第2話 部屋があれば人は住める
女とともに雑居ビルに入り、エレベーターホールに着いた。見るからに古いエレベーターだな。だがボタンが新しい。きっと手入れはされているのだろう。でなければタワーオブテラーを新宿のど真ん中で体験することになるからな、当然か。
「私の家は四階。覚えておいて」
「へえ」
そう言ってフロア案内の空いたスペースを指さす女。どうやらテナントが全く入っていない階らしい。他の階はいやらしい店でいっぱいだ。こんなビルに案内しておいて「エロいことはなし」とは股間に悪いぜ。
「ほら、乗るよ」
「ほいよ」
ガタガタと音を立ててドアが開くと、俺たちはエレベーターに乗った。どのボタンもくすんでいるが、四階のボタンだけはまだ新しい見た目を保っていた。長らく空きテナントだったのかな。
「んで、こんなビルにどうやって住んでんだ?」
「言ったでしょ? 部屋があれば人は住めるの」
かごの上昇とともに下方向への慣性力を受けつつ、女と会話を交わす。部屋があれば人は住める、その通りではあるのだがそうではない。まあ、行ってみるしかなかろう。
間もなく四階に到着し、またガタガタと音を立ててドアが開いた。エレベーターホールこそ明かりに照らされているが、廊下全体がほとんど真っ暗だ。人が住めるような部屋など本当にあるのだろうか。
「ついてきて、こっち」
女はいつの間にか右手の人差し指で鍵のついたリングをくるくると回していた。俺はただそれに従って歩いて行くしかない。実家の前を通る道も真っ暗だけど、それとは違う怖さがあるな。秋田と違って熊が出ないのは良いことかもしれん。
「ここだよ、愛すべき我が家は」
「……ここ?」
女が指さす先には「事ム所入り口」との貼り紙がしてあった。どう考えても家ではない。
「おいおい、不法侵入じゃないだろうな」
「居候の身で家主の犯罪を咎める気?」
「いや、そうだけどさ」
「安心して、合法だから。ただいまー」
鍵穴に鍵を差し込み、ドアノブをひねる女。呆気に取られているうち、部屋の中が明るくなった。そこに広がっていたのは――カーペットが敷き詰められた、十畳以上はありそうな空間だった。窓もあるし、流しとコンロも備え付けられている。几帳面に折り畳まれた敷き布団、それに衣類の収納先であろうカラーボックスもいくつかあり、意外にも生活感溢れる部屋だ。
「アンタも入ってよ」
「あ、ああ」
俺が部屋に入ると女は扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。いちおう玄関の部分だけ一段低くなっており、どうやらここで靴を脱げということらしい。女がするのに従って俺もボロボロのスニーカーを脱ぎ、部屋に上がらせてもらった。
「何その顔? そんなに目丸くして」
「いや……まさかこんな部屋だとは思わなくて」
「いい部屋でしょ? しかも立地は新宿だし、言うことないよ」
「けど、なんでこんな部屋に……?」
もっともな疑問をぶつけてみると、女は慣れたふうに説明を始めた。
「んーとね、ここの持ち主は私の勤め先なの」
「へえ?」
「なんていうか……女の子の待機場所? として使うはずだったんだって。でも今ある事務所で間に合っちゃったから、誰も使ってなかったの」
女の子の待機場所、というフレーズでこの女の職種がなんとなくイメージできたが、それはひとまず置いておくとして。
「それで?」
「私が就職したとき、家がないんですって言ったら貸してくれたの。妙に気前はいいんだよねー、上司はクソだけど」
そういう時はだいたい裏があるものである。俺も前の会社で自動車学校の学費を負担してもらったが、それも営業車であっちこっちに行かせるためだったからな。免許取得代なんかより未払いの残業代の方を払ってほしかった。今からでも労基に行けばいいかな。
「それでこのビルに?」
「そゆこと。あっ、私はあくまで裏方だよ? エロいこと考えないでよね」
「考えてないって」
少し脳裏に浮かんでいた疑問を、こちらから聞く前に解決してくれた。エスパーなのかな。でも風俗の裏方ってのも気になるな。いったい何をするんだろう。
「職場では何をやってるんだ?」
「んー、一応は経理ってことになってるけど。ぶっちゃけ雑用」
「なるほどね」
「給料安いし上司はクソだし客も……自由な人が多いから」
客の悪口は言うまいとするプロフェッショナリズムはあるらしい。なかなか筋の通った人間だな。
「こんな時間まで営業してるのか」
「まあ、うちの店は午前十一時から午前三時くらいまでかなあ。私は夜の六時とか七時とかに出勤してる」
