第5話 それぞれの焦燥

 ジブン、爆誕!から月日は流れ、早いもので5ヶ月ほど経った。

 暑いものの空気はカラッとしていて日本の夏からすると格段に過ごしやすかった夏が終わり、今は朝晩が冷え込むようになってきたので初秋くらいだろうか。


「ミュゼ、ちょっといいかい」


 何かが入った皮袋を手におじさんがやってきた。服装がいつものくたっとした作業着と違う。


 今日はミュゼの学校はお休みらしい。朝早くからジブンの世話を焼いてくれていた。

 ちょうどジブン達親子を放牧場に連れてきたところだったミュゼは囲いの扉を閉めると、よそ行きの服に身を包んだ父親に駆け寄る。


「お父さんどうしたの?」

「すまないけど冒険者ギルドへお使いを頼みたいんだ。僕が行く予定だったんだけど、ヨーゼスが腰を痛めただろう?代わりに寄り合いに行かなきゃいけなくなってね」


 ヨーゼスくんはヤフィスおじさんの弟でミュゼの叔父に当たる人だ。体格のいいヤフィスおじさんとは違いひょろっとしていて垂れた目尻が特徴の温厚そうな顔つきだったと思う。

 どうやらこの牧場の経理とかを担当しているらしい。


 牧場の手伝いをしている、奥さんのマーサちゃんと違って、牧場自体にはあまり顔を出さないから、印象薄いんだよな。

 見るからにモヤシで肉体労働向かなそーって感じだったが腰痛めたのか。かわいそうに。


 ジブンの淡白な内心とは反対に、ミュゼは父親の言葉にぴょんと飛び跳ねた。高く束ねた金髪も一緒に縦に揺れる。


 競走馬時代、ジブンも嬉しいことがあると尻尾が縦に揺れたなあ。正にポニーテール。

 そんな下らないことを考えながら、近くのヨツミツの木から葉っぱをむしる。


 ヨツミツは丸っこい葉っぱが枝の節に3枚まとまって付いた木で、最近のお気に入りである。

 噛み締めると植物の青臭さの中、微かに感じ取れる甘みと程よい苦味が舌先を刺激して、食欲が増し増しになる。うーん美味い。


「えっ、冒険者ギルドってことはもしかして」

「そう。テンテンの為の魔石を買ってきてほしいんだ。そろそろ飛べるようになる時期だからね」


 えっ、ジブンもうすぐ飛べるの?!


 思わぬ情報に勢いよく振り向く。咥えていたヨツミツの葉がぽろっとこぼれ落ちた。

 隣で同じくヨツミツを啄んでいたドラゴンママが、あらあらと言わんばかりにジブンの落とした葉っぱを拾ってくれている。あ、ありがとママ。いや、それよりその話詳しく聞きたい!


「……重大任務だけど任せていいかい?」


 いたずらっぽくウィンクしたおじさんが、手に持っていた皮袋をミュゼへと差し出す。

 ミュゼの顔がぱあっと喜びに染まった。

 受け取った皮袋を胸の前で握りしめ、こくこく頷く。


「任せて!ね、お父さん。テンテンに魔石をあげるの私がしてもいい?」

「もちろんだよ」


 わーいと両手を広げて喜ぶミュゼ。

 和やかな2人の会話を聞きながら、考察してみる。


 冒険者ギルドというところで購入できるマセキをジブンにくれるらしい。マセキって魔石か?名前の響きからして魔法に関係した石っぽいけど……それが飛ぶために必要?ジブンにくれるって装備するとか?どこに?うーむわからん。


 しかし一つわかった。ジブン、飛べそう!

 今まで飛べない飛竜はただのトカゲ状態だったが、ここにきてようやく希望の光が差してきたな!


「ふふ、なぁにテンテン。テンテンも嬉しいの?」


 ミュゼの言葉に同意するように、ジブンの尻尾の先が持ち上がりパタパタと小刻みに揺れる。

 飛竜が嬉しいときのボディランゲージだ。ちなみに不機嫌な時や警戒モードの時は尻尾の付け根から横に大きく振られる。寄らば斬る、の構えとでも言うべきか。不用意に近づけば尻尾の一撃を喰らう可能性があるから注意な。

 

