意識しながら、アドバイスを続ける。先輩として見本を見せなければ、と思う反面、自分にそこまでの力があるのか不安になる。


 自分の作業をやりつつ、声をかけてきた人たちへ対応していく。結局、オフィスを出たのは23時近くになっていた。


「お疲れ、岳仲くん」


 後輩の小野里おのさとくんが声をかけてきた。彼は僕と違って、新人の指導も手際よくこなしているようだ。


「ああ、お疲れ様」


「今日も遅いね。新人くん、順調?」


「まあ、なんとか」


「無理しすぎないようにね」


 小野里くんの言葉に軽く手を振って応える。彼の心配は嬉しいけれど、今の僕には応えられない。


 外に出ると、小雨が降っていた。地下道を通り、会社の最寄り駅へ。地上を歩くよりも少し遠回りではあるが、雨に濡れずに駅まで行けるのは便利だと思う。


 なんとか終電の1本前の電車に乗ることができ、自宅の最寄り駅へ向かう。ほとんど2日間徹夜しているので、座席に座った途端、寝落ちしてしまいそうだ。なので、座席はガラガラなのにも関わらず、両手で吊り革につかまって立っているしかない。あ、あの席のおじさん、座席で横になっちゃった。この電車の終電は、小田原駅って言っているけど、大丈夫だろうか。だが、僕も気を張っていないと、小田原駅まで連れて行かれてしまうかもしれない。


 眠気と戦っていると、いつの間にか自宅の最寄り駅に着いていた。駅前のコンビニに寄って夜食を買い、カバンから取り出した折り畳み傘を差しながら帰路につく。暗い道を照らす街灯の明かりが、雨に濡れた路面で揺らめいていた。


 そういえば姉さんから電話があったっけ、と思い出す。仕事中は出られなかった着信を見返すと、確かに響子姉さんからのものだった。いくら身内といえど、まもなく日付が変わる時間。かけ直すには遅すぎる。


 僕の自宅が見えてきた。築3年の賃貸アパート。駅から徒歩20分弱と距離があるため、最寄り駅の相場を考えると比較的安い家賃に惹かれて契約した。借り始めたときはほとんど新築だったことも決めての一つだ。そんなアパートの集合ポスト前を通り過ぎ、階段を上がろうとして、僕は立ち止まった。


 なぜなら、そこに人影があったからだ。


 薄暗い階段の踊り場。2階へと続く階段の途中で、誰かが座り込んでいる。そろえたひざに頭をつけるように座っているため、顔は見えない。わかることは、髪が長いことくらいか。


 困った。通りたいのに、声をかけるべきか迷う。不審者と思われたくない。かといって無視をして通り抜けられるほど階段の幅は広くない。


 結局、僕は小さく咳払いをした。


「あの、すみません……通りたいのですが」


 座り込んでいた人影が、ゆっくりと顔を上げる。


 泣いていた。


 赤く腫れた目が、僕をじっと見つめていた。


「あ……」


 その人物は慌てて立ち上がろうとする。だが、長時間座っていたせいか、足がもつれた。


「大丈夫ですか?」


 反射的に手を伸ばす。だが、それは余計なお世話だったかもしれない。


「すみません……今、行きます……」


 声の高さ的に女性だろうか。いや、声の高い男性かもしれない。だが、その人物の声は、か細く震えていた。髪も服もカバンも、雨に濡れているようだ。傘が見当たらないので、雨を避ける道具がないのかもしれない。


 どれくらいここにいたんだろう。


 家に帰れない理由があるのかもしれない。


 いや、詮索するべきじゃない。


「あの……」


 言いかけて、また言葉に詰まる。

 目の前の人物は、すでに立ち上がっていた。でも、どこか力なく、心もとない様子。これから行く当てがあるようには見えない。


 雨は、まだ降り続いていた。


「あの、その……よかったら……ウチ、上がりますか?」


 言ってから後悔した。


 変な誤解を与えてしまうかもしれない。不審者と思われても仕方ない。


「え……」


 目の前の人物も困惑した様子で、僕を見る。


「あ、その、雨宿りというか……」


「……大丈夫、です」


「でも、この雨だと……」


 会話が続かない。


 お互い、言葉を探している。


「私、知らない人の家には……」


「ああ、そうですよね。すみません」


 そう、当たり前だ。見ず知らずの男の家なんて、入るわけない。


 だが、雨は先ほどより強くなってきたようだ。雨音が強く聞こえてくる。


「……名前くらいは」


「え?」


「その、僕の名前くらいは、知ってもらっても……岳仲 陽介です。25歳。このアパートの住人です」


 なぜか緊張のあまり、履歴書のような自己紹介になってしまう。


「……ぷっ」


 意外な反応に、僕は目を丸くした。


 その人物が、小さく吹き出したのだ。


「すみません……なんか、面接みたいで」


「あ……そう、ですよね」


 思わず、僕も苦笑してしまう。


小鷹狩こだかり……美羽、です」


 その人物、いや小鷹狩さんはそう言って、軽く会釈した。


 まるで面接官に挨拶するみたいに。


「じゃあ、小鷹狩さん……改めて。よかったら、雨宿りしていきませんか?」


 この提案が正しいのかどうか。


 まだ自信は持てなかった。


 でも、目の前の少女は、小さくうなずいた。

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