第3話 新宿のシャワーは冷たい
コンビニで適当に男物のパンツを二枚ほど購入して、再び雑居ビルに戻っていった。エレベーターを降り、例のごとく暗い廊下をてくてくと歩いていく。部屋の前に到着すると、こんこんと扉を叩いた。すると間もなく夏織さんがやってきて、ドアを開けてくれた。夏織さんは既に寝間着姿であった。
「ノックなんかいらないのに」
「着替え中だったらまずいかなって」
「あ、たしかに。俊くん、意外とデリカシーあるね」
「ノンデリなんかじゃないぞ」
「デリヘルは好きだからな、って言いたいんでしょ?」
「あ、分かってるんだ」
「早く入りなよ、寒いから」
言われるがまま、部屋に上がらせてもらう。そこらへんの空いたスペースに寝かせてもらえればよかったのだが――意外にも、布団の近くにもう一枚の毛布が広げられていた。しかも枕まで近くに置いてある。
「あれ、もしかして用意してくれたの?」
「毛布がなかったら道で寝るのと同じじゃん。そんな酷いことするように見える?」
「いやあ、ありがたい」
「下、じゅうたん敷きだから寝やすいでしょ? フローリングじゃなくてよかったね」
「ああ、危うく背骨が爆発するところだった」
「道路で寝てた俊くんの言えたことじゃないでしょ。それよりシャワー浴びたら?」
「あるの?」
「そりゃあるよ、家なんだから」
よく考えれば「女の子の待機場所」になるはずだった場所だもんな。ないほうがおかしいか。
「じゃ、遠慮なく使わせてもらうよ」
「タオル貸してあげるよ、ほら」
「うおっと」
「ナイスキャッチ!」
夏織さんが放り投げてきたのは薄いフェイスタオル。何から何まで、どうしてこんなに世話をしてくれるのだろうか。ただ道端で寝ていた酔っぱらいなのになあ。
「夏織さん、どうしてここまで面倒を見てくれるの?」
「だから言ったでしょ、ポリシーなんだって」
「それは聞いたけどさ。自分で言うのもなんだけど、秋田から出てきた酔っぱらいを救うポリシーってなんなの?」
「秋田は関係ないけど。……そうね、いろいろあるよ」
「いろいろって?」
「話せば長いの。どーせ酔っぱらいの俊くんに話しても覚えてないでしょ」
「うん」
「即答しないでよ。いずれ話すから、今日はシャワー浴びて寝なって。私は先に寝る」
「ありがとう。おやすみ」
買ったばかりのパンツとタオルを手に、脱衣場へと歩を進めていく。どうやらトイレとシャワーは別々らしい。しかもビルの外観とは裏腹に、水回りはずいぶんと綺麗だ。たしかに新宿という立地でこの設備なら、ここに住むのもアリかもしれないな。
「ふー……」
今朝(というより昨日だが)から東京を歩き回ってきた戦友たちを脱ぎ捨て、シャワー室の扉を開ける。中はあまり広くないみたいだが、体を洗うだけなら十分なサイズだ。シャンプーやボディソープもあったが、これは夏織さんの物だろうから勝手に使うのはやめておいた。ここまでお世話になっておいて今更遠慮するのも変かもしれないが、一応ね。
シャワーノズルを右手に持ち、キュッと蛇口を開く。流れ出る水を左手でちょろちょろと触ってみたがまだ冷たい。当たり前か。しばらく水を垂れ流しにしつつ、改めてさっきまでの出来事を振り返った。
最後の店を放り出されて、道端に寝っ転がっていたら、眼鏡のダウナーお姉さんに起こされた。そこからあれよあれよという間に部屋に上がらせてもらい、パンツ代を出してもらい、シャワーまで貸してもらった。おまけに寝床もセッティング済みと。……出来すぎじゃない?
でも今更出ていきますと言い出すのも変な話だしな。だいいち出て行ったところでどうしようもない。金もないし家もない。あるのはち〇ちんだけ……などと唐突に下ネタを思いついてしまうあたり、まだアルコールが体内に残っているようだ。シャワーで身体についた悪いものを全て洗い流して――って、いい加減温まったかな? そう思って、再び左手でシャワーから流れ出る水を触ってみたのだが……
「つめたっ!!」
お湯どころか水だった! なんならさっきよりも冷たい! なんだこれ!? うちの実家の給湯器でももうちょっとマシだぞ!? ……けど、これ以上水を垂れ流すのは夏織さんに申し訳ない。……仕方ないか。
「あぁ~……」
情けない声を漏らしながら、冷水を頭から被った。せめて洗い流す間だけでも! 少しの間だけでも耐えなければ! うっかり大声を出そうものなら夏織さんを起こしてしまう!