「お弁当ついてるよ、かわいいお嬢さん」


 柵から身を乗り出したミュゼに、口の端に付いた葉っぱを取り除いて貰いながら、ジブンの尻尾もご機嫌に揺れる。


 空。あの空を飛ぶんだ。期待に胸を膨らませ、天を仰ぐ。

 見上げた空は青く澄み渡っていた。









 ———それなのに。


 ミュゼ。なあ、ミュゼ。どうした、何があったんだ。

 どうしてそんなに泣いて。なあ。






*****








 薄暗い路地裏。転がるゴミを乱暴に踏み付けて、数人の少年たちが駆け抜ける。

 やや遅れて、ミュゼは彼らの後を必死に追っていた。


「返してッ!返してったら!」


 叫んだミュゼに、しかし聞こえているはずの背中は誰1人立ち止まらない。

 もつれそうになる足を必死に動かす。

 突き飛ばされた際に擦りむいた膝が、じんじんと痛むが今は気にしている場合ではない。痛みを堪え、置いていかれまいと追い縋る。

 息を荒げながら、先頭を走る自分より少しばかり低い背中を涙目で睨む。


 ライウス。このくそやろう。


 父が聞いたら悲しげに眉を下げるだろう口汚い罵り言葉を、心の中で投げつける。


 自分の運の無さを、今日ほど呪ったことはない。


 父から託されたお使いをすませた帰り道。ミュゼはライウス達につかまってしまったのだ。


 ギルドで父親から預かった代金を支払い、受け取った袋の中には、濁った黒色の魔石が幾つか入っていた。


 魔石は魔物の体内から取れる魔力の結晶体だ。魔物が帯びる原生魔力が凝縮しているため、呪いも凝縮されているのでそのままでは使い道がない。

 しかし浄化された魔石は魔導石と呼ばれ、魔法の触媒として魔道具マジックアイテムや儀式に珍重される。


 購入した魔石は未浄化のもので、やや小さく欠けがあったりと魔石の価値を示す等級は低い。けれどテンテンが飛ぶために必要な品。


 落とさないようにしないと。そう思っていたのに。


 袋を手に歩いていたミュゼは、人気のない道で曲がり角から飛び出してきた何者かに、不意打ちで横合いから突き飛ばされた。

 受け身も取れず、地べたに転がったミュゼの手から大事に握りしめていた魔石入りの袋が放り出され、地に落ちる。

 それでも慌てて起き上がり、落とした袋を掴もうとして。


 不意に、横から伸びた手が袋を攫った。


 痛みに顔をしかめながら、袋の行方を目で追って、凍りつく。


 転んだままのミュゼに手を差し伸べることもせず、見下すように小柄な少年が立っていた。


 ライウス。


 ミュゼが倒れた曲がり角の陰から、大柄な少年が現れる。ニヤニヤ笑いでライウスに近寄ると続くように、いつもの取り巻きが姿を現した。


 我が身に何が起きたのか、すぐに状況を理解する。

 カッと頭に血が昇った。


 この泥棒!返しなさい!


 声を荒げたミュゼに、ライウスたちは嫌な笑みを浮かべ、さっと身を翻した。

 そして振り返りざま、手を貸してやるなどと意味のわからないことを宣い、走り出したのだ。

 

 こうして望まぬ追いかけっこが始まった。






 この世界における五大国家の一つ。アルアージェ皇国。


 アルアージェ皇国が統治する青の大陸の南西には、魔境山脈と呼ばれる人類未踏の山脈が大陸を引き裂くように存在する。


 その山脈下に広がる大森林を彼方にのぞむ、山林の麓にミュゼ達の暮らす町、ティルホウはある。

 町の南北西の三方を森に囲まれた緑豊かな土地で、東には他の町に続く唯一の街道が伸びている。

 北の町外れにホートリー牧場。南にガヴィラン牧場がそれぞれ森と町を隔てるように存在し、街道に近い東側には行政・行商・宿泊等の施設が固まっている。反対に西側は住宅が多く軒を連ねるが、それも西の外れ、森と町の端境に近づくにつれ段々とまばらになっていく。

