新宿のど真ん中で寝ていたら、眼鏡のダウナーお姉さんが飼ってくれることになった。
古野ジョン
第1話 ダウナーお姉さんに拾われる
人生を終わらせるつもりだった。クソみたいな会社に退職届を叩きつけ、あるだけの金を持って夜行バスに飛び乗った。最後に東京で死ぬほど遊んでみたい。ネオンきらめく繁華街で一晩だけでも華を咲かせたい。ただそれだけだった。
人間にとって時間という概念が絶対的でないことを実感する。使い切れないと思っていた枚数の一万円札は一瞬でなくなり、楽しい時間は体感にして数秒の間に過ぎ去っていった。刹那的な快楽。後に待つ大きな後悔を覆い隠してしまうほど、それは眩しく見えていた。
財布の中身が減っていくにつれて、自らの終わりが近づいていることをひしひしと感じた。名前も知らない高級酒を頼み、吸ったこともないタバコを咥えた。アルコールは脳内の暗闇を溶かしてしまうけれど、嫌な臭いの煙はむしろ自分の生をありありと実感させた。せき込んでニコチンを吐き出すほどの生存願望があるのかと、己の中途半端な態度を嘲笑してみるほどの余裕もあった。
結局、俺は最後までこの街に染まることは出来なかった。やたらガタイの良い黒服の兄ちゃんにつまみ出されて、気づいたときには道路の隅っこで寝転がっていたのだ。自分の置かれた状況を客観視出来るほどの冷静さを頭に残して――俺は新宿のど真ん中で無一文になった。
少しだけ頭を起こして周りを見回してみた。ワンカップ片手に項垂れているおっさん、紫煙をくゆらせてスマホの画面に釘付けになっている地雷系女子、既に夢の世界で女遊びでもしてそうな若い兄ちゃん。今晩の「ルームメイト」には事欠かないようだった。
冷たい風が頬を突き刺す。故郷は寒いところだと思っていたけど、案外新宿も寒いところなんだなと新たな学びを得た。今日の布団は薄いウインドブレーカーだけ。しかし、たとえ実家の布団が暖かい羽毛布団だと分かっていても、戻りたいとは少しも思わなかった。
今日の楽しい思い出と、明日からの暮らしを対比してみる。金なし、仕事なし、家なし。
こんな時だってのに、なんだか妙な気分になってきた。客引きの兄ちゃんが「抜きあり」か「抜きなし」かなんて言っていたけど、どうせなら前の方を選ぶべきだったな。誰も知る人などいない土地なのだから、キザに振る舞う必要などなかったのに。
ポケットから財布を取り出し、ないはずの札を探した。ねえな。女どころかカップ麺も買えやしない。カップ麺なあ。金のあるうちに食っておくべきだったか。俺はカレー味が好きなんだ。親が嫌いだったから、パチンコの景品で貰ったりすると俺にくれた。飯なんかろくに作りもしなかったくせに、そういう時だけ親のフリをするのだから腹が立つ。
長期的に植え付けられた記憶は短期的に刷り込まれた愉悦を上回るらしい。結局、ここまで来て思い出すのは親の顔か。馬鹿馬鹿しい。ギャンブルに突っ込んだ金を貯めておいてくれれば大学に行けたのに。こうして俺が地べたで寝そべっている間にも、大学に行った同級生がぬくぬくとこたつにでも入っているのかと思うとやるせないな。
眠気がやってきた。性欲と食欲の次は睡眠欲か。三大欲求が
思考が支離滅裂になってきた。誰がパスタと心太を間違えるってんだ。同じ細長いならカップ麺の方がいいな。カレー味だ、バジル味じゃない。……ああ、また親の顔に戻ってきた。まるで山手線みたいだ。山手線というのがどこを走っているのか知らなかったが、まさか東京と上野と池袋と新宿と原宿と渋谷と品川と新橋を走っているとは知らなかった。東京の全部じゃねえか。故郷の電車には女子高生と男子高生しか乗ってないぞ。
本当に眠くなってきた。明日のことは明日の自分が考えるだろう。もし考えなかったとしたら、それは明日の自分が明後日の思考を委託したということになる。まさに下請け、日本の縮図。国の構造がそのまま国民にインプットされているのだから、日本人というのが全く画一的な人種であることは疑いようのない事実だ。
そんなわけねえや。俺がそこの地雷系女子やワンカップおじさんと同じであるはずがねえ。たぶんカップ麺代くらいはあの二人の財布にも入っているだろうしな。夢の世界でおっぱいを揉んでいるであろう若い兄ちゃんは知らん。アイツは文無しだとしても驚かないな。
