第10話 闇を裂く光
夜のビル街はしんと静まり返り、冷たい風が路地を吹き抜けていく。ライフクエスト本社のビルは、真っ暗な空の下に黒々とした影を落としていた。そのガラス張りの壁は反射する街灯の明かりを無機質に跳ね返し、何かを隠しているような圧迫感を醸し出していた。
芹沢孝次郎は、隣に立つ早川正樹と共に、裏手の路地に向かって歩き出した。路地にはわずかに腐ったような臭いが漂い、どこからともなく風に乗って何かが軋む音が聞こえてくる。足元には、風に舞う紙くずやガラス片が散らばっていた。
「いやぁ、こういう場所に来ると人間の隠したいものが見えてくるんですよねぇ。」
芹沢はポケットから懐中電灯を取り出し、慎重に周囲を照らした。その光が映し出したのは、故障した防犯カメラ。レンズが汚れて曇り、赤いランプが不規則に点滅している。
早川は辺りを見回しながら、低い声で言った。「先生、本当にこんなところで大丈夫なんですか?何かあったら…」
芹沢は軽く肩をすくめ、笑みを浮かべた。「大丈夫ですよ。こういう“穴”のある場所こそ、秘密が詰まっているものですからねぇ。」
その時、早川のスマートフォンが震えた。画面には森山彩香の名前が表示されている。彼が電話に出ると、森山の切迫した声が耳に飛び込んできた。
「早川さん!野口部長が裏で何か動いています。広報部でも噂になっていますが、今夜、重要な会議が開かれているみたいです。このままだと、証拠が全部消されてしまうかもしれません…」
「会議ですか?それはどこで?」早川が質問すると、森山は少し戸惑った後で答えた。「ビルの地下倉庫です。普段は誰も入らない場所なんですけど…」
早川は芹沢に目配せしながら答えた。「分かりました。ありがとうございます。気をつけてください。」
電話を切ると、早川は不安げな表情で芹沢を見た。「先生、地下倉庫だそうです。絶対に何か隠している…」
芹沢は微笑みながら歩き出した。「それなら、行ってみましょう。こういう状況で人間は一番面白い行動をするものですからねぇ。」
裏口のドアは驚くほど簡単に開いた。鍵は壊されているわけではないが、どうやらロックが解除されたままになっていた。中に入ると、冷たいコンクリートの壁と床が広がる無機質な空間が迎えた。遠くから漏れる微かな光が廊下をわずかに照らしている。
「これはまた、ずいぶん歓迎されているようですねぇ。」
芹沢は廊下を進みながら、足元を慎重に確かめていた。彼らが進む先には、一つだけ明かりの灯る部屋があった。
部屋の中から、誰かの低い声が漏れ聞こえる。
「この書類は処分しろ。今夜中にだ。」
「分かりました。ですが、これ以上騒ぎが大きくなれば…」
声の主は野口達也だった。彼の隣には中年の研究員が立っており、手には数枚の書類が握られている。その書類のタイトルは、「XX-301試験結果」。そこには人体実験に関する記録が明確に記されている。
芹沢はドアの陰から様子を伺いながら、早川に小声で言った。「いやぁ、見つけましたねぇ。これが真実の一端ですよ。」
早川は緊張した面持ちで頷いた。「でも、どうするんですか?彼らに見つかったら…」
芹沢は軽く笑い、ゆっくりと部屋の中へと歩み出た。「野口さん、こんなところで夜更かしですか?」
突然の訪問者に、野口と研究員は驚いて振り向いた。研究員が何かを言おうとしたが、芹沢が懐中電灯を向けると、その言葉は途切れた。
「いやぁ、こういう重要な資料を処分するなんて、もったいない話じゃありませんか?」
芹沢は机の上の書類に目をやり、その中から一枚を手に取った。
「人体実験の記録…被験者AからH。50%以上の被験者に重大な副作用、死亡例も複数…。これは随分と興味深いですねぇ。」
野口の顔が青ざめた。「それは機密情報だ。あなたが見るべきものではない!」
「そうかもしれませんねぇ。でも、高瀬健一さんはこれを公にしようとして命を奪われたんじゃないですか?」
芹沢は書類を机に置きながら、野口をじっと見つめた。
野口は言葉を詰まらせ、視線を逸らした。研究員は俯き、口を閉ざしたまま動かない。
「野口さん、あなたが守ろうとしたのは会社ですか?それとも、自分自身ですか?」
芹沢の声はいつになく静かで鋭かった。