 森には人間を積極的に襲う魔物が出る為に。

 竜牧場が街の上下に2つ存在し、魔物避けの柵が森と町を区切るとはいえ、魔物の脅威が目と鼻の先に迫る区画で暮らしたがるものはいない。


 西側に。いや森の近くへと、ライウス達は向かっている。気付いたミュゼの中で嫌な予感が急激に膨れ上がった。


 視界の端を通り過ぎる、道の脇に並ぶ家々。

 その造りが、立派なものから徐々に掘立て小屋のような造りの粗末な家へと様相を変える。

 民家と民家の間隔が開く。

 そして。

 森と町を隔てる柵が見える空き地にさしかかり、逃げていた集団がゆっくりとペースを落とし足を止めた。


 狩人や冒険者、哨戒中の衛兵を除いて殆ど近付くことのない寂れた場所だ。


 奪ったものを返す。そんな殊勝な考えから止まったわけでないことは嫌と言うほどわかる。

 荒く肩で息をしながら身構えるミュゼに向かって、数度深呼吸をしただけで息を整えたライウスが、ことさらゆっくりと振り返った。


「こんなみみっちい石のためにそこまで必死になるなんて。貧乏人は悲しいなあホートリー」


 見せびらかすようにライウスが、親指と人差し指で摘んだ袋を顔の横で揺らす。袋の中身がかちゃかちゃと音を立てた。

 怒りに任せて罵りが飛び出しそうになるのを、長く息を吐いて押し留める。努めて冷静に、平坦に聞こえるようミュゼは口を開いた。


「嫌がらせもいい加減にして。あんたも竜牧場の人間なら、魔石が初空前しょくうまえの飛竜にとってどれだけ大切か知ってるでしょ」


 初空しょくうとは、飛竜の子どもが初めて空を飛ぶことを指す。その初空に至る際には、まとまった魔力が必要になる。


 なぜか。これには飛竜の生態が大きく関わっている。


 飛竜はこの世界において、呪いを纏った原生魔力げんせいまりょくを体内に取り込んで浄化し、人間や生き物にとって無害な純正魔力じゅんせいまりょくとして生み出すことができる唯一の生物だ。