「大変そうだな」
「ま、女の子の苦労に比べたらそうでもないよ。あの子らは自分で稼がないと
だからねー」
まるで中年の熟練店長のような物言いだが、おそらく俺と同年代の女子社員である。やっぱり労働ってのはどこに行ってもクソみたいだな。トイレに流してしまおう……と言いかけたが、よく考えれば実家の便所は汲み取り式だった。バキュームカーに吸い取ってもらおう、が正しいな。
「ねー、私からもひとつ聞いていい?」
「なんだ?」
「アンタ、名前はなんていうの?」
「えっ?」
言われてみりゃ、互いに自己紹介も済ませてなかったな。この女、名前も知らない酔っぱらいを自宅に上げてるんだもんなあ。なかなか肝が据わっているというか、そこまでさせる「ポリシー」が何なのか気になるくらいだ。……それより今は自己紹介だ。
「
「馬鹿!!」
「!?」
名前を言った途端、思いきり頬を平手で殴られた! いてえ! 今日飲んだ酒を全部吐き出しそうなくらいの衝撃に、思わず床に寝っ転がってしまう。
「アンタねえ、初対面の女にいきなり本名教えてどうすんのよ!?」
「お、お前が言えって言ったんじゃないか!」
「私が堅気じゃなかったら大変なことになってたでしょ!」
「それはそうだけど……」
「全く、気をつけなさい」
初対面の男を家に上げる女に言われたくはない。……が、正論ではある。正しすぎて理解が追い付かなかっただけで、恐ろしい話ではあるな。
「とにかく、中原俊だ。よろしく」
「はいはい。私の名前は
「本名?」
「なんで偽名を使う必要があるのよ」
「俺が堅気じゃなかったらどうすんだ?」
「そうじゃなかったら拾ってないから」
やれやれといった感じで、大宮は髪をほどいた。さっきは暗くて分からなかったが、意外と長いな。てっきり黒髪だと思ったが、青のインナーカラーが入っているらしい。
「私、アンタのことはなんて呼べばいいの?」
「そうだなあ……好きに呼んでくれ」
「『おい、居候』とか?」
「正しいけどやめてくれ」
「じゃあ『俊くん』で」
くん付けしてくれるのだから、案外礼儀正しい人間みたいだ。
「で、俺はなんて呼べばいい?」
「そりゃ『ご主人様』じゃない?」
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「うわキモ。どこで覚えたの?」
「秋葉原」
「納得だわ」
「結局なんて呼べばいいんだよ」
「なんでもいいけど、名前で呼んで。苗字は好きじゃないから」
「じゃあ『夏織さん』で」
「いいね、そうして」
夏織さんはカラーボックスの引き出しを開け、中からごそごそと寝間着を取り出していた。そういや、着替えを持ってきてなかったな。着の身着のまま逃げてきたようなものだし。
「なあ、残念なお知らせがあるんだけど」
「残念なら聞きたくないよ」
「実はだな」
「話聞いてた?」
「パンツがないんだよな」
「本当に残念じゃん」
「しかもパンツを買う金も無い」
「だろうね」
「どうすればいいと思う?」
「はあ~~~世話が焼けるわ」
などとため息をつきつつも、夏織さんは近くに置いてあった財布を手に持った。てっきりブランドものかと思ったが、雑貨店で買えそうなデザインのものだ。金銭感覚もきっちりしていると見える。酔いつぶれて無一文になった男に聞かせてやりたいものだ。
「仕方ないなあ、これで買ってきなよ」
「え、いいのか?」
夏織さんは何枚かの札をこちらに手渡してきた。
「いいのか、ってアンタお金ないんでしょ。これしかないじゃん」
「申し訳ない。恩に着る」
「その代わり、アンタが帰ってくる頃には鍵閉めてるから」
「ぎゃひー」
「冗談だよ。コンビニはすぐ近くにあるから、さっさと行ってきな」
「はあい」
「間違っても風俗なんか行かないでよ」
「行かねえよ」
「行くならうちの店にしときなよね」
「そっちかよ」
などと軽口を叩きあいながら、再び玄関に下りて靴を履いた。ガチャリとドアを開け、札を握りしめてエレベーターホールに向かう。ああ、昔におつかいをさせられた時のことを思い出すなあ。……また親の顔か。いつになったら思い出さずに済むんだろうな。
埃を被った真新しいボタンを押し、エレベーターを待つ。流石にパンツまで買ってもらって図々しいよな。さっさと新しい仕事でも見つけないとなあ……。
新宿で出会った、まったく新しい人間。夏織さんとの暮らしに溶け込むのには、不思議と時間がかからなかった――
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