野口はついに崩れるように椅子に座り込み、頭を抱えた。「…私たちは、止められなかったんだ…」
警察がライフクエスト本社に到着したのは、夜明け直前だった。薄暗い地下倉庫から引きずり出されるように現れたのは、顔面蒼白の野口達也だった。手錠を掛けられた彼は、冷たいコンクリートの廊下を歩きながら、虚ろな目で何かを呟いていた。
「…私は、ただ…守ろうとしただけだ…会社を…そして、自分を…」
その言葉を聞いた芹沢孝次郎は、背後からその姿をじっと見つめていた。無機質な蛍光灯の光が彼の顔を不気味に照らし出し、その瞳の中には憐れみと興味が交じり合った色が浮かんでいた。
「いやぁ、人間というのは面白いですねぇ。」
芹沢は静かに呟く。「自分の行いがどれほど破滅的でも、心のどこかでは“正しかった”と思いたいものですから。」
後日、警察の捜査によりプロジェクトXXの詳細が公にされた。その内容は衝撃的だった。
ライフクエストが研究していた「XX-301」は、画期的な治療薬として大きな利益をもたらす可能性を秘めていた。しかし、その開発過程で倫理規定を無視した人体実験が行われていたことが明らかになった。被験者たちは弱者や社会的立場のない人々から選ばれ、十分な説明や同意を得ないまま実験に参加させられていた。
報告書には、以下のような事実が記されていた。
•被験者AからH:50%以上が重篤な副作用を発症。内臓機能の低下、精神的不安定、記憶障害、最終的に死亡に至った者も複数。
•研究の進行役:ライフクエストの幹部が関与し、進行を指揮。研究結果の改ざんや隠蔽も行われていた。
•高瀬健一の関与:法務部長だった高瀬は、この事実を告発しようと動いたが、会社の圧力と監視によって抑え込まれた。そして、その矢先に階段からの「転落事故」として命を落とした。
野口は取り調べで、自らの役割について淡々と語った。芹沢が地下倉庫で見た通り、彼は人体実験の結果を隠蔽し、全ての痕跡を消し去ろうとしていた。
「私は、ただ命令に従っていただけです。プロジェクトが止まれば、会社は崩壊する。何百人もの社員とその家族が路頭に迷う。それを防ぐためには、多少の犠牲は仕方ないと…」
そう語る彼の顔には疲労が滲み、彼がただの命令を実行する歯車に過ぎなかったことを物語っていた。しかし、その歯車が回り続けた結果、取り返しのつかない犠牲が生まれたのだ。
「高瀬は…彼は正しかったのかもしれない。だが、彼の正しさが会社を壊すことになるとしたら…私はそれを許せなかった。」
そう語る野口の声はどこか震えていた。
広報部の森山彩香もまた、この事件に深く関わることになった。彼女が提供した情報と証拠が、事件の全貌を明らかにする大きな助けとなったのだ。
事件の解決後、彼女はライフクエストを退職する決意を固めた。その理由を問われると、彼女は静かに答えた。
「高瀬部長が守ろうとしたものを、私も守りたいと思いました。この会社にいる限り、それはできないから…」
彼女の瞳には強い意志が宿っていた。過去を背負いながらも、彼女は新たな一歩を踏み出す覚悟をしていた。
事件のすべてが明らかになった翌朝。薄いオレンジ色の朝日が街を照らし始める中、芹沢は早川正樹と共にライフクエスト本社を見上げていた。
「いやぁ、朝焼けってのはいいですねぇ。こうやって一つの闇が終わった後に見る光っていうのは、特別な感じがしますよ。」
芹沢はポケットから手帳を取り出し、一言を書き加えた。
「真実は必ず顔を出す。ただし、それがいつかは人の心次第だ。」
早川は隣で苦笑いしながら言った。「先生、本当にあなたって不思議な人ですよね。こんな事件に関わっても、全然疲れた様子がない。」
芹沢は軽く笑い、「いやいや、疲れますよ。でも、人間の心を見るのはいつだって面白いですからねぇ。」と言い残し、歩き出した。
早川が彼の背中を見送る中、その背中は何かを追い続ける人間の背中そのものだった。
次回予告
プロジェクトXXの全貌が明らかになり、事件は一応の決着を見せた。しかし、芹沢孝次郎が次に挑む事件では、さらなる謎と人間の本性が待ち受けている――次回、「沈黙の代償」――人間の嘘と真実の境界を追う新たな物語。
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