寝よ。おやすみ新宿。さようなら健康で文化的な最低限度の生活。さらば、クソ会社とクソ両親……。
……。
「――おーい」
「……?」
「寝るのー? 馬鹿じゃないのー?」
「馬鹿じゃねえよ!!」
「うわ、馬鹿が起きた」
馬鹿という言葉に反応し、気づいたときには飛び上がって目の前の女を怒鳴っていた。しかし丸眼鏡の女は動じる素振りもなく、しゃがんだままこちらの顔を見上げている。状況を理解した俺は、周囲を拒絶するハリネズミから紳士的な人間に戻り、落ち着いて話を始めた。
「……すまん、寝ぼけてた」
「そんなの見りゃ分かるよ。気にしないで、慣れてるから」
「慣れてる?」
「仕事でね。上司がよく騒ぐから」
「ああ……」
握手しようと手を差し出しそうになったのをなんとか我慢した。この女とは分かり合える。クソ上司の話題には事欠かない。売ってもいいくらいだ。東京をしらみつぶしに探し回れば物好きなリサイクルショップも見つかるかもしれんしな。
「で、何が馬鹿だって?」
「アンタねえ、こんなとこで寝てたらお年玉あげますって言っているようなもんでしょ」
「大丈夫だ、今の俺は素寒貧だから」
「その上着、売ったら千円にはなるんじゃない? 私だったら盗っちゃうな」
眼鏡の女はウインドブレーカーの裾を掴み、しげしげと眺めていた。別に近所(車で二十分)のホームセンターで買った普通の物なのだが。物は稀なるをもって貴しとなすとは言うものの、まさかこんなウインドブレーカーが東京に流通していないわけではないだろう。
「早く帰りなよ。そろそろ電車も動くよ」
「え、もう?」
「もう……って、そりゃそうでしょ」
女は立ち上がり、腕時計をチラ見した。意外と背が高いし胸も大きいな。……というか、まだ午前四時半だというのに電車が動くのか。東京ってとこは恐ろしいな。こんな朝から動いてどこへ行くというのだろう。山手線に乗ったって同じところをぐるぐる回るだけなのに。
「残念だけど、金がないんだ。電車賃もねえ」
「へえ。何に使ったの?」
「こんなとこで寝てるんだから分かるだろ」
「あは、そうかも。愚問だったね」
女は少しだけニヤついた。笑顔というのは必ずしも前向きな意味を持たない。嘲笑や薄ら笑いという言葉が指し示すのはむしろ悪い意味だろう。何が言いたいのかと言えば、今のこの女は俺あるいは女自身を嘲ったのだ、ということだ。
「別になんでもいいよ。放っておいてくれ」
「いいや、帰ってもらわないと」
「なんで」
「なんでも何も――人んちの玄関塞がないでよ」
「へっ?」
振り向いてみると、そこにあったのは雑居ビルの入り口。しかしレンタルスペースや個室ビデオ屋といったいかがわしい店しかないようだが。高度な謎かけでも仕掛けられているのだろうか。
「あんたの家? ここが?」
「文句ある?」
「住むって……どうやって?」
「部屋があれば住めるでしょ。学校で習わなかった?」
「家庭科は嫌いだったんだ」
「これ、一般常識だから。面白いこと言うね」
「芸人になろうかな」
「コンビは組まないからね」
こちらが胡乱なことを言おうが必ず返してくる。この女、頭の回転は速いらしい。頭の回転って「速い」のか「早い」のかどっちなんだろうな。物理的に頭がローリングしてたら「速い」だろうけど、百マス計算のスピードで測るなら「早い」の方かもしれん。
「とにかくどっか行ってよ。私、仕事帰りなの」
「そりゃご苦労さん。俺と一緒に無職にならない?」
「新手のナンパ? 体目当てならお断りっ」
「仲間目当てだよ。桃太郎と一緒」
「きび団子は?」
「ねえよ、家庭科は苦手だって言ったろ」
「じゃあ乗れないね。鬼ヶ島には一人旅だよ」
俺にとっちゃこの街が鬼ヶ島だ、宝物はなかったけどな。そう言いかけたが、空しくなるのでやめることにした。それにしても変な女だな。ダウナー系と言うのだろうか? その割には妙に明るい。でもま、家に帰れないのは不便だよな。
「玄関を塞いで失礼した。さ、ご自由に帰宅してくれ」
「聞き分けがいいね。アンタこそどこに住んでるの? 帰りは歩き?」
「秋田」
「は?」
「秋田」
「嘘でしょ!?」
初めて女が表情を変えた。ちなみに嘘はついてない。きりたんぽのお土産でも持ってくれば信じてくれたのかねえ。
「ちょっ、どうやって帰る気?」
「帰らねえよ。帰る気もねえ」