 そして生み出した魔力の多くを、外部放出器官である翼から放出することで空を飛ぶ。


 しかし産まれ落ちたばかりの飛竜は、心臓の機能の一部——純正魔力を生成する機能——が休眠状態で産まれる。

 ある程度身体が大きくなったころ、外部から纏まった量の原生魔力、あるいは純正魔力を摂取することで心臓の機能を覚醒させるのだ。

 魔力炉とも呼ばれる心臓が十全に機能すれば、飛竜は呼吸するように、自ずと空が飛べる。


 初空を促す方法は主に二通りあるが、競飛竜を育てる竜牧場では、安全管理の観点から魔力の結晶体である魔石を与える方法をとる。

 竜牧場で育てられる飛竜にとって魔石とは、とても重要かつ成長する上で欠かすことのできないもの。


 そんな大事なものを奪うなんて、飛竜と密接に関わる家の者がすることではない。

 そもそも今回のことは窃盗と変わらない。嫌がらせにしても度を越していた。


 しかしライウスにその自覚はないのか、ミュゼの言葉を鼻で笑う。


「だからだよ。せっかくの初空で食うのがこんな等級の低い石じゃ可哀想だろ」

「石の等級が関係あるのはレースで飛ぶ時だけよ!初空前の未成熟な飛竜なら、小さいものの方が取り込みやすいって——」

「ライウスんちみたいにデカい石は買えないの間違いだろ」

「貧乏牧場だからホントはクズ石買うので精一杯なだけじゃん?」


 こんな時までいつもの遣り口を繰り返すのか。

 ライウスらの偏見と知識の浅さに腹が立つ。


 こうなれば掴み合いになってでも取り返そう。心に決めたミュゼが拳を握り締め、足を一歩踏み出した、その時。


「……お前のとこのステーキが、クズ石食べなくて済むようにしてやるよ」


 にたり。酷薄に笑い、ライウスは魔石の入った袋を手のひらに乗せて高く掲げてみせる。

 ライウスを中心に、魔力で生み出された風が渦を巻く。立ち上る砂煙に、取り巻き達が慌てて距離をとった。


 ミュゼも強風にあおられ、思わず両の腕で顔を遮る。

 交錯した腕の下、うすく細めた視界の中でライウスの手に風が集まっているのが見てとれた。


 何をしようとしているのか。

 悟ったミュゼが吹き荒れる風の中、もがくように手を伸ばす。


「やめてッ!!」

「束ねて打ち出せ【空爆そらはぜ】!」


 悲鳴の様な声をミュゼが上げるのと、ライウスが魔法を放つのはほぼ同時だった。


 攻撃魔法【空爆そらはぜ】。

 魔力で生み出した風を一点に集中させ、撃ち出すことで対象を吹き飛ばす初級攻撃魔法。冒険者の中には石礫や短剣をこの魔法で撃ち出し、攻撃に用いる者もいる。


 それが発動した。


 ライウスの手のひらから放たれた魔法は、軽々と魔石入りの袋を弾き飛ばした。人がものを投げるよりずっと速く、遠く。

 魔力の風によって打ち出された魔石は、弧を描いて飛んで行き、やがて西の森の薄暗い木々の間に飲み込まれた。


 あっという間の出来事だった。


「おー飛んだ飛んだ」

「すっげー威力!さすがライウスだな!」


 残酷にはしゃぐ取り巻きの声に機嫌よく頷き返したライウスは、目的は果たしたとばかりに町の中心部へと踵を返す。


 そしてあまりのことに呆然と立ちすくむミュゼにすれ違い様、声をかける。


「どうせステーキになるしかないんだ。無駄を省いてやったこと、感謝しろよ」


 呆然と魔石の消えた方角、西の森を見つめるミュゼの色をなくした頬を、悪意のしたたる声が打った。






*****






 あー、かゆ。

 ミュゼもおじさんも不在の放牧場。

 食事も一通り終えたジブンは現在、牧場の柵に頭をごりごり擦り付けている最中だ。


 額から後ろに向かって生えた角が、近頃伸び盛りなのかムズムズするんだよ。


 あーかゆい、この、ツノとツノの間がかゆい。かゆいのになかなか届かない。ミュゼがいたら絶妙な力加減で掻いてくれるんだけどなあ。

 はやくきてーはやくきてーマイゴールデンゴッドハンドー。とか思っていたら。


 こつ……こつ……こつ。


 他の人間より少し軽い音と狭い歩幅のリズム。この歩き方は、ミュゼの足音!

 待ち人が近付いてくるのを飛竜の鋭い聴覚が拾う。


 おつかいから帰ってきたのか、お出迎えしないとな。

 柵に擦り付けていた頭を離し、前脚を前方にぐっと押し出し軽く伸びをする。

 頭をぶるぶると振り、長い首をめぐらせて。


 異変に気付いた。


 魔石を受け取ってくるよう頼まれて出かけたはずのミュゼが、なぜか何も持たずに歩いてくる。

 それどころか服はところどころ土埃で汚れ、膝丈のズボンから伸びる膝には血が滲んでいる。

 何よりいつもジブンを見つけると、花のような笑顔で駆け寄ってくるはずの彼女が、力無く啜り泣いているのだ。


 何があったんだ。


 ぶつからんばかりの勢いで柵の間から頭を突き出したジブンを見て、ミュゼの目にまた新しい涙が浮かぶ。


「テンテン。どうしよう……わ、わたし、お父さんに頼まれたのに。魔石、森に、どうしよう」


 どうしようと繰り返すミュゼの、榛の瞳から次から次へと大粒の涙がこぼれ落ちては地面を濡らす。


「ごめんね、テンテン。……ごめ……テンテンの魔石……とられ、て」


 ジブン達を隔てる柵に、力無く身体を預けたミュゼは、両手で顔を覆ってしくしくと泣いている。

 涙で濡れた手のひらが、泥と血で汚れている。働き者の、頑張りやの小さな手が。


 どうしたんだミュゼ。泣くな、大丈夫だから。クソッ!言葉が通じないのがもどかしい。

 柵の間から精一杯首を伸ばし、小さな身体を包み込むように背中に頭を回す。

 嗚咽で小刻みに震える背中に頬を当てると、ミュゼの鼓動がバクバクと跳ね回っているのがわかる。


「だいじ、なのに……テンテン、どうし、たら」


 悲痛な声に胸が痛む。同時に飛竜として産まれ落ちてから殆ど感じたことのない怒りで鱗が逆立ち、ザワザワと騒ぐ。


 誰だ。


 誰だ。この優しい女の子を、一生懸命なこの子を。

 ここまで傷付け、痛めつけ、踏み躙ったのは、誰だ。


 腹の底から湧き上がる怒りが、喉の奥で唸り声に変わる。

 びくりと震えたミュゼが、覆っていた両手から顔を上げた。


 その、表情。

 ごっそりと感情が抜け落ちた能面のような。


「と、りに行かなきゃ……お父さん、じゅ、だいって言った」


 虚な瞳で呟くミュゼにゾッとする。


 違う!ミュゼ、おじさんはそんなつもりで言ってない。冷静になったらわかるだろ?おじさんが帰ってくるまでここにいよう。おじさんならわかってくれるから、ちゃんと話をしよう。それまでジブンが傍にいる。お前を泣かせた奴が来たら尻尾ぶん回して追い払ってやるから。だからミュゼ!