「ひぇ~……」
ひょうきんな声を出しながらなんとか洗い終わった頃に、ようやく「真水」から「ぬるい水」くらいに変わった。こんな環境で寝泊まりしているのか。夏織さん、アンタって本当にすげえよ。
「ふう……」
脱衣場に出て、さっき貸してもらった薄いタオルで全身を拭き、パンツを履いた。新品の履き心地ってのはいいもんだな。……まあ、他の服はさっきまで着ていたのをまた着るんだけど。
夏織さんを起こさないように、そ~っと部屋に戻る。そうだ、今のうちに荷物の整理をしておこう。大したものは持ってきていないけど、一応ね。
ウインドブレーカーの中を漁り、ポケットから財布やら何やらを出す。やっぱり何回見ても財布は空だなあ。使ったのは全部俺だから仕方ないけど。って、なんか転がり落ちたぞ。
「ああ……」
手に取ってみると、それはタバコの箱だった。今まで吸ったこともないのに買ってみたんだったな。こんなものを欲しがらなければ札の一枚でも残せたのにな。今更思い悩んでもどうしようもないが、後悔先に立たずとはまさにこのこと。
俺はそれを再びポケットにしまい、ウインドブレーカーをそっと畳んだ。本当はあんなもの必要ないが、捨てるのには惜しい。何かの役に立つかもしれぬ。……なんてことを思ってしまうあたり、優柔不断だよな。秋田から飛び出してくる度胸はあるのに、タバコの一箱も捨てられないとは。全く情けないな。
「じゃ、失礼しますよ……」
夏織さんの横に寝転がり、毛布をかぶる。別に寝床なんか離してくれていいのに隣同士に敷くのだから、この人は思ったより俺のことを信用してくれているようだ。何がそうさせるのかねえ。
「……」
天井を見上げる。さっきまで眠かったのに、いざ落ち着いて寝床に入ると目が覚めてしまった。いくら当座の家を得たと言っても、金も仕事もないことには変わりない。意外と不安なのかもしれないな。
夜の静寂は人間の思考を雑然とさせる。耳と目から入る情報がなくなると、かえって脳内のノイズに気が散ってしまうのだろう。だが明日からのことを考えても仕方がない。今は寝て、体力を回復するのが先決だ。
「ん……」
その時、隣の夏織さんが寝返りを打ったことに気が付いた。意外と可愛い声も出せるんだな、などと呑気なことを考えていたのだが、なんだか様子がおかしい。夢を見ているようだ。
「しおり……しおり……?」
しおり、とは誰のことだろう? 本の
「どこなの、しおり……?」
眼鏡を外した夏織さんの目には涙が浮かび、頬を伝って枕へと流れて行った。さっきまでの飄々とした態度とは打って変わって悲痛な様子。悪夢でも見ているのだろうか?
「……」
暗い部屋の中でティッシュの箱を探し出し、一枚取ってそっと夏織さんの頬を拭った。こんなので部屋代になるとは思わないが、せめてこれくらいは。「ご主人様」が悲しんでいるなら、それを取り除こうと努めるのが居候の仕事だろう。
「いるの、しおり……?」
頬に触れたことに気づかれたのか、夏織さんはハッとした顔でこちらを見る。寝ているのか起きているのか、それすらも分からない。けど一つだけ分かるのは、「しおり」というのがこの人にとって重要な人物なのだろうということだ。
「俺だよ、夏織さん」
「なあんだ、俊くんか……」
夏織さんは再び寝返りを打ち、こちらを向いて眠りに落ちてしまった。やっぱり寝ぼけているみたいだな。相手をしているうちに俺も眠くなってきたので、改めて毛布を被って目をつむる。
「しおり……」
「だから俺だってば――」
と言おうとした瞬間、夏織さんがそっと俺の左手を取ってきた。両手で縋るようにしてギュッと握り、離さない。初対面のお姉さんに手を握られてドキドキ……などという気持ちより、むしろ心配の方が強くなる。
夏織さんと「しおり」の間に何があったのか。何かあるとすればそれは何なのか。気にはなるが、一端の居候が口を挟むことでもないのかもしれないな。
身を弁える謙虚さと言うべきか、面倒ごとをさける怠惰さと言うべきか。俺は一種の「逃げ」に近い解答を導き出してから、深い深い眠りに落ちていったのであった――
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