「なんでよ」
「仕事をやめた。もう秋田の土は踏めないな」
「そっかあ。若そうなのに苦労してるね」
「若いのはお互い様だろ」
女の顔をよく見ると、目がまん丸で可愛かった。なんていうの? 愛嬌? そういうのを感じる。ただその眼光の鋭さは明らかに不健全。何の仕事をしているのか分からないが、夜のお仕事なのかねえ。だとすれば納得だが。
「で、どうすんのさ」
「知らん。明日からここが寝床じゃないか?」
「外出の度にアンタを起こすの? 面倒なんだけど」
「いいだろ、家があるブルジョワにはそれくらいの義務がないと」
「ざんねーん、所得税はちゃんと払ってまーす、義務は果たしてまーす」
あかんべーを見せられた。明日からどうする、なんてそれこそ愚問だ。だって誰も答えを知らないのだから。誰か知っていたら俺に電話で教えてほしい、携帯持ってないから番号がないけど。
「まあ、明日から拾い食いでもするよ」
「ドブネズミかよ」
「やっぱ新宿のネズミってデカいの?」
「アンタのち〇ちんより大きいと思うよ」
「あら、お下品」
「アンタは『品』じゃなくて貧困の『貧』でしょ」
「なんで知ってるの?」
「アンタが言ったんだよ」
堂々巡り、またしても山手線である。しかし退勤後のお姉さんをいつまでも引き止めるわけにもいかぬ。ここはこの場を去るとしようか。
「酔っ払いのウザ絡みに付き合わせて悪かった。今度こそ帰って構わないよ」
「アンタねえ……」
「何?」
「このまま帰ったら私が薄情みたいじゃん」
「それでいいだろ」
「寝覚めが悪いよ」
「そりゃこんな時間まで起きてたらなあ」
「そうじゃなくてさあ。……嫌なんだよ、同年代みたいだしさ」
女は俯いてそう言った。不思議と歳が近い人間には親近感を覚えるものである。よくアラサーくらいの上司が同級生の野球選手を応援していたが、アレも似たようなものだろう。つまるところ、この女にとって俺は戦力外になった野球選手みたいなもんなのだ。
「俺が言うのも変だけど、同年代だったらどうしてくれるんだ?」
「別に、秋田までの切符代くらいなら渡してあげるけどさ。帰りたくないんでしょ?」
「一億積まれても帰らない」
「だったらさ、もう一つしかないじゃん。……アンタ、うち来る?」
「へっ?」
突拍子もない提案。女は無言のまま、俺の背後にある雑居ビルを指さしていた。どうやら本気らしい。見知らぬ男、それも酔いつぶれていた奴を連れ込むなど正気でないと思うのだが。
「……嘘だろ?」
「嘘ついてどーすんのよ。アンタ変な奴じゃなさそうだし、家に置いても悪いことしなさそうだから」
「こんな酔っ払いを信用するのか?」
「しないけど、私のポリシー的に放っておけないの。ほら、来るのか決めて」
「……」
「言っとくけど、エロいことはしないからね」
「あ、そうなの?」
「当たり前でしょ」
ちょっと期待しちゃってた。手を差し伸べてくれた恩人に対して失礼な話である。それにしても、ポリシーとはね。
「で?」
回答を迫ってくる女。どうしよう。だけど薄いウインドブレーカーよりは良い布団にありつけそうだしな。理性で睡眠欲に勝つことは出来ない。ここはありがたく転がり込むことにするか。
「……行く。お世話になります」
「ん、それでいい。やっぱり聞き分けいいね」
女はつま先立ちをして俺の頭を撫でた。犬じゃないんだからさ。
というかつい返事してしまったけど、こんな見知らぬお姉さんについていって大丈夫だろうか。後でお金を要求されたりしないだろうか。それとも怖いお兄さんが出たりしないだろうか。
「ねー、来ないの?」
「……美人局だったりしないよな?」
「金がない男にそんなことしないでしょ」
「あ、そうか」
「やっぱり馬鹿だね、アンタ」
「うーん、そうかも」
女はペタペタと音を立て、運動靴を履いた足でビルに入っていった。犬のように背後をついていく俺。ま、怖い目に遭ったときはその時に考えようかな。少なくとも明日の自分に業務委託する必要はなさそうだし。
こうして、何もなくなった俺に救世主が現れたというわけだ。何か生きる手立てが見つかれば出て行く。そんなことを思っていたのだが、俺はそれよりずっと長くこの女と暮らすことになる――
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