 ふらり。ミュゼの身体が柵から離れる。


「も、らないと。とりに、もどらなく……わたしが、守らなきゃ……」


 行くな!!


 咄嗟に離れていくミュゼの袖口に噛み付いた。手首を噛まないよう、ブラウスの袖だけを鉤状になっている口先で慎重に。


 産まれてこの方、お利口さんね可愛い子ねとチヤホヤされてきたジブンは、一度もこんな暴挙に出たことはない。


 ジブンの行動に、ミュゼが一瞬驚き目を見開いた。

 しかし細い蝋燭の火が吹き消されたみたいに、また虚な瞳に戻ってしまう。

 くしゃりと顔を歪め、ミュゼは小さな身体のどこにこれほどの力があったのか、渾身の力で手を振り払った。


 ビリリッ!


 布の裂ける音と共に、噛みついて引き留めていた重さが消える。

 千切れた布がはためく向こうで、虚な榛色の目と見つめ合う。


 精神的苦痛が、許容範囲を越えた目だった。

 崖っぷちへと追い詰められてしまった目だった。

 

 視線が交錯したのはほんの一瞬。なのにまるでスローモーションのように、鮮明にハッキリと。ミュゼの箍が外れてしまったのが見て取れた。


「だいじょぶだから、テンテン。大丈夫。わたしがあなたを……には、させない、から」


 ジブンに語りかけるというよりは独白に近い言葉。

 言い残して、ミュゼは、あっという間に走り去ってしまった。

 残ったのは口の端に引っかかった、ミュゼの服の切れ端だけ。


 このままではいけない!

 けれど、追いかけたいのに、目の前を遮る柵が邪魔をする。

 無駄と知りながら角を打ちつけるが頑丈な柵はびくともしない。


 ちくしょう!どうしたらいいんだ。誰か、誰かいないのか!


『ウォォォォン!!!』


 半狂乱になって、ジブンは産まれて初めて絶叫と言っても過言ではない大声を上げた。

 飛竜の叫び声は馬のいななきに似て、犬の遠吠えのようでもあった。


 少し離れた場所でごはんを食んでいたドラゴンママが、驚いてすっ飛んで来る。

 おろおろとしたママが宥めようと顔を寄せてくるのを振り払って、また叫ぶ。誰か来てくれ!!


「テンテン?!どうしたの?!!」


 尋常では無い鳴き声に竜舎から、ミュゼの叔母さんのマーサちゃんが飛び出してきた。

 ふっくらとした身体を揺らし転がるようにして、叫び続けるジブンの元へやってくる。


マーサちゃん!ミュゼが危ないんだ!

 駆け付けた彼女にジブンは口の端に引っかかったままの千切れたミュゼの服を差し出す。


 何事かと戸惑いながらも、布切れを受け取ったマーサちゃんは、しばし訝しげな表情で見つめていたが、すぐに気付いたらしい。


「これってミュゼちゃんの……?」


 呟いたマーサちゃんの顔が青ざめる。


 千切れたミュゼの服と大騒ぎする仔竜。何があったかはわからないが、大変な事になっていると察してくれたらしい。


「ヨ、ヨーくん!ヨーくん!大変よぉ!!」


 竜舎の向こう、恐らく彼女の夫がいるであろう建物へと走るマーサちゃん。

 それでもジブンは安心できないままだ。


 だって彼らはミュゼの行き先を知らない。

 ご近所さんや、この世界の警察なり何なりに助けを呼びに行くにしても、時間がかかる。ミュゼの足取りを追うなら尚更。


 森に向かったことを知っているのはジブンだけで、その情報をジブンは彼らに伝えられない。


 嫌な予感が翼と翼の間を這いずり回り、鱗を逆撫でされるように落ち着かない。


 このままでは手遅れになる。直感的に感じた。


 取りに戻らなくちゃと呟いたミュゼの、感情が抜け落ちたうつろな表情。


 あれをジブンは知っている。


 前々世。人間の頃のジブンが、鏡の向こうに嫌と言うほど見た表情もの!


 飛ばなければ。今、飛ばなければいけない。


 そう、ハッキリと確信した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る